「……行くぞ!」
マキシムの号令に重なって、北門の鎖が軋んだ。
開いていく門の向こうから冷たい風が吹き込み、頬に張りついた紙吹雪をさらっていく。
バルスが大剣を背負い直しセリアがその隣へ並ぶ。
私は二人の背中を睨んでから、いつものようにマントを翻した。
「ふふん! 僕の圧倒的なパフォーマンスに、せいぜい遅れを取らないようにしたまえよ! 」
頭上を舞う花びらを払いながら、私は門の外へ足を踏み出した。
振り返れば、まだ帰れた。焼きたての菓子の匂いも柔らかなベッドもあちら側にある。
それでも、前を歩く二つの背中から目を離せなかった。
* * *
何度目かの野営を終えた朝、靴の下で白いものが砕けた。
石だと思っていたそれには、歯が並んでいた。
視線を上げると、谷底を埋める灰色の砂のあちこちから、同じような骨が突き出している。
風は吹いているのに鳥の声がしない。
「……寝てる、のか?」
バルスの声が妙に近く聞こえた。
谷の奥。
黒い岩山だと思っていた塊が、ゆっくりと上下していた。
折り畳まれた翼の下から前脚が伸び、その先に並ぶ爪だけでも私の背丈を優に超えている。
伏せられた頭。
その瞼は閉じていた。
「起こさずに帰るなら、今だよ」
「そいつは、来るまでに何度も聞いた」
「何度でも言うさ。寝顔を見物して帰る旅なら、僕も文句はないからね」
「ここまで来て、それで終われるかよ」
「なら約束したまえ。僕が退けと言ったら退く。あと一撃だの、ここで逃げたら英雄じゃないだの、そういう寝言は受け付けない」
「……逃げ道まで用意してくれるのね」
「用意しているとも、セリア。逃げる方向も知らずに敵を起こす趣味はないからね。君たちも来た道くらい覚えているだろう?」
「分かってる。お前に追いつけなくなる前には、ちゃんと走るさ」
「結構。帰ったらその発言、本人の声色で聞かせてあげるよ」
バルスは笑おうとして、口の端だけを動かした。
セリアの扇子は、さっきから閉じられたままだった。
前方でマキシムが片手を上げる。鎧の音が止まり、低い詠唱だけが岩陰を流れ始めた。
「初手で前脚を砕く。体勢が崩れたら首だ。飛ばれた場合は打ち合わせ通り、足場を繋げ」
「強化は、第二陣の分を残しますか」
「残すな。俺に入るもんは全部入れろ。こっちも全スキルを叩き起こす。最初から全開だ」
赤い光が肩へ沈み、金の環が腕を巡った。
別の詠唱が終わるたび、大男の周りで砂が跳ねる。
握られた得物から漏れる白光に、足元の岩が細く裂けた。
隣に立つレグナントが、私を振り返った。
「フリーナ。回復を」
「もう始めるよ。忠告しておくけれど、僕以外の手足は生えてこない。拾えば済むと思って、置いてこないようにね」
「聞いたわね。女神様に叱られたくなければ、五体満足で帰りなさい」
「後方まで、同じ強さでか?」
「もちろんだよ、バルス。君だけ分厚く治してほしいなら、全員を君の背中へ乗せてくれたまえ」
「そりゃ無理だ」
「だったら避ける努力もしたまえ。傷が塞がるまでの時間は、君たちにも稼いでもらう。回復があるから斬られていい、なんて勘違いはなしだ」
小さな笑いが起こった。その短さに、喉の奥が冷えた。
私は杖剣を抜き、剣先を下げる。
「
刃を伝う水を、薄く全身へ纏わせた。その冷たさに息を整え、次の言葉を紡ぐ。
「【ここに幕は開かれる 原初の蒼 流れる紅】」
青い波紋が靴先から広がった。
岩を越え、前衛の足元を濡らし、遠く散開する魔導士たちの周囲に淡い光を灯していく。
「【玉座に眠る龍王の心臓が すべてを赦し すべてを癒す】」
最後尾まで行き渡った光を確かめて、息を継いだ。
「【愛の杯を掲げ 貴女に捧げよう】──メル・プリモルディアル」
誰かが肩を回し、誰かが剣の柄を握り直す。
その足元を一人ずつ目で追いながら、私は魔力を送り続けた。
(全員入った。あとは、誰がどこへ動いても切らさないように。……どいつもこいつも、ホント簡単に言ってくれるね)
「準備完了です。これ以上の重ね掛けはできません」
「上等だ」
