「水川さん、僕はオーナーには負担をかけたくないと思っています」
それは自分も同じだと、水川は思った。
顔も知らない、声も聞いたことがない相手だ。
「病気です。オーナーは」
佐川の声は、沈んでいない。
「今すぐというわけではありません。だから、自分の後を任せるため、色々な国の人間と深く関わってきたんです」
それで、あの家族という枠に収まっているのかと、水川は思った。
血縁だけではない。国も、言葉も、年齢も違う。
「映画サイトを立ち上げる際。詳しく公表しないほうがいいのではと考えています」
佐川の言葉に、水川は何故という表情だ。
「丸川さんは過去にスキャンダル、それが面倒なことになったんです」
佐川は難しい顔だ。
「役者同士の足の引っ張り合いなら簡単です」
水川は、彼が過去にアイドルで売り出したことは知っていた。
だが、本人は詳しくは話さない。
恋愛沙汰が原因だとは聞いていた。
野々原、光石、神崎は知っているのでは思ったが、聞くことはしなかった。
「もしかして、嘘だった?」
「今とは違って、個人が潰される、珍しくないんです」
佐川はネットの時代ではないですからと続けた。
「丸川さんが何か言えば、揉める人間、反論すれば扱いにくいと思われる」
水川は返事ができなかった。
水川と佐川は役者たちを集めた。
公式サイトを立ち上げる準備、色々と説明するためだ。
佐川の表情が真剣なことに、役者たちは気づいた。
「オーナーは資金、支援を惜しまないと言っています。そこは僕も水川さんも承諾しました。正直、映画を作るほどの財力は」
「ないだろう」
そう言ったのは神埼だ。
佐川は苦笑しかけて、すぐに表情を戻した。
「オーナーは犬、家族のことも出したくないんです」
「普通の金持ちではないのかな」
光石が尋ねると佐川が小さく頷いた。
「皆さんから聞き出そうとする人間が出てくる可能生があります」
「面倒くさい話になってきたな」
神埼の声は軽かった。
けれど、誰も笑わなかった。
「面倒、それだけで済めばいいと思います」
「皆さんには、不便をかけます。水川さん。皆に見てもらおうと思います。
佐川はスマホを取り出し、ノートパソコンと同期させた。
画面に、一枚の写真が映し出される。
家族写真、だが、よくある写真ではなかった。
肌の色も、年齢、血縁だけで集まった人間たちには見えない。
だが、他人にも見えない。
白人の男のそばに、日本人の老人がいる。
その足元に犬が、日本で、よく見るような猫もいた。。
だが、その隣に座っている黒い獣を見て役者たちは佐川と水川を見た。
「保護されたのかな。この黒豹は」
最初に口を開いたのは光石だ。
佐川は驚いた顔で光石を見た。
光石は画面を見たまま答えた。
「人間も動物も、互いを意識しているように見えないんだ」
光石の言葉に、佐川は頷いた。
「意識していない?」
丸川が聞いた。
「誰も、黒豹を珍しいものとして見ていない」
光石は静かに言った。
佐川は密輸ですと説明した。
「施設に預けませんでした。かわりに飼育経験のある人間を」
言葉を続けようとしたときだ。
「狙われると思ったんじゃない」
全員の視線が、野々原に向いた。
野々原は少し困ったように笑った。
「珍しい動物って、助けたあとも終わらないから」
佐川の表情が変わった。
「昔、海外のチャリティ番組で少しだけ。保護施設って、場所が知られると人が来る。善意の人だけじゃない。金に見える人も来る」
水川は黙って野々原を見た。
光石の言葉にも驚いた。
けれど、野々原の言葉は少し違った。
「施設に預ければ安全、とは限らないのよ。厄介だけど」
野々原は続けた。
「国によっては穴があるの。保護したはずの動物が、また売られることも珍しくないわ」
神崎が眉を寄せた。
「笑えないな」
「笑う話じゃないでしょ」
野々原は軽く返した。
「密輸と言ったわね」
野々原は佐川を見た。
「密猟者は捕まったのかしら。そうだとしても他の人間が場所を嗅ぎつける。成獣でない。小さな子供の豹なら値段もつけられないでしょう」
水川は思わず口を開いた。
