/*/ 新しい月と古い月 /*/
火星を一Gの惑星へ作り変える前に、二つの月は火星の空から消えた。
フォボス。
ディモス。
数十億年にわたって赤い惑星の周囲を巡り続けた、小さく、歪で、脆い衛星。
それらを火星から奪ったのは、衝突でも、潮汐崩壊でもなかった。
アプトム宇宙怪獣巡洋艦級の格納口だった。
火星軌道上に浮かぶ二隻の巡洋艦は、人類がかつて同じ言葉で呼んでいた軍艦とは、あまりにも規模が違っていた。
全長は数百キロ。
黒い生体装甲に覆われた船体内部には、都市を呑み込めるほどの格納空間がある。
その腹部が大きく開き、フォボスは一隻目へ、ディモスは二隻目へ収容された。
月を箱へ入れる。
言葉にすれば簡単だった。
実際の作業は、数日を要した。
とりわけフォボスは、一つの岩ではなかった。
無数の岩塊と空隙が、長い時間をかけて緩く結びついた瓦礫天体。
強く引けば割れる。
押せば崩れる。
自転を急に止めても、内部応力で裂ける。
巡洋艦は格納区画そのものを変形させ、数百万の生体支持膜で月の表面を包み込んだ。
『第三支持点、圧力上昇』
『下げろ! 表層が沈んでいる!』
『右舷側、二十メートル開け』
『二十メートルでいいのか?』
『衛星相手に一メートル単位で話している余裕はない!』
火星地上の調査基地では、地質学者たちが映像を睨んでいた。
この時点で、火星にコロニーはない。
あるのは、何十年も火星の地殻と大気と地下氷を調べ続けてきた研究基地だけだった。
研究者。
技術者。
護衛。
医療班。
長期滞在者はいても、家族はいない。
子供もいない。
ここは、人間が暮らす土地ではない。
これから人間が暮らせる星を作るための、工事前調査区だった。
フォボスが巡洋艦の中へ半分ほど収まったところで、観測室の一人が言った。
「格納して運べるなら、そのまま地上へ降ろして研究したい」
隣にいた軌道力学者が、視線も向けずに答えた。
「どこへ置く」
「基地の近くでいい」
「最大径二十七キロの衛星を、基地の近くへ置くのか」
「少し離せばいい」
「少しとは」
「百キロほど」
「基地の研究環境が、フォボスの研究環境へ変わるぞ」
「それが目的だ」
惑星環境保全局の職員が、遠慮がちに口を挟んだ。
「一応、環境保全の意味もありますから」
地質学者が振り返る。
「環境保全?」
「フォボスとディモスは、火星圏の原始環境を記録する学術資産です。軌道関係を維持した状態で保存することにも意味があります」
「火星をテラフォーミングするのに?」
環境保全局員は黙った。
「中心にマイクロブラックホールを入れる」
「質量を増やして地表重力を一Gにする」
「停止している内部を再活動させる」
「海を作る」
「大気を作る」
「磁場まで作り直す」
地質学者は、赤い火星の立体映像を指した。
「いまさらだろ」
環境保全局員は、少し考えた。
「それはそう」
「納得するのか」
村上征樹が呆れた声を出した。
「反論できませんでした」
アルカンフェルはフォボス収容作業の画面を見たまま尋ねた。
「地上へ下ろした方が研究しやすいのか」
「はい」
地質学者は即答した。
「重力断層撮影、地震波探査、掘削、年代測定。地上設備を使えるなら、研究効率は桁違いです」
『駄目だ』
通信越しにアプトムが言った。
「なぜだ」
『そいつを地上へ下ろすには、俺の巡洋艦も大気圏へ降りる必要がある。今の火星ならともかく、一G化後は風も大気も変わる。数十キロの瓦礫を抱えて着陸するのは面倒だ』
「技術的に不可能ではない」
『可能だからやる、を毎回採用するな』
地質学者は不満そうに腕を組んだ。
「では、巡洋艦の中で研究させてほしい」
『発破を使わないならな』
「内部構造を確かめるには小規模な衝撃源が必要だ」
『俺の腹の中で月に爆薬を仕掛けるな』
「破壊するほどではない」
『お前らの言う破壊しないは信用できねぇ』
観測室の研究者たちは、地質学者を援護しなかった。
