こんなところでオーディションを、本当にやるのかと丸川は内心驚いた。
ネットの記事はデマではないかと思い、建物の中に入るのも躊躇してしまった。
ビルの入口に来たときだ。
近くで一人の男性がうずくまっている様子に気づいた。
具合でも悪いのか、気になって近寄る。
男性の顔色は悪い。
「おい、大丈夫か、あんた」
うめき声を漏らす男性を見て丸川はまずいと思った。
「今、救急車を呼ぶ」
スマホを取り出し、連絡しようとした、そのときだ。
「おい、じいさん、仮病はよくねえな」
驚いた丸川が振り返ると、派手な服装の男が近づいてきた。
「金を返してもらうほうが先だ」
丸川は老人を見た。
だが、額からは脂汗が、仮病には見えない。
「あんた、逃げろ」
老人は掠れた声で丸川に声をかけた。
「ヤクザよりたちが悪い」
確かに見た目から一般人には見えないと思った。
「病院が先だ、死んだら金も返してもらえないだろ」
丸川の言葉に男は笑った。
「怪我したくなかったら、どけ」
命令する言葉に躊躇いはない。
厄介な男だと丸川は思った。
「置いていけ、大事な用があるんじゃないか」
老人の声は苦しそうだ。
丸川はちらりとスマホを見た。
オーディションの時間が迫っている、迷った。
だが、これは犯罪まがいじゃないかという思いもあった。
「そのジジイを庇うのか。ご立派だな、正義感というやつか」
「俺はオーディションを受けに来たんだ」
男は呆れた顔だ。
「こんなところでか。騙されたんじゃないか。それとも役者馬鹿って奴か」
丸川は男を睨みつけた。
男は本気だ、表情ではない、目を見ればわかる。
スマホが手の中で震えた。
着信ではない、通知ではないか。だが、画面を見る余裕はない。
丸川は喉の奥で息を飲んだ。
受付は待ってくれるのか。
いや、それ以前に、本当にオーディションなのか。
頭の中に浮かぶのはどうでもいいこと、疑いばかりだ。
「役者ってのは、忙しいんだな」
派手な男が言った。
「人助けしてる暇もない。金もない。だが、夢だけあるみたいだ」
男の言葉は真実だ、現実を突き付けられても、丸川には返す言葉がない。
「便利な商売だな。失敗しても夢って言えば済む」
「言いたいことは、それだけか」
これ以上聞く必要はない、耳を傾けるのも無駄だと丸川は思った。
通話ボタンを押そうとしたときだ。
「警察を呼ぶわよ」
突然、女の声が響いた。
丸川が視線を向ける、いつの間に?
少し離れたところに一人の女性がいた。
気づかなかったことに驚いた。
作業着姿だ、ビルの清掃員だろう。
派手な男が舌打ちをした。
「いいタイミングだよ。野々原さん」
男が、やれやれと肩をすくめた。
「どうせなら演台の上で死にたいね。僕は」
丸川は、はっとした、視線を下へと向ける。
地面にうずくまっていた男がゆっくりと立ち上がった。
「合格だよ、丸川二郎さん」
老人がニッコリと笑う。
何だ?どういうことだ。
少し前までの殺伐とした空気はない。
派手な男、清掃員の女、苦しげだった老人。
誰も慌てていない。怒ってもいない。
死にそうではない。
丸川の救急車を呼ぼうとしていた手が固まったままだ。
スマホの画面が暗くなり、自分の顔が映る。
馬鹿みたいな顔だと思った。
「どういうことだ」
言葉が続かない。
「オーディションだよ」
初老の男性が笑った。
うずくまって、苦しそうだった、老人の笑いではない。
丸川は言葉が出ない。
怒ればいいのか。安心すればいいのか。
騙されたと怒鳴ればいいのか。
合格と言われて頭を下げればいいのか。
どれも違う気がした。
派手な男が丸川の横を通り過ぎ、老人だった男に近づいた。
「倒れ方、ちょっと大げさでしたよ」
「年寄りは大げさに倒れるものだ」
「偏見ですね」
「経験だよ」
派手な男は笑った。
丸川は二人を見ていた。
会話が軽い。
さっきまで人を追い詰めていた男と、床で死にかけていた男の会話とは思えない。
その軽さが、逆に怖く感じられた。
役を脱いだのだ、それだけなのに。
「でも、来てくれてよかったわ」
女性の声に老人が笑う。
「おや、最初に目をつけたのは僕なんだが」
老人の言葉に丸川が不思議そうな顔をした。
「テレビドラマのオーディションで君を見てね」
人間は、こうも変わるものなのか。
舞台の上で、人は何者にもなれる。
そのことを自分は知っているはずだった。
だが、目の前でそれをやられると、言葉が出ない。
床にうずくまっていた老人は、もう腹を押さえていない。
派手な男は、自分を見て、にやにやと笑っている。
変わりすぎだと思った。
清掃員の女はビルの入口を背にして立っていた。
さっきまで、ただの清掃員に見えた。
いや、そう見せられていたのだと思った。
女性の声に老人が笑う。
派手な男が横で吹き出した。
丸川は笑えなかった。
感情が、気持ちが、追いついていないと丸川は思った。
この場の状況にだ。
「あたしのお陰よ」
女性は丸川を見ながらにっこりと笑う。
丸川は引っかかった。
どこかで見たような気がすると思ったのだ。
だが、思い出せない。
丸川は女の顔を、もう一度、見た。
紺色の作業着。後ろで束ねた髪。化粧気のない肌。
清掃員の女、そう見える、だが。
「俺は演じている、なあっ、あんた」
女の口から出てきた声に、はっとした。
声が、女の声ではない。
低い、少し乾いた、笑いを含んだ声。
それは数日前、自分に声をかけてきた男の声だと思った。
数日前の光景と会話。
まさか、あの時の男が、女性?
現実という言葉が怪しく、崩れそうになる。
女は、女の顔のままだ、あのときの男の声で笑っている。
丸川は動けなかった。
「……あんた」
女は清掃員の声に戻った。
「どうかした、丸川二郎さん」
軽い。
「男だっただろ」
「今は女よ」
「今は?」
「勤務中だから」
「清掃員のか」
「それは衣装」
「ややこしいな」
丸川は言葉が出なかった。