「それは、施設が安全ではないと」
途中で言葉が細くなった。
自分で言いながら、あまりにも遠い話に聞こえた。
遠いのに、いま目の前の写真につながっている。
光石が静かに続けた。
「日本と同じとは思わないほうがいい」
水川は光石を見た。
その言葉で、佐川がほんの少し目を伏せた。
水川はそれを見逃さなかった。
「だから、オーナーは施設に預けなかったんですか」
水川の視線が佐川に向けられた。
野々原は首を振った。
丸川が顔を上げた。
「一度外に出したら、狙われる、商品になる可能生があるってことか」
佐川がようやく口を開いた。
「オーナーは、そう判断したようです」
「そりゃ、普通の金持ちじゃないわけだ」
丸川の、言葉は軽く聞こえる。
だが、その目は笑っていない。
「オーナーは、資金面の支援だけを申し出ているわけではありません」
佐川はそう言ってから、いったん言葉を切った。
「制作側のことも、出演者の皆さんのことも守る。そう言っています」
水川が静かに口を開いた。
「騒ぎになると思うんです」
言い方は控えめだったが、冗談を言っている声ではなかった。
「珍しい犬が映画に出る。見栄えがする。宣伝に使いたいという話が出ます。企業も入ってくるでしょうし、共演したいと言い出す人間も出てくると思います」
神崎が小さく笑った。皮肉っぽい、乾いた笑いだった。
「犬に限らず、珍しくて絵になるものは、すぐ商品になる。人間はそういう生き物だ」
誰も否定しない、佐川も水川も笑わない。
想像できたからだ。
「大事なことです。日本のペットという感覚で接しないでください」
誰もすぐには飲み込めなかった。
「どういうことだ」
丸川が眉を寄せた。
佐川は息を吸った。説明しようとして止めた。言っていいことと、言わない方がいいことを頭の中で分けているようだった。
「オーナーの自宅は、山と森に囲まれています。日本でいう別荘地のような、整えられた自然ではありません。家の周囲に、普通に野生動物が出ます」
「野生動物……」
「人間にとって危険な動物もいます」
その一言で、役者たちの表情が少し変わった。
「家の外は、庭ではありません。人間が所有している土地であっても、そこに生きているのは人間だけではないんです」
「犬は、猟犬ではないんでしょう」
野々原が言った。
「吹雪は猟犬です」
佐川の言葉は短い。
「ただ、修二さんは、人間が害獣と呼ぶような動物でも、殺すのは最後の手段だと考えています」
「害獣でも、ですか」
水川が、佐川の言葉を補うように言った。
「人間に害があるから、すぐ排除する。そういう考えではないんです」
役者たちは黙って聞いていた。
きれいごとに聞こえる者もいただろう。理想論に聞こえる者もいたかもしれない。だが、佐川と水川の顔には、それを飾り立てようとする気配がなかった。
ただ、事実として伝えようとしている。
それがかえって、言葉を重くしていた。
「黒豹を、保護しているからか」
光石が言った。
その声には、どこか探るような響きがあった。
佐川は光石を見た。
「それも、あると思います」
すぐに言い切らなかった。
「オーナーと修二さんは人間が森に入る時点で、もう相手の領域に踏み込んでいるという感覚なんだと思います」
「相手の領域……」
丸川がつぶやいた。
「争わない。危険に近づかない。近づいてしまったら逃げる。それでもどうにもならない時だけ、最後の手段を使う」
誰もすぐには口を開かなかった。
佐川は続けた。
「家の外に出るとき、特に山に入るときは、一人では入らない。子供だけで歩かせることもない。犬たちを連れて行く。場合によっては、黒豹も一緒に行くそうです」
「犬だけじゃなく、豹も一緒にか」
佐川は丸川を見た。
声には、隠しきれない驚きがあった。
犬なら、まだ分かる。猟犬という言葉も、聞き慣れないながら理解はできる。だが豹となると、話は一気に現実から離れる。
佐川は丸川を見た。
「言いたいことはわかります。でも、野生の豹ではないんです」
その言葉に、役者たちはわずかに表情を緩めた。
