狭い、社会の縮図のような町。そこでろくでもない両親の元に生まれた。大酒飲みの父は機嫌が悪くなると暴力を振るう。色欲を体現したかのような母は、金目の物に目がなく、それに加えて男を取っ替え引っ替えしていた。当然生まれたばかりの赤子なぞ放置される。まともだった母方の祖母が引き取ってくれなかったらあっという間に俺は餓死していただろう。
しかしその祖母も俺が六歳になった時に死んだ。両親の他に身寄りがいなくなった俺は必然的に地獄で暮らす事になる。
よく飛んでくる酒瓶。飛んでくるだけならまだいい。それで気を失うまで殴られる事もあった。夜になるとヒステリックに叫ぶ母親の声と名も知らぬ男の別れを告げる声が聞こえる。
「あなた無しでは生きていけない!」
母親が相手の男に縋る。その度にそれを言うのは果たして何度目なのだろうか、と冷めた気持ちになった。
いつもゴミを扱うような態度で俺に接する両親。しかし一時期、気味が悪くなるほど俺に優しくなった事がある。それは俺が『共鳴者』であると分かった時だ。
右手の甲を縦に裂くようにある、痣のようなもの。
生まれた時からあったため気にした事もなかったが、世間一般に『音痕』と呼ばれているそれは、共鳴者である証であった。元々この町は閉鎖的で、外部との交流があまりない。なので俺は両親に聞かされるまで自分が共鳴者である事を知らなかった。何度暴力を受けても死ななかったのは俺が常人よりも遥かに頑丈な共鳴者だったから。
共鳴者には特定の事象を操る能力がある。
「あなたは特別なの。この町唯一の共鳴者だからね」
母に不快な猫撫で声でそう言われた。
特定の事象に共鳴する。
ではもし共鳴した事象の希少性が高かったら?まさに金の成る木に違いない。両親は欲に濡れた単純な思考でそう考えたらしい。それからは俺のご機嫌取りのような事を始めた。愛情なんて欠片もない、濁った目で愛を囁いてくる。これまでの暴力行為の数々を謝罪する言葉には少しの謝意も込められていない事がよく分かった。ついには、
「お母さんのためにしっかり稼いでね」
「お父さんのために金を増やすんだぞ」
その欲すら隠さなくなった。
しかし、幸いと言うべきか。それから少しして、すぐに元の生活に戻った。父は俺を怒りの捌け口にし、母は男漁りをする。そんな生活に。
理由は単純、俺の共鳴能力がクソの役にも立たない事が判明したからだ。
『鎖を自在に操る』
それが俺の共鳴能力。はっきり言ってハズレもいい所だ。共鳴能力が判明した時の両親の顔は今でも思い出せる。役に立たないと分かった瞬間の汚物を見るような、嫌悪感を隠そうともしない顔。その顔を見た途端、何故だが笑いが込み上げてきて噛み殺すのに苦労したのを覚えている。ミミズが這うように動かした鎖だって、共鳴者である俺が万が一暴れた時に縛り付けるためのものだった。俺に抵抗する意思がない事が分かると用済みになったが。
そんなこの世の掃き溜めのような生活。それは唐突に終わりを迎える。
瓶が砕けてガラス片へと変わる、甲高い音が響く。
「クソがッ!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」
酔いが回っているのだろう、赤ら顔で父が叫ぶ。
俺はただ、足の踏み場もない程荒れている部屋の隅でうずくまっていた。ここで暮らすようになって四年。生活は徐々に悪化している。元から最悪の状態ではあったが。
「お前もだ!ガキの癖にすました顔して!どうせ俺を下に見てるんだ、ろッ!」
ずかずかとこちらに向かってきた父に、勢い良く頭を蹴られる。これにも慣れた。今ではもう痛みすら感じる事はない。
ひとしきり蹴り終えた後、父が息を切らして叫ぶ。
「出てけッ!俺の視界、から!消えろッ!」
言われた通り、すぐに外に出る。この町は山に囲まれている。だからか外の空気は澄んでいて、幾分か気分は良くなった。
こんな生活がずっと続くのだろうか。町の外れへと歩きながら、漠然とそう考える。町の住人は皆、俺の事を見て見ぬふりをする。男狂いで自分の事しか考えていない母、いつも酔っていてそこかしこで問題を起こす父。そんな二人の息子に近づこうとする物好きはこの町にはいなかった。
死んだ方がいいかもしれない。何度もそう考えた。
