アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

96 / 96
入植審査局

 

/*/ 火星第一都市《マーレ・ノヴァ》 /*/

 

 

 

 火星は、美しかった。

 

 それは、地球の富裕層にとって、あまりにも分かりやすい誘惑だった。

 

 青い海。

 

 管理された気候。

 

 害虫のいない森。

 

 予報通りに降る雨。

 

 暴風も疫病も、治安崩壊も、野放図なスラムもない都市。

 

 海底のサーモ・ノードは夜の海を温め、ワフェルダノスの森は花粉症を起こさず、火星適応型の医療は光の薄さすら快適に変える。

 

 強力な磁場は宇宙線を遮り、火星生態統制局は病原体を監視し、クロノス都市管理局は犯罪の兆候を早期に潰す。

 

 地球の旧富裕層から見れば、そこは理想の移住先だった。

 

 安全で、清潔で、資産価値があり、子供にとっても健康的で、老後を過ごすにも美しい。

 

 だから彼らは、当然のように火星を買えると思った。

 

 マーレ・ノヴァ入植審査局。

 

 白い石材と火星樹の木陰で作られた建物の中に、旧地球圏の資産家一族が座っていた。

 

 代表者は、初老の男だった。

 

 かつて地球で不動産、通信、医療投資、宇宙インフラ投資を束ねた一族の当主である。

 

 彼は穏やかな笑顔で言った。

 

「我々は、火星開発債にも相応の額を出資しております。マーレ・ノヴァ沿岸の居住区画を一区画、いや、できれば半島単位で取得したい。家族と警備スタッフ、使用人、教育担当、医療担当も連れてくる予定です」

 

 審査官は、火星生まれの女性だった。

 

 火星適応型の瞳は、薄い太陽光の下でも明るく澄んで見える。

 

 彼女は笑わなかった。

 

「入植目的を確認します」

 

「静養と資産管理です」

 

「就労計画は」

 

「必要でしょうか」

 

 男は少しだけ眉を上げた。

 

「我々は投資家です。資産運用によって十分に貢献していると考えています」

 

 審査官は端末を見る。

 

「地球生命再建基金への出資履歴は確認しています。火星開発債の保有も確認済みです」

 

「では」

 

「ですが、それは入植許可の代替にはなりません」

 

 男の笑顔が、わずかに固まった。

 

「代替にならない?」

 

「はい。火星は居住権を資産購入の形で販売していません」

 

 隣に座っていた若い相続人が、苛立ったように言った。

 

「我々は十分な費用を支払えます。火星に負担をかけるつもりはない」

 

「負担とは、金銭だけではありません」

 

 審査官は淡々と答える。

 

「火星は、まだ若い星です。都市も生態系も、維持に人手と責任が必要です。ここに住む者は、何らかの形で火星の循環に参加してもらいます」

 

「循環?」

 

「仕事です」

 

 その言葉は、柔らかくなかった。

 

「火星は、仕事をしない人間を受け入れません」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 初老の男は、しばらく審査官を見つめた。

 

「我々に、労働をしろと?」

 

「はい」

 

「肉体労働を?」

 

「必ずしもそうではありません。火星には多様な仕事があります。研究補助、教育、医療、金融監査、都市運営、海洋観測、森林管理、アプトム便補給事務、サーモ・ノード保全基金の運用管理、移民支援、火星生態系記録、地球との外交調整。能力に応じて配置されます」

 

「我々は雇用主です」

 

「火星では、雇用主であることだけでは不十分です」

 

 審査官は静かに言った。

 

「あなたが火星に住むなら、あなた自身も火星の仕事を持つ必要があります」

 

 若い相続人が鼻で笑った。

 

「それは平等主義の演出ですか」

 

「違います」

 

 審査官の声は冷たくなった。

 

「生存原則です」

 

 壁面の投影が切り替わった。

 

 火星の初期開発映像。

 

 メガ・レイン。

 

 泥に沈む観測塔。

 

 ヘラス内海へ魚を放す作業員。

 

 ノアキス生態回廊で生態記録を取る火星生まれの学生。

 

 サーモ・ノードの海底保守班。

 

 ワフェルダノスの臣毛網から分化したマザー・コアを点検する生態統制局員。

 

 アプトム便の荷役担当。

 

 火星の子供たちに地球史を教える教師。

 

「火星は、誰かの避暑地として作られたのではありません」

 