「保護されたときは、小さかったそうです。専門の人間が見ても、助かるかどうか分からない状態だったと聞いています」
「助かるかどうか……」
野々原が小さく繰り返した。
「乳を飲む力も弱い。専門家は、無理かもしれないと言ったそうです」
誰も口を挟まなかった。
「それなのに、ここまで大きくなったのか」
丸川が言った。
驚きというより、納得できないという感じだ。
「修二さんの隣に、日本人の若い女性が写っているでしょう。修二さんのお孫さんです」
役者たちの視線が写真に集まった。
「彼女が、犬たちと一緒になって世話をしたそうです」
「犬たちと?」
光石が聞き返した。
「人間だけでは足りないところを、犬たちがです。もちろん、専門家の判断や処置があってのことです。
「家族の中に、子供が写っているでしょう」
役者たちの視線が、写真に集まった。
「家の外に出るだけでも、日本でいう散歩とは違います。オーナーは、犬も豹も家族だと言っています」
佐川は手元のメモに目を落とした。読み慣れない言葉を確認するように、少し間を置く。
「Observe ce qui t’entoure, juge, puis agis en conséquence.」
部屋が静かになった。
丸川は意味が分からず、光石を見た。神崎も同じだった。いつもならすぐに
「何語だよ」とでも言いそうな顔をしていたが、この時は口を開かなかった。
光石が黙っていたからだ。
野々原も、画面から目を離さなかった。水川はその沈黙を見ていた。言葉の意味より先に、二人の反応の方が重く感じられた。
「……どういう意味だ」
丸川が低く聞いた。
光石はすぐには答えなかった。ほんの少し息を吸う。
「周りを見ろ。判断しろ。必要なら動け」
神崎の顔から、軽さが消えた。
「それは、犬に言っているのか」
佐川は神崎を見た。
「待てよ」
神崎が椅子から少し身を起こした。
「それ、命令か? しつけか?」
佐川は答えず、光石を見た。
光石は首を振った。野々原も同じだった。
「命令なら、もっと違う言い方をする」
光石が言った。
「子どもたちだけで家の外、山の中に入ることあるのかしら」
野々原の言葉に佐川は少し顔をしかめた。
「あるみたいです。女の子って好奇心が強いのか。十歳の子が、山の中に、日暮れ時に」
「大丈夫だったの」
野々原は驚いた。
「豹が後を追いかけていたみたいなんです」
野々原もだが、水川も驚いた。
いや、顔を曇らせた。
光石、神崎、丸川もだ
「途中で懐中電灯を落として、獣の声が聞こえて、普通ならパニックになると思います」
水川は何も言わなかった。
十歳の女の子なら、少しくらいなら、突拍子もないことをしたとしても不思議はない。
「豹がついてきていることを知って安心したようです」
「大丈夫だったの」
野々原が尋ねた。
「明かりをつけることも、声を出すことも危ないと分かっていたから、暗い中、豹の後をついて家に帰れたそうです」
「日本じゃ考えられん」
丸川は呆れを通り越して、怒っているようにも感じられた。
「ペットではない。犬をアイドルにして売り出す気もない。そういうことか」
丸川の言葉に、佐川は頷いた。
犬も豹も、見せ物ではない。
「納得したわ」
野々原が頷いた。
「それだけではありません。珍しい変わった犬が出る。興味を持った役者やプロダクションが、寄ってくることもあるんじゃないかと」
佐川は言った。
「僕と水川さんは若手です。芸能業界の人間から見れば、資金も人脈も足りていないと考えるはずです。協力という形で入り込もうとする人間が出てくるかもしれません」
言いながら、佐川の表情は硬かった。
出演者を紹介する。宣伝を手伝う。配給に口を利く。
そう言われたらどうだ、若い二人には簡単に無下にはできない。
だが、一度借りを作れば、次は口を出される。
脚本に、撮影に、犬の扱いに、そして人間関係にまで。む
善意の顔をして近づいてくる者ほど、断りにくい。
そして一度入り込まれれば、犬も豹も、この家の暮らしも、都合のいい物語に変えられてしまう。
「あり得るな」
神崎が頷いた。