男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
その日の放課後のことだった。
帰りのホームルームが終わり、サオリが日直の仕事で一瞬だけ席を外した、ほんの数十秒の隙。
俺がカバンを肩にかけ、教室を出ようとしたその刹那、背後から音もなくすれ違いざまに、果実のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「一ノ瀬さん」
囁くような、しかし鼓膜に妙に残る美しい声。
振り返ると、そこにはプラチナブロンドの髪を揺らしたクラリスが立っていた。彼女は周囲の女子生徒たちには見えない角度で、俺にだけ、ひどく艶然とした笑みを向けていた。
「放課後、古い礼拝堂で待っていますわ。……貴方にだけ、聖女の特別な祝福を授けたくて」
それだけ言い残すと、彼女は可憐にスカートを翻し、何事もなかったように彼女専属の護衛官と共に去っていった。
俺は一人、廊下に取り残されながら、内心で冷笑した。
(あはは、なるほどね。わざわざサオリがいない隙を狙って、二人きりの秘密の約束――『貴方だけ』という偽りの特別感を与えて、俺をハメようってわけだ。客を泥沼に落とす時の、ホストの初歩的なアプローチそのもの)
この世界の、男特有の傲慢な万能感を持つ龍也たちなら、これだけで「聖女様が俺に惚れた!」と脳をバグらせ、喜んで彼女の奴隷として尻尾を振っただろう。
他者を自分の信者としてデザインする技術。やはりこいつは、俺と同じ側の人間だ。
だが、相手がわざわざ極上のゲームを仕掛けてくれたのだ。元ホストとして、その挑戦を無視するわけにはいかない。
俺はサオリに「ちょっと先生に呼ばれたから先に行ってて」とメッセージを送り、クラリスが指定した古い礼拝堂へと向かった。
重い木製の扉をそっと押し開けると、冷涼な空気の中に、西日を浴びた極彩色のステンドグラスの光が差し込んでいた。
その光の十字架が一番美しく落ちる祭壇の真っ中心に、クラリスはいた。
彼女は静かに跪き、胸の前で手を組んで祈りを捧げている。計算され尽くした逆光がプラチナブロンドの髪を神聖に透けさせ、まるで本当に天から舞い降りた聖女のような神々しさを演出していた。
普通の男なら、その神聖なオーラと美貌に圧倒され、気圧されて跪いてしまうだろう。完璧な舞台装置だ。
俺はあえて足音を立てて近づき、彼女の作った「神聖な静寂」の結界を破るように、いつもの無害な少年のトーンで声をかけた。
「……聖女様が、こんなところで独りきりなんて。護衛の騎士たちはどうしたのですか?」
クラリスの肩が微かに揺れた。 彼女はゆっくりと祈りを終え、優雅な動作で立ち上がると、こちらを振り返った。その顔には、相変わらず完璧な慈愛の微笑が張り付いている。 すべては、俺を彼女の『信仰』という檻に閉じ込めるための、完璧なマエストロのステップだった。
「彼らには、少し『神との対話』が必要だと言って席を外してもらいました。……お待ちしておりましたわ、一ノ瀬湊さん。いえ――この学園の調律師」
クラリスは完璧な慈愛の微笑みを湛えたまま、静かに俺へと歩み寄ってきた。その手には、一枚の書面、あるいは学園内での俺の行動記録のようなメモが握られている。
「この学園の誰もが、貴方を『儚くも愛らしい、守るべき王子様』と信じて疑わないようですが……。マチカの聖女である私の目は欺けません。一ノ瀬さん、貴方はサオリさんや生徒会の麗華さん、そして梓さんを甘い言葉で籠絡し、彼女たちの権力や財産を裏から操ろうとしている……男性の身でありながら、この社会の秩序を転覆させようとしている『稀代の詐欺師』ですね?」
「……は?」
俺は無害な少年の仮面を被ったまま、本気で呆気にとられた。
こいつ、一体何が言いたいんだ? 詐欺師? 社会の転覆? 俺はただ、前世の記憶から「自分を本気で愛し、ドロドロになって俺のすべてを奪おうとするほどに愛を向けてくる女を作っている」だけだ。地位も財産も究極的にはそこにいらないし、ましてや社会構造の改革なんて大それた思想は一ミリも持っていない。
だが、クラリスの蒼い瞳には、決定的な「弱みを握った」という絶対的な強者の確信と、傲慢な愉悦が満ちていた。
なるほど。こいつは俺の普段の「王子様」らしからぬ冷めた目や、裏での立ち回りの一端を偶然目撃してしまったわけだ。そして、この世界の女特有の「男=無能で守られる存在」というバイアスと、聖女としての独自の正義感がバグを起こした結果、俺を『世界を裏から牛耳ろうとする巨悪の男魔王』だと過大評価して勘違いしたらしい。
「この事実を生徒会や公の場に公表されたくなければ、貴方のその『魔性』、これからは私のために使っていただきますわ。さあ、どうされるのかしら?」
勝ち誇ったように俺を見下ろす聖女様。 存在すらしていない「偽りの弱み」で俺を脅迫し、自分の都合のいい所有物にしようと仕掛けてきたわけだ。
「でも大丈夫、私のためにその力を使って下さるのなら、私はあなたの最も近くで可愛がってあげますわ。聖女の直々の寵愛、これほど魅力的なものもないでしょう?」
