ユリは残業で疲れ切ったまま扉の鍵を開き体重をかけて押し開いた。
「やあ♤」
そして見えた姿と聞こえた言葉に扉を勢いよく閉めて再度鍵をかけた。会ったことはないが知った顔だ、知った声だ。「それ」がハンターになった際に要注意人物としてネットワーク内のプロハンターには知らされた。自身の欲が赴けば約定も容易く破り同胞も手にかけることを厭わないであろう男。
何故ここに、どうやってここに。疑問は鍵が開く音に中断される。命の危機に体の内側からオーラが膨れ上がる。この場所は一般人も多い。本来なら躊躇の種だが、狂人なら気にしないはずだ。
陰で隠した自分の能力の壁を扉周りに張る。一秒稼げるかも分からない薄い壁だ。
開いた扉から不必要なまでに艶めかしい格好と雰囲気の奇術師が鋭い爪の伸びた片手を伸ばし、隠された壁に阻まれる。「おっと」わざとらしく手を引く。
彼女の能力で作りだした壁は強くない。壁があると認識された時点でそれは力を持たない。逃げるべきだろうか。背を見せるのは悪手にしか感じないがそれでも。戦闘能力において相手は格上だ。
「これは君の能力かい?」
「……何の用で私の部屋に不法侵入したのかを先に聞こうか? ヒソカ」
ヒソカ=モロウ。それが奇術師の名前だ。戦闘能力の強さもさることながら、最も注目されるのは彼の異常性。戦闘を、それも殺し合いを好む。
ユリは扉の先から視線を外さずに記憶を巡る。この男に目を付けられるようなことはしていないはずだ。当時のハンター試験には関わっておらず、仕事はほとんどが小動物の調査と保護。この男に関わることも目を付けられる理由も無い。
「実はとある人から君を『殺して欲しい』って依頼を受けてね。でもハンターは同胞を狩れないだろう? だから、そ・う・だ・ん♡」
話に信憑性はゼロだ。だが、否定する材料も無い。「この壁、触っても死なない?」と聞きながら既に片手で触れているヒソカ。触れればそこに使われたオーラの量も硬度もバレる。殺す気なら迷えない。
ぱきん。薄い硝子を割った音が響くと同時にヒソカを囲う壁が再度構成される。陰で隠さないそれはヒソカに見えているかは分からない。
「へえ♧」
念能力をほとんど封じられて嬉しそうにする人間に「狂人」以外の呼称は似合わない。
ただの壁ではなく中に居る者の念能力を封じる結界。ただ、強度は弱い。ヒソカが壁を蹴りつければ効力も壁も失われる程度。
「それ、さっきの壁と違うから」
「『相談』させてくれないんだ? 寂しいなァ♡」
「音は聞こえてるからそこで話せ。私を殺す依頼を受けたと、依頼主はハンターか?」
「ううん、知らないヒト♤ お金は持ってそうだったかな」
「……標的がハンターと知っていて何で依頼を受けた」
「面白そうだから♡」
「依頼を証明する――」
契約書があれば出せ。そう言おうとしたユリの目の前、壁の境界に一枚の書類が差し出された。
一瞬。たった一瞬。ユリの意識がヒソカから書類へと移された。
瞬間、壁は破られ契約書を貫くように鋭い踵がユリに迫る。
判断を後悔する前に踵を避けるため横に飛ぶ。壁を張るには時間がなさすぎる。もうアレは外に居て狂喜に嗤っているのだから。
能力が戦闘向きでないことを後悔することがあるなんて。
ヒソカが部屋から踏み出した足に力を込めるのを見ながらユリは誰も居ない廊下、ヒソカと自分の間にある廊下を「視」た。直後にヒソカの手が眼前に迫る。
だがヒソカは不自然に手を止めると「何か」を避けるように体を屈め、身体を一回転させると防御されたユリの両手の中に蹴りを叩きこんだ。オーラでの防御は間に合えど体は後ろに引きずられる。防御しても体の芯まで痺れるような感覚が残る。大型の魔獣から突進でも受けたのかと笑いたくなる。
