アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

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フォボスとディモス

 

/*/ 衛星退避

 

 

 

 火星を起こす前に、火星の月を逃がさねばならなかった。

 

 フォボス。

 

 ディモス。

 

 小さく、歪で、脆い二つの衛星。

 

 旧時代の火星では、それらは火星の周囲を巡る小さな月だった。

 

 だが、火星が一Gのホーキング星へ変われば、現在の軌道も速度も意味を失う。

 

 そのままでは落ちる。

 

 軌道を外せば、火星圏から離れていく。

 

 重力場が書き換わる瞬間に外へ置いておけば、補正に失敗しただけで砕け散る可能性もある。

 

 軌道力学班は、いくつもの移動案を検討した。

 

 推進器を打ち込む。

 

 マスドライバーで少しずつ軌道を上げる。

 

 重力制御で牽引する。

 

 だが最終的に採用された方法は、それらよりもはるかに単純だった。

 

「格納します」

 

 クラウドゲートの会議室で、軌道力学者は言った。

 

 赤い火星の横に、二隻の宇宙怪獣巡洋艦が表示される。

 

 一隻の腹部にはフォボス。

 

 もう一隻にはディモス。

 

 どちらも、船体内部へ完全に収まっていた。

 

「フォボスもディモスも、最大径は数十キロです」

 

「宇宙怪獣アプトムの母艦級を用いるまでもありません。巡洋艦級の内部格納空間で十分に収容できます」

 

 村上征樹が図面を見る。

 

「つまり、月を運ぶのか」

 

「はい」

 

「軌道を変えるのではなく?」

 

「火星が一G化するまでは、軌道へ戻しません」

 

 技術者が表示を切り替えた。

 

「二つの衛星を巡洋艦へ格納した状態で、将来の指定軌道上に待機させます」

 

「火星の重力場が安定した後、巡洋艦が必要な円軌道速度へ移行」

 

「その状態で、格納区画から衛星を押し出します」

 

 アルカンフェルが尋ねる。

 

「押し出すだけでよいのか」

 

「はい」

 

 軌道力学者は即答した。

 

「巡洋艦そのものが、指定高度と指定速度を持った軌道投入機になります」

 

「衛星へ直接、大出力の推進器を取り付ける必要はありません」

 

「脆い衛星を外側から押したり、危険な重力源で引いたりする必要もない」

 

「巡洋艦内部で保護し、必要な場所まで運び、必要な速度で離す。それが最も簡単です」

 

 会議室に、しばらく沈黙があった。

 

 長い計算と危険な計画を重ねた末に出た答えは、巨大な箱へ入れて運ぶというものだった。

 

 アプトムが通信越しに笑った。

 

『最初からそうすりゃいいだろ』

 

「最初から、宇宙船へ月を入れるという発想は普通は出ません」

 

 軌道力学者が答える。

 

『お前ら、まだ宇宙怪獣を人間の船だと思ってるからな』

 

 その時、地質学者の一人が画面を見ながら口を挟んだ。

 

「格納して運べるなら、そのまま地上へ下ろして研究したい」

 

 会議室の何人かが振り返る。

 

「フォボスもディモスも、表面試料しか十分に採れていない。内部構造を丸ごと調べられるなら、火星地表の研究基地へ降ろす価値がある」

 

 惑星環境局の職員が渋い顔をした。

 

「一応、環境保全の意味もあるから」

 

「環境保全?」

 

「火星固有の天体環境を、可能な限り維持するという意味です。衛星を地表へ持ち込めば、地質学的な位置関係も、長期的な軌道史も失われます」

 

 地質学者は火星の立体模型を指した。

 

「火星をテラフォーミングするのに?」

 

 環境局員が黙る。

 

「中心へマイクロブラックホールを入れて、一Gにして、地殻を再活動させて、大気と海を作るんだろう」

 

「はい」

 

「いまさら環境保全も何もないだろ」

 

 環境局員は少し考えた。

 

「それはそう」

 

 村上が額を押さえた。

 

「納得するのか」

 

「反論できませんでした」

 

 アルカンフェルが地質学者へ尋ねる。

 

「地上へ降ろせるのか」

 

「巡洋艦側に能力があるなら」

 

