/*/ 火星第一都市《マーレ・ノヴァ》 /*/
火星は、美しかった。
それは、地球の富裕層にとって、あまりにも分かりやすい誘惑だった。
青い海。
管理された気候。
害虫のいない森。
予報通りに降る雨。
暴風も疫病も、治安崩壊も、野放図なスラムもない都市。
海底のサーモ・ノードは夜の海を温め、ワフェルダノスの森は花粉症を起こさず、火星適応型の医療は光の薄さすら快適に変える。
強力な磁場は宇宙線を遮り、火星生態統制局は病原体を監視し、クロノス都市管理局は犯罪の兆候を早期に潰す。
地球の旧富裕層から見れば、そこは理想の移住先だった。
安全で、清潔で、資産価値があり、子供にとっても健康的で、老後を過ごすにも美しい。
だから彼らは、当然のように火星を買えると思った。
マーレ・ノヴァ入植審査局。
白い石材と火星樹の木陰で作られた建物の中に、旧地球圏の資産家一族が座っていた。
代表者は、初老の男だった。
かつて地球で不動産、通信、医療投資、宇宙インフラ投資を束ねた一族の当主である。
彼は穏やかな笑顔で言った。
「我々は、火星開発債にも相応の額を出資しております。マーレ・ノヴァ沿岸の居住区画を一区画、いや、できれば半島単位で取得したい。家族と警備スタッフ、使用人、教育担当、医療担当も連れてくる予定です」
審査官は、火星生まれの女性だった。
火星適応型の瞳は、薄い太陽光の下でも明るく澄んで見える。
彼女は笑わなかった。
「入植目的を確認します」
「静養と資産管理です」
「就労計画は」
「必要でしょうか」
男は少しだけ眉を上げた。
「我々は投資家です。資産運用によって十分に貢献していると考えています」
審査官は端末を見る。
「地球生命再建基金への出資履歴は確認しています。火星開発債の保有も確認済みです」
「では」
「ですが、それは入植許可の代替にはなりません」
男の笑顔が、わずかに固まった。
「代替にならない?」
「はい。火星は居住権を資産購入の形で販売していません」
隣に座っていた若い相続人が、苛立ったように言った。
「我々は十分な費用を支払えます。火星に負担をかけるつもりはない」
「負担とは、金銭だけではありません」
審査官は淡々と答える。
「火星は、まだ若い星です。都市も生態系も、維持に人手と責任が必要です。ここに住む者は、何らかの形で火星の循環に参加してもらいます」
「循環?」
「仕事です」
その言葉は、柔らかくなかった。
「火星は、仕事をしない人間を受け入れません」
部屋の空気が変わった。
初老の男は、しばらく審査官を見つめた。
「我々に、労働をしろと?」
「はい」
「肉体労働を?」
「必ずしもそうではありません。火星には多様な仕事があります。研究補助、教育、医療、金融監査、都市運営、海洋観測、森林管理、アプトム便補給事務、サーモ・ノード保全基金の運用管理、移民支援、火星生態系記録、地球との外交調整。能力に応じて配置されます」
「我々は雇用主です」
「火星では、雇用主であることだけでは不十分です」
審査官は静かに言った。
「あなたが火星に住むなら、あなた自身も火星の仕事を持つ必要があります」
若い相続人が鼻で笑った。
「それは平等主義の演出ですか」
「違います」
審査官の声は冷たくなった。
「生存原則です」
壁面の投影が切り替わった。
火星の初期開発映像。
メガ・レイン。
泥に沈む観測塔。
ヘラス内海へ魚を放す作業員。
ノアキス生態回廊で生態記録を取る火星生まれの学生。
サーモ・ノードの海底保守班。
ワフェルダノスの臣毛網から分化したマザー・コアを点検する生態統制局員。
アプトム便の荷役担当。
火星の子供たちに地球史を教える教師。
「火星は、誰かの避暑地として作られたのではありません」
審査官は言った。
「ここは、三十年かけて人が住めるようにした星です。神将が働き、調整体が働き、研究者が働き、作業員が働き、移民第一世代が働き、子供たちも学びながら役割を引き継いでいます」
彼女は、富裕層一族を見た。
「その上に、仕事をしない人間を置く余地はありません」
初老の男は、表情を消した。
「我々の資産は不要だと?」
「必要です」
審査官は即答した。
