ダンジョンに元水神がいるのは間違っている   作:白黒ととか

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EP12

(ああもう、本当に、最悪の気分だ……)

 

胃の中をかき回されるような激しい揺れに、思わず口元を押さえる。

鼻を突くのは、ベタつくような潮の匂い。

吹き付ける風は冷たく、容赦なく私の銀色の髪を振り乱す。

 

「おいおい、決戦の前に船酔いかよ。らしくねぇな、フリーナ」

 

隣で能天気に笑うのは、身の丈ほどもある巨大な大剣を背負った筋肉ダルマ――バルスだ。

 

「うるっさい……っ! そもそも、なんでこんな海の上なんて不安定な場所で戦わなきゃいけないのさ! 私は今頃、オラリオのカフェで優雅に紅茶とケーキを楽しんでいるはずだったのに!」

「往生際が悪いわよ、フリーナ。ここまで来て泣き言なんて、みっともないったらありゃしないわ」

 

扇子で口元を隠し、クスクスと笑いながら言うのはセリアだ。彼女の纏う紫色のローブが、海風にはためいている。

 

「あんたたちは前衛と固定砲台だからいいわよ! 私なんて、ただの『使い捨ての足場の繋ぎ役』なんだからね! なんでこの私が、そんな泥臭い役回りを……!」

「うるさい」

 

冷ややかな声が、私の文句を切り裂いた。

振り向くと、そこには漆黒のロングドレスを纏った銀髪の女性――アルフィアが、腕を組んで海面を睨みつけていた。

普段は閉じていることの多い瞳が、今は微かに開かれ、その視線は遥か前方の荒れ狂う海域へと向けられている。

 

「……来るぞ」

 

その一言で、周囲の空気が一変した。

船の上にいた百数十人の冒険者たちが、一斉に息を呑む音が聞こえた。

私も、悪態をつくのをやめて前方を凝視した。

 

(なんだ、あれ……?)

 

海の色が、おかしい。

エメラルドブルーだったはずの海面が、まるで墨を流し込んだかのように、どす黒く染まっていく。

いや、違う。

海の色が変わったんじゃない。

 

『海の下に、とてつもなく巨大な影が潜んでいる』のだ。

 

海底から地鳴りのような音が響き渡り、私たちの乗る巨大な木造船が木の葉のように激しく揺れる。

 

「ひっ……!」

 

思わず悲鳴が漏れ、私は手すりにしがみついた。

直後、前方の海面が、ありえない形に「盛り上がった」。

 

(山が、生えてきた……!?)

 

信じられない光景だった。

直径数百メートルはあろうかという海面そのものがドーム状に隆起し、そこから、濃緑と蒼の鱗に覆われた島のような巨体が姿を現したのだ。

 

天を突くような四つの巨大なヒレ。

無数の鋭い棘。そして、空を覆い隠すほどの巨大な首の先端には、顎だけで大型船を丸呑みにできそうなほどの絶望的な口が待ち構えていた。

オラリオの悲願。三大冒険者依頼の一つ。

 

海の覇王(リヴァイアサン)』。

 

「嘘でしょ……こんなの、どうやって倒すのよ……!」

 

私の中で、五百年間鍛え上げたはずの強気な外面が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

 

 

リヴァイアサンがただその場に浮上しただけで、海全体が悲鳴を上げた。

引き起こされた大津波が、何重もの水の壁となって私たちの船団に襲いかかる。

 

「構えろォッ! 船を沈めさせるなァッ!」

 

先頭の巨大船の甲板から、ゼウス・ファミリアの団長であるマキシムの咆哮が響き渡った。

前衛に配置された魔導士たちが一斉に魔法を展開し、迫り来る津波を間一髪で相殺する。

だが、安心したのも束の間だった。

 

不気味な音が、空気を震わせた。

リヴァイアサンが、ただ「息を吸い込んだ」音。

それだけで、周囲の空気が極度に薄くなり、鼓膜が破れそうなほどの気圧の変化が襲ってくる。

 

(息が……っ! 大気が、あいつに吸い込まれていく……!)

