薄暗い宿屋の一室。ランプの頼りないオレンジ色の灯りが、石造りの壁に私たちの影を揺らしていた。
私はベッドにうつ伏せになり、背中をロキに向けていた。
「……んん」
背中の肌に、ツピッと冷たい神血が垂らされる感覚。
それに続いて、
十日間に及ぶセリアの地獄の特訓、そしてダンジョン上層での狂ったような乱獲。それらが私の体にどのような変化をもたらしているのか、胸の奥で期待が高まっていた。
突然、ロキの指先の動きがピタリと止まり、素っ頓狂な声が部屋に響いた。
「……はぁっ!?」
「どうしたんだい? 僕の圧倒的な輝きに、思わず見惚れてしまったのかな?」
顔を枕に押し付けたまま得意げに尋ねると、ロキは呆れたような、あるいは恐怖すら混じったような深いため息をついた。
「アホ言え。……いや、ホンマにアホちゃうか、あんた。またトンデモないもん生えとるで」
背中を拭かれ、ロキから羊皮紙を手渡される。
そこに刻まれていた私の新たなステイタスを見て、私は思わず息を呑んだ。
フリーナ・ドゥ・フォンテーヌ Lv.1
【力 :E 412→E 422】
【耐久:E 380→C 628】
【器用:D 505→D 515】
【敏捷:C 620→C 642】
【魔力:S 999→S 999】
(うおぉぉ……! 前回更新した時から、耐久が増えすぎ! セリアにボコボコにされ続けたからか? たった数日間の特訓と実戦でこれって....えぇ殴られすぎ?)
だが、驚くべきは基本アビリティの数値だけではなかった。
視線を下に滑らせた先、【スキル】の欄に、今までなかった真新しい項目が追加されていたのだ。
『
効果:戦闘開始時に自動発動、戦闘時間の経過とともに全能力の高補正。
水属性魔法使用時、魔力のステイタスに超高補正。
(……はい、出ましたチート! なにこれ!? 戦闘が長引けば長引くほどステータスが上がって、さらに水魔法を使えば魔力に超高補正!? これ、完全にボスクラスの敵とタイマン張る用のやつじゃない! 『
脳内で盛大なファンファーレが鳴り響く。
これなら中層も余裕だ。幻のスイーツまで、もう指呼の距離!
「……あんた、これホンマにLv.1のスキルか? なんでこんな規格外のモンがポンポン生えてくるんや……」
ロキが頭を抱えながら、信じられないという目で私を見下ろしている。
私はスッとベッドから立ち上がり、マントをバサァッと翻して華麗にターンを決めた。
「ふふん! だから言っているだろう、僕は神なのだと! 凡人の常識を僕に当てはめること自体がナンセンスというものさ!」
大見得を切りながら、私は居住まいを正した。
そして、ベッドの端に腰掛け、ロキの目を真っ直ぐに見つめる。
「ロキ」
「なんや?」
「5日ほど留守にする」
私が短く告げると、ロキは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんかあるんか」
「18階層に行く」
「は?? 誰とや」
「一人だが?」
「やめんかい!!!」
バンッ! と丸椅子を蹴り飛ばし、ロキが血相を変えて立ち上がった。
「死にに行くようなもんやろがい! 中層をソロでなんて、Lv.2の冒険者かてやらへんわ! いくらステイタスが異常やからって、囲まれたら終わりやぞ!」
普段の飄々とした糸目がカッと見開かれ、主神としての本気の怒りと心配がダイレクトに伝わってくる。
(うっ……正論! ぐうの音も出ないド正論! でも、私の頭の中はもう『
だが、ここで「スイーツのため」なんて言えば、絶対に部屋に軟禁されるだろう。フィンやガレスまで呼ばれて説教コースだ。
私はスッと目を伏せ、芝居がかった、どこか影のある声色を作った。
「そうならないために、
「やけど、Lv.2になってからでも遅うないやろ!」
「……これでも僕は冒険者だぜ?」
私は窓の外、オラリオの夜空を見上げるように視線を向け、静かに、けれど力強く宣言した。
「これが僕の冒険だ」
(よし! 決まった! めっちゃカッコいい! めっちゃ冒険者っぽい! 我ながら500年の演技スキルが火を噴いてるわ!)
「……」
ロキは言葉を失い、私の横顔を食い入るように見つめていた。
やがて、彼女は深々と、これ以上ないほど長いため息をついた。
「……ホンマに、無茶ばっかりしよる。絶対に生きて帰ってきぃや」
「ふふっ、誰に言っているんだい! 期待して待っていることだね!」
私は不敵な笑みを返し、翌日の準備のために荷造りを始めたのだった。
翌朝。
太陽が昇る前の、まだ薄暗いオラリオの大通り。
冷たい朝露の匂いが漂う中、石畳を叩く冒険者たちの足音や、荷馬車の車輪が軋む音だけが響いている。
私は腰に真新しい銀色のレイピアを提げ、都市の中央にそびえ立つ白亜の巨塔、『バベル』の地下へと足を踏み入れた。
地下に降りた瞬間に肌にまとわりつく、むわっとした湿気と、魔物たちの生臭い体臭。
(いつ来ても嫌な匂い。……でも、今日を乗り越えれば、あの幻のスイーツが待っている!)