「資産も、経験も、人脈も、金融技術も、交渉力も、すべて必要です。ですが、所有だけして暮らす者は不要です」
「厳しいですね」
「火星は優しい星です」
審査官は言った。
「だからこそ、寄生を許しません」
沈黙が落ちた。
窓の外では、ボレアリス海から湿った風が吹いている。
海岸の火星樹が揺れ、遠くの空には、予定通りの薄い雲が流れていた。
地球から来た一族にとって、それは完璧に管理された楽園に見えた。
だが、その楽園は、誰かの労働の上にある。
そして、その労働に加わらない者を、楽園は受け入れない。
若い相続人は、ふと窓の外を見上げた。
青い火星の空に、点が二つ浮かんでいた。
一つは、よく見れば歪な形をしている。
もう一つは、地球の月よりは小さい。
「火星の月は、二つあるのですよね」
「はい。フォボスとディモスです」
審査官が答える。
若い相続人は少し首を傾げた。
「思ったより、小さい」
「火星の地表からは、そう見えます」
「観光映像ではもっと大きく描かれていました」
「観光広報は、たいてい誇張します」
審査官は淡々と言った。
「実際には、フォボスもディモスも小天体です。地球の月が大きすぎるのです」
初老の男も空を見た。
「火星が一G化された時、あの二つはどうなったのですか」
「そのままなら、大災害でした」
審査官は端末を操作した。
窓の横に、小さな軌道図が投影される。
旧火星。
低い軌道を走るフォボス。
さらに外側を回るディモス。
そして、一G化後の新しい重力場。
「火星の質量が増えれば、同じ軌道速度では足りません。特にフォボスは危険でした。ロッシュ限界の内側に入り、砕けながら火星へ落ちる可能性が高かった」
「リングになったのでは?」
「放置すれば、一部はリングになったでしょう」
審査官は言った。
「ですが、綺麗な輪になるとは限りません。破片は落下します。都市も海も森も、まだ生まれる前に傷ついていたかもしれません」
若い相続人は、もう一度空を見た。
小さな二つの月。
観光用の巨大な月ではない。
空を支配する神話的な天体でもない。
ただ、そこに残されたもの。
「では、なぜ今もあるのです」
「神将閣下方のお力で、事前に外側へ移されました」
審査官の声に、わずかな敬意が混じる。
「フォボスは火星中心から約三万二千キロ。ディモスは約五万一千キロ。火星が一G化する前にアプトム便に格納され保存されました。そして資源採掘用の新しい小惑星が運ばれて、新しい円軌道へ収めました」
若い相続人は、息を呑んだ。
「月を……運んだ?」
「はい」
「二つとも?」
「はい」
「実際、危険でした」
審査官は否定しなかった。
「火星の月が今も二つあるのは、自然にそうなったからではありません。残すと決めた者たちがいて、残せるだけの力を持つ者たちがいたからです」
初老の男は、空の小さな点を見つめた。
「……小さく見えるのは、遠くへ逃がしたからか」
「はい」
審査官は頷く。
「小さく見えること自体が、火星が救われた証拠です」
若い相続人は、しばらく黙っていた。
美しい海。
管理された森。
清潔な都市。
予定通りの雲。
その上に浮かぶ、小さな二つの月。
彼はようやく理解した。
火星は、ただ与えられた楽園ではない。
落ちるはずだった月さえ、誰かが支えてここにある。
「……地球の月は、大きかったんですね」
審査官は、少しだけ笑った。
「はい。地球の月が大きいのです」
そして、すぐに事務的な顔へ戻る。
「ですから、火星では空を見上げるだけでも、学ぶことがあります」
審査官は続けた。
「火星では、誰も仕事から逃げられません」
その言葉に、初老の資産家は初めて声を上げて笑った。
審査官は、端末に視線を戻した。
「選択肢を提示します」
室内の投影が切り替わる。
火星の空と二つの月は、窓の外に戻った。
「第一。火星開発金融監査局での実務勤務。あなたの金融経験を、サーモ・ノード保全基金と火星都市住宅債の監査に使っていただきます」
初老の男は眉を動かした。
「監査される側ではなく、監査する側に立てと?」
「はい。ただし、あなたの一族企業関連案件からは除外されます」
「当然ですね」