 

肺から無理やり酸素を引っこ抜かれたような感覚に陥り、私は思わず喉をかきむしった。

バルスもセリアも、苦悶の表情を浮かべてその場に膝をつく。

 

あのアルフィアでさえ、チッと舌打ちをして顔を歪めた。

 

「……規格外の化け物が。どれだけの魔素を溜め込んでいるというのだ」

 

その横で、ヘラ・ファミリアの女帝、レグナントが目を細めて冷酷な笑みを浮かべていた。

 

「いいわ。これこそ、私たちに相応しい獲物。全軍、突撃ィッ!! あのトカゲの首を獲りなさいッ!」

 

レグナントの号令と共に、戦端が開かれた。

 

「うおおおおおぉぉぉッ!」

 

雄叫びを上げ、中堅の冒険者たちが乗る数十隻の小型船が、波を切り裂いてリヴァイアサンへと突撃していく。

 

「今だ! 足場を作れェッ!」

 

船の先頭に立つヘファイストス・ファミリアの鍛冶師たちが、一斉に蒼く輝く長剣――『氷の魔剣』を空高く掲げた。

魔剣から放たれた極寒の冷気が海面を打ち据え、瞬く間に海が真っ白に凍りついていく。

荒れ狂う波が凍りつき、巨大な氷の平野が海の上に出来上がった。

 

「行けぇっ! 今のうちに肉薄しろ!」

 

冒険者たちが次々と船から氷の足場へと飛び降り、武器を構えてリヴァイアサンの巨体へと走り出す。

 

(いける……? いや、魔剣であれだけ広範囲を凍らせたんだ、これなら!)

 

私がわずかな希望を抱いた、その時だった。

リヴァイアサンが、わずかに首を動かした。

ただそれだけ。本当に、ただほんの少し、鬱陶しい羽虫を払うかのように、巨大な尾ヒレを海面に叩きつけただけだった。

 

「え……?」

 

私の口から、間抜けな声が漏れた。

視界を覆い尽くすほどの、圧倒的な質量の暴力。

分厚く凍りついていたはずの氷の足場が、まるで薄いガラス細工のように粉々に砕け散った。

それだけではない。

 

「ガァァァァァァァァァァァッ!!」

 

リヴァイアサンの口から放たれた、閃光のような水流のブレス。

ただの圧縮された水ではない。それは海そのものを削り取りながら進む、純粋な破壊の光線だった。

 

突撃していた先陣の小型船五隻が、ブレスに触れた瞬間に木端微塵に消し飛んだ。

悲鳴すら、上がらなかった。

 

「なっ……!?」

 

マキシムの隻眼が見開き、レグナントの笑みが完全に凍りつく。

オラリオの頂点に君臨する彼らでさえ、一瞬その理不尽なまでの力に気圧され、言葉を失っていた。

 

「うわああああっ!」

「足場が! 足場が崩れるぞ!」

 

砕け散った氷の上から、次々と冒険者たちが暗く冷たい海へと投げ出されていく。

彼らが身につけているのは、強力なモンスターの攻撃を防ぐための重厚な金属鎧だ。

そんなものを着たまま海に落ちれば、どうなるか。

 

「ゴボッ……助け、て……!」

「誰か! 浮き輪を……っ!」

 

もがく間もなく、次々と黒い海へと沈んでいく冒険者たち。

パニックに陥った彼らを助けようと後続の船が近づこうとするが、リヴァイアサンが引き起こす激しい波に煽られ、身動きが取れない。

 

(……嘘でしょ。あのレベルの冒険者たちが、手も足も出ずに……!)

 

これが、『世界の理不尽』。

これが、古代から続く絶望の象徴。

肌を刺すような冷気と、死の恐怖が私の全身を駆け巡る。

足がガクガクと震え、今すぐこの船底に隠れて耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

 

(嫌だ。死にたくない。こんなところで、あんなバケモノの餌になるなんて絶対に嫌!)

 

私は後ずさり、背中が船の壁にぶつかった。

だが、その時。

 

「……クソッ! 前衛が崩れたら、誰が私を守るのよ!」

 

私の口から飛び出したのは、恐怖ではなく、どこまでも自己中心的な怒りの叫びだった。

そう、あいつらが全滅したらどうなる?

