「では、『
「まだ始めとらん。座れ」
ウチが木槌を向けると、立ち上がっていた男神は掲げた紙を胸に抱えて腰を下ろした。
その隣では別の神が、書きかけの紙を慌てて裏返している。
遅いし『†』だけ、やたら大きく見えたわ。
バベルの会議室に差し込む陽光が、円卓に並ぶ杯を照らしていた。開け放たれた窓からは焼き菓子の匂いが流れ込み、誰かがつまんでいるのか、時折、小気味よく何かを齧る音まで聞こえてくる。
ウチは手元の書類を揃え、その厚さにもう一度だけ顔を顰めた。
「ほな、
「先に目を通してもらっているだけさ」
ヘルメスが涼しい顔で両手を上げる。その指の間から、折り畳まれた紙が一枚落ちた。
ウチは拾わず、靴の先で踏んでおいた。
「遠征隊の帰還から、もう二ヶ月や。黒竜戦に参加した子らの更新と、昇格の届け出が揃うた。まずはそっちから確認するで」
紙をめくる音が重なった。
向かいのゼウスは背もたれから体を起こしヘラは手にしていた杯を音もなく置いた。
二柱の前にある書類には、ほかより多くの紙片が挟まっている。
ウチの目が止まった箇所には爪でなぞったような細い皺があった。
「ゼウス・ファミリア団長、マキシム。Lv.8から、Lv.9へ」
誰かの椅子が、床を擦った。
「……とうとう、上がったか」
「ああ。先日更新した」
ゼウスは髭へ伸ばしかけた手を止め円卓へ戻した。
「黒竜の爪を根元から砕いた、あの一撃じゃ。あやつの背には、きっちり刻まれとったよ」
「片腕の方は?」
「戻らん。ディアンケヒトのところで
口元だけを緩めたゼウスに、ヘファイストスが小さく頷いた。
ウチは次の書類へ指を移した。隣り合う数字を見比べる。何度読んでも、書き間違いには見えへんかった。
「続いてヘラ・ファミリア団長、レグナント。こっちはLv.10への昇格条件を達成。ただし、ランクアップは保留。現在の階位はLv.9のままや」
「十……?」
「待て。今、十と言ったか?」
「耳は正常よ」
ヘラが足を組み替えた。衣擦れの音が、妙にはっきりと聞こえた。
「翼を穿ち、あれを地へ落とした。その結果ね。本人は、今の階位でまだ伸ばせる基本アビリティを伸ばしてから上がると言っているわ」
「……あれほどの目に遭って、まだ積むつもりか」
「昨日も寝台で剣を振ろうとしていたから、取り上げたけれど?」
ヘラの指が、卓上を一度叩いた。
「鍛えるのは治してから。そこは譲らないわ」
その声を聞いた途端、北門から運び込まれた担架が脳裏をよぎった。
白い掛布と、そこから投げ出されていた指。
呼びかけても動かなかった瞼まで思い出し、ウチは書類の端を指で押さえた。
(寝台で剣を取り上げられるくらいには、戻ってきたんやな)
息をひとつ抜いてから、木槌を持ち直す。
「マキシムの二つ名は従来通り。レグナントも『女帝』のままや。本人らの呼び名をいじる話は、今回はなし」
「異議なし」
「賛成」
「……今なら、もう少し穏当な名にできたりは」
ヘラが、声のした方へ顔を向けた。
最後の男神は杯を両手で持ち、急に中身の観察を始めた。
ウチもそちらは見なかったことにして、次の紙を抜き出した。
「ほんで、
名簿を掲げると、円卓のあちこちから身が乗り出した。
「今回の黒竜戦を経て、Lv.7の治癒師が四人。Lv.6の治癒師が十二人、生まれとる」
硬い音がした。
書記役の男神が取り落とした筆を、卓上から拾い上げる。
その隣では、さっきまで焼き菓子を齧っていた女神が、口元に指を添えたまま動きを止めていた。
「四人と、十二人?」
「せや。六から七が四人、五から六が十二人。ほかの参加治癒師も、軒並み一段ずつ上がっとる」
「討伐隊の話を聞いた時には、正直……そこまでとは思わなかったな」
ヘルメスが帽子の縁へ触れた。その向こうで、ディアンケヒトが腕を組む。
「傷の具合を見ておれば、むしろ驚くまいよ。あの人数を、あの状態で生かして連れ帰ったのだ」
