男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
胸中で跳ねる愉悦を噛み締めながら、俺はその日の夜、自室のベッドへと入った。
深夜。薄暗い部屋の中で、俺はあえて眠らずにその時を待っていた。気分はさながらクリスマスに寝られない子供だった。
静寂を破り、廊下から微かな足音が近づいてくる。ギチ、と床が軋み、ドアノブが静かに回された。
キィ……と音を立てて開いたドアの隙間から、月光に照らされた人影が滑り込んでくる。
「……お兄様、入ってよろしいでしょうか?」
現れたのは、風呂から上がったままのボサボサの髪に、どこかうつろな両目をしたサオリだった。昼間の従順な妹の面影はどこにもない。その右手には、俺の予想通り、鈍い銀色の光を放つ一本の包丁が握られていた。
常人なら悲鳴を上げて逃げ出すような狂気の光景。だが、俺の心臓は、前世のあの最期の夜を超える、人生最高の歓喜に跳ね上がっていた。
「サオリ。夜中に包丁なんて持って、どうしたんだい?」
俺は寝返りを打ち、あえて無防備な姿のまま、彼女を艶やかに見上げた。
「……お兄様。どうして、美月姉様にも同じことをするのですか?」
サオリの声は、感情が抜け落ちたようにひどく冷たかった。包丁の切っ先が、ゆっくりと俺の胸元へと向けられる。彼女の長い髪が俺の顔にかかる。今ならそれすらも愛おしいと思えた。
「私だけだと言ったのに。私だけを特別にしてくれたのに。お兄様は……お母様も、美月姉様も、みんな同じように蕩けさせて、私を捨てるつもりでしょう? そんなの、耐えられません。他の女にあなたを渡すくらいなら、いっそ私が、今ここで――」
「なるほど。美月姉さんとのあれを見られていたわけか。……あはは、俺のミスだね」
首筋に刃先を突きつけられながら、俺はふっと、優美に唇を歪めて笑った。サオリの瞳が、俺の動じない態度にわずかに揺れる。
「……笑って、いるのですか? 怖くないのですか? 私は、お兄様を殺して、私も死ぬつもりなのに」
「怖いわけないだろう? むしろ嬉しいよ。サオリがこれほどまでに、俺に狂ってくれているんだから」
俺はシーツを払い、ゆっくりと上半身を起こした。包丁の刃先が、俺の薄いパジャマの胸元にピリッと触れる。
「サオリ。教えてあげるよ。……俺が母さんや姉さんに優しくしているのは、ただの『お芝居』だよ」
「……え?」
「あの人たちを手のひらで転がしておいた方が、この世界で生きていくのに都合がいいからね。だから、甘い言葉を囁いて操っているだけさ。……だけど、サオリ。君だけは違う」
俺は自ら刃を握り、包丁の刃を自分の心臓の真上にピタリと当てさせた。サオリの細い手が、怒りではなく困惑と恐怖で小刻みに震えているのがわかる。
「俺のこの、冷徹で、嘘つきで、高慢な本性を知っているのは……世界中で、サオリ、君だけだ。君が俺の『初めての共犯者』になってくれるなら、俺は俺の世界で、一番に可愛がってあげる。一番近くにおいてあげるよ。……どうだい? 俺と一緒に、最高の景色を見に行かないか?」
息がかかるほどの距離で、俺は前世の技術をすべて乗せた、極上の慈愛と色気を孕んだ瞳で彼女を射抜いた。
呆気にとられ、完全に思考が停止したサオリの手から、包丁が力なく滑り落ちる。 床に金属音が響くよりも早く、俺は彼女の細い手首を掴み、そのままベッドへと押し倒した。
「ひゃうっ……!」
ベッドの上、俺の体重に押し潰されたサオリが、怯えたような、しかし強烈に魅了されたような目で俺を見上げる。俺は彼女の耳元に顔を寄せ、これ以上ないほど冷酷で、甘い呪いを吹き込んだ。
「これで……君も共犯者だ」
「きょ、うはんしゃ……? うそ……嘘です……っ! だって、お兄様は美月姉様にも、私と同じ顔を、あの優しい声を向けていたじゃないですか……! 私だけじゃ、なかった……っ。どうせ、今言っていることも全部嘘で、私を丸め込もうとしているのでしょう……!」
サオリは俺の胸を必死に押し返そうと、その細い腕に力を込める。 信じたい。死ぬほど信じたい。けれど、先のあの光景が呪いのように彼女の脳裏に焼き付いて離れないのだ。このまま信じてしまえば、次に待っているのは「本当に捨てられる」という決定的な絶望かもしれない――そんな本能的な恐怖と、彼女は戦っていた。
必死に拒絶の言葉を紡ぎながらも、その瞳は、俺という存在から一瞬たりとも逸らすことができないでいる。矛盾した彼女の体温が、 シーツを通じてじんわりと伝わってくる。
そんな愛おしいほどの手応えに、俺はさらに深く、彼女の耳元へと唇を寄せた。
「いいや、嘘じゃないさどんなに俺が他の女を特別扱いしようが、あんなのは全部嘘、ただのゲームだよ。……でも、君の前だけが、俺の本当なんだ」
サオリの身体が、歓喜と圧倒的な狂気のあおりを受けて、ガタガタと小刻みに震え始める。男をただの「資源」としか見ていなかった彼女の常識が、湊という名の、世界を侵食する「絶対的な悪」の存在によって、完全に上書きされた瞬間だった。
「他の女たちが俺の『嘘の光』を拝んでいる間……サオリ、君だけが俺というホンモノを独占できる。――これ以上の『特別』が、どこにある?」
「あ……あ、う……」
サオリの拒絶の力が、目に見えて抜けていく。
彼女の賢い頭脳は、俺の言葉が「自分を都合よく縛り付けるための毒」である可能性を、きっとまだ捨てきれていない。
けれど、それと同時に彼女の魂は気づいてしまったのだ。
――あぁ、私は。この人の綺麗な嘘で誤魔化されるだけの女になりたいんじゃない。
――この人の醜くて、恐ろしくて、最高に愛おしい本性に、もっと、もっと深く入れ込みたい。
たとえそれが、この怪物の仕掛けた罠だとしても。
「本当の姿を知っているのは自分だけ」というこの歪んだ特権意識は、他のどんな女も決して手に入れられない、自分だけの絶対的な聖域なのだと。
演技も何もかも忘れて、俺の下で縮こまった彼女のすべてを見透かすようにその瞳を覗き込む。
サオリの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。 それは恐怖の涙ではない。自分だけが、この美しく恐ろしい怪物の「本質」を共有しているという、脳が溶けるほどの甘美な特権意識――究極の『私だけ』に、彼女の魂が完全に屈服した証だった。
「お兄、様……。あぁ、お兄様……!!」
サオリはもう俺を押し返すのをやめ、今度はしがみつくように俺の首に細い腕を絡め、狂おしいほどの愛を込めて、その胸に顔を埋めた。
「わかり、ました……! 私は、お兄様の影になります……! あの愚かな女たちを、一緒に騙して、狂わせてあげましょう……! お兄様の本当を知っているのは……私だけ、私だけなんだから……っ!」
暗闇の中、俺の首筋に顔をうずめてクスクスと笑い始めた共犯者を抱きしめながら、俺は深く、昏い笑みを浮かべた。