フォボスを調べたいという気持ちは理解できる。
だが、宇宙怪獣巡洋艦の体内で衛星に発破を仕掛ける勇気はなかった。
やがてフォボスが完全に収まった。
生体支持膜が月全体を包む。
格納口が閉じる。
火星の空から、内側の月が消えた。
数時間後、ディモスも別の巡洋艦へ格納された。
二つの月を失った火星は、それまで以上に孤独に見えた。
だが、なくなったわけではない。
今は二隻の船の中にある。
火星が変わる間だけ、月であることを休んでいる。
そして、二つの古い月が消えた後。
火星圏へ、二つの新しい月が運ばれてきた。
アステロイド地帯から飛来した二隻のアプトム宇宙怪獣母艦級。
全長数千キロに及ぶ巨大生体艦。
一隻は直径三百キロ級の金属質小惑星を。
もう一隻は直径五百キロ級の炭素質小惑星を。
それぞれ船体内部へ完全格納していた。
従来の宇宙開発なら、数百キロの小惑星を火星圏へ移動させるだけで、数十年、あるいは百年以上の時間を要しただろう。
加速。
減速。
軌道修正。
接近時の危険排除。
万一の衝突回避。
その全てを慎重に積み重ねる必要がある。
だが母艦級は、小惑星を牽引してきたのではない。
荷物として運んできた。
小惑星は外宇宙へ露出していない。
航行中に破片を撒き散らすこともない。
母艦が火星へ到着した時点で、それらは既に減速を終えていた。
「衛星軌道へ投下します」
軌道管制官が言った。
画面には、新しい一G火星を中心とした二つの円が描かれている。
内側は火星中心から三万二千キロ。
外側は五万一千キロ。
新しい重力場に合わせた円軌道。
互いの公転周期は、ほぼ一対二。
アルカンフェルは図面を見た。
「新しい火星が安定するまで、外へ出すな」
「はい」
「推定質量ではなく、実測値で速度を決めろ」
「承知しています」
「小惑星内部の質量偏在は」
「両母艦が輸送中に三次元測定を完了しています。自転軸も投入前に調整します」
村上が言った。
「月を二つ運び出したと思ったら、今度は二つ持ってくるのか」
アプトムの声が通信へ入る。
『持ってきた方がでかいけどな』
「三百キロと五百キロだからな」
『巡洋艦に積んでる古い方は、こいつらの表面に置いても小さな岩山にしか見えねぇぞ』
地質学者が反応した。
「表面に置く?」
『研究したいんだろ』
観測室の視線がアプトムの通信窓へ集まった。
『新しい小惑星を基地化するなら、古い月を置く場所も作ればいい』
「新しい衛星に、元の衛星を保管するのか」
『そうだ』
地質学者は、しばらく黙った。
「悪くない」
「さっきまで地上に下ろせと言っていたでしょう」
「研究できるなら場所は問わない」
「変わり身が早いな」
「研究機会は逃さない」
アルカンフェルが尋ねた。
「完成までどれほどかかる」
軌道建設班が答えた。
「軌道安定確認に二年から三年」
「基地化、資源採掘設備、居住区、港湾建設に五年以上」
「旧衛星を安全に保管できる保存泊地の完成まで、最短でも十年」
「ならば、巡洋艦に保管させておけ」
『十年以上か?』
アプトムが言う。
「できぬのか」
『できる。できるが、巡洋艦二隻がずっと月の保管庫になるぞ』
「必要な任務だ」
『月守り艦かよ』
その言葉は、その日のうちに管制員の間へ広がった。
二つの古い月を抱える二隻の巡洋艦。
火星が変わり、新しい月が整い、保管場所が完成するまで、それらは月守り艦として火星圏に留まる。
ヴァルキュリアの声が、全作業域へ流れた。
『旧フォボス、旧ディモス、巡洋艦級内部にて保全状態へ移行』
『新規資源小惑星二天体、母艦級内部にて火星軌道投入待機』
『プロジェクト・アレス、本起動へ移行します』
火星中心核投入計画が開かれた。
眠った赤い惑星の中心へ、黒い心臓が送られる。
二つの古い月は船の中で待ち。
二つの新しい月は、別の船の中で待つ。
火星だけが、これから別の星になる。
/*/ 第二場面 月を作る者たち /*/