「倒れた者が目を覚ますと、まず隣の患者に手を伸ばしたそうだね」
ミアハの指が、名簿の一行に置かれた。
「帰ってきてからも、『自分は後でいい』と言う子がいてね。先に寝かせるのに苦労したよ」
ヘラが目を伏せた。
ゼウスは書類を見たまま髭の根元を親指で擦っている。
ウチは手元の名前を上から順になぞった。
担架の横でしゃがみ込み、杖を握ったまま眠っていた子の顔を覚えている。
毛布をかけようとしたウチの手を掴み、目も開けずに「次はどなたですか」と訊いてきた声も。
(……もう、順番待ちは終わりや。今日はそっちが呼ばれる番やで)
「あの子らの偉業は、敵を倒したことやない。生還させたことや。黒竜に壊され続ける体を、帰り着くまで繋ぎ止めた。それが背中に刻まれたんやろ」
誰も紙をめくらなかった。
静かな円卓の向こうで、ガネーシャが深く頷いた。
「ならば、よい名を贈らねばならんな!」
「せやな」
「俺はガネーシャだ!」
「それはお前の名前や」
誰かが噴き出した。
つられて零れた笑いに、ウチも口の端を上げる。
書記の筆が動き出す音を聞きながら重ねていた紙をもう一度揃えた。
***
「先に、ほかの昇格も確認しとくで。ゼウスとヘラ、それぞれ今挙げた以外にも数名ずつ。ほかの参加ファミリアからも、何人か上がっとるな」
「うちの盾役もだ。まだ階段は肩を借りているが、更新の時だけは自分で背を向けてきたよ」
「こちらは弓手と槍手。二人とも、早く武器を持たせろとうるさくてね」
主神たちが順に声を上げ、そのたびにウチは届け出へ印をつけた。
傷の具合を問う声に食欲や寝起きの悪さを答える声が返る。
ある女神は、眷族がようやく自力で靴を履いたと言って笑った。
隣の男神が「うちもだ」と身を寄せ、しばらく二柱で話し込んでしまう。
ウチは急かさずに待ってから、木槌の柄で次の行を指した。
「それから、出発時にLv.5やった
「おお、さっきの荷物持ち!」
「名前より先に話を聞けや」
最初の男神が、また紙を上げかけて引っ込めた。
ゼウスが肩を揺らす。その笑いにつられかけ、ウチは咳払いで喉を整えた。
「三人の偉業は、生還そのものや。Lv.5であの戦場を生き抜いて、ここまで戻ってきた」
「本人たちは、随分と気にしとったがの」
ゼウスが杯を指先で回した。
「『自分は逃げただけです』とな。うちの子など、背中を見せたまま振り返って、何度も確かめよったわい」
「……Lv.8もLv.9も倒された場所から、逃げ帰ってきたんだろう?」
ヘファイストスが眉を寄せる。
「それを『だけ』で片付けられても、困るわね」
「そう言っても、まだしっくり来んらしい。じゃから、とびきりの名前をつけてやらんとな!」
ゼウスが急に身を乗り出した。
その目の輝きを見て、ウチは今さらながら嫌な予感を覚えた。
(爺、今の流れで悪ふざけに持っていくんか)
「『
「帰って子に殴られてこい」
「待て待て、親しみやすさは大事じゃぞ!」
「大事にする場所が違うんや。次」
「では、『
最初の男神が勢いよく立ち上がった。ずっと握り締めていた紙は、端がすっかり丸まっている。
隣の女神がその紙を覗き込み、首を傾けた。
「ちょっと直接的すぎない?『荷物持ち』のところを、もう少し格好よく」
「『
「おお……!」
「急に伝説の武具を運んでそうになったな」
円卓の上へ次々に手が上がった。
ウチは指を折って数え、ゼウスを見た。爺は満足げに頷いている。
「本人から希望はなかったんか?」
「『荷物を持っているだけで目立つ名前は勘弁してください』と」
「お前ら、真逆を選んどるやないか」
しかし、上がった手は下りなかった。
書記の筆が『不滅』の二文字を書きつける。
ウチは遠い目でその穂先を見送り、その荷運びの青年へ、心の中で一度だけ手を合わせた。
……まあ、最初のよりはましや。たぶん。
「二人目は、ヘラんとこの子やな。希望は?」
「『大げさでなければ、お任せします』よ。控えめでしょう?」