当然、リヴァイアサンのヘイトは残った船――つまり、私たちに向かう。

前衛という名の「肉の盾」がいなくなれば、私が真っ先にあの水流ブレスの的になるじゃないか!

 

(そんなの、絶対に許せない! 私の平穏な生活のためには、あんたたちに死ぬ気で働いてもらわなきゃ困るのよ!)

 

恐怖を怒りに変換し、私は甲板の縁に向かって駆け出した。

 

「おい、フリーナ!? どこに行く気だ!」

 

バルスが驚いたように叫び、手を伸ばしてくる。

 

「フリーナ! 馬鹿な真似はおやめなさい! 今海に出れば波に飲まれるわ!」

 

セリアの制止の声も耳に入らない。

私は迷うことなく、船の縁を蹴って、荒れ狂う暗黒の海へとその身を投げ出した。

 

水面輪舞(ロンド・フォカロルス)

 

水面に着く前にスキルを起動する。

足先に蒼い光を纏う。

私のブーツの裏が海面に触れた瞬間、そこから青白い波紋が広がった。

 

(いける……! )

 

沈まない。

激しく波打つ海面が、私の足元だけ、まるで磨き上げられた大理石の床のように硬質な反発力を持っている。

 

「ははっ! さすが私! 完璧な着地じゃない!」

 

強風に外套をはためかせながら、私は海面をスケートのように滑走し始めた。

右へ、左へ。

荒れ狂う波をジャンプで飛び越え、砕け散った氷の破片を蹴り飛ばしながら、沈みゆく冒険者たちの元へと矢のように駆け抜ける。

 

「た、助け……ゴボッ!」

 

私の数メートル先で、分厚い金属鎧を着た冒険者が海面から手を伸ばし、力尽きて沈みかけていた。

 

(間に合えっ……!)

「【幕開け(サージ)】ッ!【蓋開け(アビス)】」

 

魔法を起動。

ただの付与魔法として起動し即座に放つ。

水流の束を、沈みゆく冒険者の真下の海中に直接発生させる。

 

海中から噴き上がった猛烈な水柱が、鎧を着た冒険者をトランポリンのように上空へと跳ね上げた。

 

「うわあああぁぁぁっ!?」

 

宙を舞う彼を、私は滑走しながら思い切り蹴り飛ばす。

 

「きゃあっ!?」という情けない悲鳴を上げながら、彼は後方の無事な小型船の甲板へと見事な放物線を描いて激突した。

 

「痛い痛い! って、助かった……?」

「よし、次!」

 

私は立ち止まることなく、水面を蹴って加速する。

そこからは、私の独壇場だった。

沈みかける冒険者を見つけては、水柱で空高く打ち上げ、蹴り飛ばす。

時には水流のムチで巻き取って、ハンマー投げのように船へ放り投げる。

 

「ひぃぃっ! なんだこの乱暴な救助は!」

「文句を言わない! 沈みたいの!?」

 

怒鳴り散らしながら、私はあちこちの海面を駆け回った。

 

「……信じられん」

 

後方の巨大船から、マキシムの呆然とした声が聞こえたような気がした。

 

「あいつ、あの波の中で完全に平地と同じ動きを……いや、むしろ速いだと?」

「ふふっ、流石ね。私の見込んだ通り、いや、それ以上かしら」

 

レグナントが面白そうに笑っているのが、見なくてもわかる。

 

「……」

 

アルフィアに至っては、何も言わずにただ私の動きを目で追っていることだろう。

 

(フフン、見たか! これが私の力よ!)

水面輪舞(ロンド・フォカロルス)』による敏捷性の極大補正。

 

さらに、戦闘開始から時間が経過するごとに全能力が跳ね上がる『前奏審判(プレリュード・フォカロルス)』の効果も乗り始めている。

今の私は、海の上であればゼウスヘラの連中にも負けない。

足元をすくわれる恐怖がないというだけで、これほどまでに自由になれるとは!