『あるぞ』

 

 アプトムが即答した。

 

『ゆっくり降ろせばいい。ただし、二つとも地上へ置く場所を先に決めろ。数十キロの岩を降ろしてから邪魔だったじゃ済まねぇぞ』

 

「フォボスは赤道付近の乾燥盆地へ」

 

「駄目だ」

 

 軌道力学者が即座に切った。

 

「月として残すために退避させる計画です」

 

「一つくらい地上研究用に」

 

「二つしかありません」

 

「片方だけでも」

 

「却下です」

 

 地質学者が不満そうに腕を組む。

 

「内部研究の機会が」

 

「巡洋艦内部にある間に調査してください」

 

「時間が足りない」

 

「火星を一G化した後でも、軌道上へ研究船を送れます」

 

「地上の方が大型設備を使える」

 

「火星調査基地には、衛星丸ごとを扱える設備などありません」

 

「作ればいい」

 

「その設備を作っている間、月をどこへ置くんです」

 

 地質学者は黙った。

 

 アプトムが笑う。

 

『格納庫を研究室として貸してやるよ。中を掘るなよ』

 

「試料採取は必要だ」

 

『表面を削るくらいならいい。勝手に穴を開けるな』

 

「非破壊検査だけでは限界がある」

 

『月を積んでる船の腹で、月に発破をかけるなって言ってんだよ』

 

 会議室の研究者たちは、誰も地質学者の側へつかなかった。

 

 フォボスとディモスを研究したい気持ちは分かる。

 

 だが、宇宙怪獣巡洋艦の格納区画内で発破調査を行う勇気は、誰にもなかった。

 

 

 

/*/

 

 

 

 宇宙怪獣アプトムの巡洋艦級は、人類がかつて船と呼んだものとは規模が違う。

 

 全長は数百キロ。

 

 内部には艦載生物、資源、工廠、輸送物を収める広大な生体空間がある。

 

 数十キロの天体一個は、積荷としては大きい。

 

 だが、格納不能なほどではなかった。

 

 問題は、フォボスとディモスが一枚岩ではないことだった。

 

 特にフォボスは、空隙を多く含む瓦礫の集合体に近い。

 

 そのまま艦内へ引き込めば、接触圧やわずかな加速度だけでも崩れる恐れがある。

 

 そこで巡洋艦の格納区画は、衛星の形に合わせて作り替えられた。

 

 柔らかな生体支持膜が、表面全体を包む。

 

 数百万か所の支持点が圧力を分散する。

 

 衛星内部の応力を監視し、歪みが生じれば格納壁そのものが変形して受け止める。

 

 石を箱へ詰めるのではない。

 

 壊れかけた骨を、巨大な掌で包み込むように運ぶ。

 

 フォボス収容作業の日。

 

 巡洋艦は火星の低軌道へ降り、腹部の格納口を開いた。

 

 黒い生体装甲が左右へ割れ、その奥に数十キロの空洞が現れる。

 

 軌道制御艦がフォボスの自転を調整する。

 

 複数の牽引生体が衛星表面へ取りつき、極めてゆっくりと艦内へ導いた。

 

 火星地表の調査基地では、研究者たちが遅延通信映像を見つめていた。

 

 この時点で、火星に民間コロニーは存在しない。

 

 あるのは、地質調査、気象観測、地下構造解析を担う研究基地だけだった。

 

 基地にいるのも、研究者、技術者、警備要員、医療班。

 

 長期滞在者はいる。

 

 だが家族を伴った居住者はいない。

 

 子供もいない。

 

 人類は、まだ火星で暮らしてはいなかった。

 

 これから暮らせる星を作るために、調査している段階だった。

 

 地質班から怒号が飛ぶ。

 

『第三支持膜、圧力が高い!』

 

『左舷側を緩めろ! フォボスは固体ではない!』

 

『表層崩落を確認! 破片は回収しろ!』

 

 アプトムが割り込んだ。

 

『格納床を柔らかくする。慌てるな、全部受け止める』

 

『柔らかくしすぎると内部へ沈みます!』

 

『じゃあ、お前が支えろ!』

 

 誰も黙らなかった。

 

 だがフォボスは、割れなかった。

 