追撃はない。
逃げる算段は頭に描きながらヒソカを見ると極力見えづらくしたはずの細い結界の端に触れ、目を細め嗤っている。攻撃の最中にそれに気付くのはバケモノだ。
気付かなければ片手に傷は負わせられたのに。
勝てない。それは変わらない事実だ。逃げられるか。それは怪しい。
「……結局殺しに来たのか」
「ううん♢ 相談に来たのはホント。でもどれだけ強いかは気になるじゃない、ね?♡」
「バケモノめ。私はもう全ての能力を見切られた。相談のつもりが欠片でもあるなら今すぐ部屋に戻れ」
「はいはい♢」
ひらひらと両手を振って容易くヒソカは背を向ける。防御に回した腕を解きながらユリはヒソカの足下を視る。その足を削ぐことが出来るかもしれない。だが相手は狂人、足の一本削いだところで残る足と能力でユリの命を奪うことが出来るだろう。
隠さず舌打ちをしてヒソカの後を追う。最悪、自分の部屋は視てある。敵意を見せたら一矢報いる程度してやろう。
見慣れた自分の部屋にあるソファーに深く腰掛けた奇術師が楽し気に手招きしている。死神の間違いかもしれない。
視線を外さず扉を閉めた。
「はいこれ、契約書♤ ちょっと穴空いちゃったけど」
座ったまま差し出された真ん中が破られた契約書。恐る恐る紙の端を取り上げる。書いてあるのは間違いなくプロハンター、ユリの暗殺依頼。前金と支払いの額、桁が大きい。方法は問わず、暗殺の証明としてユリの持つ携帯を依頼主に渡すことが書かれている。
依頼主はユリの同業他社、ライバル企業の社長だ。ライバルとは言っても動物の保護を掲げるユリと異なり希少生物の扱いについて違法な輸出や売買をしている裏の顔がある。
正当に保護を行いハンターという特典持ちのユリが鬱陶しくなったのだろう。
「で、相談って?」
「君くらいならバレずにヤれるんだけどさ、どうしたいかなーって。優しいでしょ、ボク♡」
「……ヒソカは金が入用なの?」
「別に♢」
暗殺依頼自体を買えはしないか。ソファーに座りながら我がもののようにテレビを付けたヒソカの興味がどこにあるのか。この選択も間違えれば死への一本道。
だが。ユリが迷うのは『方法』だけだった。
「興味が無いならこの契約をなかったことにしてほしい」
「ふうん? 依頼主は?」
「元々鬱陶しかった害虫だから」
ふと落ちた声色にヒソカはテレビへ向けていた視線を上げた。自分から視線を逸らしたユリは文字通り「害虫」を見下す、冷えた光の無い視線をどこかへ向けていた。
「潰すだけかな」
光もなく温度も色もない。
だがそこにはヒソカにとって自身に似た「快楽」と「愉悦」がある。イイなぁ。思わずヒソカから声が漏れ出る。一瞬で彼女の視線はすべての情を取り戻し、警戒の視線でヒソカを見る。
「ああ、ダメダメ♧ さっきの目で見てくれないと♡」
ソファーに寝そべるように深く深く腰掛けていたヒソカの姿が目の前で消える。ユリが身構える前に体が触れ合うほど間近に現れたヒソカの身体。慌てて距離を取ろうとするユリの顎が大きな片手に捉えられ身体ごと持ち上げるように力を込められる。反射的にユリの両手は顎を掴む手に添えられるがどれだけ力を込めても離れる気配はない。振り上げた足はいとも容易くヒソカの空いた片手に捕らえられる。
お行儀が悪いよ♢ 顔を寄せられ耳元に吹き込まれた言葉に鳥肌が立つ。
壁や結界を張るには位置が近すぎる。ユリ自身も巻き込まれる。加えて念能力には集中が必要だ。この状態で集中するのは。