マキシムが腰を落とした。
白光が刃へ吸い寄せられ、岩壁に映った大男の影が何重にも震える。
黒龍の瞼は、まだ動かない。
「──叩き起こしてやる」
踏み込みと同時に、足元の岩が爆ぜた。
振り抜かれた刃から、残光が走る。
目で追うより早く前脚へ食い込み、重なった轟音が谷の両壁を揺さぶった。
白く焼けた視界の向こうで、黒い破片が宙を舞う。
「入った! 団長が──」
歓声の続きを、私は聞かなかった。
砂煙の向こうに、前脚が見えた。
胴体も、伏せられた首も、さっきと同じ位置にある。
砕けていたのは、爪だった。
並んでいた爪の、たった一本。
それだけが根元から崩れ、足元へ散らばっていた。
「……おい。今のでコレかよ!? 」
バルスの指が、大剣の柄を軋ませた。
「今の、手加減したわけじゃ……ないわよね」
「俺の全部だ。……目を離すな、起きるぞ」
マキシムの低い声に、私は唾を飲み損ねた。
ゆっくりと、黒龍の瞼が開いた。
怒りを探した。
苦痛でも、警戒でもよかった。
せめて目の前の私たちを戦う相手として見ていてほしかった。
こちらを向いた隻眼には、そんなものを見つけられなかった。
(……虫だ)
卓上を這う羽虫を見つけた時の自分の指先が脳裏に浮かんだ。
追い払うか、潰すか。
その程度の手間を、今からかけられる。
「散開ッ!」
レグナントの声が走った直後、黒い前脚が持ち上がった。
身を起こしただけだった。
押し退けられた岩塊が前衛を薙ぎ、盾を構えた男が横へ消える。
青い光の中で鎧が凹み、吐き出された血が赤い糸を引いた。
私は水を伸ばし、岩壁へ叩きつけられる寸前の体を引っ掛けた。
「息をして! そこの君、盾を捨てて彼を運べ! 傷は僕が塞ぐ!」
「お、おう……!」
「返事をしたなら動く! 次を待つつもりかい!」
光に包まれた胸が、かすかに上下した。
その向こうで、別の二人が倒れる。
全域の回復を保ったまま水を走らせると、こめかみの奥に針を押し込まれたような痛みが走った。
頭上が暗くなる。黒龍の翼が谷の両端へ広がっていた。
「足場! 飛ばせたままにするな!」
「分かってるよ! 氷の魔剣は右から順に! 土の塔を先に立てて、そちらへ繋ぐ!」
「回復はそのまま頼む! 負傷者を下げるまで、切らないでくれ!」
「切っていない! 魔剣の使い手も、担ぎ手も、青い光の中にいるだろう! 手が空いている者は退路を空けておくんだ!」
杖剣へ纏わせた水を上方へ送り出す。
凍りついた水流に岩の支柱が食い込み、白い階段が黒い腹の下へ伸びた。
マキシムとレグナントが駆け上がる。
バルスも雷を引き、足場の端から剣を振り抜いた。
響いたのは、硬いものを叩く乾いた音だった。
「嘘だろ……っ、刃が、通らねえ!」
「バルス、退きなさい! 射線を空けて!」
セリアの火槍が鱗へ炸裂した。アルフィアの放った音が、その炎ごと押し流す。
晴れた煙の中に、黒い鱗が現れた。
黒龍が首を曲げ、口を開く。
「下りろ! 足場を捨てろッ!」
マキシムが怒鳴った時には、氷の先端がなくなっていた。
黒い炎が触れた場所から、階段も石塔も形を失っていく。
落ちてくる人影に向けて水を広げると、頭上を掠めた熱だけで、その表面が白く煮立った。
「僕の方へ跳べ! 剣も盾もいい、体だけこっちへ寄越すんだ!」
「団長が、まだ上に!」
「君がそこで止まっても助からない! 次がつかえている、跳べ!」
落ちた体を横へ送り、次を受け止める。
血の混じった水を吐く男の背を押し上げ、全員へ青い光を繋ぐ。
「フリーナ、こいつの傷、塞がってねえ! まだ血が!」
「治している! 胸が動いているだろう、そこを押さえて運べ! すぐ立ち上がれるような傷じゃないんだ!」
「……すまねえ、頼む、頼むから……!」
「頼む相手は僕だけじゃない。本人にも声をかけ続けるんだ、眠らせるな!」
治りかけた傷が、飛んでくる石片にまた裂かれる。
塞ぐ端から壊される光景に、奥歯が鳴った。
(追いつかない。回復が遅いんじゃない、壊される方がおかしいのよ!)