火星が一Gのホーキング星へ変わった後、最初に生まれたのは海でも森でもなかった。
新しい二つの月だった。
火星の内部へ投入された重力核が安定し、地表重力が一Gで均一化された後。
母艦級二隻は、それぞれ指定された高度へ移動した。
内側に三百キロ級小惑星。
外側に五百キロ級小惑星。
母艦は新火星の重力場を実測し、必要な円軌道速度へ入った。
その状態で腹部の格納口を開いた。
先に現れたのは、三百キロ級の金属質小惑星だった。
黒い格納口の奥から、巨大な岩石天体がゆっくりと姿を見せる。
押し出されたのではない。
母艦の格納壁が後退し、支えを失った天体が、その時点で母艦と共有していた速度のまま宇宙へ残された。
母艦だけが横へ離れていく。
結果として、小惑星は火星を巡り始めた。
軌道管制室で、無数の数値が流れる。
『離心率、計画値以内』
『自転軸、補正範囲』
『火星近点、変動なし』
『内部応力上昇、軽微』
『第一新衛星、円軌道移行を確認』
歓声は上がらなかった。
まだ一周していない。
新しい月と呼ぶには早い。
続いて、外側へ五百キロ級の炭素質小惑星が投入された。
こちらは内部に氷と揮発性物質を大量に含んでいた。
金属質小惑星よりも密度分布が複雑で、投入後の自転制御に時間がかかった。
『第二新衛星、軸ぶれ確認』
『母艦、追随』
『赤道面へトルク付与』
『強すぎる。内部氷層が滑るぞ』
『補正量三割減』
母艦級は小惑星から離れなかった。
巨大な生体艦が新しい月と並んで火星を巡り、わずかな自転の乱れを整えていく。
一周。
二周。
十周。
それでも軌道管制班は安定という言葉を使わなかった。
数百キロ級の天体は、宇宙船ではない。
外から見て静止していても、内部の岩盤や氷層が落ち着くまでには時間がかかる。
潮汐。
温度差。
自転。
火星からの放射。
太陽光。
それら全てに、天体そのものが慣れる必要があった。
投入から一年目。
二つの新衛星に、最初の観測杭が打ち込まれた。
二年目。
内部構造の三次元地図が完成した。
三年目。
軌道補正用の巨大推進器が、衛星内部へ埋め込まれた。
三百キロ級小惑星には、金属精錬基地が建設された。
掘り出した鉄とニッケルは、その場で構造材へ加工される。
表面から採掘した資源で、表面の基地を作る。
地下へ伸びた採掘坑は、やがて巨大な工場区画へ変わっていった。
五百キロ級小惑星では、氷層へ向けて採掘孔が掘られた。
水。
酸素。
水素。
炭素。
窒素。
火星圏文明が必要とする揮発性資源が、そこには大量に眠っていた。
氷を溶かし、水を精製し、推進剤を作る。
採掘によって生じた巨大空洞には、回転式居住区が組み込まれた。
弱い衛星重力の中に、人工的な一Gの床を作る。
六年目。
二つの新衛星には正式名称が与えられた。
内側の三百キロ級工業衛星を、フォボス。
外側の五百キロ級資源衛星を、ディモス。
反対は多かった。
とりわけ天文学者と地質学者が反対した。
「フォボスは巡洋艦の中にある」
「新しい天体を同じ名前で呼ぶべきではない」
「歴史的連続性が失われる」
行政側は答えた。
「火星の内側を巡る第一衛星として、フォボスの名称を継承します」
「継承ではない。乗っ取りだ」
「では、旧フォボスと呼びます」
「旧ではない。あちらが本物だ」
「フォボス原体では」
「標本のように呼ぶな」
会議は紛糾した。
最終的に、行政文書では、
> 火星第一工業衛星《新フォボス》
> 火星第二資源衛星《新ディモス》
> 旧第一衛星《フォボス原体》
> 旧第二衛星《ディモス原体》
と区別されることになった。
しかし研究者たちは、新衛星を「大きい方」と呼び、巡洋艦の中にある旧衛星を単に「フォボス」「ディモス」と呼び続けた。
「フォボス研究所は、どちらのフォボスにあるんだ」
「新フォボスのフォボス保存区画だ」
「フォボスの中か」
「フォボスの上にフォボスを置く」
「ややこしい」
「名付けた行政に言え」