自分を握る片腕に添えた手を少しだけ放す。気付いたヒソカが僅かに顔を放した瞬間、手元からヒソカの胡散臭い顔面に集中する。
瞬間的に放たれた殺意。鋭い何かが二人の顔を引っかけた。
「何だ、まだ手札あるんじゃないか♢」
荒々しく拭った頬に塗られたペイントがヒソカ自身の頬から流れ出る血によって歪む。ユリの頬から流れ出る血が顎を伝う。
「私を殺したいのか見逃したいのかどっちなんだ」
「ん~♤ さっきまでは殺しても良いかな、って思ってたけど。ねェ、さっきの目でボクを見てよ♡」
「……その、『目』に覚えがない」
「へえ? そうなんだ。……うん、イイね♢ ボクの依頼主を消すなら、協力してあげる」
ユリの目は鋭く「敵」を見るそれ。それも良いけど。背中を這い上るような興奮を覚えながらヒソカは己の身に纏わせたオーラを解いて見せた。
「ボクなら依頼完了の報告をするために君が指定した場所にターゲットを連れてこられる。君の力で『準備』、したいだろ?♧」
能力の利点も欠点も読み切られている。その上でオーラを解いてヒソカは片手を差し出している。「協力」するために。見るからに胡散臭い。ここで会い初めて話したユリでも彼が常習的な嘘吐きであることは断言できる。その手を取らなければ待つのは「死」か、他の何かだとしてもユリにとってどれも最悪の分岐だ。
自分の身体に纏わせたオーラを解かず、ユリはヒソカの手を取った。
よろしくね♡ 媚びるような甘く低い声にユリが眉根を寄せる。
「とりあえず、」
汚いものを払うように手を放し、彼女の視線が少しだけ落ちる。
「作戦はちゃんと立てたいけどその前に自分、鎮めて来てくれる?」
「君が手を貸してくれたら――」
「却下」
「じゃあ君のベッド――」
「却下。シャワーは貸してあげる」
ざんねん♢
先に感じた異常な執着を消したヒソカは「逃げないで待っててね」と変わらず媚びたような声を出してシャワー室へ向かった。
何でシャワー室の場所まで把握してるんだあの変態。後姿が消えるまで睨み続け、シャワー室から水音が聞こえ始めてからユリはようやく息を吐いて机に置いたノートパソコンを開いた。明日に備えていた仕事を確認し明後日以降に回すよう手配する。
ヒソカと共に居ることを誰かに話し助けを求めるべきか。頭に浮かんだ考えを振り払う。助けを求めれば「犠牲」が増えるだけだ。知り合いのハンターは同業者が多い、魔獣に対して強いハンターは居るが狂人を相手取り戦うことが出来るハンターは知らない。ハンター協会でも上位の人になるだろう。はあ。深いため息が出る。
厄介なのに目を付けられた。
目、といえば。電源を落としたパソコンを前にユリは自分の目の辺りに触れる。
――さっきの目でボクを見てよ
ヒソカはそう言っていた。覚えが無いと言った。嘘ではない。だが、自分に念能力を教えた師匠に同じようなことを言われた。もちろんあんな情欲を感じるような言葉ではなかったが。目がどうなっているというのか。
パソコン画面に浮かぶいつもと変わらない自分と目を合わせているとぺたりと水の付いた肌が床に触れ合う音が聞こえた。視線を向ければペイントと化粧が落ち、髪を下ろしたヒソカが宿に備え付けのバスローブだけを緩く着て歩いてきている。髪から水が滴る程度に濡れたまま。頬から赤を垂れ流したまま。
見惚れてくれた? ふざけた言葉に舌打ちを返して携帯を取り出す。どちらも気が変わらないうちに場所を決めて実行に移す必要がある。
周辺地図を携帯に映すと画面に水滴が落ちる。