バルスの大剣が、黒い炎の縁に触れる。
バルスの持つ大剣に白い亀裂が刃を走り、雷ごと砕け散る。
宙へ投げ出された彼を水で受けた瞬間、右脚が不自然な方向へ曲がるのが見えた。
悲鳴に重なってセリアが彼の名を呼び、そちらに気を取られた彼女自身も崩れた岩に左腕を挟まれた。
「こっちを見ろ、二人とも! 息を止めるな!」
「フリー、ナ……剣が……」
「知ってる! 新しいのを買えばいいだろう! 君まで壊れたら買い直せないんだよ!」
「俺はまだ、動け……」
「黙ってろ! 今、君のその脚で走れるかい!? 走れないなら運ばれたまえ。僕に同じことを三度言わせないでくれ!」
水で岩を押し退けた。
セリアを引き寄せたその肩越しに、ひときわ大きな人影が落ちてきた。
私は反射的に両腕を広げた。
水に沈んだマキシムの片腕が、なかった。
足場の最後に残った二人を突き飛ばした、その腕の先を目で追ってしまう。
黒い炎の向こうには、拾いに戻れるものなど何もなかった。
「……退け」
水の中から伸びた残る手が、私の手首を掴んだ。
「全軍、撤退だ。動ける奴は負傷者を担げ。装備は捨てろ。……聞こえねえのか、走れッ!」
「傷口を押さえて! 君も運ばれる側だ、指揮を執るならそこで喋れ!」
「分かってる。……悪ぃな、フリーナ」
「謝罪は帰ってからにしてくれ。僕は今、ものすごく忙しい!」
裂けた肉から溢れる血を、青い光が少しずつ細くしていく。
腕は戻らない。
その空白を見ないように、私は担ぎ手の肩へマキシムを押し上げた。
アルフィアが咳き込み、口元を押さえた指の間から血を零した。
それでも向き直ろうとする肩を、レグナントが掴む。
「あなたも下がりなさい」
「まだ、撃てるわ」
「撃った後、誰があなたを運ぶの。今ここで、もう一人必要にさせないで」
アルフィアの唇が噛み締められた。
支えに入った団員へ体を預けながら、それでも視線だけは頭上から離れない。
風向きが変わった。
見上げると、翼を広げた黒龍が、逃げ出した列へ首を向けていた。
「走りなさい。先の折れ曲がりまで、止まらずに」
レグナントが最後尾で足を止めた。
青い光の中でも、剣を握る指から血が滴っていた。
「……君、何をするつもりだい」
「見れば分かるでしょう。殿よ」
「一人で勝てるなら苦労はない。そんなところで格好をつけられても、僕の仕事が増えるだけだ」
「勝てるとは言っていないわ。あの翼を落とす。そうすれば、あなたたちが走る時間はできる」
剣先が上がる。彼女の視線が、翼の骨と骨の間へ据えられた。
「爪一本だよ。無傷のマキシムが、全部注ぎ込んで、爪一本だったんだ」
「爪を斬るつもりはないもの。それに、あの男より私の方が上よ」
「翼膜を破っただけでは、落ちないかもしれない」
「ええ。だからこちらへ来させる。あの重さで飛び込んで、片翼を失ってから止まれるものか、試してやるわ」
いつも通りの冷笑を作ろうとして、彼女は血を吐いた。
その膝が沈む。すぐに伸びた脚の下で、小石が細かく砕けた。
「フリーナ。回復を切らさないで。この腕が振り切れるまで、繋いでおいて」
「……僕に、君だけを治せと言うつもりかい」
「いいえ。全員よ。私が稼いだ時間で、誰も死なせないでちょうだい」
「その言い方は気に入らないね。僕が死なせたくないから治しているんだ。君の遺言を実行するためじゃない」
「なら、あなたの勝手にすればいい。私は剣を振るう。あなたは治す。それで十分でしょう」
背後で担架の棒が軋んだ。
振り向けばセリアが私を見ている。
呼ぼうと開いた口を声にできずに閉じた。
私は杖剣を握り直した。
「三歩先に水を敷く。振り切ったらそこへ倒れたまえ。立って待たれても困るからね」
「命令するのね、私に」
「患者の分際で文句を言わないでくれ。僕は君たちを治すのに忙しくて、英雄の最期に拍手する暇はないんだ」
レグナントの唇が、わずかに持ち上がった。
