次の依頼は特異環境での希少生物の捜索と保護。携帯端末を眺めながら彼女は喧騒を避けて歩いていた。見上げたならば地上二百階以上にそびえ立つ塔が目に入ることだろう。彼女には目に入っていなかった。今日中に登録してあの中に入るがその前に「稼ぐ金額」は計画を立てておく必要がある。
天空闘技場。戦闘を重ね階層を上げて勝ち進むことでファイトマネーを得られる。事前に試合映像はいくつか見たが、念能力者は少ない。上層階には何人かいるようだが念能力者に当たったとしてもある程度は上に行って金を稼げる。次の仕事に問題ないほどには稼げる。
素人相手でも怪我を最低限に抑えれば問題ないはずだ、きっと。多少の罪悪感を感じながら歩くユリの足に何かが勢いよくぶつかった。
彼女の足にぶつかったのは少年だった。短い髪に、白い胴着を着ている。闘技場の参加者だろうか。それにしては若い。
「ごめんね、よそ見してた」
「いえ、自分もよそ見をしてたッス。すみません!」
胴着の少年はよろけかけた体をすぐに元に戻すと体の前で構えを取った。大丈夫だと言いたいのだろう。
大丈夫なら良かった。声をかけようとしたユリが言葉を紡ぐ前に、ズシ、と穏やかな男性の声が少年の名前を読んだ。
穏やかそうでいて、気怠そうな声。
ユリが視線を向けるとシャツの裾をズボンからはみ出させ無造作に髪を跳ねさせた眼鏡の男が居た。ズシと呼ばれた少年は男を「師範代」と呼び駆け寄る。
雑踏の中で存在感が消えてもおかしくない、どこにでもいるような男だがユリは彼をよく知っている。この数年、連絡すら取っていなかったがよく知っている。
「ウイング?」
彼女にとっての元同僚だ。仕事を共にしたこともあるが目指す場所にお互い向かうという理由で離れた。その頃と変わらない雰囲気に笑いかける。
「おや、ユリさん。お久しぶりです」
「数年ぶりだね。天空闘技場に——ああいや、指導かな? ふふ、よく似合ってるよ」
「からかわないでください……。ユリさんは天空闘技場に参加するのですか?」
「そう、ちょっと仕事でお金が入用でね。適当に何か食べたら登録に行くよ」
親しげに話し合う二人を見上げ見比べていたズシが首を傾げる。師範代のお知り合いッスか。
ユリから見れば幼いズシへ微笑む。
知り合いというか元同僚だよ。今は別の仕事をしているけど。
じゃあ。大きな声を出してズシの目が輝く。どこまで師範代、ウイングのことを知っているのか分からないがユリはこの視線を知っている。憧れと、好奇心だ。
天空闘技場に居るのか目指しているのか。どちらにせよ凄惨な光景を知っているはずの少年は屈託のない期待を目にユリを見上げている。
「……せっかくだし、ご飯まだなら一緒にどう?」
「いいですね、是非」
奢ってくださるのですか? お金稼ぎに来たって言わなかったっけ、別に良いけどさ。
ズシは普段見ることのない師範代の「友人」に対する姿に呆気にとられて足を止めるとすぐに師範代の友人ユリが振り返りズシを待つように歩みを遅くする。ウイングをからかうために君からも話を聞きたいな。声をかけられてズシはその輪の中に走り込んだ。
個室で食後の飲み物を楽しむユリはズシの質問攻めに笑って答えていた。
仕事は何をしているのか。小さく希少な動物たちの保護と調査を。危険じゃないのか。動物たちはほとんどが野生だから危険なこともあるが、だからこその力はある程度持っている。
ハンターってすごい。
興奮のままにズシが追加の飲み物を取りに行くと静かに感じる個室の中に二人が残される。
「変わりはありませんか?」
「無い——とは言えないかな。名前くらい知ってるかもしれないけど、前のハンター試験で合格したひとりに目を付けられてね」
「念を使える貴女が気にするほどですか?」
「アレは元々念を使ってきてるとしか考えられない。正直、戦闘だけなら私より格上だよ」
「……ここで話すということはここに来る可能性があるのですね。気を付けましょう」
