ダンジョンに元水神がいるのは間違っている   作:白黒ととか

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EP14より少しだけ前の話


EP15

ツンと鼻を刺すような消毒液と薬草の匂いが、無機質な白い部屋に充満している。

オラリオの医療を担う『ディアンケヒト・ファミリア』の特別病室。

普段、酒の匂いと冒険者たちの喧騒に満ちた宿屋を拠点としているウチにとって、ここはひどく居心地の悪い空間だった。

 

「……ホンマに、いつまで寝とるつもりなんや、お前は」

 

ベッド脇の丸椅子にどっかりと腰を下ろし、ウチ――ロキは、誰に届くとも知れないため息を吐き出した。

視線の先には、白いシーツに包まれて身動き一つしないウチの眷族、フリーナの姿がある。

寝息は静かで、まるで童話に出てくる眠り姫のように見える……と言いたいところだが、現実はそう甘くない。

 

(痛々しゅうて、見とれんわ……)

 

シーツから覗く彼女の白い首筋や、華奢な両腕。そこには、まるで陶器が乱暴に叩き割られたような無数の『ヒビ』が走っていた。

ただの傷ではない。

その亀裂の奥からは、今もなお、青白い魔力の光が漏れ出しチリチリと空気を焦がすような音を立てている。

ディアンケヒトの特製霊薬を何本も使い、最高位の治療師たちが付きっきりで肉体の修復を試みているが、ヒビが完全に塞がる気配はない。

彼女の体から漏出している青白い魔力が治療師の回復魔法を阻害しているのだ。

本人が目を覚まし自らの意志で魔力の暴走を完全に押さえ込まない限り、この自壊現象は止まらないと言われていた。

 

海での決戦から、もうすぐ1ヶ月。

 

『海の覇王』リヴァイアサンという、絶望そのものだった古代の怪物を討ち果たしオラリオの悲願は達成された。

ゼウスやヘラの連中をはじめ、都市中が歓喜に沸き、毎晩のようにどこかで祝宴が開かれている。

 

だが、その立役者の一人であるこのアホ娘は、こうしてずーっと死線を彷徨ったまま目を覚まさない。

 

(伝え聞く限り、お前が海に飛び出していかんかったら……討伐部隊は全滅しとったかもしれんし、アルフィアを庇わんかったら討伐そのものが怪しかったんかもしれん)

 

脳裏に蘇るのは、荒れ狂う海の上で文字通り自らの身を砕きながらアルフィアを庇いリヴァイアサンのブレスを正面から斬り裂いたフリーナの話だ。

普段はバカみたいな言動をしている、この図太くて我儘で自分の欲望にどこまでも忠実なウチの眷族は、迷うことなくそれをやってのけた。

 

(結果的に勝ったからええようなもんの……。主神の寿命を縮めさせるんも大概にせぇよ、ホンマ)

 

そっと手を伸ばし、熱を持っているフリーナの額の汗を拭ってやる。

その時だった。

 

「――全く。下界の連中ときたら、化け物を一匹退治したくらいで、いつまで馬鹿騒ぎを続ければ気が済むんだ。耳障りで仕方がない」

 

カチャリ、と音を立てて病室の扉が開いた。

氷のように冷たく、けれどどこまでも澄み切った声が室内に響く。

 

「……こんな殺風景な病室に、お前が来るなんて珍しいやんか」

 

ウチは振り返り、目を丸くした。

そこに立っていたのは、漆黒のロングドレスを纏い、銀色の髪を揺らすヘラ・ファミリアの女帝の懐刀――『静寂』のアルフィアだった。

 

「勘違いするな、ロキ。ゼウスの馬鹿やレグナントが、連日連夜、悲願達成の馬鹿騒ぎに浮かれて鬱陶しいから避難してきただけだ。ここなら、不快な雑音は届かないからな」

 

アルフィアはウチの視線を冷ややかに受け流し、パタンと扉を閉めた。

その美しいオッドアイ――左目の灰色と右目の翠色が、ウチを通り越し、ベッドの上で眠り続けるフリーナへと真っ直ぐに向けられる。

 