俺の耳元で囁きかけるクラリスは普通なら屈服してしまうほどの魔力。
(あはは……。面白い、面白すぎるよ、聖女様)
俺の脳内で、冷徹なホストの牙が完全に剥き出しになった。 勘違いの気まぐれな正義感……いや、欲望で、プロのホストに脅迫を仕掛けてくるなんて、片腹痛い。
相手がわざわざ極上のゲームを仕掛けてくれたのだ。その傲慢な仮面ごと、叩き潰してあげるよ。
「……面白いね、聖女様」
「え……?」
俺は困ったような無害な生徒の仮面を、一瞬で剥ぎ取った。
声のトーンを底なしに落とし、あえて彼女の計算し尽くしたパーソナルスペースの境界線を、獰猛な肉食獣のように踏み越える。
「な、何を――」
クラリスの瞳が、初めて本物の恐怖に揺れた。
この世界の無能な男なら、弱みを握られれば泣いて縋るか、怯えて言いなりになる。だが、目の前の少年から放たれたのは、彼女の「魔王」というファンタジーな勘違いを遥かに超越した、冷酷で、泥のようにドロドロとした、本物の『男の魔性』だった。
すかさず彼女の背後の祭壇へと手を突き、退路を断つ。
ステンドグラスの七色の光が、今度は二人の顔を等しく狂わせるように照らし出す。
「詐欺師? 社会の転覆? ……あはは、君の頭の中って、この世界の女たちと同じくらいファンタジーなんだね。そんな高尚な目的、俺にあるわけないじゃん」
至近距離。俺の吐息が彼女のプラチナブロンドの髪を揺らす。彼女の白く細い喉元が、パニックで激しく上下するのが見えた。
俺はもう片方の手を銃の形にして彼女の胸元に突き付けた。
「っ……ひ、ぅ……!」
「俺が求めているのは、もっとシンプルで、もっと素敵なことだよなことだよ。君はまだ本物の愛を知らない。寵愛? 面白い。でもそれは嘘だ。愛って言うのはもっとぐちゃぐちゃで汚くて、純粋なんだよ。例えば、君が純粋に俺のすべてを欲しいというのなら、俺は今ここで殺されたって良い」
「く、狂ってる……」
「そうさ、愛を語るやつなんて、大なり小なり狂ってるんだ」
クラリスの頬が、生まれて初めての強烈な恐怖と、脳を焼くような昂揚感で朱に染まった。
図星だった。完璧な聖女として生きてきた彼女の退屈な魂を、湊の放つ本物の『毒』が、あまりにも鮮やかに侵食していく。
圧倒的なカリスマで支配してきたはずの自分が、いま、この儚げな少年の一言で、精神的に完全に屈服させられそうになっている。
(嫌……! 認めない、認められないわ……! 私は聖女、この男に屈するわけには――!)
完全に主導権を奪われ、パニックに陥ったクラリスの脳内で、生存本能と聖女としてのプライドがバグを起こした。彼女は恐怖に震え、涙目を浮かべながら、必死に抵抗するための言葉を、苦し紛れに故郷の歴史から引っ張り出した。
「……貴方は、私の魂の最も深い秘密を奪いました! ……な、ならば、我が故郷の法に従い、責任を取っていただかなくてはなりませんわ!」
「責任?」
「ええ! 我が故郷マチカの古い慣習にございます! 『自分の命や魂の最も深い秘密を預けた相手には、自らの身体も財産も、そのすべてを捧げて所有されなければならない』――【魂の対価(アニマ・プレティウム)】。この形式は、今この瞬間に成立しました!」
クラリスは乱れた呼吸のまま、勢いに任せて、俺のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。 言っている最中、彼女の天才的なマエストロとしての脳が、急速に別の計算を弾き出した。
(……待って。これを盾にすれば、『私は彼の所有物だから隣にいて当然』という大義名分が手に入る? 彼を公的に監視し、他の女から隔離する口実になる……? ――あら。意外とこれ、良いのではなくて?)
苦し紛れに出したはずの古い悪法。しかし、目の前の「魔性」を独占するためのストーカー的ロジックとして完璧に機能することに気づいた瞬間、クラリスの瞳に、再び強気な、歪んだ輝きが戻ってきた。
「私は貴方の『所有物』です、一ノ瀬さん。ですから、貴方は私という資産を一生管理し、他の有象無象に汚されないよう、常に一番近くで特別に扱い続けなければなりません。……さあ、私を正しく『所有』してごらんなさい!」
形式を利用して、敗北を勝利に塗り替えようとする、あまりにも重すぎる「逆支配」の求愛。
俺は、彼女の熱を帯びた瞳を見下ろし、その現金な脳内シフトに、心の中で最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
(なるほど。負けを認めない代わりに、形式を使って俺を縛り付ける口実にしたわけだ。いいよ……面白い。その傲慢な契約、そっくりそのまま君を閉じ込める檻にしてあげるよ)
「――お兄様!! そこで何をしているのですか!?」
その時、礼拝堂の扉が凄まじい音を立てて開き、サオリ、麗華、そして梓が乱入してきた――。
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