/*/ 火星30年目 調査から50年目 /*/
火星は、もはや神将の手の中だけで息をしている星ではなかった。
二十年目に酸素濃度は二十%へ届き、人が外気を吸えるようになった。
ボレアリス海は、海底のサーモ・ノードによって温められ、凍らぬ海となった。
ワフェルダノスの緑の王国は南部大陸を覆い、ヘラス内海には魚が走り、ノアキス生態回廊では草食獣と肉食獣が自律した食物連鎖を築き始めていた。
そして、それから十年。
火星は、同じ朝と夜を一万回近く繰り返した。
雲は流れ、雨は降り、乾季と雨季がめぐり、海流は熱を運び、森は繁殖し、藻類圏は増えすぎれば抑えられ、痩せれば栄養塩が足された。
最初は神将たちが力ずくで整えた循環だった。
だが、三十年目の火星では、その多くがシステムへ移管されていた。
火星軌道上には、気象制御サテライト網がある。
ボレアリス海底には、サーモ・ノードの自律熱収支プログラムがある。
南部大陸の地下には、ワフェルダノスの臣毛網から分化した端末母樹――マザー・コアが根を張っている。
マーレ・ノヴァ、ヘラス内海沿岸、ノアキス高原、タルシス火山島、マリネリス内海沿岸。
主要都市と生態回廊の地下には、バイオ・デジタル混合制御核が設置され、クロノス生態統制局の管理コンピューターと接続していた。
火星は、まだ人工の星である。
だが、誰か一人の神将の手が離れれば崩れる星ではなくなっていた。
その確認の日が来た。
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マーレ・ノヴァの中央広場には、多くの火星市民が集まっていた。
火星生まれの子供たち。
地球から移住してきた第一世代。
火星適応型調整を受けた者。
未調整のまま火星に住む者。
研究者、技術者、作業型調整体、海洋班、森林管理班、アプトム便の職員。
彼らの前に巨大な投影が浮かぶ。
火星全球気象モデル。
気圧。
雲量。
海面水温。
降水予定。
サーモ・ノード出力。
ワフェルダノス臣毛網活動指数。
南部大陸の土壌呼吸量。
海洋藻類圏酸素生産量。
すべてが安定範囲内にあった。
プルクシュタールは、広場上空の空を見上げていた。
火星の空は、薄く青い。
その青の中を、穏やかな雲が流れている。
かつて彼は、この空を力ずくでねじ伏せた。
メガ・レイン直後の暴走する大気。
サーモ・ノード点火直後の熱帯低気圧。
ボレアリス海から立ち上る膨大な水蒸気。
南部大陸へ吹き荒れる不安定な寒冷流。
それらを、彼は精神波と気象制御能力で押さえ、曲げ、導いた。
だが、今は違う。
彼が睨みを利かせずとも、軌道上のサテライト網が雲の厚さを測り、海底炉群が蒸発量を調整し、プルクシュタールの二十年分の介入ログから作られた気象AIが、雨を必要な場所へ送る。
バルカスが隣で端末を操作している。
「大気循環、全系統自律制御へ移行可能。緊急介入権限は、火星気象管制局、クロノス本部、そしてお前の遠隔承認に残す。だが通常運用に、お前の直接制御は不要じゃ」
プルクシュタールは、少しだけ笑った。
「これからは、俺が睨みを利かせずとも、機械の目が雲の厚さを整えてくれるわけか」
「機械と生体制御網じゃ。儂の設計を雑に言うでない」
「……少し寂しいものだな、バルカス翁」
バルカスは、珍しく茶化さなかった。
「それは、よい寂しさじゃ」
プルクシュタールは空を見上げたまま、静かに頷いた。
「ならば、任せよう」
その一言で、火星気象制御権限が移管された。
投影の中で、プルクシュタールの精神波制御欄が、直接介入から予備待機へ切り替わる。
空は、変わらなかった。
雲は乱れない。
風も荒れない。
遠くの海に湯気が上がり、予定通りの薄い雨雲が南部大陸の森へ流れていく。
広場の子供たちが空を見上げる。
「変わらないね」
「うん」
その言葉に、プルクシュタールは小さく息を吐いた。
「変わらないなら、成功だ」
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問題は、ワフェルダノスだった。
プルクシュタールの移管は、まだ分かりやすい。
気象データ、海流、熱収支、雲量、降水量。
火星の空は巨大ではあるが、数値化しやすい。
だが、ワフェルダノスは違う。
彼は火星の大地に根を張っていた。
臣毛網は南部大陸全域を走り、ボレアリス海沿岸へ伸び、マリネリス内海の湿地を抱え、ヘラス内海の森と草原と土壌を束ねている。
ただの植物ではない。
ただの菌糸でもない。
