オヤジと映画と犬   作:木桜 春雨

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広がる噂、気づいた業界

  その日、ネットに一つのスレッドが立った。

 できたばかりのオープンカフェ。

 午前中ということもあり、人は少ない。

 投稿者は、偶然そこを通りかかった女性だった。

 テラス席では、初老の男が静かに新聞を読んでいた。

 その足元、テーブルの下には大型犬が伏せていた。

 何かの撮影らしいと気づいたのは、離れた場所にカメラマンとスタッフがいたからだ。

 外国人らしい姿も見えた。

 だが、女性が気になったのは別のことだった。

 周囲にいた男女が、まるでガードマンのように絶えず周囲へ視線を配っていたのだ。

 通行人たちも、その空気を感じ取っているらしかった。

 気にはしている。

 けれど、誰も不用意にスマホを向けようとはしない。

 そこだけ、妙に空気が張り詰めていた。

 

【143】名無しの散歩人 10:14

見たことない犬いた。白と黒の斑。

 

【148】名無しの犬好き 10:15

ダルメシアン?

 

【152】名無しの散歩人 10:16

違う。本物見たことあるけどもっとデカかった。筋肉やばい。

 

【161】名無しのカフェ民 10:18

写真ないの?

 

【167】名無しの散歩人 10:19

撮れなかった。

何かの撮影っぽかったし 

 

【170】名無しの映画好き 10:19

映画?

 

【174】名無しの散歩人 10:20

カメラマンとスタッフっぽい人いた。外国人。

あと周りにいた男女がずっと周囲見てて、ガードマンみたいだった。

 

【181】名無しの野次馬 10:21

海外案件っぽいな

 

【188】名無しの犬好き 10:22

その特徴だとグレートデンのハルクイン?

 

【193】名無しの映画好き 10:23

でもグレートデンを撮影に使う?

 

【195】名無しの犬好き 10:23

タレント犬ではかなり珍しいと思う

 

【201】名無しの通行人 10:24

小型犬じゃなくて?

管理大変そうだけど

 

【214】名無しの散歩人 10:26

あとで犬詳しい男友達に聞いたら、ハルクインじゃないかって。

珍しい犬らしい。

 

【219】名無しの映画好き 10:27

犬より周囲の空気が気になるんだが

 

【223】名無しの通行人 10:27

わかる

なんかピリついてそう

 

【230】名無しの野次馬 10:28

有名人でもいた?

 

【235】名無しの散歩人 10:29

俳優っぽい男の人いたけど見たことない人だった。

 

【242】名無しの映画好き 10:30

余計気になるやつじゃん

 

 

その日、映画の公式サイトが公開された。

タイトルは、伏せられていた。

 

 中央には、一頭の犬。

 その上には初老の男と中年の女。下半分には、二人の男の顔が並んでいる。

 どの顔も、わずかに影の中にあった。

 写真一枚だけの静かな公式サイトだった。

 だが、ファンは気づいた。

 水川は公式サイトに短い文章を載せた。

 「自分も気に入っている、警察をやめた男と愛犬の物語です」

 「三年前、主役が亡くなり、この話は一度立ち消えになりました。ですが今度は万全の準備をしています」

 その文章に、サイトの空気が変わった。

 三年前。

 企画が止まった理由を、ファンの多くは初めて知った。

 映画会社の事情でも、資金不足でもない。

 主役の死によって、一度終わった企画だったのだ。

 ネットでは、少し遅れて、静かな書き込みが増え始める。

 覚えていた人間がいた。

 待っていた人間もいた。

 立ち消えになったと思われていた映画が、三年越しに再び動き始めていた。

  

 

 反応したのは業界だった。

 映画の撮影だとは、誰も聞かされていない。

 ネットでは、役者と大型犬を見たという書き込みが広がっていた。

 スタッフは全員外国人。

 だが、役者は日本人らしい。

 「どういうことだ」

 「監督も知らなかったんですか」

 若いスタッフの言葉に、川上は黙って頷いた。

 映画の撮影なら、どこかで情報が流れる。

 役者。制作会社。ロケ地。機材。

 完全に噂が出ない方がおかしい。

 「ネットで噂になっているなら、写真とかあるだろう」

 「それが、写真はほとんど出ていません。スタッフもカメラマンも外国人らしいです。それに、撮影しようとしたら止められたって話もあります」

 「止められた?」

 川上の声が低くなった。

 「外国人スタッフと、ボディガードみたいな人間が複数いたらしいです」

 言葉が出ない、本当に国内か。

 

 自主映画ではあり得ない。

 国内の通常撮影とも空気が違う。

 