背後から蛇のように滑らかに滑り込む両腕がユリの体を囲む。
「駄目じゃないか、オンナノコなんだから顔の傷は治療しないと♡」
血が固まりかけた傷口を抉る湿った厚い肉。
片手でヒソカの前髪を掴んで押し除けようとするも動かない。抉られた傷口から体温が流れ出しそれすらヒソカの愉悦を誘う。
背もたれのない椅子。密着した背中に感じる違和感に気づかないほど純潔でもない。変態が。この言葉はきっと彼を近づける理由になっても遠ざける理由にならない。
「私に、協力した報酬の話をさせろ……!」
絶えず痛みを生んでいた頬からようやく痛みが消える。
「金銭や貴重な物はどうせ興味ないでしょ」
「貴重なモノかあ……」
考え込むような声は耳に直接流し込まれるほど近くから響く。
きっとヒソカがこの姿勢を取っているのは熱を得られるだけが理由ではない。壁や結界の能力は見抜かれている。近過ぎる位置では自分自身すら巻き込む力だと、証明を終えているに等しい。互いに流れる赤が証になる。
抱きつかれているとも取りつかれているとも熱を押し付けられているとも言える姿勢は格下のユリにとって勝ち目を極限まで抑えられている。
「じゃあ、名前♢ キミの名前を、キミの、この口から」
囲む片手が持ち上がり鋭い爪の先で飾りの無いユリの口元へ触れる。
「おしえて♡」
爪の下に隠れた少し冷えた指先が唇をなぞりユリを急かす。
何も損なわない破格の契約。ヒソカは契約書から名前など得ているはずなのだから。
だが、言えば何かが締結される。
出会った時に感じた死の恐怖よりも冷たい何かに初めてユリは唇を震わせ、開いた。
「私の名前は、ユリ」
たった。これだけの言葉。
「ユリちゃん、よろしくね♢ 作戦決行はこの場所?♤」
背後から寄りかかられたまま彼女の唇に触れていた手が携帯を指し示す。思い出して息を吸い、ユリはヒソカの言葉を肯定する。今いる街の郊外にある人が来ない廃墟だ。叫ばれでもしない限り助けは呼べない。
「準備はどのくらいかかる?」
「ヒソカが呼び出して待つ間で充分」
「へえ♢ 良い能力だね。じゃあユリちゃんの傷の治療が終わってボクの服が乾いたら行こうか。でもその前に。もう一度シャワー借りるね♤ 良かったら一緒にどうだい?♡」
「さっさと離れろ」
怖い怖い♧ 心にもないことをよく言う。名残惜しむヒソカの腕がユリの体をなぞるように触れ離れる。
携帯の画面に落ちた水滴を拭い改めて場所を確認する。
本当にヒソカが「協力」するのであれば何の備えも不要に感じる程度に、彼は強い。ただの快楽主義だとしても闘いに関してユリが今まで会った誰よりもプロだ。
協力とは名ばかり。彼の暇潰しに付き合わされ、彼の興味が削がれれば遊びの対象は死ぬ。備えるならば相手ではなくヒソカに備えなければならない。
ため息を吐き、頬の治療のため応急箱を取り出す。流れ固まった血を削り、抉り開かれた傷口を押さえる。彼にオモチャ認定されてこの程度で済んで良かった。
ユリが治療を終え、出掛ける準備も終えるとタイミングを見計らったように奇術師の格好へ戻ったヒソカが髪をかき上げた。これから感じるであろう愉悦に目は細く口端は吊り上がる。どこまでも別種の生物だな。ユリは自身の携帯をヒソカへ投げ渡した。
「ロックは解いてあるから」
「男の連絡先全部消して良い?♤」
「駄目に決まってるでしょ。貴方の依頼主は元々登録してあるからそれも使って呼び出しなさい」
「はあい♡」