「生意気な、小娘」
彼女の全身から光が立ち昇る。
傷を塞ぐ私の青とは違う、目を焼くような光だった。
剣を構えた腕から血が噴き、そこへ回復を流し込む。
それでも列を包む光は一筋も切れないよう広げた範囲の端を引き延ばした。
逃げていく背中を数えながら、息を吸う。
(早く。お願いだから、早く振って。こっちまで見られたら、今度こそ──)
黒龍が低く滑空してきた。
翼の影が岩壁を覆い風圧にレグナントの髪が真後ろへ流れる。
剣先は、翼膜から動かなかった。
「──頭を下げなさい、化け物」
踏み込んだ脚から、血が散った。
振り抜かれた刃の軌跡が、空に残る。
細く絞られた残光は迫る翼の骨と骨の間を貫いた。
黒い膜の向こうに、灰色の空が見えた。
穿たれた穴が、風を孕んで裂け広がる。
片側の翼が大きく折れ曲がり巨体が傾いだ。
初めて、黒龍の首が跳ねた。
「伏せろッ!」
担架の上からマキシムが叫んだ。
私は水を跳ね上げ倒れるレグナントを掬う。
砕けた鎧の下で胸が動いたのを確かめた瞬間、谷の奥へ黒い巨体が墜ちた。
地面が足を突き上げる。
岩壁が裂け、熱い砂と石が背中を追い越していった。
水の膜にぶつかった欠片が、耳元で弾ける。
「撃ち落とした……!」
「立ち止まるな! 死んだわけじゃない、今のうちに走れ!」
叫ぶ喉がひりついた。
レグナントを担ぎ手へ渡し、その背を押す。
目は閉じたままだった。
声をかけても反応はない。
それでも首筋へ添えた指には、細く、確かに脈が触れた。
岩陰を曲がる直前、私は一度だけ振り返った。
土煙の中で、黒い首が持ち上がっていた。
(爪一本と、翼に穴一つ。それでようやく、逃げる時間が買えたんだ)
歓声なんて出なかった。唇を噛み、足元の水を滑らせる。
岩が崩れるたび、肩が跳ねた。
それでも回復の光を広げ、逃げる列の先から最後尾まで覆い続けた。
* * *
「……もう一度。所属と名前を、一人ずつ」
狭い岩の裂け目に身を寄せ、私は名簿を握った男へ言った。
返事をできない者の名は、隣の誰かが答えた。二度、三度と照らし合わせ、男が震える指で最後の行をなぞる。
「全員、います。生きています……全員」
「意識のない者も、担架にいるのを自分の目で見たね? 声がした気がする、では困るよ」
「はい。運び手と照合しました。誰も置いてきていません」
「……結構だ。その名簿を、僕にも見せてくれ」
差し出された紙には、赤黒い指の跡がついていた。
「そう。では、そのまま維持したまえ。帰り道で減らされても、僕は認めないよ」
「あなたも、少し休んでください。ずっと魔法を……」
「休むとも。君たちが担架を用意して、交代で見張りに立って、僕を叩き起こす必要がなくなったらね。まずは、そこの彼の添え木を手伝ってくれ」
受け取った名簿を盾にして、震える手を外套の陰へ隠した。
回復の光が、マキシムの空の袖と、レグナントの閉じた瞼を照らしていた。
バルスは剣の柄を握り、セリアは動かない左腕を抱えている。
(ほら、言った通りでしょ)
そう言ってやるつもりだったのに、口を開くと、息しか出てこなかった。
私は水筒を取り上げ、まず二人に飲ませた。
帰路では、朝のたびに同じ名簿を開いた。
車輪の音と、眠れない夜の呻き声を聞きながら、ひとつずつ名前を確かめた。黒龍の話をする者はいなかった。
北門が見えたのは、出発から二月近くが過ぎた頃だった。
私は皆を先に行かせ、外套の皺を伸ばした。薄く纏わせていた水を払うと、巻き込まれた街道の埃が足元へ落ちる。白い袖口には、染みひとつ残らなかった。
頬を指で押し上げる。顎を引き、いつもの笑みを作った。
(帰ってきた。……帰ってきたんだから、文句くらい言わせなさいよ)
開いていく門の向こうには、大勢の顔があった。
あの日と違って、誰の手にも紙吹雪はなかった。
全スキップの予定だったなんて言えない