 審査官は言った。

 

「ここは、三十年かけて人が住めるようにした星です。神将が働き、調整体が働き、研究者が働き、作業員が働き、移民第一世代が働き、子供たちも学びながら役割を引き継いでいます」

 

 彼女は、富裕層一族を見た。

 

「その上に、仕事をしない人間を置く余地はありません」

 

 初老の男は、表情を消した。

 

「我々の資産は不要だと?」

 

「必要です」

 

 審査官は即答した。

 

「資産も、経験も、人脈も、金融技術も、交渉力も、すべて必要です。ですが、所有だけして暮らす者は不要です」

 

「厳しいですね」

 

「火星は優しい星です」

 

 審査官は言った。

 

「だからこそ、寄生を許しません」

 

 沈黙が落ちた。

 

 窓の外では、ボレアリス海から湿った風が吹いている。

 

 海岸の火星樹が揺れ、遠くの空には、予定通りの薄い雲が流れていた。

 

 地球から来た一族にとって、それは完璧に管理された楽園に見えた。

 

 だが、その楽園は、誰かの労働の上にある。

 

 そして、その労働に加わらない者を、楽園は受け入れない。

 

 若い相続人は、ふと窓の外を見上げた。

 

 青い火星の空に、点が二つ浮かんでいた。

 

 一つは、よく見れば歪な形をしている。

 

 もう一つは、地球の月よりは小さい。

 

「火星の月は、二つあるのですよね」

 

「はい。フォボスとディモスです」

 

 審査官が答える。

 

 若い相続人は少し首を傾げた。

 

「思ったより、小さい」

 

「火星の地表からは、そう見えます」

 

「観光映像ではもっと大きく描かれていました」

 

「観光広報は、たいてい誇張します」

 

 審査官は淡々と言った。

 

「実際には、フォボスもディモスも小天体です。地球の月が大きすぎるのです」

 

 初老の男も空を見た。

 

「火星が一G化された時、あの二つはどうなったのですか」

 

「そのままなら、大災害でした」

 

 審査官は端末を操作した。

 

 窓の横に、小さな軌道図が投影される。

 

 旧火星。

 

 低い軌道を走るフォボス。

 

 さらに外側を回るディモス。

 

 そして、一G化後の新しい重力場。

 

「火星の質量が増えれば、同じ軌道速度では足りません。特にフォボスは危険でした。ロッシュ限界の内側に入り、砕けながら火星へ落ちる可能性が高かった」

 

「リングになったのでは?」

 

「放置すれば、一部はリングになったでしょう」

 

 審査官は言った。

 

「ですが、綺麗な輪になるとは限りません。破片は落下します。都市も海も森も、まだ生まれる前に傷ついていたかもしれません」

 

 若い相続人は、もう一度空を見た。

 

 小さな二つの月。

 

 観光用の巨大な月ではない。

 

 空を支配する神話的な天体でもない。

 

 ただ、そこに残されたもの。

 

「では、なぜ今もあるのです」

 

「神将閣下方のお力で、事前に外側へ移されました」

 

 審査官の声に、わずかな敬意が混じる。

 

「フォボスは火星中心から約三万二千キロ。ディモスは約五万一千キロ。火星が一G化する前にアプトム便に格納され保存されました。そして資源採掘用の新しい小惑星が運ばれて、新しい円軌道へ収めました」

 

 若い相続人は、息を呑んだ。

 

「月を……運んだ?」

 

「はい」

 

「二つとも?」

 

「はい」

 

「実際、危険でした」

 

 審査官は否定しなかった。

 

「火星の月が今も二つあるのは、自然にそうなったからではありません。残すと決めた者たちがいて、残せるだけの力を持つ者たちがいたからです」

 

 初老の男は、空の小さな点を見つめた。

 

「……小さく見えるのは、遠くへ逃がしたからか」

 

「はい」

 

 審査官は頷く。

 

「小さく見えること自体が、火星が救われた証拠です」

 

 若い相続人は、しばらく黙っていた。

 

 美しい海。

 

 管理された森。

 

 清潔な都市。

 

 予定通りの雲。

 

 その上に浮かぶ、小さな二つの月。

 

 彼はようやく理解した。

 

 火星は、ただ与えられた楽園ではない。

 

 落ちるはずだった月さえ、誰かが支えてここにある。

 

「……地球の月は、大きかったんですね」

 

 審査官は、少しだけ笑った。

 

