北門の陰を抜けても、歓声は上がらなかった。
沿道には人がいる。
二月近く前、この道を埋めていたのと同じくらい大勢の人間がこちらを見ている。
それなのに聞こえてくるのは担架の軋む音と、石畳を擦る靴音ばかりだった。
私はフードを引き下げ、敷石の継ぎ目を踏まないように歩いた。
少し前まで腕を吊っていた男が、担ぎ手の肩を叩いて交代を申し出た。
包帯を外した手が、担架の棒をしっかりと握る。
その隣では、帰路の初めには肩を借りて歩いていた女が仲間の荷物まで背負い直していた。
(半分以上は、もう冒険者として復帰できるところまで回復した。少なくとも、体の方は)
男の足取りにふらつきはない。
それでも、人垣から名前を呼ばれると彼は顔を伏せて担架を持ち上げた。
私はその背中を見送り、まだ包帯の取れない者たちへ視線を戻した。
「……っ、痛ぇ……」
前方の担架で、包帯に包まれた男が身を捩った。
運び手が足を止めるとすぐ後ろの列までつかえ、ひしゃげた鎧同士が鈍くぶつかる。
添え木で固定された脚が、担架の端に触れた。
男の喉から悲鳴が漏れ脇腹を押さえる指の間に、じわりと赤が滲む。
「しっかりしろ! 早く
列の脇で、同行していた
震える唇が詠唱を紡いだが先端に灯りかけた光はすぐに消えた。
膝から崩れかけた体を傍らの団員が抱き留める。
「まだ……私も、治療を……」
「君はもう休みたまえ。
私は彼の手から杖を外し、支えている団員へ預けた。
帰路の荷車で、別の
休んで少し戻った
彼の背後では、もう一人の
声をかけても包帯に縁取られた顔は動かない。
出発前には仲間の傷へ手を翳していた指が今は掛布の上に力なく投げ出されている。
(治せる人間まで、まだ意識が戻らないんだもの。動ける人たちがどれだけ無理をしたって、治療が追いつくわけがないでしょうが)
担架の胸元がかすかに上下するのを確かめ、私は唇を引き結んだ。
あの手をもう一度動かしてやれたらと、帰り道で何度思ったことか。
指先へ触れても、温もりだけが返ってきた。
人垣が割れ、白衣の裾がその間を駆け抜けてきた。
私は足元の青い光を担架へ寄せ、胸の上下が落ち着くのを待つ。
傷口へ回復を重ねると、男の強張った指がわずかに緩んだ。
それでも、添え木の内側で腫れ上がった脚は、そのままだった。
(砕けた骨も、深く裂けた傷も、治し切れていないんだから)
帰り道で包帯を替えるたび、同じ傷を覗き込んだ。
もう少し塞がっていてほしいと願って魔力を注いで、それでも小さな揺れひとつで顔を歪められるたびに手を止められなくなった。
(あれだけ酷い怪我じゃ、私にできたのは命を繋ぐところまで。……分かってる。何でも治るなら、こんなに苦労してないって)
私は担架の横へ屈み、駆けつけた治癒師を見上げた。
「脚は骨が砕けている。脇腹の傷も、まだ深い。僕の魔法でここまでは保たせたけれど、治り切ってはいないからね」
「分かりました。こちらで引き継ぎます」
治癒師の掌が傷口へ重なってから、そこへ送っていた魔力をゆっくりと緩めた。
離した指先を握り、次の担架へ目を向ける。
レグナントは、今日も目を開けなかった。
運び手が段差を越える前に声をかけても閉じた瞼は動かない。
頬にかかった髪を払ってやると指の背に温もりが触れた。
口元へ手を寄せれば、かすかな息も感じられる。
「……街に着いたよ。聞こえているかい?」
返事を待つ間に、担架の棒が小さく軋んだ。
その後ろにも眠ったまま運ばれていく者がいる。
沿道から駆け寄った女が、担架の傍らで何度も名前を呼んだ。
握られた手は揺れるばかりで指を握り返すことさえなかった。
私はレグナントの掛布を引き上げ、胸元へそっと戻した。
(全員、生きて連れ帰った。そこまでは、ちゃんとできたのよ。……だから、そろそろ目くらい開けてくれたっていいじゃない)
喉元まで上がってきた息を飲み込み運び手へ頷く。
歩き出す時には、また担架の数を目で追っていた。
マキシムの空になった袖が、風に揺れた。
沿道では、父親の肩に乗った子供が、小さな旗を振り上げた姿勢のまま固まっている。