 長い時間をかけ、歪な月は巡洋艦の腹へ収まった。

 

 格納口が閉じる。

 

 火星の空から、フォボスが消えた。

 

 火星調査基地の観測室で、研究者の一人が小さく呟く。

 

「本当に入った」

 

「映像で見ても実感がないな」

 

「衛星を運搬物扱いか」

 

「地上へ降ろせば、すぐ実感できる」

 

「まだ言ってるのか」

 

 先ほどの地質学者は諦めていなかった。

 

「基地の横にフォボスが置いてあれば、毎日研究できる」

 

「基地がフォボスの横に置かれている状態になるぞ」

 

「それでもいい」

 

「良くない」

 

 観測室に、小さな笑いが起きた。

 

 続いてディモスも、別の巡洋艦へ収容された。

 

 フォボスほど脆くはなかったが、作業が簡単だったわけではない。

 

 衛星表面へ残された観測機器。

 

 採取済みの地質標識。

 

 長年積み重ねられた軌道観測用の反射器。

 

 それらも可能な限り取り外さず、衛星と一緒に格納された。

 

 二つの月が、火星の空から消えた。

 

 地上の火星調査基地では、研究者たちが月のない空を観測した。

 

 夜空そのものは、それほど変わったようには見えない。

 

 フォボスもディモスも、地球の月ほど大きく明るい天体ではなかった。

 

 それでも、長年そこにあることを前提として観測してきた研究者には、空の一部が欠けたように感じられた。

 

「なくなったわけではない」

 

 老天文学者が言った。

 

「今は、船の中にあるだけだ」

 

「月が船に載っている方が、なくなったより理解しにくいですよ」

 

「慣れろ」

 

「慣れられますかね」

 

「火星を一Gにする計画へ参加している時点で、諦めろ」

 

 

 

/*/

 

 

 

 火星中心から三万二千キロ。

 

 フォボスの新軌道。

 

 火星中心から五万一千キロ。

 

 ディモスの新軌道。

 

 新しい一G火星の同期軌道より外側。

 

 公転周期の比は、ほぼ一対二。

 

 ホーキング星化後も二つの月が円軌道を保ち、長期的に接近しないよう計算された配置だった。

 

 ただし、火星がまだ通常の質量である間、その位置と速度では自然な円軌道にはならない。

 

 だから二隻の巡洋艦は、軌道を巡ってはいなかった。

 

 推進と重力制御によって指定座標を維持し、火星の変化を待っていた。

 

 一隻はフォボスを格納したまま、三万二千キロ地点に。

 

 もう一隻はディモスを格納したまま、五万一千キロ地点に。

 

 艦内の衛星は、何も知らないように沈黙していた。

 

 格納中も研究は続けられた。

 

 巡洋艦の生体格納壁へ観測装置が設置され、重力探査、密度分布測定、電波断層撮影が行われる。

 

 地質学者たちは、どうにか直接掘削しようと申請を出した。

 

 申請は却下された。

 

 代わりに、既に?離していた表層片と、収容時に回収された破片が研究試料として火星調査基地へ送られた。

 

「本体を地上に下ろすより、ずいぶん小さいな」

 

 試料容器を受け取った地質学者が言う。

 

「研究には十分でしょう」

 

「十分かどうかは研究者が決める」

 

「月を地上へ降ろすかどうかは軌道管制班が決めます」

 

「環境保全局ではなく?」

 

「環境保全局は、もう反論を諦めました」

 

「火星を作り変えるから?」

 

「火星を作り変えるからです」

 

「それはそう」

 

 地質学者は試料容器を持って研究室へ戻った。

 

 

 

/*/

 

 

 

 最後の確認が始まる。

 

『フォボス格納状態、安定』

 

『表層?離なし。内部応力、許容範囲』

 

『ディモス格納状態、安定』

 

『両巡洋艦、指定軌道投入速度の算出完了』

 

『火星重力場確定後、速度を最終補正』

 

『格納区画開放後、低速射出』

 

 村上が画面を見る。

 

「本当に、押し出すだけなんだな」

 

 軌道力学者が頷いた。

 

「巡洋艦が正しい軌道を飛んでいれば、衛星も同じ速度を持っています」

 