「はい。地球の月が大きいのです」

 

 そして、すぐに事務的な顔へ戻る。

 

「ですから、火星では空を見上げるだけでも、学ぶことがあります」

 

 審査官は続けた。

 

「火星では、誰も仕事から逃げられません」

 

 その言葉に、初老の資産家は初めて声を上げて笑った。

 

 審査官は、端末に視線を戻した。

 

「選択肢を提示します」

 

 室内の投影が切り替わる。

 

 火星の空と二つの月は、窓の外に戻った。

 

「第一。火星開発金融監査局での実務勤務。あなたの金融経験を、サーモ・ノード保全基金と火星都市住宅債の監査に使っていただきます」

 

 初老の男は眉を動かした。

 

「監査される側ではなく、監査する側に立てと?」

 

「はい。ただし、あなたの一族企業関連案件からは除外されます」

 

「当然ですね」

 

「第二。火星若年起業支援局での投資指導。資産家としてではなく、実務講師として、火星生まれ世代に金融と企業運営を教えていただきます」

 

 若い相続人が少し反応した。

 

「それは……悪くない」

 

「第三。一定期間、南部大陸ノアキス生態回廊の現地勤務。直接労働を経験したい場合はこちらです」

 

 相続人は即座に黙った。

 

 審査官は淡々と続ける。

 

「全員分の役割を提出してください。警備スタッフ、使用人、教育担当、医療担当も例外ではありません。火星では、家付き使用人としてではなく、職能を持つ居住者として登録します」

 

 初老の男が低く言った。

 

「私の家族は、使用人を連れてくることもできないのですか」

 

「できます」

 

「では」

 

「ただし、彼らはあなたの所有物ではありません。火星入植後は、それぞれ独立した居住者として権利と職業を持ちます」

 

 男は、長い沈黙の後、少しだけ笑った。

 

「なるほど。火星は金で買えない、と」

 

「はい」

 

「だが、働くなら入れる」

 

「はい」

 

「資産家でも?」

 

「仕事をするなら」

 

「元支配階級でも?」

 

「火星の規則に従うなら」

 

「老人でも?」

 

「役割があるなら」

 

 男は椅子に背を預けた。

 

 窓の外の海を見た。

 

 清潔で、安全で、美しい星。

 

 だが、ただ消費するための星ではない。

 

 彼は初めて、それを理解したようだった。

 

「……火星は、理想郷ではないのですね」

 

 審査官は少しだけ表情を和らげた。

 

「理想郷です」

 

 男が振り返る。

 

「ただし、働く者にとっての」

 

 若い相続人が、小さく笑った。

 

「祖父上。講師なら、僕がやります」

 

「お前が?」

 

「金融でも起業支援でも。地球の投資家がどれだけ失敗したか、火星の子供に教えるのは面白そうだ」

 

 初老の男は、孫を見た。

 

 それから、審査官へ向き直る。

 

「では、私は監査局の話を聞きましょう」

 

 審査官は頷いた。

 

「面接を設定します」

 

「審査はまだ通っていないのですね」

 

「当然です」

 

 そして彼女は、事務的な口調で付け加えた。

 

「それと、仕事が決まったら、火星長期滞在型の調整をお勧めします」

 

 男は少し目を細めた。

 

「火星適応型の体質調整ですか」

 

「はい。強制ではありません。ですが、長期滞在者には強く推奨しています」

 

「受けない者もいるのでしょう」

 

「います」

 

 審査官は、隠さず答えた。

 

「ただ、選ばなかった方々は大体、季節性うつと低光量に苦しんで、半年から一年で結局調整を受ける傾向にあります」

 

 若い相続人が、少し驚いたように窓の外を見た。

 

 火星の空は明るく見える。

 

 だが、それは彼にとって、まだ地球の光より薄い。

 

 美しいが、少し遠い。

 

 長く住めば、その差は身体に積もるのだろう。

 

「そんなに違いますか」

 

「違います」

 

 審査官は言った。

 

「火星は暗い星ではありません。少なくとも、火星に適応した者にとっては。ですが、地球の身体のままでは、火星の光を足りないものとして処理し続けます。仕事をするなら、なおさらです。朝起きて、働き、学び、人と関わり、火星の一日を疲弊せず過ごすためには、調整を受けた方が圧倒的に楽です」

 

 初老の男は、少しだけ苦笑した。

 

