男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
昼下がりのプレイルーム。窓から差し込む斜光が、埃のダンスを金色の帯のように照らし出す中、その一角だけには奇妙な静寂が降り積もっていた。
麗華は恐らく勘づいている。だが、事を急いてはいけない。主従の信頼の崩壊と三日目という終わりが見えてきた今だからこそ、獲物が焦って草むらから飛び出すのをじっと待つのだ。
「クラリス、チェスも嗜んでいるのかい?」
「ええ。これも立派な外交ですから。うまかろうとそうでなかろうと……。知っておくと便利なものもあるのですよ」
一人で駒をもてあそんでいたクラリスの対面に座り、手前のクイーンを指でつまむ。意匠が細かく施された、立派なチェスセットだ。
「湊さん。宜しければ、私とチェスを一局、お付き合いいただけませんか?」
「おや、聖女様の采配、果たして相手足りえるかな」
「勝敗なんて気にしません。気軽に指していただければ」
そう言って俺を誘ったクラリスの指先は、磁器のように白く冷たい。
だが、盤上を滑る彼女の手つきは、ゾッとするほど精緻で無慈悲だった。
序盤から中盤にかけて、クラリスのプレイスタイルは、まさに彼女の生い立ち――人々の信仰を一身に集める「聖女」としてのあり方――を体現していた。
彼女は、最前線の兵卒たちを巧みに並べて堅固な壁を作り、その背後からルークとビショップを自在に操作する。
それは、自らは神聖にして安全な礼拝堂の奥深くに身を置き、信徒や教団を盾とし、槍として操る、完璧な『支配者』の指し回し。
盤上の他者を完全にコントロールし、俺の陣地をじわじわと閉塞感で満たしていく。いつの間にか傍観している麗華やサオリ、梓たちの目には、俺がクラリスの張り巡らせた見えない糸に絡め取られ、なす術なく追い詰められているように見えていたはずだ。
しかし――終盤。
お互いに鋭く駒を削り尽くした盤上は、それぞれのキングと数枚のポーンだけが残る、荒涼とした極限の地平へと変貌していた。
そして、勝負の天秤は、音を立てて俺の方へと傾く。
俺が緻密に仕掛けた罠がクラリスの鉄壁を食い破り、黒のクラリスの陣地は、もはや実質的な「詰み」の一手前まで追い詰められていた。
通常なら、ここで白旗を上げて投了するか、あるいは手元のポーンを前進させて
しかし、クラリスの細い指先が、ポーンの頭上でぴたりと止まった。
彼女の脳裏に、何がよぎったのかはわからない。ただぼうっと俺を見つめた後、小さく口をほころばせた。
美しいブロンドの隙間から覗く彼女の耳たぶが、微かに朱に染まる。
「……いいえ。もう、そのような、まどろっこしい『盾』で時間を引き延ばすなど、私には必要ありませんわ」
クラリスは、ポーンからそっと指を離した。 そして、自陣の最奥に鎮座していた白の『キング』――彼女自身の魂の象徴――を、まっすぐに指先でつまみ上げる。
チェスの絶対のルールにおいて、キングを相手のキングの攻撃範囲へ進めることは、自滅行為として厳格に禁じられている。 だが、クラリスはそんな
ト、と。
彼女は自分の白のキングを、俺の黒のキングの『真隣』へと、吸い寄せられるように一歩進ませた。
盤上における、王と王の、禁じられた異常な密着。
それは、他者を操る聖域から自ら飛び降り、一ノ瀬湊という
「私はもう、祈るだけの置物でいるのは止めにいたしましたの。一ノ瀬さん……これからは、この手で、泥に塗れてでも、貴方を奪いに参りますわ。……さあ、私を、私だけを討ち取ってくださいな」
熱を帯びた、けれど冷たく澄んだ瞳が、まっすぐに俺の心臓を射抜く。 しかし、自ら敵王の懐へと飛び込んだ無防備な王は、その瞬間に――。
「チェックメイトだよ、クラリスさん」
俺は、彼女が自ら差し出してきた白のキングを、こちらのキングの効きによって、盤上に静かに「捕獲」した。
ルールを破ってまでアプローチを仕掛けてきた彼女を、俺はその一歩の求愛行動を完璧に捉え、冷徹に、そして完膚なきまでにその精神ごと制圧してみせる。
「っ……、ふふ……。ああっ……」
クラリスは言葉を失い、ただじっと、絡み合うように重なった黒と白の王の駒と、俺の顔を見つめていた。
自らの意志で禁忌を侵して挑みかかり、そして次の瞬間には、身も心も俺に完全に征服されていた。その敗北の深淵で得たものは、背筋が粟立つような、おぞましくも熱い
「本当に……貴方という方は……」
クラリスは、俺のキングに寄り添うようにして、白のキングをそっと横に倒した。
その敗北の瞬間ですら、二人の間には、第三者の介入を一切拒絶するような、どろりとした濃密な甘さが漂っている。 それを見ていた麗華の胸に、冷たい「焦燥感」がパキリと音を立てて突き刺さる。
(梓だけじゃない……あのクラリスさんまで……。このままでは、湊が、私の知らないところで、誰か別の女の子のものになってしまう――!)
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