七年目。
新フォボスの地表に、巨大な盆地の掘削が始まった。
直径三十キロを超える開放式収容区。
ただし、フォボス原体を直接地面へ置くわけではない。
保存泊地の底面には、無数の生体支持柱が並べられた。
局所重力を相殺し、旧衛星の表面全体を多点で支える。
接触圧を可能な限りゼロへ近づける。
温度、放射線、真空環境も、元の軌道環境へ近づける。
研究者が近づくための桟橋は設けるが、泊地本体とは振動的に分離される。
大型分析施設。
電波断層撮影装置。
微小地震波発生装置。
試料保存庫。
無菌作業区。
居住区。
医療区。
フォボス原体を研究するためだけの小都市が、数百キロの新フォボス上へ作られていった。
新ディモスにも、同じようにディモス原体保存区が建設された。
こちらは元の衛星が小さいため、泊地もフォボス用より小さかった。
それでも保全基準は厳しかった。
研究者の一人が言った。
「火星そのものは作り変えたのに、衛星にはずいぶん慎重だな」
環境保全局員が答えた。
「火星は居住惑星として再生する必要がありました」
「衛星は、そのまま残せます」
「以前は『それはそう』で引き下がったくせに」
「今回は理屈を用意しました」
「成長したな」
八年目。
新フォボスの造船所から、最初の火星圏建造艦が進宙した。
九年目。
新ディモスの内部居住区へ、最初の長期労働者が入った。
十年目。
火星地表にも恒久都市の建設が始まり、軌道と地表を結ぶ定期輸送路が開かれた。
かつて研究者と技術者しかいなかった火星圏に、家族を伴った入植者が現れ始めた。
それでも二つの古い月は、まだ巡洋艦の中にあった。
月守り艦は、火星圏の外側で静かに待ち続けている。
格納から十年を超えても、フォボスとディモスの状態は維持されていた。
真空。
温度。
放射線。
表面塵。
巡洋艦は全てを記録し、変化を最小限に抑えている。
ただし、完全に同じ環境ではない。
巨大生体艦の内部にある以上、微弱な生体磁場と重力制御の影響を受ける。
それすらも、新たな研究対象になっていた。
「保存状態はどうだ」
アルカンフェルが尋ねる。
ヴァルキュリアが答えた。
「フォボス原体、表層崩落なし。内部空隙の変化、測定限界以下」
「ディモス原体も安定しています」
「保存泊地は」
「新フォボス側、構造完成率九十八パーセント」
「新ディモス側、九九パーセント」
「なぜ完成していない」
「研究者が観測装置を追加しました」
アルカンフェルは地質学者を見る。
「必要なのか」
「必要です」
「三か月前にも同じことを聞いた」
「その時とは別の装置です」
「これ以上遅らせるな」
「研究機会は一度しかありません」
「接岸後も研究できる」
「接岸の瞬間しか取れないデータがあります」
アプトムが通信越しに笑った。
『十年以上待って、最後の一パーセントで揉めるのか』
「最後だから揉めるんです」
『もう巡洋艦から出していいか?』
「まだだ」
地質学者と環境保全局員と軌道管制官が、同時に答えた。
アプトムが黙る。
『お前ら、息ぴったりだな』
火星を一Gに変える作業よりも。
数百キロの小惑星を運ぶ作業よりも。
古い月を新しい月へ置くための最後の一パーセントの方が、なぜか慎重だった。
アルカンフェルは、完成間近の保存泊地を見た。
新フォボスの表面に掘られた巨大な窪み。
その周囲に建つ研究都市。
ドームも森もない。
真空へ露出した、黒と銀の施設群。
中央には、フォボス原体の形に合わせた空席がある。
「あと何日だ」
ヴァルキュリアが答えた。
「最終検査を含め、四十二日」
「四十二日後に移す」
地質学者が口を開こうとした。
「延長は認めぬ」
先に言われた。
研究者は黙った。
「四十二日で終わらせます」
「そうしろ」
十年以上続いた計画は、ようやく古い月を迎える段階へ入った。
/*/ 月が月へ帰る日 /*/
計画開始から十二年目。
フォボス原体を抱えた月守り巡洋艦が、新フォボスへ接近した。
