男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
午後になると、予報通り島は凄まじい線状降水帯の渦中に叩き込まれた。 窓の外は滝のような豪雨で視界が完全に遮られ、時折鳴り響く雷鳴が古い洋館をビリビリと震わせている。当然、外に出ることなど不可能な大荒れの天気だった。
冷泉院の令嬢である麗華は、この嵐による通信障害の対策や、本国との重要なリモート会議の調整で執事たちと部屋に籠もり、サオリはサオリで、本家からのしつこい定期連絡の対応に追われていた。
「……暇つぶしに、少し書斎で本でも読んでくるよ」
ロビーの喧騒を離れ、俺が立ち上がると、すかさず梓がその後に続いた。
「一ノ瀬、私も同行するわ。こんな悪天候の時こそ、何があるか分からないから」
生真面目な顔でそう言う彼女を、俺は拒まなかった。
ちなみにクラリスは、サロンの窓辺で、嵐に霞む礼拝堂をじっと見つめたまま何かを深く考え込んでいた。彼女のあの「いつもと違うノイズ」は、静かに館内の空気を侵食し続けている。
――ギィ、と重い扉を開けて入った書斎は、ひんやりとした静寂に満ちていた。 壁一面を埋め尽くす革張りの古書。高い窓を叩く激しい雨音が、ここではまるで遠い世界の大騒ぎのように低く響いている。電気は消えており、時折走る稲光だけが、薄暗い室内の輪郭を白く浮かび上がらせていた。
「ふぅ……すごい雨ね」
梓が小さく息を吐き、書斎の扉を閉めて背中を預ける。
薄暗い密室。雨の音にかき消されて、外には二人の会話すら届かない空間。麗華もサオリもいないこの状況で、男嫌いのはずの彼女の視線が、どうしても俺の姿を追ってしまうのが分かった。昨日パラソルの下で交わした「間接キス」の残像が、まだ彼女の脳内で熱を持っているのだろう。
「一ノ瀬……あの、昨日のことなんだけど……」
「ん? 昨日のアイスのことかい?」
「っ! そうじゃなくて……! いえ、それもあるんだけど……」
顔を真っ赤にして口ごもる梓を適度にいなしながら、俺は書斎の最奥にある、ひときわ古びた黒檀のデスクへと歩みを進めた。この島をかつて領有していた華族の当主が使っていたものだろう。
その引き出しに手をかけ、何気なく引いた、その時だった。
――パキィン。
経年劣化で脆くなっていたのだろう。引き出しの奥の木枠が外れ、中に隠されていた「二重底」の隙間から、一冊の分厚い、革張りのノートが床へと滑り落ちた。
「……あれ? 何かしら、それ」
梓が不思議そうに覗き込んでくる。 俺はそのノートを拾い上げ、埃を払った。表紙には、冷泉院の紋章とは異なる、あの礼拝堂の祭壇にあったものと同じ『光の円環』の紋が刻印されている。
それは、この島を開拓し、あの歪な礼拝堂を建てた、かつての華族の当主が自筆で遺した――【一族の手記】だった。
「ちょっと、見せて……」
好奇心と、護衛官としての不審感からか、梓が俺のすぐ隣へと体を寄せてくる。薄暗い室内で文字を読むため、二人の肩が自然と触れ合うほどの距離になった。彼女から漂う微かなシャンプーの香りと、嵐の音が、密室のジリジリとした空気を増していく。
俺は手記の古い頁をめくり、最初の行に目を落とした。
『白き衣をまとう異国の美しき乙女は、
ただ、黒き髪の主の「静寂」を護るための、飾り物の盾に過ぎない。
主が目覚め、その黒き御髪がすべてを覆う時、
白き乙女は光に焼かれ、ただの灰となる。
我らは主を天へと掲げ、神と呼び、平伏した。
だが、天に座す神に、人の温もりは届かない。
跪く我らに返ってきたのは、愛なき、凍てつく拒絶だけであった。