(避難してきた言う割には、迷いなく真っ先にウチのアホの部屋に来るんやな。ホンマに、素直やない女やで)

 

「そらそうやろ。ここはディアンケヒトの特別病棟や。オラリオで一番静かな場所の一つやからな。……せやけど、お前がわざわざ足を運ぶなんて、明日は槍でも降るんちゃうか?」

 

ウチがニヤニヤと笑いながら言うと、アルフィアはフンと鼻を鳴らし、ベッドの足元まで静かに歩み寄った。

 

「戯れ言を。私は『静寂』を愛している。この女の、あの耳障りで甲高い高笑いが聞こえない今の状況は、私にとって非常に心地よいだけだ」

「口ではそう言いながら、目線はウチのアホ娘に釘付けやんけ。心配なら心配やと、素直に言えばええのに」

 

アルフィアはウチの言葉に反論せず、ただ静かにフリーナの痛々しい姿を見下ろしていた。

普段なら、神であるウチに対しても容赦のない罵倒を浴びせてくる彼女が、今はひどく大人しい。

そのオッドアイの奥には、いつもの傲岸不遜な光だけでなく、微かな……本当に微かな、痛みを共有するような柔らかい色が混じっていた。

 

「……1ヶ月、か」

 

ぽつりと、アルフィアが呟いた。

 

「ああ。オラリオ中がお祭り騒ぎになっとるっちゅうのに、この主役の一人はずーっと死線を彷徨って眠りこけたままや。全身から魔力垂れ流しで運ばれてきた時は、ウチもホンマに心臓が止まるかと思ったわ」

「自業自得だ」

 

アルフィアは冷酷な声で断じた。

 

「自分の器の限界も弁えずに、あれほどの魔力を引き出したのだ。スキルの効果とはいえ、肉体が内側から弾け飛ばなかっただけでも奇跡と言える。冒険者としては三流の極みだな」

 

その言葉は辛辣だったが、声のトーンは不思議と穏やかだった。

まるで、手のかかる妹でも叱りつけるような、そんな温度。

 

「あんたからすれば、そうなんやろな。でも、こいつのその『三流の極み』がなかったら、お前も今頃は海の覇王の腹の中で消化されとったかもしれんのやで?」

 

ウチの言葉に、アルフィアの口が微かに結ばれた。

 

「……ああ。否定はしない」

 

彼女は目を伏せ、長いまつ毛に影を落とした。

 

「私からすれば、泥水をすすってまで他人の命を拾おうとするなど、滑稽極まりない醜態だったが……。フリーナがリヴァイアサンの咆哮を掻き消した。それだけは事実だ」

 

あの海上の決戦。

限界を超え、自らの不治の病に命を削りながら、アルフィアは『滅界の咆哮』の詠唱を続けていた。

死を覚悟し、自らを犠牲にしてでも化け物を討ち滅ぼそうとしていた彼女の前に、全身をヒビ割れさせながらフリーナは立ち塞がったのだ。

 

『私の前で、勝手に命を捨てるな』と言わんばかりに。

 

「……全く。忌々しい女だ。私に『生きろ』と強要するようなあの叫び。私の『静寂』を乱す、これ以上ない不快な雑音だった」

 

アルフィアはそう言って顔を背けたが、ウチには分かっていた。

他人に踏み込まれることを何よりも嫌うこの孤高の天才が、フリーナに確かに心を揺らされていることを。

でなければ、ゼウスやヘラの祝宴を抜け出してまで、わざわざ見舞いになど来るはずがない。

彼女なりに、フリーナという存在に気を許し、ある種の共感を抱いているのだ。

 

「アハハ、ホンマに不器用なやっちゃな、お前は」

 

ウチが腹を抱えて笑うと、アルフィアは鋭く睨みつけてきた。

 