窓際で依頼主を呼び出すためにヒソカは電話を始める。短いやり取りの後にわざとらしいウインクがユリへ飛ばされる。わざとらしく漏れ聞こえてきた言葉を拾えば夜中にも関わらずすぐに会おうとした依頼主をヒソカの独断で待ち合わせを一時間ズラし後にした。優秀だが、礼を言う気にならない。
隙あらば手を伸ばして触れようとしてくる。間に薄い壁を張れば壁に阻まれてわざとらしく「ざんねん♢」と肩をすくめる。
「依頼主はひとりで来るって言ってたけどまあ嘘だろうね♧」
「別に良いよ。あの依頼主はハンターを知っていてもその能力として何が出来るかは知らないから」
「囮になってあげるボクへの心配は?♡」
「貴方の依頼主は殺さないでね。他は知ったことじゃないけど」
「えぇ、どうしようかな♢」
「……行こっか。話すのも疲れる」
ふたりの間を隔てる薄く弱い壁を解除し部屋の出口に向かうユリの背中に大きな体が寄り掛かる。ちょっと。文句を付ければ今度は容易くヒソカが体を離す。
絶対に何かしている。目にオーラを集めれば薄い糸のようなモノがヒソカの指先から寄り掛かったユリの肩を繋いでいる。
いつから、と思いながらユリは視線を前へ戻す。わざとらしく寄りかかってきたのは「今」のこと。だが、目を凝らさなければ見えないこれが付けられたのは今かどうか分からない。
いや、どうでも良いことだ。手持ち無沙汰にトランプを触りながらついてくる男が念能力を行使しているかどうかに関わらず、彼はユリのやることなすことを止める実力があるのだから。
ヒソカが依頼主と待ち合わせに利用する廃墟に近付きユリは振り返った。
「私はここから絶で行くから――」
「良いのかい? それ。気付いてるんでしょ?♤」
とん、とヒソカが指先でつついたのはユリの肩口。先ほど念による糸のようなモノが付いていると気付いた場所。
絶で体に纏うオーラを消してしまえば念による攻撃はほぼすべてが致命傷。相手がヒソカでなくとも同じだ。
「私が全力でも絶でもヒソカにとっては同じことでしょう?」
「そうだね♢」
「じゃあ聞かないで」
自らのオーラを完全に消し、無防備な背中を見せるユリへヒソカは片手を向ける。手招きするように指先を曲げ彼女へと伸ばした念の糸を強く縮める。彼女の低い呻きと共にヒソカにとって小さな体が飛んでくる。大袈裟に広げた両手で彼女の身体を抱き留める。
少しだけ感じた抵抗に片手で喉に触れる。途端抵抗は消える。弱く小さい命。
ただ彼女は生きるのを諦めてはいない。勝てないと悟りながら命の危機に瀕すれば静かになる。これは諦めではない。一瞬の隙にコチラを喰い破らんとする集中だ。
抱き締める力を強め、耳元へ唇を寄せる。
「キミは『同類』だよ♡」
「は?」
「ちょっと弱過ぎるけどね♢」
最後に何の飾りもない耳へ息を吹きかけ腕の中から放せば小さな彼女は耳を片手で隠し距離を取り振り返る。その間にだって殺せる隙は捨てるほどある。
同類。
耳に届いた言葉にユリのオーラが揺れる。
「ほらほら、気配消していくんだろ? オーラ、漏れてるよ♢」
「……」
仄かにオーラを立ち上らせ、不機嫌を露わにしたままユリは闇の中へと消えた。途中でオーラの気配は消えた。ヒソカを視界から外してすぐ冷静に戻ったのだろう。
まるで小動物。それも、牙を隠した小さな捕食者。まだ幼く弱く。誰かに食い破られるのを待つばかりの、仔猫のような。
惜しい。勿体ない。――欲しい。
ああ、駄目だ。ヒソカは自分の歪み吊り上がった口元を手で覆い隠した。お愉しみはこれから。こんなところで昂るのはまだ早い。
押し隠す下で何とか平静を取り戻す。何にしてもまずは、彼女の望みを叶えてやろう。