しかし、どうしても死ぬ気にはなれなかった。決まって、最後まで俺を心配していた祖母の姿が脳裏によぎるのだった。もういっその事——
そこまで考えた所で町の外れどころか、山の中に入ってしまっている事に気付く。日も沈みかけており、早く戻らなければここで一晩過ごす事になるだろう。
仕方無く行きよりも重い足取りで、俺は踵を返した。
町の近くに戻った時には、もう日が沈んだ後だった。早く帰らなければ父に難癖をつけられる。もちろん父は俺の事を心配しているわけではない。ただ暴力を振るう口実を探しているだけだ。それとは逆に母はあの一件から完全に俺に対して無関心になった。
しかし入り口辺りに差し掛かった所で俺は足を止める。何かが、おかしい。静かすぎる。
町全体が、死んでいるような雰囲気を発していた。
もう日が沈み、辺りは闇に包まれている。だが見渡す限り、明かりが灯っている建物はない。慎重に道を歩いていく。町の中心に進めば進むほど、その異様さが浮かび上がってくるかのようだった。そしてついに家々や商店が立ち並ぶ、広い街道に出る。ここが町の中心だった。
月明かりが差し込む。その光がドス黒い赤に染まる地面を照らし出す。そこには無数の黒い点が重なっていた。いや点ではない人だ。血だらけになった無数の町の住人達が倒れているのだ。
目を覆いたくなるような痛ましい光景。その中心に何かが立っている。それは腕が四本生えており、その内の一つが剣になっていた。人間で頭にあたる部分には口しかなく、血で染まった鋭利な歯と長い舌が見える。そして何よりも獣と見紛うほどの巨躯。
それはまさしく化け物だった。
あまりにも非現実的な光景に俺の思考は停止してしまう。
残像。
それは『混乱した周波数エネルギーから生まれる怪物』
両親に読まされた薄汚い本の中にそんなような事が書かれていたのを思い出す。
その時、全身が震えるような悪寒を感じる。反射的に体を半身にするように身をよじると、強風が通り抜けたような衝撃を感じた。慌てて後ろを振り向けばいつの間にか背後に移動していた化け物が、真新しい血で染まった自身の刃を舐めているところだった。
うん?血なんてどこから——
ふと違和感を覚えて下を見ると、横一文字に切り裂かれ、大量に出血している腹が目に入った。
「グッ!ガァァァァァァ!」
途端に襲ってくる激痛。もし悪寒に従わず身をよじっていなければ、俺の上半身と下半身は泣き別れをしていただろう。まとまらない思考でそんな事を考える。痛みには慣れたと思っていた。違う。本当の痛みを知らなかっただけだった。
「ッ!クソッ!」
半ば本能で駆け出す。少しでもあの化け物から離れなければならない、その一心で。途中で足元に転がる死体につまずきそうになる。それでも走るのだけはやめなかった。激痛による涙で霞む視界。
ずっと逃げてばかりの人生だ。ぼんやりとそんな考えが頭に浮かぶ。
祖母は俺の身を案じ、知り合いの養子になる事を提案してくれた。けれど俺はどうしても幸せな生活というものを想像する事が出来ず、その提案を断った。その結果、祖母に心残りを与えたまま死なせてしまった。俺は自分の人生を大きく変えたであろう一歩、されどそのたかが一歩を踏み出せなかったのだ。
そうして最低最悪な日々が始まる。自身が共鳴者だと分かる前から、人並み以上の力を持っている事には気付いていた。大の大人が息を切らせて持つ米俵を、軽々と担ぎ上げる事だって出来た。しかし、その力を使い両親に抗おうともしなかった。
もう何も考えたくなかった。ただ流されるだけの人生を送りたいと願っていた。祖母が、俺の事を想ってくれていた唯一の人が死ぬと同時に、俺の心からも何かが消えた。
死が足音を立てて、近づいてくる。そんな今際の際だからこそ分かった。俺は生きる事から逃げていたんだ。祖母が死んだ事を言い訳にして、停滞を望んだ。流された先に俺の追い求めるものが、あるはずもないのに。
息が切れて思わず足を止めた。荒い呼吸の中で徐々に霞んだ視界が戻っていくのを感じる。そこは俺の家だった。どうやら無意識のうちにここに戻ってきたらしい。玄関のすぐ横の壁が何か巨大なものが通った後のように破壊されている。
俺が町に着く前にもうあの化け物はここに——