新フォボス。
直径三百キロを超える、火星第一工業衛星。
表面には精錬所と造船所が並び、内部には工場と居住区が広がっている。
その一角に、何年もかけて建設された保存研究泊地が口を開けていた。
数十キロ規模の人工盆地。
中央の空席は、フォボス原体の形に合わせて歪んでいる。
真円ではない。
左右対称でもない。
何十億年も宇宙を巡った小さな月の輪郭を、そのまま受け止めるための形だった。
研究都市の観測室では、地質学者たちが画面を見つめていた。
この日のために、十二年待った者もいる。
計画開始時には若手だった研究者が、今では班長になっている。
火星調査基地から新フォボスへ移ってきた者。
地球へ一度戻り、再び参加した者。
途中で退職した者。
完成を見る前に亡くなった者。
十二年は、惑星開発計画には短い。
人間には長い。
『月守り一番艦、相対速度低下』
『保存泊地中心軸へ進入』
『格納区画内部、フォボス原体安定』
『支持膜展開準備』
巡洋艦の腹部が、新フォボスの地表へ向いた。
巨大な格納口が開く。
暗闇の奥に、フォボスが見えた。
十二年以上、船内に保管されていた古い月。
表面にはクレーターと溝が刻まれ、灰褐色の岩肌が照明を鈍く反射している。
研究者の一人が、無意識に立ち上がった。
「フォボスだ」
誰も訂正しなかった。
新でも旧でも、原体でもない。
彼らにとって、あれがフォボスだった。
格納区画の生体支持膜が、ゆっくりと月から離れる。
だが一度に全てを放さない。
数百万の支持点が順番に圧力を減らす。
巡洋艦内部の擬似重力場と、新フォボス側の局所重力相殺装置が同期する。
フォボス原体は、自重をほとんど感じないまま格納口へ運ばれた。
『表層応力、変動なし』
『右舷支持群、解放』
『泊地側牽引膜、接続』
『接触ではない。保持開始』
保存泊地から伸びた半透明の支持膜が、フォボスの表面へ広がった。
貼りつくのではない。
触れる寸前で局所重力を調整し、月全体を包み込む。
巨大な手から、別の巨大な手へ。
フォボスは巡洋艦から新フォボスへ受け渡された。
アプトムの声が響く。
『離すぞ』
地質学者が叫んだ。
「待て。第三クレーター域の支持圧が高い」
『許容値内だ』
「保存基準の上限に近い」
『上限を超えてねぇなら問題ないだろ』
「研究対象だぞ」
『十二年も俺の腹で抱えてた俺の方が扱いに慣れてる』
「それとこれとは別だ」
『どこが別だ!』
アルカンフェルが通信へ入った。
「止めろ」
全作業が止まる。
フォボスは、巡洋艦と保存泊地の間で静止した。
アルカンフェルは数値を見た。
「圧力を一割下げろ」
『そうすると受け渡しに時間がかかる』
「かけろ」
『了解』
地質学者が小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「壊さずに残すと決めた」
アルカンフェルはそれだけ言った。
作業が再開される。
一時間。
三時間。
六時間。
フォボス原体は、ゆっくりと保存泊地の中央へ降ろされていった。
降ろすといっても、地面には触れない。
月は盆地の中で、数十メートル浮いていた。
生体支持膜と重力相殺装置が、表面全体を均等に支える。
巡洋艦の支持点が最後の一つまで離れた。
『フォボス原体、月守り一番艦から完全分離』
『保存泊地、全荷重を受領』
『内部応力、安定』
『姿勢変動なし』
『接岸完了』
観測室に沈黙が落ちた。
拍手は、すぐには起きなかった。
皆、画面上の数値が本当に安定しているのかを確認していた。
十秒。
二十秒。
一分。
誰かが、ようやく拍手をした。
それをきっかけに、観測室全体へ音が広がった。
派手な歓声ではない。
十二年分の緊張が、ようやく外へ漏れたような拍手だった。
アプトムが通信越しに言う。
『やっと降ろせた』
村上が答えた。
「長かったな」
『巡洋艦一隻を十二年も倉庫にしたんだぞ』
「月を守る倉庫だ」