「仕事をしろ。そのうえ、火星の光に慣れろ、と」

 

「はい」

 

「なかなか厳しい移住先だ」

 

「快適に暮らすための条件です」

 

 審査官は、窓の外の海へ視線を向けた。

 

「火星は、仕事をする者には優しい星です。働く者が長く健康でいられるよう、光も、医療も、住居も、気候も整えています」

 

 そこで彼女は、改めて一族を見た。

 

「ですが、何もしない者を甘やかすためには作られていません」

 

 彼女は一つ頷いて続けた。

 

「火星では、誰も仕事から逃げられません」

 

 その言葉に、初老の資産家は再び笑った。

 

 火星は美しい。

 

 火星は清潔だ。

 

 火星は安全だ。

 

 だが、火星は怠惰な楽園ではない。

 

 ここでは、誰もが何かを支える。

 

 海を、森を、都市を、子供を、記録を、物流を、金融を、教育を、空を。

 

 そして、火星に長く住む者は、やがて自分の身体さえも、この星の光へ合わせていく。

 

 窓の外では、小さなフォボスとディモスが、青い火星の空に静かに浮かんでいた。

 

 あの月たちもまた、誰かが残すと決め、誰かが運び、誰かが軌道を守り続けている。

 

 火星は、働く者たちの理想郷だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

トローラ・ロージン転生(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:ファイブスター物語)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼星団暦2988年、アドラー。▼ユーバー・バラダに雇われた傭兵騎士トローラ・ロージンは、目覚めた瞬間に自分が「もう詰んでいる」ことを悟る。▼視界いっぱいに迫る黄金の電気騎士、K.O.G.。▼本来ならここでトローラは、MHバルン…


総合評価:2605/評価:8.75/連載:53話/更新日時:2026年08月10日(月) 18:00 小説情報

ちゃんと軍人教育受けてるジィッドくん(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:ファイブスター物語)

ニナリスのA-B1-B1-B2-B2:VVS1・L型って見てさ。クリアランスVVS1が嫁いでくるのにジィッドくん残念過ぎないと思って妄想を形にしてみます。これミースを誘拐したり、エンジン爆破しそうにないから、死なないで済むかしら?▼ラストまで投稿したぜ。2026年6月18日完結。▼トローラ・ロージン転生「https://syosetu.org/novel/4…


総合評価:841/評価:8.47/完結:161話/更新日時:2026年06月18日(木) 00:00 小説情報

転生バドは勝利を夢見る(作者:ぶーく・ぶくぶく)(原作:機動警察パトレイバー)

※本作は作者が読みたい原作改変を自給自足する趣味作です。感想や考察はありがたく拝見しますが、展開は作者の予定と趣味を優先して進めます。▼オタクの夢見る転生もの。▼リアルっぽい世界でインドで人買いに攫われて外れかと思ったら、ボク、バドリナード・ハルチャンドやん!▼グリフォン乗れるやん!▼ならアルフォンスに勝たなあかん。▼原作通りなんてつまらない。▼性能は勝って…


総合評価:903/評価:6.74/連載:56話/更新日時:2026年08月10日(月) 05:00 小説情報

転生したら聖園ミカだったけど、どう考えてもここはキヴォトスではない。(作者:Othuyeg)(原作:強殖装甲ガイバー)

どこをどう見てもキヴォトスではない場所に聖園ミカの姿で転生した元(・)一般人の話。▼※なんかしら反応があったら続く。▼※予想外に反応が多かったので連載に切り替えました。君らガイバー二次に飢えすぎだろ。▼※pixivにもマルチ投稿を始めました。(2026/07/26)


総合評価:2942/評価:8.49/連載:10話/更新日時:2026年08月04日(火) 17:00 小説情報

愛と勇気と正義にかけて、市民をお守りいたします!(作者:イングラマン)(原作:機動警察パトレイバー)

某巡査の娘が特車二課第二小隊に配属される、原作再構成二次小説です。▼自分が読みたいがために投稿しました。▼・TVアニメ版を軸にOVA、漫画版や小説版をミックスしています。▼・転生オリ主最強です。▼・一部キャラクターの生年と経歴を変更しています。▼・作者は警察組織や軍事関係、コンピュータについてはネットで調べた程度の知識しかありません。▼以上の点を踏まえて、本…


総合評価:3581/評価:9.02/連載:21話/更新日時:2026年08月05日(水) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>