そこまで考えたところで自分が何から逃げていたのかを思い出す。全身に走る怖気に従うようにゆっくりと後ろを振り向く。
いた。化け物は長い舌と歯しかない、醜悪な顔でこちらを覗き込んでいた。
心臓が止まる、そんな錯覚を覚えた。そして硬直して動けなくなった体を殴り飛ばされる。玄関を突き破り、そのままの勢いで居間に転がる。中程まで進んだところでようやく止まった。鈍痛。骨が何本か折れたのだろう。腹の痺れるような痛みと体を内側から破壊するかのような痛み。その耐え難い苦痛から逃れるように意識が朦朧としてくる。
「死にたく……ない」
掠れる声で呟く。そこで初めて気付いた。
俺は生きたかったのか。生きる事からずっと逃げておいて、結局は生を追い求めていたのか。そうだ、俺は生きたい。こんなところで、死にたくない。終わりたくない。それを自覚した瞬間、頭が沸騰したと錯覚するくらいに思考が巡り始める。それに伴うように視界も目まぐるしく回り、何かないかと辺りを見渡す。
どうすればいい?一体何をすれば——
何かが、目に入った。それは血溜まりの中で倒れ伏す両親の姿だった。思考が止まる。
父は背中を斬られ、椅子から転げ落ちるような体勢で死んでいた。手には酒瓶を持っている。大方やけ酒をしている時にあの化け物が壁を突き破ってきたのだろう。そして逃げようとするも殺された。母は右肩から腰にかけてを袈裟に斬られ、息絶えている。うつ伏せの父のすぐ近くで仰向けのまま倒れていた。母が父に近づく事などあり得ない。逆もまた然り。母も父も互いを蛇蝎の如く嫌っていたからだ。どうせ互いに互いを囮にしようとでもしたのだろう。
「ふっ…ふふっ……アハハハハハハ!」
二人とも生きようとしていた。互いに互いを犠牲にしようとしてまで。人は生きようとする。こんな当たり前な事をどうして理解しようとしなかったのか。俺はその生きようとする本能から逸脱しようとしていた。だが本能から逃げる事なんて土台無理な話だったのだ。
笑いが、止まらない。
馬鹿みたいだ。生きようとして死んだ、クズ二人も。そんな二人よりも劣っていた自分自身も。果たして俺を今まで縛っていたものは何だったのだろうか?
……いや、もう分かっている。
もう痛みは感じない。ゆっくりと上体を起こす。右手に何かが触れ、音痕が淡い光を発する。
それは鎖だった。あの、両親から汚物を見るような目で見られるきっかけになったもの。あの後何とも言えないやるせなさに突き動かされるように適当に放り捨てたが、まさか今再び俺の手に戻ってくるとは。
「なんて都合のいい……」
それを手に立ち上がり、ぶち破られた壁から外へ出る。
あの残像はまだ居た。表情なんて無いのに、その顔は嘲笑っているかのようだった。こいつは俺の事を舐めている。さっきだって殴り飛ばすのではなく、その刃で俺を串刺しにすればよかったはずだ。
まぁもうそんな事はどうでもいいが。
一瞬で距離を詰め、今度は俺がその気持ちの悪い顔を覗き込む。その数秒後、やっと接近された事に気付いたのか、慌てて後ろに下がる残像。その首には月明かりを跳ね返し、鈍い輝きを放つ鎖が巻き付いていた。
おもむろに右手を前に伸ばし、徐々に指を閉じる。
それと同時に残像の首に巻き付いている鎖の締め付けも強くなっていく。異変に気付いた残像は何とかしようと足掻くが、もう既に鎖は皮膚に食い込んでいるため、どうにもならない。
最後に握り潰すように手の平を閉じる。それに呼応するかのように、鎖も残像の首と胴体を切り離した。鎖と首の落ちる音が連続して響く。塵となって消えていく残像を見ながら、俺は再び声を上げて笑っていた。
俺は生き延びた。生を掴んだ。生と死の狭間の綱渡りを渡り切った。
こんなに心地良い事が他にあるだろうか?
これが、これこそが俺がこの世に生まれてきた理由であり、生きる意味だったのだ!
いつの間にか朝日が昇っていた。俺は鎖を腕に巻き付け、歩き出す。
朝日が昇った事でさらに鮮明になった、町の残酷な現状。それらを眺めながら、乾いた血で塗装された街道を進む。
俺は全てを失ったように見えるが、逆に全てを得たのかもしれない
と、歩きながら唐突に思う。その考えに賛同するかのように腕に巻き付けた鎖が僅かな音を出した。
目の前に広がる死屍累々はもう気にならない。