微生物、根、土、水、藻類、昆虫、獣、腐葉土、酸素、二酸化炭素、栄養塩。
それらすべてを、ワフェルダノスは二十年、そしてさらに十年、神将としての意識で見続けてきた。
彼を引き抜くことは、火星の森から王を引き離すことに等しかった。
そのための準備は、二十年目から始まっていた。
臣毛網は、最初から余分に増やされていた。
必要量より多く。
通常維持に使う分より深く、厚く、広く。
ワフェルダノスは、自分の意識を火星から切り離す時に、自身へ再圧縮するための生体量を、火星の各地に用意していた。
ゾア・クリスタルによる生体圧縮。
それは、広がった森林型生体ユニットが、神将としての身体へ戻るために必要な過程だった。
すべてを持ち去るわけではない。
火星の大地へ残す臣毛網は残す。
だが、神将としての意識の核、戦闘体としての再構成に必要な生体量は、あらかじめ分けて育てておく必要があった。
そのため、火星の森には、ワフェルダノスが自分のために育てた“余剰の緑”があった。
人々はそれを、帰還樹林と呼んでいた。
マーレ・ノヴァ郊外。
ボレアリス海を見下ろす丘陵地帯に、その帰還樹林はある。
通常の森林より、幹が太く、葉が濃く、地面の下に走る臣毛密度が異常に高い。
その中心に、ワフェルダノスはいた。
人の姿ではない。
森そのものとして、そこにいた。
アルカンフェル、バルカス、ヴァルキュリア、プルクシュタール、村上、シン、李、カールレオン、アプトム。
そして、火星生態統制局の代表者たちが、その丘に集まっていた。
ワフェルダノスの声が、大地から響く。
『三十年』
アルカンフェルが答える。
「ああ」
『土は、若いままだ』
「それでも、もう立てる」
『森は、まだ幼い』
「それでも、自分で呼吸している」
ワフェルダノスは、しばらく沈黙した。
その沈黙の間にも、火星の森は動いていた。
鳥が飛ぶ。
小動物が草を食む。
遠くの湿地では、魚を狙う鳥型調整体が水面を叩く。
海から湿った風が吹く。
臣毛網は、それを受け取り、土壌水分を調整し、根へ伝えている。
それらは、ワフェルダノスの意識が命じているのではない。
すでにマザー・コアと臣毛網の自律神経が処理している。
バルカスが静かに言う。
「マザー・コア全系統、安定。生態統制局との接続良好。臣毛網の自律神経化、完了じゃ」
ヴァルキュリアが続ける。
「保護区画、都市圏、野生回廊、藻類圏、土壌酸素交換、全て許容範囲内。ワフェルダノス神将の意識コア分離試験、実行可能です」
アプトムが、珍しく軽口を控えていた。
「……本当に抜けるのか」
ワフェルダノスが答える。
『抜ける』
その言葉と同時に、帰還樹林が揺れた。
地面の下で、何か巨大なものが動く。
臣毛網の一部が、火星の大地から切り離されていく。
だが、森は枯れない。
代わりに、地下のマザー・コアが活動を強める。
ワフェルダノスが離れる分を埋めるように、端末母樹が自律信号を走らせる。
地面が、緑色の光を帯びた。
帰還樹林の幹がほどける。
葉が溶ける。
根が巻き上がる。
それらは崩壊ではなく、収束だった。
森が、森の形を捨て、神将の形へ戻っていく。
ゾア・クリスタルが輝いた。
膨大な生体組織が、圧縮される。
地上に広がっていた緑の一部が、まるで時間を逆流させるように一点へ集まる。
やがて、そこにワフェルダノスの神将形態が立っていた。
長い緑の髪。
植物とも人ともつかぬ異形の身体。
だが、彼の足元には、まだ緑が残っている。
帰還樹林は小さくなったが、消えてはいない。
臣毛網も残っている。
マザー・コアも動いている。
彼の意識が抜けた後も、火星の森は呼吸を続けていた。
風が吹いた。
ワフェルダノスは、その風を聞いた。
『……残ったな』
バルカスが頷く。
「残った。お前がいなくとも、火星の森は死なぬ」
ワフェルダノスは、ゆっくりと大地へ手を伸ばした。
土に触れる。
臣毛網が反応する。
だが、それは主人にすがる反応ではなかった。
遠くにいる親へ、子が返事をするような、静かな応答だった。
『よい』
ワフェルダノスは言った。
『森が、親離れをした』
その言葉に、火星生態統制局の若い技術者が涙を拭った。
彼女は火星生まれだった。
ワフェルダノスを神将としてではなく、火星の森そのものとして見て育った世代である。
「ワフェルダノス様がいなくなったら、森は寂しがりますか」
彼女は思わず聞いた。
ワフェルダノスは、少し首を傾けた。
『寂しさは、まだ教えておらぬ』
そして、静かに続けた。
『だが、記憶は残る』
足元の草が揺れる。
