男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
台風一過の三日目の朝は、昨日の嵐が嘘だったかのような、澄み切ったコバルトブルーの空が広がっていた。窓から差し込む朝光はまばゆく、テーブルの銀食器を白々と輝かせている。
だが、冷泉院の洋館を包む空気は、外の爽やかさとは裏腹に、じっとりとした湿気と、張り詰めた緊張感を帯びていた。
「……梓、紅茶の代わりを」
麗華の、いつもより一段低い声がロビーに響く。
「あ、はい……。申し訳ありません、麗華様」
給仕に立った梓の手元を、麗華は逃さず、冷ややかな視線で見つめていた。 梓の様子は、今朝から明らかに異様だった。
いつもなら軍人のように背筋をピンと伸ばし、死角のない完璧な歩法で立ち回る護衛官が、今日はどういうわけか、歩くたびに微かに左胸のポケットに片手を添えるような仕草を繰り返している。
トトト、と、ティーカップに注がれる琥珀色の液体。その水面が、不自然に波打っていた。
「あっ……」
梓の指先が微かに震え、カップの縁に数滴の紅茶がこぼれ落ちる。 プロの護衛官として、そして冷泉院に仕える者として、到底あり得ない初歩的なミス。
「申し訳、ございません。すぐに、拭き取ります」
慌ててナプキンを取り出そうとする梓の視線が、無意識に、吸い寄せられるようにテーブルの向かい側――俺の方へと向いた。
目が合う。 彼女の丸い瞳には、単なる粗相への焦りではない、もっと深い「怯え」と「申し訳なさ」が混ざり合っていた。 昨日、嵐の閉ざされた書斎で、俺と至近距離で重ね合わせた吐息。自分の胸ポケットに眠る、あの冷泉院の主人には明かせない「一族の手帳」の重み。
『主人に隠し事をしている』という背徳感が、男嫌いのはずの彼女の頬を、濡れたような朱に染め上げていく。
梓は、俺とほんの数秒見つめ合っただけで、まるで熱を逃がすようにハッと顔を赤くして伏せてしまった。
(……おかしいわ)
麗華の美貌が、スッと陶器のように冷たく強張る。 彼女の細い指先が、ソーサーの上でカチリと音を立てた。
冷泉院の護衛官は、主君に対して文字通り「命も、秘密も、全て」を捧げるのが絶対の鉄則。ましてや相手は、極めて強固な男性嫌悪を持ち、冷泉院への忠誠の塊であったはずの梓なのだ。 その彼女が、自分に内緒で、ゲストである湊と「秘密」を共有し、あろうことか一人の男を前にして、あのように艶っぽい、熱を孕んだ視線を送っている。
「梓。何か、私に報告すべきことでもあるのかしら?」
麗華の問いは、静かだが、逃げ道を塞ぐような重圧に満ちていた。
「い、いいえ……! 何もございません、麗華様。ただ、昨日の嵐で少し寝不足だったようで……。自己管理が至らず、深く反省しております」
梓はきゅっと胸ポケットの手帳の上から胸元を抑え、これ以上ないほど生真面目な一礼を返す。 だが、その言い訳こそが、麗華の胸の不信感を確信へと変えた。
――嘘をついている。あの梓が、私に。
麗華はそっと紅茶を口に含み、そのカップの向こうから、俺をじっと見つめてきた。 彼女のプライドと、昨日からじわじわと募っていた湊への独占欲が、内側から激しく、チリチリと焼き焦がされていく。
「そう。ならいいのだけれど。湊さんも……昨日の嵐の夜は、よく眠れまして?」
「ああ。とても静かで、素晴らしい夜だったよ、麗華」
俺は優雅に微笑み、麗華の視線を受け止める。 麗華の焦りと怒り、そして梓の、今にも張り裂けそうな罪悪感と動揺。
食卓の誰もが言葉にしない「綻び」が、静かに、けれど確実に、冷泉院の絶対的な主従関係を足元から浸食し始めていた。