「うん、そうしてほしい。必要なら情報を共有するから連絡先、くれる?」
「ええ、もちろんです。無理はしないように」
互いの携帯端末を取り出し連絡先を交換する。関わらなきゃ大丈夫だよ。
そう言って笑うユリの姿はウイングが覚えている姿から何も変わっていない。
ズシが戻れば賑やかな話題が戻る。普段の仕事の内容に何故天空闘技場へ来たのか。
ひとしきり話したユリは時間を確認する。受付時間には限りがある。明日にしても良いが明日にする理由はない。
卓の端に置かれた伝票を拾い上げる。
「再会を祝してここは奢るよ」
ウイングとズシの礼を背に受けながらユリは天空闘技場の受付へ向かう。
ユリが居なくなり残った師弟はしばらく彼女について楽しく言を交わしていたが不意にズシの向かいでウイングは浮かべていた笑みを消してズシの名前を呼んだ。楽しい会話と新たな知識に目を輝かせていたズシは師範代の真剣な声色に姿勢を正した。
「彼女が天空闘技場に参加するのであれば街で会うこともあるでしょう」
素直に頷きながら内心で首を傾げる。先ほどの女性と師範代が友人ならば街で会えるのは良いことなのではないのか。目の前にあるのは楽しげな顔ではない。自分を叱るときとも違う、ただ真剣な表情。
「彼女と一対一になることを禁止します」
え。反射的にズシの口から疑問が溢れる。あんなに良い人なのに。何故。ウイングは真剣な表情のまま人差し指を口元に当てる。
「危険だからです。もし偶然会ってしまったなら極力話さず私の居る部屋まで連れてくること。良いですね?」
反対意見の許されない雰囲気にズシはただ頷いた。すぐにウイングはよく知る穏やかな表情に戻った。では修行に戻りましょう。
彼らの修行の場はウイングが借りている一室にある。ホワイトボードに書かれているのは念の四大行。これらを収めることがズシの闘技場参加の条件。まず生命エネルギーを肉体に留める纏。ウイングにとってズシの技術は未だ発展途上。中途半端な状態で送り出すのは怪我の元。
意識が逸れオーラを乱したズシに声をかける。自分の状態に気付いてすぐ安定させることができるズシは優秀だ。
歓声が小さく聞こえてくる。見ればテレビ画面がつけっぱなしになっている。ズシの心を乱したのはこれか。迷いなくテレビの電源を落とそうとすると天空闘技場の様子が映し出されウイングの手が止まる。
戦っているのはユリだ。百階へ上がるための試合。ユリの相手は念能力者ではない。
負けることはないだろうが視線を外せない。
画面に映るユリは相手の攻撃を躱すと一発の蹴りで相手を床に沈める。ダウンのポイントがとられカウントが始まる。立ち上がろうと地面に手を付いた相手選手は何かに阻まれるように立ち上がることが出来ない。念能力が使えない人間には見えないだろう。相手選手が立ち上がるのを阻むようにそこには「箱」がある。背が低く立ち上がろうとする選手の背を押さえつける。
ユリの能力だ。ウイングが知っている頃から変わりない。ユリはカウントが終わるまで相手選手から目を放さない。カウントが終わりユリの勝利が確定するとようやく彼女は視線を外して控えへと戻っていく。
本当に強い人なんですね。ズシの言葉にハッとしてテレビの電源を落とす。振り返るとズシが謝った。修行途中だったが集中を切らしてしまった。
それはウイングも同じだ。
ユリを、ユリの試合を見ている間ズシのことが意識の外にあった。指導者としてあるべきでない姿だ。
もう一度。自分へ言い聞かせるように声をかければズシはすぐに「押忍」と言って念の修行へ戻った。
天空闘技場に来る前から見ればずいぶん増えた通帳の額をユリは見ていた。天空闘技場の最上層にある栄誉には興味が無い。出来ることなら百九十階で一戦して勝ち、ファイトマネーを得て仕事に取り掛かるのが望ましい。