臣毛網が、火星の大地を静かに走っていく。
『この星の土は、私の根を覚えている』
アルカンフェルは、ワフェルダノスを見た。
「よくやった」
短い言葉だった。
だが、ワフェルダノスは深く頭を垂れた。
『火星は、呼吸している』
「ああ」
『ならば、戻ろう』
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同日、マーレ・ノヴァ中央広場で、火星フェーズ3移行宣言が行われた。
派手な式典ではない。
だが、火星全域に中継された。
アルカンフェルは、広場の壇上に立ち、火星市民を見渡した。
その背後には、火星全球投影が浮かんでいる。
大気。
海。
森。
磁場。
サーモ・ノード。
マザー・コア。
気象サテライト網。
生態統制局。
すべてが連動し、安定している。
「三十年前」
アルカンフェルは言った。
「火星は眠っていた」
広場は静まり返る。
「我々は火星を起こし、水を満たし、熱を与え、緑を根づかせた。だが、火星が真に星として立つには、神将の手を離れねばならなかった」
火星生まれの子供たちが、顔を上げる。
「今日、プルクシュタールは火星の空から手を離した。ワフェルダノスは火星の大地から意識を引き抜いた。だが、空は乱れず、森は枯れず、海は凍らぬ」
投影された火星は、静かに回っている。
「これは撤退ではない」
アルカンフェルは続けた。
「火星が、自らの循環を得たということだ」
ヴァルキュリアが正式記録を読み上げる。
「火星テラフォーミング事業、フェーズ3・自律安定期へ移行。プルクシュタール神将、直接気象制御任務より離任。ワフェルダノス神将、全球臣毛網意識統括任務より離任。以後、火星気象管制局、クロノス生態統制局、サーモ・ノード管理局、マザー・コア群、および自律制御システムにより運用を継続します」
広場に、どよめきが広がる。
不安ではない。
むしろ、胸を張るようなざわめきだった。
火星人たちは理解した。
神将が去っても、火星は続く。
この空は、もう借り物ではない。
この森は、もう抱えられているだけではない。
この海は、もう奇跡の後始末ではない。
火星は、自分たちの星になった。
火星生まれの少年が、母親に小さく聞いた。
「ワフェルダノス様、もう火星にいないの?」
母親は少し考えて、答えた。
「いないけど、残ってる」
「どういうこと?」
「森が覚えてるの」
少年は、広場の端に植えられた火星樹を見た。
葉が揺れている。
風は予定通りに吹いていた。
空には、午後の薄い雲が流れている。
雨は、明日の朝に降る予定だった。
天気予報は、きっと当たる。
少年は小さく頷いた。
「じゃあ、大丈夫だね」
「うん」
母親は笑った。
「大丈夫」
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式典の後、プルクシュタールとワフェルダノスは、アルカンフェルの傍らに戻った。
火星軌道上の艦に、神将たちが揃う。
シン、李、カールレオン、村上。
そしてプルクシュタールとワフェルダノス。
アルカンフェルは、火星を見下ろした。
彼の傍らに、再び二人の神将がいる。
宇宙からの次の脅威。
備えるべきものは多い。
神将を火星のインフラに縛りつけたままにはできない。
だが、火星を見捨てたわけではない。
火星は、引き継がれたのだ。
アプトムが通信越しにぼやく。
『これで神将様方は帰還。で、俺のアプトム便は相変わらず火星便も外縁便も続行ってわけか』
ヴァルキュリアが答える。
『はい』
『俺はいつ引き抜かれるんだよ』
『あなたは輸送網です』
『知ってたよ』
バルカスが笑う。
「アプトムよ、物流は文明の血管じゃぞ」
『その言い方で慰めになると思うなよ』
村上が苦笑した。
火星は、窓の外で青と緑に輝いていた。
プルクシュタールは、その雲の動きをしばらく見てから、静かに言った。
「雨が来るな」
ヴァルキュリアが気象データを確認する。
「予報では、ノアキス高原東部に明朝降雨です」
「よい雨だ」
ワフェルダノスも大地を見下ろす。
『森は、受け取る』
アルカンフェルは頷いた。
「ならば、火星はもう大丈夫だ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
火星は、神将の奇跡から、システムと市民の星へ移った。
そして神将たちは、再び戦うべき場所へ戻る。
火星三十年目。
それは、テラフォーミングの完了ではない。
火星が、自分自身を維持し始めた日だった。