薄暗く眼下に誰も通ることのない街並みを見下ろせる廃墟の二階、硝子の無い大窓の枠に座ったヒソカは手元でトランプを弄ぶ。不躾で荒い足音はひとつといくつか、少し距離を置いて近付いてきている。
ひとつの足音がヒソカの居る階層に入り込んだ瞬間、後ろについていたいくつかの足音が不自然に途絶え生きている気配すら消える。素人相手とはいえ、充分な準備があればここまで綺麗に出来る。緩みかけた表情を取り戻すために自身の顔の前で片手をかざし、ゆっくりと降ろす。
背後の気配はすべて消えていることに気付くはずもないヒソカの目の前に鈍重な足を進める男は一般に高そうなスーツへ身を包み、仕事は終わったのか、と不躾に声をかける。
「もちろん」
窓枠に体を預けたままヒソカはユリから渡された携帯端末を取り出して掲げる。本当にやったのか。喜色を綻ばせる男へヒソカは問いかける。報酬は? 男は待っていましたと言わんばかりに両手を空へ掲げ、後方へ声をかけた。おそらく男に着いてきていた護衛であろう者たちに。返る言葉はない。そもそも男が声をかけた先に生きた命はない。
ヒソカは窓枠から軽く降り、手元の携帯端末を真上に投げて遊ぶ。
「これ、お土産に渡しても良いんだっけ?♢」
「駄目だよ」
男がやってきた方向の闇から濃い影が滲む。何故お前が――。男の言葉が不自然にかき消される。こんなことも出来るんだ♤ 笑うヒソカとユリには見える男を囲む立方体。中で激昂しているであろう男はユリに近付こうとして透明の壁にぶつかり尻もちをつく。
「携帯返して」
わめいているであろう男を見据えたままユリが片手を差し出す。男を囲む壁を避けてユリの手に端末を渡す。ユリの視線は男から離れない。
あの、視線で。
欲のままに伸ばしたヒソカの手が視線を向けられることなく叩き落とされる。
「今は駄目」
死や力に対する怯えが見えない聞こえない。彼女の瞳には底のない昏さ。このまま抉り出したらそれはずっと手元で昏く在り続けるだろうか。いやきっと、彼女が持つからこその色。人体蒐集の趣味はないつもりだったが今ならその趣味を理解できそうだ。ヒソカは芯から湧き上がる熱に浮かされながら彼女の首にかけそうな手を逸らして髪に触れる。
視界の端で動くモノを思い出し彼は視線をユリが見ている方向へ向けた。
暴れていたはずの男は震え壁を背に二人から距離を取ろうとしている。
「これは中から物と音が外に出にくいだけの『箱』」
口に出さなかった疑問に答えが返る。ふうん♡ ユリの髪に片手で触れたまま、もう片方の手でトランプを飛ばす。ただの刃となったトランプは男の腕を切りつけると立方体を通り抜けて向こう側へと落ちる。
外側からの攻撃だけを通し、恐らく中で叫び喚く男の声は聞こえない。中に居る人間が突破の術を持たない限り外の人間がどう遊ぶも自由。外の人間の言葉に中の人間が怯えるのも、その光景を外から見ることが出来る。
ほらやっぱり。ヒソカは爪の先で柔い彼女の首筋をなぞる。キミは「同類」だ。
不意に薄い硝子の割れる音が響いた。
「あれ、遊ばないんだ♤」
男が居た場所に男だった痕跡が赤いゴミの小山となっていた。
「遊ぶ趣味はないの」
「うそつき♡」
触れていただけの手を開きユリの細首を掴む。呼吸は止めてしまわない程度に強く。
ヒソカの指がユリの肉に食い込む。息苦しさにユリの瞳が潤み、それでも底の無い昏さをたたえてヒソカを見上げる。湧き上がる熱が、欲が、ヒソカの指に力を加えていく。
あんな悪趣味な「箱」を作っておいて? あんな目をしておいて? こんな策を立てておいて? それで常識に準じる人のふりをする?