 役者は、川上は気になって尋ねた。

 「はっきり出てません。ただ、サイトの写真、丸川に似ていると」

 川上の表情が変わった。

 「知ってますか」

 「少しな」

 少しではなかった。

 名前だけなら、今でも覚えている。

 スキャンダルで消えた男だ。

 使うなという暗黙の了解が、業界にはあった。

 今とは違う。

 昔なら、アイドルを潰すのは難しくなかった。

 消えた人間は多い。

 だが、丸川は少し違っていた。

 あの頃、アイドルが舞台へ出ることはまだ珍しかった。

 そこで実力を認められれば、事務所にとっては大きな商品になる。

 だから競争も激しかった。

 丸川は、その競争の中にいた男だ。

 その男が、今になって映画を撮っている。

 川上は椅子の背にもたれた。

 拾った人間がいることに驚いた。

 業界の都合を知らない人間か。

 知った上で無視している人間か。

 どちらにしても厄介だった。

 「水川って誰だ」

 「原作者らしいです。商業作家じゃないみたいで」

 「同人か」

 「はい。昔から読んでるファンはいるみたいです」

 川上は小さく息を吐いた。

 同人作家。

 ネットで名前を知られた映像クリエイター。

 そこへ、業界から消えた役者。

 普通なら、どこかで止まる。

 金が尽きるか、人が離れるか、企画が潰される。

 だが、この映画はまだ動いている。

 新人が無茶をしているだけなら笑える。

 だが、外国人カメラマンが入り、写真が出ない。

 現場が管理されているとなると話が違うと思った。

 

 誰かが、後ろについていると思った。業界の外にいる人間だ。

「おい、上に話したか」

 「まだです。先に監督にと思って」

  若いスタッフの顔が少し明るくなった。

 「じゃあ」

 だが、その予感が現実のものとなったのは翌日だった。

 あの映画の役者、丸川二郎かもしれない。

 そんな書き込みが、ネットに流れ始めた。

 

 「監督、今いいですか」

 スタッフに声をかけられ、川上は顔を上げた。

 「消えているんです」

 「なんだ」

 「あのスレッドです。役者が丸川二郎じゃないかって話になってたやつです」

  川上は無言になった。

 「……サーバーのエラーか何かだろ。よくある」

 声を低く抑える。

 だが、自分でも苦しい言い訳だと分かっていた。

 「いえ、スレごと丸ごとです。ログも追えません。まるで最初からなかったみたいに、綺麗に消えてます」

 「……そうか」

 ただ一言だけ返し、川上は黙り込んだ。

 嫌な消え方だと思った。

 炎上した投稿が削除されることはよくある。

 それは珍しいことではない。

 事務所の圧力で記事が消えることも珍しくない。

 だが、ここまで綺麗には消えることはない。

 痕跡ごと消すには、人手も金も動く。

 しかも早すぎた。

 丸川二郎の名前が出た、直後だ。

 川上は小さく息を吐いた。

 若い連中の無茶な自主制作ではないのか。

 軽い話では済まなくなっていると思った。

 誰かが、本気で情報を消している。

 その事実が、驚きより先に不安を連れてきた。

 

 

佐川は報告を受けた。

 「ありがとうございます」

 短く礼を言い、スマホの電源を切る。

 「丸川さん、いいですか」

 役者たちが振り返った。

 「公式サイトの写真を見て、丸川さんじゃないかってスレッドが立ったそうです」

 「気づく奴がいるんだな。はっきりとは映ってなかったろ」

 神崎の声は、驚きより感心に近かった。

 「実は、神崎さんの名前も出ていたみたいです」

 「それで」

 水川が、小さく大丈夫ですかと尋ねた。

 「消しました。スレッドごとです。ログも追えません」

 佐川の言葉に、役者たちは顔を見合わせた。

 「……そんな簡単にできるのか? 時間がかかるって聞いたことあるけど」

 野々原が驚いたようだ。

 「韓国人とインド人のスタッフです。優秀ですよ。半日もあれば」

 佐川は淡々と言った。

 だが、その口調が逆に現実味を帯びていた。

 感情ではなく、作業として処理した響きだった。

 丸川は無言になる。

 芸能事務所が記事を止める。

 週刊誌に圧力をかける。

 そういう話なら、この業界では珍しくない。

 だが、ネットのスレッドそのものを痕跡ごと消すとなると話が違う。

 しかも動いているのは、日本の制作会社ではない。

 海外スタッフが、裏側の管理まで担当している。

 それは自主制作というには、あまりにも規模も統制も異質だった。

 「そこまでやるんだな」

 丸川が低く呟いた。

 「役者を守るためでもあります」

 佐川は迷いなく答えた。

 「この映画、まだ完成してません。途中で騒がれると、潰そうとする人間が出ます」

 部屋が静かになった。

 誰も否定しなかった。

 それが、この業界では十分あり得る話だと知っていたからだ。

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