「……なんか歯ブラシとか色々増えてたんすけど、まさかオレのために用意してくれてたんですか?ヘイズさん」
「はぁ、まぁ……流石に共有は嫌でしょうし、用意するのにも大した手間がかかる訳でもないですから。予備の物に貴方の名前を書いておいた程度のことですよ」
「それでも、ありがとうございます。流石にヘイズさんの私物をそのまま使うのは微妙に気が引けてたので助かります」
「私は別に気にしないんですけどね、歯ブラシの共有はお断りですが」
そういえば、つい先程この部屋に入る直前に。
偶然バッタリと出会したヘルン女史に『……また私の部屋に来るんですか、ヘイズ』と微妙に嫌そうな顔をされていた彼女であるが、『別で布団を用意したので大丈夫です』と当然のように答えていた彼女である。
こうして部屋に客人を招く時のことを考えて、生活必需品を複数用意するというのは決しておかしな話ではない。彼女としても良い機会だったのだろう。そう考えれば何も特別なことなど何もない。ないない。うん。
「あー……そういえば、洗髪剤ってやっぱり結構あれなんですかね。変えるとバレるものなんですね」
「獣人の方にでも指摘されました?」
「ええ、ヘイズさんの臭いがするって」
「……まあそこそこ良い値段のする物ですからね。少し前に変えたのですが。珍しい物だとは思いますし、香りも強め。仕方のないことです」
「正直オレも自分の身体からヘイズさんの匂いがしてるみたいで落ち着かなくなるんすけどね……」
「日頃から同じものを使えば良いんじゃないですか?そのうち慣れるでしょう」
「あー……でもそうすると、なんていうか、特別感がなくなるから嫌なんですよ。ヘイズさんに慣れたくないというか、ヘイズさんに会えた時の感動要素を1つでも減らしたくないというか」
「また訳の分からないことを。気分で洗髪剤を変えることも出来ないんですか?私は」
「それはそれで新しいヘイズさんとして嬉しいですけど」
「なんでも良いんじゃないですか、あなた」
特に経緯とかはよく分からないが、何故か今日は手のマッサージから始まった治療のようなもの。
しかしなるほど、言われてみれば手のマッサージというのはなかなかされることはない。手という人体の中でも最も使用される頻度の高い部位のケアが疎かになっているというのは、確かに良くないだろう。実際にこうしてされていると非常に心地良く、自分の手が如何に疲労していたのかということを思い知らされる。
「そういえば、最近フレイヤ・ファミリアはどんな感じですか?前にフレイヤ様からのお達しで、主に女性陣が混乱している……みたいな話を聞きましたけど」
「ああ、その話ですか。特に変わりはありませんよ、変わることなく阿鼻叫喚……現実逃避と現実直視を繰り返して生きる死者のようになってます」
「大惨事じゃないですか」
「まあ現実的に見るなら。大半の団員は40代後半辺りで一線を退いて、他のファミリアに移ることも出来ず、フレイヤ様の恩恵を背負ったまま独立。性格に難のある団員は孤独路線、コネや交渉力があれば傭兵路線ですかね。容姿と愛嬌があれば出会いもあるかもしれませんが、まあその年齢の女性に求めることでもありませんし」
「孤独か傭兵の2択は流石にキツ過ぎる……」
「その辺り、ミア・グランドは虎視眈々と狙ってると思いますよ。店の拡大に必要な従業員、転落してきたフレイヤ・ファミリアの女性団員は直ぐに拾われるでしょうね。若ければ若いほど」
「手に職が付く分、まだその方が救われる……?」
「他のファミリアなら2軍、3軍、別働隊なんかで本当に最後まで役を果たせるんですけど。うちは普通に蹴落とされてそのまま居場所がなくなるパターンだと思うので。拾い上げる受け皿を作るのも一苦労でしょうし、確かに将来のことを考えるなら今しかないんです。今ならまだなんとかなるので」
「……結婚相手を探すということですかね」
「まあそれが素直に出来たら、こんなことになってない訳ですが」
「フレイヤ様以外の存在に愛を向けるなんて出来ない、と?」
「愛を向けることはないが、結婚は考えてやらんでもない……というところです。それを受け入れてくれる男性は相当に懐が広い人でしょうね」
「あまりに自然な上から目線……オレはそれでもヘイズさんと結婚したいですけど。もちろん可能なら愛して欲しいですけど」
「……これでもかなり贔屓してる方だと思いますけど、まだ求めますか。私がここまで丁寧に治療する人なんて他に居ませんよ」
「好きなんですから仕方ないじゃないですか。ヘイズさんが一生フレイヤ様の側に居たいように、オレもヘイズさんの隣に一生居たいので。結婚して欲しいなんてのも、その一環に過ぎませんよ」
「まあ、それを言われるとどうしようもありませんね」