アルフィアの咳が聞こえて振り向くと、彼女は赤く染まった布を口元に当て差し出された手へ身を預けていた。
(……ほんとバカだろ)
結局ここまで付き合った自分にも、文句を言ってやりたかった。
私はこちらを見つめる子供へ口角を上げ、杖を持つ手で帽子の縁に触れた。
子供の旗は、下りたままだった。
* * *
ゼウス・ファミリアの館では、敷物を取り払った大広間に寝台が並んでいた。
煮沸した布の湯気に、薬草と血の匂いが混じる。
最後の一人に治癒師がついたのを確かめ私は足元の回復の光を収めた。
靴の中の爪先がひどく冷たかった。
(ここからは本職の仕事、私は休む。誰が何と言おうと、絶対に休む)
窓際の丸テーブルを選び、荷物から茶葉の缶を取り出した。
湯を注ぐと、華やかな香りにようやく息が緩む。
水膜で汚れを払った白い袖口を整えカップを持ち上げた。
「……言った通りになったじゃないか」
カップをソーサーに戻す音が、思っていたより大きく響いた。
向かいのバルスは、顔を上げなかった。
右脚は分厚い添え木で固定され椅子の前へ伸ばされている。
膝に置かれた拳の間には刃を失った大剣の柄があった。
「そう、だな」
いつもなら皮肉など笑い飛ばすはずの口から掠れた息だけが漏れた。
隣のセリアは左腕を布で吊り裂けた紫のローブを右手で握っている。
テーブルには扇子が開いたまま置かれていた。
「僕は言ったぜ? 今のままじゃ犬死にだって」
「……そうね」
セリアの指が、布を握り直した。
湯気の向こうから二人を見ても、それ以上の言葉は返ってこなかった。
紅茶を含んだ瞬間、窓の外で荷車が大きな音を立てた。
喉が勝手に閉じる。
何食わぬ顔で窓へ視線を動かすと、御者が困った顔で車輪を覗き込んでいた。
目の奥でマキシムの刃が白く輝いた。
幾重もの強化を纏った踏み込み。
谷を揺らした一撃の後、晴れた砂煙の向こうで砕けていたのは、爪が一本だけだった。
(寝ている相手に、あれだけやって爪一本。どうしろっていうのよ、あんなもの)
カップを下ろす指に力が入る。
黒い炎に消える氷の階段が浮かんだ。落ちてくる体へ水を伸ばし、次々に受け止めた。
回復魔法を送り続けても、バルスの脚は折れたままでマキシムの失った腕も戻らない。
傷口から目を離せず呼吸と脈だけを確かめては、次の悲鳴へ振り向いていた。
最後尾に立ったレグナントの剣が、瞼の裏を横切る。
翼膜を穿たれた巨体が傾いた時、倒せるなどとは思わなかった。
今なら全員を運べると、そればかり考えていた。
水へ倒れ込んできた彼女を受け止め、脈を探した指先が今もかすかに疼く。
(爪を砕いて、翼に穴を開けて。それでようやく、逃げる時間が買えたんだ)
奥の寝台で、レグナントの胸を覆う布が上下した。
私はその動きを確かめてから、足を組み替えた。
「死人は、出ていない。奇跡的にね?」
バルスの親指が、折れた剣の柄をなぞった。
擦り切れた革の端を、同じところばかり撫でている。
「でも、負傷者は馬鹿みたいにでた。両手両足じゃ足りないくらい、ね」
「……っ」
歯を食いしばる音がした。
柄を握る拳が白くなる。
テーブルの下で右脚を引こうとしたのか、バルスの肩が跳ね、すぐに力なく落ちた。
私は杖の先で、彼の足元に寄りすぎていた椅子を少し押し退けた。
「な、なんで……貴方はそんなに元気なのよ」
セリアが顔を上げた。
彼女の視線は、私の顔より先に白い袖口へ向かった。
それからカップへ、茶葉の缶へ、最後にもう一度、私の顔へ戻ってくる。
私は小さく眉を上げた。
「元気では無いさ。疲れはある。気落ちしていないのは単純に君たちみたいに、調子に乗っていなかったからじゃないかい?」
「……っ!」
細い肩が強張り閉じられた口の下で顎が震えた。
私はカップを置き、空になった両手を広げてみせた。
「他には、現実を見ていたからかな。そもそも、勝てる戦いじゃなかった。挑むべきでは無かったんだ」
近くの寝台で、包帯を巻かれていた男がこちらを睨んだ。
目が合っても逸らさずにいると、彼の方が先に顔を背ける。
私に腹を立てる元気があるなら結構だ。