彼女は闘技場の控え個室から出て街で買い出しに来ていた。基本的なものは闘技場内で揃うとはいえ菓子や娯楽の類は乏しい。未だ苦戦はないが百階以上からは階層を上げていくことにも時間がかかる。次の仕事開始には間に合うのだからせっかくなら羽を伸ばしたい。購入した菓子のひとつをかじりながら歩いていると最近会った白い胴着の少年が目に入る。
ズシくん。声をかけると少年は目に見えて驚き買い物の荷物をひとつ落とした。それは転がりユリの足下に辿り着く。ごめん、驚かせたね。拾ったものをズシに手渡すも目が合わない。ズシの名をもう一度呼ぶとようやく目が合うがすぐに逸らされる。
周りを見渡す姿は逃げ道を探す動物たちによく似ている。
買い出し中に会いたくなかったかな。その場から離れようとすると勢い良くズシが顔を上げる。
「あの! 師範代がユリさんに用事があるって言ってた、ッス……」
「ウイングが?」
携帯端末に連絡は来てなかったはずだが。ユリの目の前でズシの視線が彷徨う。
「うん、分かった。じゃあ案内お願いしていい?」
「あ、もちろんッス! ありがとうございますッス!」
なんとも。
今にも駆け出しそうな勢いで歩いていくズシの後ろを歩いていくユリは苦笑を浮かべる。
なんとも嘘を吐けない素直すぎる子だ。自分も嘘が上手いとは思わないがこんなに素直で大丈夫なのか。いや、あの師匠あっての弟子なのだろう。
戻ったッス。ズシが賃貸の一室の扉を開いた。おかえり。中から迎える声が聞こえてズシの身体は少し強張る。
「師範代、えっと、」
言い淀むズシの後ろからユリがウイングへ笑いかける。
「ウイング、私に用事だって?」
「——ええ。少し話をしましょうか。ズシ、案内助かったよ」
ユリに見えないウイングの正面で心底安堵の表情を浮かべたズシは買ったものをしまってくる、と部屋の奥へと駆けこんでいった。
「君に似て随分嘘が下手で心配になる子だよ、ウイング」
「ふふ、私の伝え方が悪かったのでしょうね。その手の中にある物で腐るものはありますか?」
「ないよ。今日明日は多分試合もない」
「それは良かった。では早速ですが、ユリさん。直近いつ、念の基礎訓練をしましたか?」
お邪魔します、と部屋に入りかけていたユリの足が止まる。荷物は持ちましょうと手元の買い物袋は柔らかく奪われる。遠く部屋の奥の方でズシがあわただしく荷物をしまっている音が聞こえてくる。
「あー、基礎かあ。師匠と別れた後はどうかな……。まあ、うん、やってないことはない……」
「誤魔化さない」
「師匠との修行後、ちゃんとはやってない」
「今日明日はズシと共に基礎訓練です」
えー。子供のような拗ねた言葉に返るのはウイングの笑顔。優しそうでいて頑ななのがよく分かる。この顔になったウイングを説得できた試しがない。
渋々ユリが頷くとウイングはズシを呼び出しユリの荷物もしまってくるよう伝える。私のおやつが。差し伸べた片手の先で心底不思議そうにしながらもズシは荷物を片付けるために背を向けた。
ウイングに基礎訓練をすることを強制的に決められたユリは念の基礎が描かれたホワイトボードの前で不満を隠さない。ズシと共に念の基礎と四大行について聞かされる。
「ではズシ、纏を」
「押忍!」
ユリの隣でズシがオーラを身に纏う。これが出来るなら闘技場参加したら良いのに。どこか他人事でそう考えユリも同様に纏を行おうとする。
「ユリさんは練で」
え。ズシとユリの声が重なった。纏が乱れていることを指摘されズシは慌てて視線を前方に戻して纏へ集中する。
「疲れるから嫌なんだけど」
「今のユリさんがどの程度なのか私には分かりませんから。それに纏は日常的に使っているでしょう?」
「……そうだね。分かった。でも、ズシくんが念能力触れ始めたばかりなら集中は出来なくなるよ」
「構いません。それも修行です」
深くため息を吐いてから、ユリはズシに向けて「厄介な師匠に付いたね」と笑いかけた。