まあ結果的に何かを変える、何かが変わる人間などごく一部になる。それが人間だ。このままでは碌な未来にならないと分かっていても、そこで本当に踏み出せるかどうかは当人の資質による。そして大半は足を踏み出すことなど出来ない。きっとどうにかなるはずだと、明日の自分に放り投げる。
だからきっと、大して何も変わらない。もし踏み出したとしても、それで変わるとは限らないのだから。そもそもそう簡単に恋人を作れる女達であれば、元よりこんなことになっている訳がないだろう。
「話を元に戻しますけど、考えてもみてください。私たちは基本的にファミリアに引き篭もって、他の全てを捨てながら、同じような毎日を繰り返している人種です。社会不適合者どころの話じゃありません、世捨て人同然です。取り敢えず外に出て人と話すところから始めるべきだと思うんです」
「本当に引きこもりの社会復帰みたいな話になってきましたね……」
「フレイヤ様のお役に立つことを考えると、私も洗礼ばかりではなく、そちらの方にも手を伸ばした方がいいのかと思えてきたんですよね……まあ自分の未来さえ不確かな今の私がどの面を下げてという話でもありますが」
「なかなか難しい話ですね、フレイヤ・ファミリアの皆さんって基本的に理想高そうですし」
「マジでそうですから頷くしかありません。まあフレイヤ様に憧れてここに居る人達なので当然なんですけど」
「女性の皆さんもやっぱりフレイヤ様の1番になりたいんですよね?性別関係なく」
「うーん……そこは人によりますね。私は当然に1番になりたかったですが、今は身の程を弁えています。フレイヤ様のお役に立って、生涯この身を捧げたいと思っている程度です」
「程度とは」
「女性は特に多種多様です、側付きに憧れて努力している子も"満たす煤者達"には多いですし。幹部陣に女性が居ないことから、そこを狙っている子もいます。第二のミア・グランドになりたいという子も」
「そう考えるとヘイズさんの位置ってかなり特殊ですよね、特別感もあるというか」
「まあ特別感で言えば私よりヘルンの方がよっぽどですが、正直未だに羨ましく感じています」
トットコトットコと肩を叩き始める彼女。
割と基本的なマッサージではあるが、これがされてみると意外と気持ちがいい。グリグリと時々ふつうに揉んでみたり、力を入れてみたり。ここまでされてしまうと、もう彼女に触れられていない身体の箇所はないのではないかと思ってしまうほどだ。永久にこうされていたい。
「……思うんですけど、あなたはまだフレイヤ様のことは何も思わないんですか?」
「思う?というと?」
「いえ、その、まあ……惚れたりしないのかと」
「んー、まあ価値観の違いですね。フレイヤ様の美しさは大衆的な美しさと言いますか、単にオレの価値観が大衆とは若干ズレてると言いますか」
「フレイヤ様のことを美しいと思えないと?」
「美しいとは思いますよ?ただオレの好みとは少し違うというだけです。……苦手なんですよね、超常的な存在。オレがロキのところにいるのも、単純にロキはそういう超常的な要素が少ない神だからなので。隣にフィンさんが居るのも大きいです」
「……………そういう理由だったんですか?」
「ええ。よく居るじゃないですか、視点や考え方が明らかにオレ達とは掛け離れた神々。あれあんまり好きじゃなくて、それだけで少し忌避感があるんですよ。超常的な美しさを見ても無意識に目を逸らしちゃうんです」
「それは、その……やはりセクメト神が?」
「まあ面白い女神ではありませんでしたね。意思のない子供ながらに『コイツはいつか必ず殺さなければならない存在だ』と思ってましたから。……だからオレは神的な美しさとか、魅力とか、そういうのはあんまり好きじゃないんすよ。露骨に磨かれた宝石より、泥の中で光る水晶の方に目を輝かせるというか?」
物心着く頃に刻まれた、神という存在に対する殺意。生まれて初めて抱いた他者に対する意思。ハサにとってそれは主神への殺意だった。それ故に彼の中にはどうしても、神威に対して過剰に反応する癖がある。彼の中では未だに神というモノは殺すべき存在だという思い込みが消えていない。それは嫌悪とはまた違った、悪意の伴わない純粋な感情。
セクメト・ファミリアという閉鎖的な組織の中で育った子供にとって、神とはセクメトのこと。セクメトは殺すべき相手であり、なれば神とは殺すべき存在。その思考の繋がりが消え切れていない。
故に、彼はフレイヤを含めた神々の魅了や強烈な神威に対して反射的に殺意を向けてしまう。かつての頃のように。セクメトはそれをむしろ楽しんでいたが、女神フレイヤに殺意でも向けようモノなら大変なことになる。