私はギルドの支給品ではなく、奮発して買った上質なマントのフードを目深に被り、第一階層への階段を下りた。
1階層から12階層までの上層。
今までの私なら、ゴブリンやコボルトが現れるたびに立ち止まり、遠距離から水圧の魔法をぶっ放して一網打尽にしていた。
しかし、今日は違う。
特訓の成果が、そして新たなステイタスが、私の体を羽根のように軽くしていた。
「ギャウッ!」
通路の奥から飛び出してきたゴブリンに対し、私は歩みを止めない。
チャキッ、と銀色のレイピアを抜き放つと同時に、内なる力を意識する。
「【
足元に展開された青白い魔法陣から、清冽な水流が噴き出す。
だが、それを弾けさせることはしない。己の意思で水流を束ね、レイピアの刀身へと螺旋状に纏わせる。
「ハァッ!」
すれ違いざま、水を纏ったレイピアを無造作に突き出す。
剣先から延長された高圧の水刃が、ゴブリンの胸の魔石を正確に貫き、灰へと変えた。
(すごい! セリアの地獄のしごきのおかげで、魔法の起動から攻撃へのタイムラグが完全に消えてる!)
立ち止まることなく、私は上層の魔物たちを踊るように切り伏せ、猛スピードで階層を下っていった。
そして、第13階層への長い階段を下りきった時。
「……っ」
空気が、劇的に変わった。
上層の湿った土の匂いとは違う。
鼻を突くような硫黄の匂いと、焼け焦げたような乾いた風。
洞窟の幅も高さも桁違いに広がり、壁面は不気味な赤茶色に染まっている。
これが、「最初の死線」と呼ばれる中層だ。
(ヤバい……明らかに上層とはプレッシャーが違う。肌がヒリヒリする)
私はゴクリと唾を飲み込み、レイピアの柄を握る手に力を込めた。
『グルルルォォォ……ッ!』
岩陰から、低く地を這うような唸り声が響いた。
姿を現したのは、子牛ほどもある巨大な赤黒い犬の魔物――ヘルハウンドだ。しかも、三体。
「出たね、放火魔……!」
ヘルハウンドの喉の奥が、カッと赤熱する。
次の瞬間、三体同時の猛烈な炎の息(ブレス)が、通路を埋め尽くすように放たれた。
(来る!)
「【
私はレイピアを前に突き出し、刀身に纏わせた水流を一気に解放した。
膨大な水が壁のように展開され、迫り来る炎のブレスと正面から激突する。
ジュワァァァァァァッ!!
水と炎がぶつかり合い、爆発的な水蒸気が洞窟内に充満した。視界が真っ白に染まる。
(視界が塞がれた? 上等! こっちにはセリアの不意打ちを躱し続けた経験がある!)
私は水蒸気の奥から微かに聞こえる足音に神経を研ぎ澄ませた。
ダンッ! と床を蹴り、白い霧の中へ自ら飛び込む。
「そこだっ!」
炎を吐き終えて隙を見せたヘルハウンドの一体に肉薄し、首元へレイピアを突き込む。
「【
「ギャンッ!?」
ヘルハウンドの頭部が吹き飛び、パラパラと灰に変わった。
だが、休む暇はない。
「キィィィィッ!」
頭上から、甲高い奇声が降ってきた。
見上げると、岩壁を蹴ってこちらへ跳躍してくる白い影。二足歩行の巨大なウサギ――アルミラージだ。
その額に生えた一本の鋭い角が、私の心臓を正確に狙って一直線に突進してくる。
(ウサギ!? 可愛い見た目して殺意高すぎでしょ! でも!)
「直線的な動きなんて、あの女(セリア)の蹴りに比べれば止まって見えるよ!」
私はギリギリまで引きつけ、半歩だけ身をよじって突進を躱す。
通り過ぎようとするアルミラージの背中に向けて、レイピアを薙ぎ払うように振るった。
刀身に纏わせた水刃が鞭のように伸び、アルミラージの胴体を両断する。
「はぁっ……はぁっ……」
息を吐き出しながら、私は残る二体のヘルハウンドと対峙した。
(いける……! やれるぞ! 『アビサル・ヴァラージ』を起動したままでも、
普通なら、魔法を剣に纏わせ続ける「付与」の状態を維持するだけで、冒険者の精神力はゴリゴリと削られていく。
しかし、『
魔法の維持コストなど無に等しい。
さらに、戦闘が始まって数分。
私の体の中で、熱い血が滾るような奇妙な高揚感が生まれていた。
筋肉の疲労が抜け、視界がクリアになり、レイピアを握る手に無限の力が湧き上がってくる感覚。
(これが新スキル『
水魔法を使い続けていることで、魔力のステイタスには超高補正が掛かっているはずだ。
私は笑みを深くし、レイピアの刀身にさらに濃密な水流を渦巻かせた。
「さあ、喝采の時間はまだまだ続くよ!」
私は地を蹴り、残るヘルハウンドへ自ら突撃した。
炎のブレスを水の盾で弾き、爆発の反動を利用して空中でステップを踏み、上段から水圧の刃を叩き込む。
以前のように起動から即ぶっ放す運用から進化した魔法と剣術の融合。
私自身が「歩く大瀑布」と化したかのように、中層の魔物たちを次々と飲み込んでいった。
13階層を抜け、14階層へ。
地形はさらに複雑になり、巨大な縦穴やアリの巣のような迷路が続く。
時折、背筋が凍るような重低音の咆哮が、さらに下の階層――ミノタウロスなどの大型モンスターが棲む15階層から響いてくる。
(気を引き締めないと……!)
恐怖を塗り潰すのは、圧倒的な欲望だ。
「フワフワの雲菓子……! パリパリの水晶飴……ッ!」
呪文のようにお菓子の名前を呟きながら、私はレイピアを振るい続けた。
ドロップアイテムや魔石の回収もそこそこに、ひたすらに速度を重視して駆け抜ける。
(待っていろ、幻のスイーツたち! )
冒険者としての矜持など欠片もない。
あるのはただ、極上の甘味に対する執念のみ。
私は薄暗いダンジョンの中を、水飛沫と高笑いを撒き散らしながら、一直線に下層へと突き進んでいった。