 

だが。

 

「グルルルルルル……ッ」

 

私が調子に乗って水上を走り回っているのが目障りだったのだろう。

リヴァイアサンの巨大な黄金の眼球が、ギョロリと私一人を捉えた。

 

(……ひっ)

 

その瞬間、全身の毛穴がぶわりと開き、心臓が凍りついた。

目が合った。

ただそれだけで、自分の存在が消し飛ばされそうなほどのプレッシャー。

 

(ああもう、なんでこうなるのよ! 私はただ盾を助けたかっただけなのに、完全にヘイト買っちゃってるじゃない!)

 

だが、ここで足を止めたら死ぬ。

 

「上等ッ! こっちを見ろよ海蛇野郎!」

 

私はやけくそになって叫び、リヴァイアサンの真正面を横切るように水面を滑走した。

リヴァイアサンの顎が大きく開き、再びあの圧縮された水流ブレスの光が漏れ出す。

 

「フリーナ! 避けろォッ!」

 

バルスの絶叫が響く。

 

(避けろって言われて避けられる速度じゃないわよ、アレ!)

 

「【幕開け(サージ)】ッ!」

私は間髪入れずに魔法を起動し続け様にスキルを起動する。

 

水神遁奏(フーガ・フォカロルス)

魔法発動時、別の魔法に対し一度だけ無詠唱での発動を可能にする。

水属性魔法使用時、精神力(マインド)消費の効率化に小補正

 

 

「マカブル・ファサード!」

 

本来なら長々とした詠唱が必要な超威力の攻撃魔法。

それを、スキルの力で強引に即時発動させる。

私の前方に、見覚えのある巨大な水の剣の幻影が浮かび上がる。

 

リヴァイアサンから放たれた極太の水流ブレスと、私が放った剣の幻影が海上のど真ん中で激突した。

光と水が弾け飛び、衝撃波で周囲の海面がすり鉢状に吹き飛ばされる。

 

「きゃああああぁぁぁっ!」

 

相殺しきれなかった衝撃の余波をまともに食らい、私は水面をスーパーボールのように何度かバウンドしながら後方へ弾き飛ばされた。

 

「痛っ……! このクソ海蛇がよぉ」

 

全身の骨が軋むような痛みに涙目を浮かべながらも、私はどうにか体勢を立て直し、水面上に両足で着地してブレーキをかける。

 

水しぶきを上げながら停止した私は、息を切らして前を睨みつけた。

 

(相殺できた……! いや、私が弾き飛ばされた分、ちょっと負けてたけど!)

 

だが、私のその一撃が、明確な合図となった。

 

「 フリーナがあのバケモノの引き付けてる間に畳み掛ける!」

 

マキシムが剣を抜き放ち、吠える。

 

「モタモタするな! 使い捨ての船を前へ出せ! 氷の魔剣、出し惜しみはするな! 足場を作って前衛を送り込め!」

 

レグナントの冷徹な号令が下り、止まっていた船団が再び一斉に動き出す。

次々と船が海へ投げ出され、魔剣の光が海面を凍らせていく。

 

「さあ、いくぞセリア!」

「ええ、私の炎で、あの水トカゲの鱗を剥いでやるわ!」

 

バルスが大剣を構えて前線へと飛び出し、セリアが後方の船から巨大な炎の魔法陣を展開し始める。

 

「チッ……世話を焼かせるな、馬鹿者が」

 

アルフィアが静かに呟き、その手から圧倒的な魔力の波動が立ち上るのが見えた。

 

(よし! これで前衛が壁になってくれる!)

 

私は安堵の息を吐きながら、ズキズキと痛む体をさすった。

 

「まったく、割に合わないぞ……!」

 

私は毒づきながらも、再び水面を蹴る。

リヴァイアサンの咆哮と、冒険者たちの怒号が交差する地獄の海。

 

絶望と混乱の海上で、終わりの見えない戦いが、今、幕を開けたのだった。

 

(無事に生きて帰れたら、オラリオで一番高いケーキを百個食べてやる!)

 

心の中で切実な祈りを捧げながら、私は水しぶきを上げて海王の巨体へと肉薄していった。

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