『それで慰めになると思うか?』
「ならないか」
『少しはなる』
数日後、新ディモスでも同じ作業が行われた。
五百キロ級の新ディモス。
その表面に作られた保存泊地へ、ディモス原体が移された。
こちらはフォボスより小さく、内部も比較的安定していた。
作業時間は短かった。
それでも研究者たちは慎重だった。
十年以上待った最後に、急ぐ理由はなかった。
ディモス原体が保存泊地へ収まり、二隻目の巡洋艦から完全分離された時。
火星には再び、四つの月が存在することになった。
火星を巡る二つの巨大な新衛星。
その表面に保管される二つの古い衛星。
新フォボスの上にフォボス。
新ディモスの上にディモス。
行政上はややこしい。
見た目は、さらに奇妙だった。
数百キロの天体表面へ、数十キロの天体が置かれている。
遠方から見れば、大きな月にできた巨大な瘤のようにも見えた。
しかし保存泊地へ近づけば、その意味が分かる。
古い月を傷つけず残すために、新しい月を丸ごと受け皿へしたのだ。
# /*/
フォボス原体への最初の有人接近は、接岸から一か月後に行われた。
研究都市から伸びた接続桟橋が、フォボス表面の数メートル手前まで延びる。
最後の距離は、研究者が小型作業艇で渡った。
先頭にいたのは、十二年前に「地上へ降ろして研究したい」と主張した地質学者だった。
髪には白いものが増えていた。
宇宙服の動作確認を終え、彼は作業艇からフォボス表面へ降り立った。
重力はほとんどない。
保存泊地の局所制御により、研究者が跳ね飛ばされない程度の下向き加速度だけが与えられている。
靴底が、フォボスの塵へ触れた。
研究者はすぐには動かなかった。
足元にあるのは、試料容器の中の破片ではない。
映像でも、模型でもない。
火星とともに太陽系を巡ってきた衛星そのものだった。
『状態は』
管制官が尋ねる。
「安定」
『気分ではなく、装置の数値を報告してください』
「宇宙服正常。接地圧正常。表層沈下なし」
『よろしい』
研究者は膝をついた。
表面の塵へ、観測装置をそっと置く。
採取はまだ許可されていない。
最初は非破壊測定のみ。
電磁波。
熱。
微振動。
十二年間の保管中に変化した部分。
変化しなかった部分。
巡洋艦内部の生体磁場の影響。
新フォボス保存泊地へ移した後の応力変化。
調べることはいくらでもあった。
「地上へ降ろさなくてよかったか」
通信越しに環境保全局員が尋ねた。
地質学者は足元を見たまま答えた。
「認めたくはないが、こちらの方がいい」
「記録しました」
「消せ」
「環境保全局の重要記録です」
「火星をテラフォーミングした連中が、何を環境保全だ」
「それはそう」
「まだ言うのか」
研究室に小さな笑いが起きた。
アルカンフェルは、クラウドゲートからその映像を見ていた。
新フォボスの保存泊地。
その中央に浮かぶ、古いフォボス。
表面へ降り立った研究者。
周囲には、新衛星から採掘された金属で作られた研究施設が並んでいる。
火星を変えた。
新しい月を二つ運んだ。
その月を削り、基地を作り、都市を作った。
そして、古い月を壊さず残した。
「総帥」
ヴァルキュリアが言う。
「旧衛星保全移設計画、全工程完了です」
「研究は始まったばかりだ」
「保全移設計画としては完了です」
アルカンフェルは少し考えた。
「ならば記録せよ」
「どのように」
「フォボスとディモスは失われなかった」
ヴァルキュリアは、その言葉を記録した。
火星の空には、以前よりはるかに大きな二つの衛星が昇っていた。
新フォボス。
新ディモス。
火星圏の工業と資源と居住を支える、新しい月。
そして、その表面には。
人類が火星へ手を加えるよりも遥か昔から存在した、二つの古い月が眠っている。
捨てられなかった。
掘り潰されなかった。
火星が別の星へ変わっても、月だけは残された。
十二年をかけて用意された場所で。
ようやく人類の手が、その表面へ届いていた。