「黙れロキ。お前のその笑い声も十分雑音だ」

「はいはい、すんまへん。……で? あんたの体はどうなんや。あの時、大魔法を放つ前から血を吐いとったらしいやないか」

 

ウチが尋ねると、アルフィアは静かに視線を逸らした。

その時。

 

「ゴホッ、ゲホッ……!」

 

突然、アルフィアが口元を手で覆い、小さく、けれどひどく苦しげに咳き込んだ。

漆黒のドレスの肩が震え、指の隙間から微かに赤いものが滲む。

 

「……おいおい、大丈夫か」

 

ウチが思わず立ち上がろうとすると、アルフィアは空いた方の手でそれを制した。

 

「問題ない。私の病は、今に始まったことではないからな」

 

彼女は懐から真っ白なハンカチを取り出し、口元の血を優雅に拭い去ると、何事もなかったかのように居住まいを正した。

その顔色は透けるように白く、立っていることすら不思議なほどの儚さを漂わせている。

圧倒的な才能と引き換えに、彼女の肉体を蝕み続ける不治の病。

あのリヴァイアサン戦での魔力の酷使が、彼女の寿命を確実に削り取ったことは誰の目にも明らかだった。

 

(どいつもこいつも、自分の命をなんだと思っとるんや……)

 

ウチは頭を掻きむしり、再び丸椅子に腰を下ろした。

限界を迎えつつある彼女の体に、これ以上ウチからかける言葉は見つからなかった。

しばらくの間、静寂だけが病室を支配する。

青白い魔力の光がチロチロと漏れ出す音と、フリーナの静かな寝息だけが響いていた。

 

「……もう帰るんか?」

 

不意に、アルフィアが漆黒のドレスの裾を翻し、病室の扉へと向かって背を向けたのを見て、ウチは声をかけた。

彼女の足取りは静かで、本当に音一つ立てない。

 

「ああ。私が長居してもこいつは目覚めまい」

 

振り返ることなく、アルフィアは冷たい声で答えた。

だが、その背中には、以前のような他者を完全に拒絶するような棘はない。

 

「そうか、ほなまた()いや」

 

ウチがいつもの調子で軽く声をかけると、アルフィアは扉の取っ手に手をかけたまま、わずかに足を止めた。

病室の静寂が、一瞬だけ深くなる。

 

「次に来るのはフリーナが目覚めた時だろう」

 

その言葉には、彼女特有の傲慢な響きの奥に、ほんのわずかな……けれど確かな祈りのようなものが混じっていた。

彼女は、いつも自分を神だと名乗って周囲を振り回すこのやかましくて我儘な小娘が再び目を覚まし、あの甲高い声で笑う日を待っているのだ。

自分の『静寂』を乱す、忌々しい雑音を。

 

「そうやとええな」

 

ウチが優しく微笑んで応えると、アルフィアは何も答えずに病室を出て行った。

バタン、と静かに扉が閉まる。

 

後に残されたのは、ツンとくる消毒液の匂いと、微かに漏れ出す魔力の光だけだ。

ウチは再び丸椅子に深く座り直し、ベッドで眠るアホ娘の頭にポンと手をのせる。

 

「聞いたか、フリーナ。あの『才能の権化』が、お前の目覚めを待っとるんやぞ。ホンマに、罪作りなやっちゃで」

 

フリーナは答えない。

ただ、青白い魔力の光が、微かに明滅を繰り返している。

オラリオ中がお祭り騒ぎになっていることも知らずに、彼女は深い眠りの底にいる。

 

「早よ起きや、フリーナ。お前が目ぇ覚まさな、オラリオのケーキ屋が全部潰れてまうかもしれんで?」

 

冗談めかしてそう呟きながら、ウチは小さく息を吐いた。

彼女が目を覚ました時、どんな文句を並べ立て、どんな顔で泣き喚くのか。

それを想像するだけで、少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。

 

オラリオの最強派閥の人間たちを巻き込み、翻弄し、それでもなお我が道を行こうとするこの図太い『自称・水神』の目覚めを、今はただ、静かに待つとしよう。

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