「後は格納区画との接触を切り、数センチ毎秒の相対速度を与えるだけです」

 

「数センチか」

 

「強く押せば壊れます」

 

 アプトムの声が入る。

 

『卵を巣から転がすようなもんだ。落とすなよ』

 

「卵というには大きすぎる」

 

『船に比べりゃ卵だ』

 

 アルカンフェルは、二隻の巡洋艦と火星を見た。

 

「火星の重力が安定するまで、外へ出すな」

 

『当然だ』

 

「推定値ではなく、実測値を使え」

 

『分かってる』

 

「円軌道確認後も、しばらく巡洋艦を随伴させろ」

 

『過保護だな』

 

「壊さずに残すと決めた」

 

 アプトムは少し黙った。

 

『了解。月が一周するまではついていく』

 

 火星の月を守るために、総帥自身が重力で引く必要はない。

 

 村上がマイクロブラックホールを操る必要もない。

 

 衛星の前方へ危険な重力源を置くこともない。

 

 アプトム宇宙怪獣巡洋艦が二つの月を抱え、火星が目覚めるまで待つ。

 

 それだけだった。

 

 単純だった。

 

 だが、単純であることは、容易であることを意味しない。

 

 数十キロの瓦礫天体を壊さず格納できる船。

 

 火星の質量変化を受けながら指定位置を維持できる推進力。

 

 新たな重力場を測定し、即座に円軌道速度へ合わせる管制能力。

 

 その全てがあって初めて、押し出すだけで済む。

 

 

 

/*/

 

 

 

 ヴァルキュリアの声が、管制網へ流れた。

 

『衛星退避、最終状態を確認』

 

『フォボス、宇宙怪獣巡洋艦一番艦に格納』

 

『ディモス、宇宙怪獣巡洋艦二番艦に格納』

 

『両艦、新指定軌道座標にて待機』

 

『ホーキング星化後、火星重力場の安定を確認し、円軌道速度へ移行』

 

『その後、両衛星を格納区画から放出します』

 

 シンが続ける。

 

『電荷制御系、待機』

 

 カールレオンが告げた。

 

『虚数空間側の歪み逃がし、衛星待機艦を含む全作業領域へ拡張』

 

 李・エンツイが静かに言う。

 

『空間座標、固定。二つの月は、今も火星圏内にあります』

 

 まだ火星の月ではない。

 

 今は二隻の船に積まれた、巨大な積荷だった。

 

 だが火星が目覚めれば、再び月になる。

 

 フォボスは内側の円へ。

 

 ディモスは外側の円へ。

 

 二隻の巡洋艦は、それぞれの月を正しい場所へ戻す。

 

 地質学者から通信が入った。

 

『フォボスを放出する時は、絶対に余計な回転を与えるな』

 

 アプトムが答える。

 

『分かってる。そっと出す』

 

『お前の“そっと”は信用できない』

 

『じゃあ、お前らが押せ』

 

『数十キロの衛星を人力で押せるか!』

 

『なら任せろ』

 

 管制室に、小さな笑いが起きた。

 

 火星調査基地でも、通信を聞いていた研究者たちがわずかに笑った。

 

 すぐに笑いは消える。

 

 全員が次の画面を見た。

 

 火星中心核投入計画。

 

 プロジェクト・アレス。

 

 火星の月を船へ収めた。

 

 地表を調べた。

 

 保護すべきものを保護した。

 

 沈む場所を決めた。

 

 残す場所を決めた。

 

 逃がすものを逃がした。

 

 まだ、火星に都市はない。

 

 海もない。

 

 森もない。

 

 そこで生まれ育った人間もいない。

 

 あるのは研究基地と、二十年かけて集められた観測記録だけだった。

 

 あとは、火星そのものを変える。

 

 ヴァルキュリアが宣言する。

 

『衛星退避完了』

 

『フォボス、ディモス、巡洋艦内にて保護』

 

『両艦、ホーキング星化後の軌道投入待機へ移行します』

 

 二十年間、火星の空にあった二つの月は、その夜だけ姿を消していた。

 

 次に現れる時。

 

 それらが巡るのは、眠った赤い惑星ではない。

 

 一Gの重力と、再び動き始めた地殻と、海と大気を持つ、新しい火星だった。

 

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