ヘラが微笑んだ。
その隣で、女神がそっと提出用の紙を裏返した。ウチには『終焉』という字だけが見えた。
「ほな、『
「『
「帰る先が違うやろが!」
思わず木槌を振り上げた。
提案したヘルメスは、いかにも残念そうに肩を落とす。
隣では、別の男神が涙を浮かべて笑っていた。
「担架を運んでいた子だろう?渡し守は悪くないと思ったんだけど」
「生きて家まで帰した子に、どこまで運ばせる気や!」
「では家まで届ける方向で。『
今度は、ウチもすぐには突っ込めなかった。
重々しく書かれた四文字と、やけに軽い響きとを、頭の中で何度か並べ直す。その間に、ヘラが紙へ手を伸ばしていた。
「……請け負ったものを、必ず届ける。悪くないわね」
「主神が乗ったぞ」
「決まりだな」
ウチは木槌を下ろした。
名簿の脇に、小さな字で『本人への説明は主神がすること』と書き添えておく。
ヘラに一瞬見られたが、消せとは言われなかった。
「最後の一人。ええか、今度こそ変な方向へ──」
「『
「『
「『
「その剣みたいな記号、四本も要る!?」
「四方を敵に囲まれても帰るという意味を込めた」
「後付けすな!」
笑い声が天井まで響いた。
腹を抱えた神の肘が杯に当たり、隣の女神が慌てて受け止める。
ウチは額を押さえながらまだひとつも印のついていない候補欄を見下ろした。
書記の筆が、三人目の欄へ『
その主神は字面を眺め、「逃げることに胸を張れと言ってやれるな」と、しきりに頷いている。
(うん。そこは、ちゃんと伝えたってな。街中で呼ばれる時の恥ずかしさは、まあ……頑張れ)
ウチは最後の印をつけ、次の束を持ち上げた。
まだ、治癒師の分が丸ごと残っていた。
***
「Lv.7の一人目!『
「却下じゃ」
ウチより早く、ディアンケヒトが口を開いた。
提案した男神が目を瞬かせる。
医神は腕を組んだまま鼻から短く息を抜いた。
「蘇らせたのではない。死なせなかったのだ。そこを取り違える名は好かん」
男神の紙が、少しだけ下がった。
ウチもその名前の上に指を置く。
帰還した夜、フリーナの背に浮かび上がった文字の光が、瞼の裏に滲んだ。
あの子は寝台へ突っ伏して、顔も上げずに「さっさと終えてくれたまえ」と言っていた。
指先に残った青白さを隠すように、枕の下へ両手を押し込んで。
(死んでから、取り返したんやない。取り返しがつかんようになる前に、何度でも引っ張ったんや)
「ほな、死なせへん方向で考えよか」
「『
今度は少し間が空いた。
ディアンケヒトが、ゆっくりと提案者を見る。
「……続けよ」
「この子の患者は冥府へ入場できない。門前払いさ」
「ふむ」
「そこで納得するんかい」
ウチは口元へ木槌の柄を当てた。気を抜くと笑ってしまいそうやった。
ヘラはその候補を見下ろし、やがて小さく顎を引いた。
「うちの子には合っているわ。治療中に弱音を吐いた者へ、『勝手に逝くな』と怒鳴っていたそうだもの」
「決まったな!」
「冥府側の意見は?」
「ここにおらん神へ仕事を増やすな。次!」
ウチは木槌を落とした。
書記の男神が笑いを噛み殺しながら、恐ろしく立派な字で『冥府出禁』と清書していく。
これが明日には、街の掲示板に載るんか。
知らんで。ウチは止める機会を一度は作ったからな。
「二人目は『
ゼウスが、待ってましたとばかりに紙を突き出した。
「さっきのと、だいぶ近いな」
「あちらは入場を断る。こちらは申請を却下する。別物じゃ」
「死ぬのに申請が要るん?」
「この子の担当になったら要る」
妙に断固とした返事に、ウチはとうとう吹き出した。
ヘファイストスが顔を背ける。
その肩まで震えているのを見て、隣の女神が堪えきれずに卓へ突っ伏した。
「では、申請しても通らないわけね」
「当然じゃ。儂も帰還後に顔を見に行ったら、『面会時間は終わりました』と追い出されたからの!」
「それ、単にお前が邪魔やっただけちゃうか」