「第二。火星若年起業支援局での投資指導。資産家としてではなく、実務講師として、火星生まれ世代に金融と企業運営を教えていただきます」
若い相続人が少し反応した。
「それは……悪くない」
「第三。一定期間、南部大陸ノアキス生態回廊の現地勤務。直接労働を経験したい場合はこちらです」
相続人は即座に黙った。
審査官は淡々と続ける。
「全員分の役割を提出してください。警備スタッフ、使用人、教育担当、医療担当も例外ではありません。火星では、家付き使用人としてではなく、職能を持つ居住者として登録します」
初老の男が低く言った。
「私の家族は、使用人を連れてくることもできないのですか」
「できます」
「では」
「ただし、彼らはあなたの所有物ではありません。火星入植後は、それぞれ独立した居住者として権利と職業を持ちます」
男は、長い沈黙の後、少しだけ笑った。
「なるほど。火星は金で買えない、と」
「はい」
「だが、働くなら入れる」
「はい」
「資産家でも?」
「仕事をするなら」
「元支配階級でも?」
「火星の規則に従うなら」
「老人でも?」
「役割があるなら」
男は椅子に背を預けた。
窓の外の海を見た。
清潔で、安全で、美しい星。
だが、ただ消費するための星ではない。
彼は初めて、それを理解したようだった。
「……火星は、理想郷ではないのですね」
審査官は少しだけ表情を和らげた。
「理想郷です」
男が振り返る。
「ただし、働く者にとっての」
若い相続人が、小さく笑った。
「祖父上。講師なら、僕がやります」
「お前が?」
「金融でも起業支援でも。地球の投資家がどれだけ失敗したか、火星の子供に教えるのは面白そうだ」
初老の男は、孫を見た。
それから、審査官へ向き直る。
「では、私は監査局の話を聞きましょう」
審査官は頷いた。
「面接を設定します」
「審査はまだ通っていないのですね」
「当然です」
そして彼女は、事務的な口調で付け加えた。
「それと、仕事が決まったら、火星長期滞在型の調整をお勧めします」
男は少し目を細めた。
「火星適応型の体質調整ですか」
「はい。強制ではありません。ですが、長期滞在者には強く推奨しています」
「受けない者もいるのでしょう」
「います」
審査官は、隠さず答えた。
「ただ、選ばなかった方々は大体、季節性うつと低光量に苦しんで、半年から一年で結局調整を受ける傾向にあります」
若い相続人が、少し驚いたように窓の外を見た。
火星の空は明るく見える。
だが、それは彼にとって、まだ地球の光より薄い。
美しいが、少し遠い。
長く住めば、その差は身体に積もるのだろう。
「そんなに違いますか」
「違います」
審査官は言った。
「火星は暗い星ではありません。少なくとも、火星に適応した者にとっては。ですが、地球の身体のままでは、火星の光を足りないものとして処理し続けます。仕事をするなら、なおさらです。朝起きて、働き、学び、人と関わり、火星の一日を疲弊せず過ごすためには、調整を受けた方が圧倒的に楽です」
初老の男は、少しだけ苦笑した。
「仕事をしろ。そのうえ、火星の光に慣れろ、と」
「はい」
「なかなか厳しい移住先だ」
「快適に暮らすための条件です」
審査官は、窓の外の海へ視線を向けた。
「火星は、仕事をする者には優しい星です。働く者が長く健康でいられるよう、光も、医療も、住居も、気候も整えています」
そこで彼女は、改めて一族を見た。
「ですが、何もしない者を甘やかすためには作られていません」
彼女は一つ頷いて続けた。
「火星では、誰も仕事から逃げられません」
その言葉に、初老の資産家は再び笑った。
火星は美しい。
火星は清潔だ。
火星は安全だ。
だが、火星は怠惰な楽園ではない。
ここでは、誰もが何かを支える。
海を、森を、都市を、子供を、記録を、物流を、金融を、教育を、空を。
そして、火星に長く住む者は、やがて自分の身体さえも、この星の光へ合わせていく。
窓の外では、小さなフォボスとディモスが、青い火星の空に静かに浮かんでいた。
あの月たちもまた、誰かが残すと決め、誰かが運び、誰かが軌道を守り続けている。
火星は、働く者たちの理想郷だった。