信仰は、愛ではなかった。
我らは一年にて成し、一年にて堕つ。
私たちは、楽園にて滅びる――』
時をへて茶色く変色した紙面に、のたうち回るような歪んだ筆跡で綴られた、まるで呪いのようなおとぎ話。
ゴロゴロと、窓の外で重い雷鳴が響き、書斎の空気を震わせた。
「これ……何かの、おとぎ話……? でも、なんだか、すごく気持ち悪い……」
梓が、俺の肩を掴んだまま、小さく身震いした。
彼女の目には、この手記に書かれている「白き乙女」や「黒き髪の主」という断片的なイメージが、おぼろげに浮かんでいるのだろう。だが、まだそれらが確信には至っていない。
「さあね。前の持ち主の、ただの病んだポエムかもしれない」
俺は、手記のそれ以上のページはめくらず、パタンと静かに表紙を閉じた。
「え、ちょっと、もう読まないの……?」
「これ以上は、嵐の日に読むにはちょっと悪趣味すぎるよ。それより……」
俺は手記を小脇に抱え、至近距離で梓の丸い瞳を見つめ返した。
「そんな不気味なおとぎ話より、今は君が風邪をひかないかの方が心配だよ、梓さん。ほら、まだ少し震えてる」
「っ……!」
梓の顔が、一瞬にして赤く染まる。 彼女は慌てて俺の肩から手を離し、一歩後ろへ下がろうとしたが、狭い書棚の隙間で行き場を失い、結局はうつむいて制服の裾をぎゅっと握りしめることしかできなかった。
「な、何言ってるのよ、バカ……。私は護衛官なんだから、これくらい平気よ。……とにかく、その本は一応、預かっておくわね。変なものだったら困るし」
「うん、お願いするよ」
俺は手記を彼女に手渡した。 梓はそれを、まるで「見てはいけない禁断の果実」のように大事そうに、けれどどこか恐る恐る抱きしめる。
俺は彼女のその言葉に、小さく、けれど意図的に深い笑みを返した。
「そうだね。……でも、俺は麗華に言うかどうかは、梓さんに一任するよ」
「え……?」
梓が驚いたように丸い瞳をこちらに向けた。
「俺はただの客だし、この島に伝わるただのおとぎ話だ。麗華は今、大きな会議で忙しい。余計な心配をかけたくないという君の判断なら、俺はそれを尊重する。……すべては、優秀な護衛官である君の判断に任せるよ、梓さん」
「私、の……判断……」
梓の視線が、手元の手帳と、俺の顔の間を何度も往復する。 生真面目な彼女の頭脳が、激しく葛藤しているのが分かった。冷泉院の犬として、雇い主に隠し事をするなど本来は万死に値する。 けれど、目の前の一ノ瀬湊という男から「君を信頼して委ねる」と言われた瞬間、彼女の天秤は、音を立てて傾いた。
(麗華様は今、大変な時期。こんな出所不明の、気味の悪い手帳を見せて、余計な不安を与えるべきじゃない。……そうよ。私が内容を精査して、安全だと分かってから報告すればいい。これは護衛官としての、合理的な判断……!)
そう自分に言い訳をする彼女の心に、「一ノ瀬と二人だけの秘密」という猛毒が、じわりと染み込んでいく。
「……分かったわ。麗華様には、ひとまず私からタイミングを見て報告する。それまでは……一ノ瀬と私の二人だけの、預かりものにしておくわ」
「うん。よろしく頼むよ」
俺は満足して頷いた。 梓は、自分の制服の胸ポケットへと、その小さな手帳を滑り込ませた。薄い生地の向こう、彼女の心臓のすぐ近くで、古い手帳が微かに自己主張するように収まる。
男嫌い。冷泉院への絶対の忠誠。 その二つの強固なはずの防壁は、湊という存在によって本人も気づかないままに、既に修復不可能な穴があけられていた。
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