ゼウスは聞こえなかったふりで、胸を張った。
やがて票がまとまり、『絶命却下』の文字が名簿へ収まる。
その横へ、ウチは念のため『死者蘇生の能力を示すものではない』と書き足しておいた。
それを覗き込んだヘルメスが、肩を揺らした。
「今日は随分と丁寧だね、司会殿」
「お前らが、字面だけで妙なこと始めるからや」
三人目の紙を引き寄せると、丸い染みがひとつ残っていた。
主神の女神が「あ」と声を漏らし、慌てて袖で隠そうとする。
「すまない。昨夜、読んでいる時に……」
「文字は読める。大丈夫や」
ウチは染みのない側を持ちその子の名を読み上げた。
帰還後の様子を訊くと女神は眦を緩めた。
「今はよく食べているよ。患者の食事を見張っていたら、自分も食べるよう逆に見張られるようになってね」
「どちらも逃げられないわけか」
「ああ。昨日は、揃って皿を空にしていた」
杯を持つ手に、ふっと力が入った。
ウチは一口飲んでから、候補を募った。
「『
「『
「『
「最後の、今聞いた話しか入っとらんやろ」
主神の女神が、困ったように笑った。
しばらく三枚の紙を見比べていたが最後には最初の一枚へ手を伸ばす。
「……本人は怒るだろうけれど。治療を受けた者たちは、すぐ誰のことか分かりそうだ」
その一言に、円卓がまた沸いた。
四人目のために差し出された紙に、『
ウチはそれを二度読み、思わず提案者の顔を見た。
「……普通にええ名前やな」
「朝まで命を繋いだ、その手に。似合うと思うんだけれど」
ミアハが、穏やかに紙を差し出す。
受け取った紙には、細い線で昇る朝日まで描かれていた。
ウチは名前をもう一度眺めてから書記へ回そうとした。
「待った。そこへ『†』をひとつ」
「入れへん」
「では『聖』を『星』にして、読みはそのままで──」
「変えへん」
「司会が厳しい!」
「たまには、そのまま帰してやれや!」
ウチは紙を引ったくり、書記へ渡した。
ミアハが礼を言う横で、却下された神々が額を寄せ合っている。
もう次の名前に記号を捩じ込む相談を始めているのが聞こえた。
「ほな、Lv.6の十二人、いくで」
ウチは冷めた茶を飲み干し、杯を少し遠くへ置いた。
これから先、噴き出さずに済む自信がなかった。
「この子はな、寝台を抜け出そうとした患者を、包帯を掴んで引き戻したそうじゃ」
「なら『
その名が読み上げられると、ヘラが「借りたいわね」と呟いた。
ゼウスも頷きかけ、慌てて知らぬ顔をする。
ウチは二柱から目を逸らし、さっさと票を数えた。
「治療中も声をかけ続けていた、この子は?」
「『
「いや、この子、普段は無口なんだが」
「だからこそ、叫んだ時に重みがある!」
主神の反論が、妙な理屈で押し切られていく。
次の女神は、そのやり取りを見てから口をきつく結び眷族の私生活について何を訊かれても首を横に振った。
無駄や。
ここには、黙っていても勝手に想像する連中しかおらん。
「『
「却下。今は昼まで寝ています」
「ならば『
「……っ」
「自分で情報を渡したね」
ヘルメスの囁きに、女神は両手で顔を覆った。
ウチは笑いで震える指を卓の下へ隠し、票を数える。
本人が熟睡している間に決まる二つ名としてはこれ以上ないほどぴったりやった。
「四人目は『
「なし!もうそれで、どうか!」
主神が身を乗り出した拍子に、『
ようやく胸を撫で下ろした主神の足が、落ちた紙を自分の方へ引き寄せていた。
その後も、候補を書いた紙が円卓を何周もした。
次の八人の名を順に読み上げるたび、立ち上がる神がいる。主神が奪い返した紙を、反対側から別の神が覗き込み、消された文字を惜しんで声を上げる。
ウチの木槌を握る手が疲れてきた頃、最後の一人の欄が埋まった。
「Lv.7が四人、Lv.6が十二人。以上、全員決定や」
名簿を持ち上げると、拍手が起こった。
円卓の端では、妙な二つ名から眷族を守りきった女神と、守れなかった男神が、無言で互いの杯へ酒を注いでいた。