さっきまでの二人よりは、ずっとましだった。
「君たちは、
「勘違い、だと……?」
ようやくバルスの目が、床から離れた。
青い瞳の奥に熱が浮かぶ。
私はそれを正面から受けわざとゆっくり頷いた。
「ああ、勘違いだ。英雄なんてものは、結果論のオマケに過ぎない。君たちは勝てるかもしれない、いや勝つ。そういう根拠のない期待があったんだろう? 自信があったんだろう? だから今、ソレらをへし折られて絶望している」
カップへ目を落とす。水で足場を作れると告げた時の、二人の笑顔が浮かんだ。
舌の上に残った渋みを飲み込み、杖の先を天井へ向けた。
「僕には、最初からそれがなかった。あの空飛ぶバケモノに対して、氷の階段だの土の塔だので届かせようなどという作戦自体、付け焼き刃もいいところだと分かっていたからね。だから気落ちしてないだけだろう」
(私だって、その付け焼き刃を手伝った以上、最初から分かっていたから無関係、なんて顔はできない。……するけど)
杖を下ろし、唇に薄い笑みを乗せた。
(帰ってきたんだもの。死なずに戻って、こうして紅茶まで飲んでいる。私が欲しかったのは、その続きなんだから)
「なんで貴方は、そうやって!」
テーブルが跳ねた。
右手を叩きつけたセリアが立ち上がり、椅子が後ろへ滑る。吊られた左腕が揺れ、彼女は一度、苦しそうに息を詰めた。
それでも私を睨む目だけは逸らさなかった。
テーブルの縁から零れた茶が、床へ落ちる。
「私たちは……ゼウス様やヘラ様の悲願を! 千年間、誰も成し得なかったことを、やろうとしたのよ! なのに……何も届かなかった! 私の魔法も、バルスの剣も、団長たちの命懸けの攻撃も! なんで貴方は、そんな風に冷たく切り捨てられるのよ!」
声の最後が掠れた。
セリアの目から、涙が頬を伝って落ちる。
拭うために上がりかけた右手は途中で止まり、彼女はその手を握り締めたまま唇を噛んだ。
周囲の物音が遠くなる。
薬瓶を置こうとしていた治癒師の手まで一瞬、宙に留まっていた。
(……何も、か)
砕けた爪も、裂けた翼も、この目で見た。
なのに、目の前の二人は、まるで全部なくしたような顔をしている。
(欲しかったのは、黒竜の首なんだろう。でも、彼らの一撃まで無駄にすることはないだろう)
セリアが呼吸を整えようとしてもう一度失敗した。
言い返しかけた口を閉じる。
鏡の前で口角を持ち上げ腫れた目元を押さえた夜が蘇った。
明け方まで声を出す練習をしても最初の一言が喉につかえたあの嫌な感触まで。
(終わりだと思った時の息苦しさくらいは、知ってる)
膝の上で握った手を解く。
甘やかしてほしいなら、相手を間違えている。
私には、この二人と一緒に底まで沈んでやるつもりはなかった。
「冷たく切り捨てている? 違うな」
椅子を引いて立ち上がった。
床へ落ちた紅茶を踏まない位置に足を置き、セリアの目を見据える。
震えかけていた私の指も、その時には止まっていた。
「かの大英雄アルバートをもってしても、黒竜の片目を奪うのが限界だったそうじゃないか。……まあ、僕は聞き齧っただけで、詳しい顛末までは知らないが」
セリアの眉が、わずかに寄った。
私は奥の寝台へ目を向けた。
マキシムの空の袖と、その隣で眠るレグナントが、並んで視界に入る。
「その黒竜の爪を砕いた。翼を穿ち、あの巨体を地へ叩き落とした。……それの、どこが『何も届かなかった』んだい?」
バルスの手が、剣の柄の上で止まった。
私は二人へ視線を戻し、一語ずつ置くように続ける。
「個の力ではまだ届かない。だが、魔法を重ねスキルを束ねたその一瞬だけは――彼らの刃は、かの大英雄に並んだんだ。あの怪物に傷を刻んだ、その瞬間だけはね」
セリアの唇が動いた。声にはならず、握り締めていたローブの端だけが、指の間から滑り落ちた。
「勝てなかったことと、何も成せなかったことを、一緒にするな。君たちの団長が命懸けで残した傷を、君たちがなかったことにしてどうするんだ」
私は杖の先を床へ下ろした。乾いた音が、二人の足元に落ちる。