「君の『欲』は『異常』だよ♢」
いつの間にか自分と同じ場所まで持ち上げていたユリの視線。飾らないその唇が言葉を紡ぎ出そうと動いていることに気付き手の力を抜く。
床から浮き上がっていたユリの身体が落ちる。
掴まれていた喉に触れ、何度か咳き込んだユリは暗い瞳を細め屈んだヒソカの目を見上げた。
「きょう、は……」
今日は? ヒソカが掠れたユリの声を反復する。
霞む意識。酸欠で回らない頭でユリが考えられたのは。
「残業で、つかれた……」
仕事が終わり厄介を消したという事実だけ。
ヒソカへ無意識に笑いかけ、体を支えるために床へ付いていた手が折れ体が倒れていく。ヒソカは倒れていくユリの頭を支えた。
——
寝返りを打とうとしたユリの身体が不自然に引っかかり金属音が鳴る。恐怖心よりも不快感に顔を歪めて目を開ける。視界に入る不快感の元凶が鳴る。
見慣れた宿のベッド、その柵に右手が繋がれている。緩衝材の付いた手錠で。すべてを思い出す前に可能な限り体を頭の方向にずらして上体を持ち上げて眉間の皺が深くなる。
見慣れない服だ。普段決して着ない白のネグリジェが着せられている。こんな服は持っていない、買った覚えがない。
何故寝ていたのか、何故こんなことに。思い出すとすぐにひとりに思い至る。
ひとまず手錠を外そうと手をかけると同時に寝室の扉が叩かれることもなく開いた。
「ああ、おはようユリちゃん♡」
ヒソカ。この状況を作り出した唯一の元凶。自分がまだ生きていることへの安心感と、今の状況への不快感が酷い。
「手錠外してもらえる? あと服、着替えたいから手錠外したら出ていけ」
「あの場から連れてきて介抱してあげたのに、酷いな♤ その服、気に入った?」
「脱いだら捨て……るけど。ヒソカ、介抱をしたって言った?」
「言った♡ あ、でも着替え以外で変なことはしてないよ、誓って♤」
「……鍵、ちょうだい」
近寄ってくるヒソカを警戒しオーラを身に纏うもその抵抗すらヒソカの一笑に下される。不必要なほどに体が近寄る。ベッドに座り込んだユリの身体の横に手を付き、乗りかかるように体を寄せたヒソカが鍵を差し込んだ。軽い音共に鍵が外れ彼女の手が解放される。逃げないんだね♢ と、耳元に囁かれ眉間に皺が再び刻まれる。時間をかけて距離を取ったヒソカが片手を差し出す。
手を弾くように叩きユリはベッドから降りる。体に違和感はない。ぐっすり眠っていたのか頭はよく回る方だ。
「出て行って二度と私に関わるな」
「ボクね、気に入ったものは逃さない主義なんだ♧」
ヒリついた空気の中。ユリの携帯端末が鳴った。ベッドサイドのローテーブルにあるはずの携帯端末が跳ねるように飛び、引き寄せられてヒソカの手元に収まる。
「どーぞ♢」
投げて寄越された端末の画面に映し出されるのは念能力を使えない仕事仲間の名前。そして一日以上寝ていたことを示す日付。
視線を上げればヒソカは背を向けてひらひらと片手を振っている。またね♡ 聞こえた声に知らないフリをするとすぐに部屋の扉が閉じる音が聞こえた。
通話ボタンを押すとすぐに勢いよく心配の声が飛んだ。けれどそれに応えるユリの意識は集中しきれなかった。