(あの子ら、黒竜から帰ってきて、今度はこんなん渡されるんやなあ)
ウチは唇を噛んだ。
気の毒やとは思う。思うけど、『絶命却下』はあかん。頭の中で読み直すたび、どうしても笑ってまう。
***
「さて。ひとり、残っているね」
ヘルメスの声に、ウチは揃えかけていた紙を止めた。
その顔を見てから、足元に踏んでいた紙を思い出す。持ち上げると、靴底の跡の下に、余計な飾りをつけた青い文字がびっしりと並んでいた。
読まずに、裏返した。
「ロキ・ファミリア、フリーナ。Lv.7から、Lv.8へ昇格」
今度のざわめきは、さっきより少し長かった。
ウチはそちらを見回し、指先で卓を叩いた。
「偉業は治癒師たちと同じや。生還させたこと。全軍を回復の中に置き続けて、最後まで誰も欠かさず連れ戻した」
「……あの子が、八か」
ヘファイストスが頬杖を解いた。
ウチは肩をすくめ、今朝のフリーナの顔を思い浮かべた。
紅茶を片手に、焼き菓子をもう片方の手で隠していた。
ウチが背中の更新の話を始めた途端、わざと大きく欠伸をしてみせたあの顔や。
「本人は『これでますます働かずに済むね』言うてたけどな」
「それで、済ませるつもりかの」
「少なくとも今日は、菓子屋を三軒回る予定で忙しいそうや」
ゼウスが笑った。
目尻へ寄った皺を見て、ウチは少しだけ頬を緩めた。
帰還した日の、空の袖を見つめたまま動かなかった横顔よりこっちの方がええ。
「二つ名は『
「もう少し、今回の働きを表す方向も──」
「変更なし」
「例えば、命を掬い上げる女神という意味で」
「なしや」
「ロキ。さっきまで、私たちの子には随分楽しそうに木槌を振っていたわね?」
ヘラの目が細くなった。
ウチは背筋を伸ばし、いかにも公正な司会らしく頷いた。
「既に広まっとる名前を尊重するんも、大事な仕事やからな」
「『冥府出禁』にも、それくらい考えてほしかったのだけれど」
「お前も頷いとったやろが!」
笑い声が上がった。
ヘラも口元へ指を添え、やがて小さく息を漏らす。それからウチを見据え、はっきりと頷いた。
「異議はないわ。あの子には、今の名が似合っている」
「儂も賛成じゃ」
ゼウスの声が重なった。
ヘルメスは広げかけた紙を畳み、ヘファイストスも静かに手を上げる。円卓を見渡したウチは、余計な一言を飲み込んでから木槌を落とした。
乾いた音が、部屋の隅まで届いた。
ウチは最後の欄に印をつけ、名簿をゆっくりと閉じた。掌の下で紙が重なる。その厚さが、始める前とは少し違って感じられた。
「……各主神、ちゃんと自分の口から伝えたってや。どの名前も、帰ってきた子に渡すもんやからな」
ゼウスが紙を受け取り、髭の下で笑った。
ヘラは自分の眷族の名が並ぶ頁を一度だけ撫でてから丁寧に折り畳んだ。
あちこちで椅子が引かれ始める。
まだ名前を見比べて笑っている神も、もう杯を置いて出口へ向かう神もいた。
ウチは木槌を置き、窓の外へ目を向けた。
下の通りを、白と青の帽子が歩いていた。
両腕に紙袋を抱え、その横にいる背負い籠の青年へ何かを偉そうに言っている。
青年は頷き、差し出された小さな菓子包みを受け取ると困った顔で笑った。
今朝、ゼウスの館で見た顔や。
ウチは手元の控えを開き、最初に決まった名前へ目を落とした。
「……なあ、爺」
「なんじゃ?」
「お前んとこの『不滅の運び手』、今ウチの子のお菓子運んどるで」
ゼウスが隣から窓を覗き込んだ。
青年の背負い籠には、結び目の可愛らしい紙袋がいくつも詰まっていた。
フリーナが何やら指示を出すと、彼は上の一袋を潰さないようにそっと位置を直した。
「……大役じゃな」
「せやな。潰したら、依頼主がうるさいで」
見ているうちにフリーナがこちらを振り仰いだ。
目が合った途端、何かを察したように眉を寄せる。
ウチは笑いながら、名簿を背中へ隠した。
隣のゼウスも、なぜか同じことをした。