(あの一撃まで無駄にするな。でも、傷をつけられたから次は勝てる、なんて思われても困るのか)
二人から視線を逸らさず、続けた。
「僕が言っているのは、『事実』だ。君たちは負けた。黒竜に手も足も出ず、無様に敗走した。その結果がこれだ」
寝台の並ぶ方へ、掌を向ける。
包帯を結ぶ手が動き出した。薬を飲まされて顔を顰める男がいる。隣の寝台へ腕を伸ばし、何かを確かめるように指先を握り合っている二人もいた。
「でも、君たちは生きている。誰一人欠けることなく、このオラリオに生きて帰ってきた」
「……」
セリアの視線が、私の掌を追った。
その唇が開き、閉じる。バルスも顔を上げたまま、寝台の並ぶ大広間を見回した。
「それは、君たちの英雄願望のせいじゃない。僕が、
大げさに胸を張ってみせた。
担架を担いで走った肩も、負傷者へ声をかけ続けた喉も覚えている。
今さら私一人の手柄だと信じてもらおうなんて思わなかった。
それでも、わざと二人の前へ踏み込んだ。
(人にあれだけ手間をかけさせておいて、勝手に終わった顔をしないでほしいんだけど)
セリアの頬を、また涙が一筋落ちた。
今度は彼女自身の手が、そこへ伸びる。
「英雄になりたいのなら、まずは泣くのをやめたまえ」
少しだけ身を寄せた。
彼女の目に映る私は腹が立つほど澄ましていた。
私まで泣き出したら誰がこの空気を片付けるのだ。
「現実を見ろ、セリア。バルス。あの絶望的なバケモノを倒すには、気合や根性や民衆の歓声なんて何の役にも立たない。絶対的な『力』と、確実に届く『戦術』が必要だ」
「力と……戦術……」
バルスが剣の折れ口へ目を落とし、そこから私へ視線を移した。握り潰しそうだった指が、一本ずつ緩む。
私はその手を見ながら頷いた。
「そうさ。今回は負けた。なら、次は勝つための準備をすればいい。這いつくばって泥を舐めてでも、己のステイタスを上げ、スキルを磨き、魔法の精度を上げる。……死ななかったんだ。なら、次があるだろう?」
言ってから、自分の言葉に少しだけうんざりした。
(次がある、なんて。私が次も付き合うとは言ってないからね? 勝手に予定表へ名前を書かないでよ。私はもう、十分に働いたんだから)
なのに、二人が目を伏せなかったことに、胸のつかえがほんの少し軽くなる。
バルスは剣の柄を膝へ戻した。今度は傷をつけないように、布を一枚挟んでから置いた。セリアも折れた扇子を見下ろし、開いたままだった骨を、右手で静かに揃え始める。
私は踵を返し、マントを翻した。
「僕の魔法に頼り切りでは、いつか本当に犬死にするからね。せいぜい、僕の足を引っ張らないように精進することだ」
「フリーナ……」
振り返りかけ、やめた。さっきの、息だけで作った返事とは違っている。
背後で椅子が鳴り、セリアが腰を下ろす気配がした。
「じゃあね、二人とも。僕は久しぶりに地上の空気を吸って、極上のスイーツを堪能してくるよ。君たちはそこで、不味いポーションでも飲んでしっかり治したまえ」
杖を肩へ担ぎ、テーブルを離れた。
出口へ向かう途中、レグナントの寝台が視界に入る。
掛布の下で胸が動いていた。隣ではマキシムの残った手が、布をかすかに握った。
私は歩調を変えず、二人の間を通り過ぎた。
(ちゃんと帰ってきたんだ。続きが欲しければ、勝手に目を覚ましなさいよ)
扉を押すと、冷たい外気が頬に触れた。
館の前に残る人々の視線をやり過ごし、角を曲がってからようやく長い息を吐く。
壁へ寄りかかりそうになるのを堪え、杖を回して歩き続けた。
(はぁぁ……疲れた。黒竜なんか二度と見たくない。今日はケーキを買って、ふかふかのベッドで丸三日は寝る。邪魔した奴は窓から放り出す)
あの二人の見舞いに持っていく分まで考えかけ、私は鼻を鳴らした。
自分で出歩けるようになったら、自分の金で買わせればいい。
むしろ、こちらが山ほど奢ってもらう側なのだ。
マントの裾を払い、顔を上げる。
通りの向こうから、焼き上がった菓子の甘い匂いがした。
私はそれを胸いっぱいに吸い込み、今度こそ、自分の行きたい方へ足を向けた。
予約投稿したつもりが来年になってた...どうして...