「水川さん、僕は今、フランスにいます」
フランス、驚いた。
メールでは駄目だ、海外でも構わないと水川はスマホを一度切り、通話に切り替えることにした。
「もしかして、見つかったんですか、犬が」
「驚くのも無理はないです」
通話だけでもわかる、佐川の声は隠しきれない感情を含んでいた。
「本気でやるなら支援する、オーナーの言葉です」
支援、オーナー?どういうこと。
「タレント犬ではないんです、彼女は」
雌、父の愛犬は雄だった。
佐川の言葉に水川は違和感を感じた。
「彼女、ですか」
「すみません。皆が、そう呼ぶんです。だから僕も」
水川は返事に迷った。
皆が、そう呼んでいる、海外の犬なら名前も長くて呼びにくいのだろうか。
そんなことを考えた。
「よければ写真送りましょうか」
電話を切った後、すぐにスマホに一枚の写真が送られてきた。
白と黒の斑模様のグレートデン、ハルクインだと思った。
だが、一匹ではない。
隣に白と黒の毛深い犬が並んでいる。
「佐川さん、見ました、タレント犬ではないという意味がわかりました」
耳が立っていない、タレている。
ショーに出すため、見栄えを良くするために手術を受けた犬ではない。
「ところで、隣の犬は、日本犬ではないですね」
「母犬の吹雪です」
水川は無言になった。
ハルクインは純血種に見える。
だが、隣に座っている犬は、母犬と言われて驚いた。
日本の大型犬には見えないと思った。
「産みの母親は出産で亡くなりました。吹雪が育ての母犬です」
「水川さん、驚かないでください」
映画ですと言われて、返事ができなかった。
佐川さん、あなた、最初はショートドラマのつもりだったのではと聞きたかった。
「三年前は僕もネットのドラマでも、そう、考えました。でも、あの時とは違う。状況が変わったんです」
この犬が日本の芸能界、TVや雑誌で取り上げられた場合、どうでしょう。
佐川の言葉に水川は想像した。
「人気が出るでしょう。雑誌だけではない、TVやネットも騒ぐかもしれません」
「それはわかります」
「問題は、その後です」
水川はスマホの写真を見つめた。
もし、この犬が日本の芸能界に出たら。
最初に向けられるのは好意だろう。
写真を撮りたい。
名前を知りたい。
飼い主を知りたい。
同じ犬が欲しい。
水川はそこまで想像して、指先を止めた。
同じ犬、その言葉が、一番嫌だと思った。
佐川の声が、少し低くなった。
「珍しいものは、すぐに価値になります」
水川は答えなかった。
好きだとか、憧れだとか、そういう言葉の奥で、いつの間にか値段がつく。
「彼女は、家族のところに帰る犬です」
佐川は言った。
「サイン会も、写真集も、バラエティ出演も、取材もない」
「それを、最初から決めているんですね」
安心したのではない。怖くなった。
そこまで決めておかなければならないほど、人の手は簡単に伸びるのだ。
佐川が言った。
「守るためです」
水川は返事をしなかった。
守る。その言葉は大きすぎた。
けれど、スマホの中の吹雪は、その言葉をもう知っている顔をしていた。
「オーナーは、犬を有名にしたいわけではないんですね」
「この犬を知っている人間はいます。だが、それを吹聴することはないんです」
「帰国したら説明します」
「今は、言えないんですか」
少し間があった。
「僕が言う話ではないんです」
水川は、それ以上聞けなかった。
3日後、佐川が日本に帰ってきた。
「今夜、僕の家に来てくれませんか。店や外で話せる内容でもないんです」
「わかりました」
水川は自分の心臓が緊張で興奮していると感じた。
「この写真を、オーナーの家族です」
佐川はスマホを取り出した。
「写真は後で削除します。データにも残しません」
「それは犬の飼い主に、言われて」
佐川は首を振った。
「これは僕の判断です」
水川は返事ができなかった。
見せられた写真を見て水川はすぐには理解できなかった。
家族と言われても大人数だ。
真ん中に白人らしき男性、だが、側には黒人の女性、男性もいる。
顔つきから欧米人、日本人に見える女性もいる。
「家族なんですか、本当に」
「あなたの言いたいことはわかります」
水川は写真をじっと見た。
「男性の隣にいる日本人の老人はオーナーの友人、吹雪の飼い主です」
水川は頷いた。
じっくりと見ていたが白人男性と日本人の男性のそばにグレートデンと吹雪という育ての母犬がいる。
だが、視線が止まった。
犬の隣にいる生き物に気づいたのだ。
黒い毛並み、だが、体の線が柔らかく滑らかだ。
「佐川さん。これ、豹じゃないですか」
佐川はすぐには答えなかった。
「黒豹です」
佐川の声に水川はもう一度、写真を見た。
「あれっ、猫、ですか」
黒豹の隣には猫が映っていた。
灰色の日本で見かけるような普通の猫だ。
豹は首輪や鎖に繋がれているわけではない。
分からないと思った。
何故、こんなに自然に写っているのか。
写真の中の人間たちもだ、普通なら自慢してもおかしくない。
それなのに、人間は皆、不自然だと思っていない顔だ。
「これを、家族写真と呼ぶんですね」
水川が言うと、佐川は画面を見たまま頷いた。
「そう聞かれたらね僕も返事に困ります」
「この写真は」
水川は言葉を探した。
「公開できません」
佐川が先に言った。
「できないでしょうね」
水川は頷いた。
これは、珍しい写真ではないと水川は思った。
「水川さん、この黒豹は、金持ちが珍しがって、ペットとして飼いたい。そういう理由でいるわけではないんです」
日本では考えにくい。
だが、海外ならあり得るのかもしれない。
「密輸です。親は殺されました。普通なら、保護団体や施設に預けるという考えが一般的かもしれません」
「理由があるんですか」
水川の言葉にすぐに返事はない。
言いにくいのだろうかと思った。
「施設や保護団体、金に困っているところはあります」
佐川は、そこで言葉を切った。
「それに、密猟者は知っているんです。保護された、生きていること」
水川は無言になった。
佐川はそれ以上、言わなかった。
言わないほうが、かえって分かることもある。
「動物園や施設から、経験のある人間を呼んで、オーナーは世話をさせたそうです」
「もしかして、その豹はかなり小さな……」
佐川は答えなかった。
水川は答えを聞いた気がした。
「かなりの費用、金が動いたと思います」
そうだろう、と水川は思った。
自慢する、自分の力を誇示するためではない。
「野生の豹ではないんです。見ていて思いました」
「そばで、見たんですか」
水川の言葉に、佐川は頷いた。
「家族はフランス語、イタリア語、ドイツ語、日本語で話しかけるんです」
佐川は少しだけ視線を落とした。
「忘れられません」
檻の中ではない。
鎖につながれているわけでもない。
だが、閉じ込められているのではない。
可哀想というのは簡単だ。
だが、幸せなのかと聞かれたら違うだろうとも思ってしまう。
写真の中の黒豹は、どちら側にいるのか水川にはわからない。
水川はスマホの画面をじっと見つめた。