一度緩く片手を握り目を閉じる。そしてゆっくりと目を開くと同時にユリが身に纏うオーラが膨れ上がり立ち上る。そのオーラ量に圧倒され、物理的に何の干渉も発生していないにも関わらずズシはユリから遠ざかるように尻もちをついた。
「ズシくん、纏は乱さない方が楽だよ。今私がこれを向けてるのはウイングだしね」
「やると思いましたがやめてほしかったです」
「平然と受け止めてるやつがよく言うよ。ズシくん、座ったままでも良いから落ち着いて纏を整えて、出来るなら立ち上がってごらん」
何もされていないのに圧倒されて倒れる量のオーラを「向けられ」ているはずの師範代は困ったように笑っている。変わらず圧力を感じるほどのオーラを出しながらも優しく声をかけてくれるユリ。これに「敵意」はない。ズシは自分に言い聞かせて纏を整え、普段よりも強く身に纏ってから立ち上がる。足は震えているかもしれないが、立つことは出来る。強い子だ。師匠よりも師匠らしい言葉に体勢を整える。自分が集中しやすい形で。
「私は争うのが苦手だからそんな機会は早々ないけど、念能力者同士の戦いでオーラの総量が負けることはよくあることなんだよ。……って話は君がすべきでしょ、ウイング」
「説明してもらえるならありがたいですが、そうですね。それでも戦う必要があるならば『心乱さないこと』が前提です。心を乱しオーラを乱せば纏すら消える。念能力を用いた攻撃をその状態で受ければ良くて大怪我」
悪くてどうなるか。ユリの隣でズシは返事も出来ずただ纏を強く整える。
敵対しない状態で誰かの圧倒的なオーラを身に感じることが出来たのは幸運ともいえる。普段よりも強く纏を維持するズシの姿から、ウイングは視線をユリのオーラへと移した。
ズシには良い機会であり、今のユリのオーラを見られたのは自分の幸運。ズシに比べれば圧倒的なオーラ量。これほどの力を立ち上らせていても発動直後のユリに疲れが見えない。ウイングが知っている時代のユリと変わらない。持続時間はこれから見ればいい。
問題は、オーラを留める質だ。
彼女は自分でそう言っていたように戦闘を主とするハンターではない。それでも魔獣と争うなど命の危機を感じることは多かったはずだ。元々ウイングが知っている時点で彼女は他の人たちよりもオーラを静かにとどめることに長けていた。
オーラの総量は知っている頃から増えている。
だが、立ち上るオーラは静けさとは違うものを感じさせる。炎のように立ち上り、登り切ったオーラが途切れ千切れて僅かばかりだが継続的に消えていく。簡単に言ってしまえば無駄が見える。
循環するように留める術をどこに置いてきたのか。
「ウイングは闘技場参加しないんだ?」
修行を始めて十分程度、慣れない強度の纏にズシが疲れを見せ始めた頃合いにユリが問いかけた。練を使っていてもこの時間では余裕しかない。
「しませんよ。今はズシを鍛えていますから」
「ウイングは基礎を延々聞かされやらされてたらしいから向いてるよね」
「せめて戦闘特化ではないと言ってくれませんか?」
ユリの言葉に驚いたズシが纏を乱し休憩のため離脱する。
「素直だなあ、ほんとに」
奥の部屋に向かったズシが見えなくなってからユリが呟く。
「ぶつけられない前提で強いオーラに当てられるのは良い修行です」
「……ズシくんが街中で完全に私から逃げようとしてた理由を聞いても良い?」
「影響を受けると困りますから。ズシは見ての通り良くも悪くも無垢で全て吸収します。あなたの能力を聞けば目指してしまうかもしれない。彼に発はまだ早い」
「指導するのは大変そうだなあ」
「先ほどの言葉を聞く限り貴女も弟子を持てそうですよ」
「無理無理。そもそも仕事があるし」
続けて数十分練を継続しズシが戻ってきてもユリは笑顔で手を振って迎えた。
日が暮れ始めてユリが疲労を訴えた。
明日も稽古をする約束を取り付けられて宿に戻ったユリは適当にシャワーを浴びるとベッドに倒れ込んだ。携帯端末を見ると律儀にもウイングから「明日の修行を忘れずに」というメッセージが届けられている。サボればこのメッセージが着信履歴に変わることは想像に難くない。布団をかぶってため息を隠す。