だからこそ、彼はそういう超常的な要素を持ち合わせている神々とはなるべく一歩引いた立ち位置に居ようと心がけている。幸いにもそれについてはフレイヤやロキを含めた神々も察していて、彼の前では極力神威を抑えてくれていたりもした。
それは彼と交友のある神々が武神タケミカヅチや薬神ミアハであったりするところからも想像しやすい。
……そんな事情があったとは、ヘイズさえも今日までは全く知らず。そして同時に彼が全くと言っていいほど女神フレイヤ自身には興味を向けない理由も分かった。これはこれで彼にとっての傷なのだろう。そしてその傷を癒そうと、恐らくロキは苦心してきた。
自分の知らない彼の一部があるということについては、当然のことながらも不思議な感覚を抱く。どうやらヘイズの中では彼のことについては大抵のことを知っているつもりになっていたらしい。
「――そういう話ですと、私は泥の中の水晶だった訳ですか。正直よく分かりませんし、反応に困りますが」
「そうですかね?割といい感じの例えだと思ってますけど」
「そもそも泥ってなんのことなんです?」
「んー……例えば、ヘイズさんは自分の悪いところとか醜いところとか自覚してるじゃないですか。衝動的に良くないこともしますし、嫉妬深いところもありますよね。後でそんな自分の言動に落胆してることも知ってます」
「……………それだけ聞くと、泥の中の汚泥の塊のようにしか思えないのですが」
「そんな自分を知っていても尚、抗い続けてるヘイズさんが好きなんですよ」
「――……」
「よくないことをしたら反省して、駄目なところがあったら直そうとして、足りていないと思ったら努力して、間違っていたら訂正して。必死に理想の自分になろうと頑張っている。けれど直らないからまた苦悩する。そしてまた抗い立つ。……言葉では何を言っていようとも、決して綺麗なものを諦めていない。そんなヘイズさんが好きなんです」
「――」
いつの間にか手は止まっていて、時間が飛んでいて、吐き出すのを忘れていて、彼の顔がそこにある。聞き慣れた告白、好意の押し付け。それに対して返す言葉などいつもと変わらない、変わることもない。
「むぅ」
「え、あれ、なんか怒ってます?」
「少し腹が立ちます。私は別にそこまで褒められた人間でもありませんし、そんな常に上を目指して努力していると胸を張れるほど出来た人間でもありません。褒めるならちゃんと私のことを見て褒めてください」
「見てるつもりなんすけど……」
「あなたと出会った時だって、私は自分の保身のことしか考えていませんでした。全部あなたの勘違いです」
「だとしても好きなんですけど……」
「私ならなんでもいいんですか!」
「まあ確かに今ではヘイズさんの何もかもが好きですけど……」
「〜っ!」
さあ落ち着こう、落ち着こうヘイズ。
今日に限って何をこんなに感情的になっているのか分からないが、こんなのはいつものこと。そんな目くじら立てて否定することでもあるまい。
まあ確かに、もしかしたら最初のきっかけは勘違いだったかもしれない。自分にとっては生き残るために起こした醜い行動だったが、彼からはそれが妙に美しく見えたりしたのかもしれない。
些細なすれ違いだ。最初の切っ掛けが勘違いだったと、よくある話である。
――――――ちゅっ
「んなぁっ!?」
「っ、なんですか」
「い、いま!?なんか首に"ちゅっ"って!?」
「はぁ?なんの話ですか、いきなり。訳がわかりません」
「うぇえ!?でも今確かに……!」
「意味わからないことを言ってないで前を向いてください。次は肩を回しますから」
「え、えぇ?気のせいだったのか……?」
――――――ちぅ
「いまぁ!!いまっ!!いまっ!?!?」
「だから……なんなんですか、さっきから本当に。騒がないでください、夜ですよ」
「ちぅって!!ちょっと吸いましたよね!?」
「知りませんよ、私がそんなことするわけないじゃないですか」
「だとしたらホラー現象なんですけど!?」
「ならホラー現象なんじゃないですか?」
「ここヘイズさんの部屋なのに!?それでいいんすか!?」
「別に私に実害はありませんし」
「そりゃそうでしょうけども!!」
「はぁ。いい加減にしてください、次に騒いだら本当に追い出しますからね」
「え、えぇ……ほ、本当に何がどうなって」
――――――――かぷっ
「〜〜〜〜〜っ!?!?!?!!!」
「……なんですか、急に睨んできて」
「いや、その……いえ、なんでもないです」
「そうですか、大人しくしていてくださいね。私も怪我人を追い出したくなんてありませんから」
「あ、新手の拷問すぎる……結婚してくれたら何してもいいんすよ?」
「やーです。なんでそっちの方が偉そうなんですか」
その後もしっかり"施術"された。