こんなところで昔の知り合いに会うとは思わなかった。ヒソカのことを伝えられたのは良い。だが、ウイングの性格上会いたくはなかった。どこまでも生真面目なのだから。
こうなったらさっさと百九十階までの試合を終えて退散しよう。
ユリの希望とは裏腹に、不思議と百階以上の挑戦者たちは何かを避けて次々と棄権していったためにウイングとの基礎修練はしばらく続いた。
天空闘技場自体に興味がないユリはその原因に相対するまで気付かなかった。
百九十階での試合。呼び出される自分と相手選手の名前にユリの足が止まる。
ヒソカ選手。
アナウンスされた名前。間違いか同名の別人か。
ユリはいつも以上に賑わっている会場に足を踏み入れる。今にも試合開始を宣言しようとする審判を挟んで向こう側に立つのは奇術師。背筋を走った間違いのない怖気に鳥肌が立つ。
間違いでも別人でもない。
かつて同胞ハンターであるユリの暗殺を容易く請け負い、気紛れで依頼主を裏切った。決してユリの味方としてではない。
隠す気もない悪質でまとわりつくような気色の悪いオーラ。敵を倒すためではなく弄ぶための力に対応するためにユリも自身のオーラで身を包む。それを「準備が出来た」と感じた審判が試合開始を告げようとする。
この試合は勝つ勝てないではない。そもそも金という対価には釣り合わない代償だ。
「こうさ——」
「ボクねェ、今暇してるんだ♢」
降参を告げようとするユリの言葉を遮りヒソカが話し始める。リングから離れていた審判が「降参するのか」とユリを伺うが、彼女は話し始めたヒソカから目を離せない。
「キミが遊んでくれないなら、外に遊びに行こうかな♡」
そしてヒソカはわざとらしく人差し指を立てた。かつて自分に付けられた糸のようなモノを思い出し、凝を使ったユリの視界に陰で隠された文字が映り込む。
ヒソカが作った文字。それは「ウイング」と「ズシ」ふたりの名前だった。
画面越しに彼ら二人が何を話しているのかは分からない。テレビでその光景を見ていたウイングはユリと彼女が相対している男の会話内容を推測し、出した結論に拳を握る。降参しようとしたユリは審判へ明確に試合続行の意志を告げる。相対する画面越しにも分かる禍々しいオーラ。
ユリが言っていた、彼女に目を付けたというハンターだろう。彼女は格上と分かっている相手と正面から戦うほど愚かではない。先ほどヒソカの指先で作られた名前が原因で、彼女は身構え負けが決まった試合へ足を踏み出した。
試合開始の合図と、直後にテレビ画面を見ていたズシが感嘆の声を上げる。普段は二百階かフロアマスターの試合でしか見られない念能力者同士の試合。質と、どちらが優勢か見分けられずとも武芸を修める者にとって圧倒的だろう。
一見すると互角に見える攻防の後、腹に掌底を受けたユリの身体が場外に飛ぶ。クリティカルとダウンのカウントが取られる。念での攻防が見えていれば飛ばされる直前でユリの飛ばした念弾がヒソカにヒットして見えるが、天空闘技場では見られる人が少なくポイントにはならない。せいぜいヒットした音が審判の疑問になる程度。
このままリング外に居ればカウントが継続し負けになる。土煙の向こう側でユリは観客席との境になる壁を蹴りリングへ戻る。
純粋に応援するズシの声を遠くに聞きながらウイングはただその光景を見ていた。ズシには互角か、ヒソカが多少勝って見えているだろう。実際は違う。ウイングの目に映るユリは間違いなく全力だが、ヒソカは違う。ダメージを負うことすら楽しんでいるような雰囲気が見える。そもそも立っている場所が違う。
ヒソカが知っているかは分からないがユリの能力は格下や念能力を使えない相手にこそ有効だが、同等以上の使い手には事前準備がない限り大した力にならない。
ヒソカは相対するユリの能力を知っている。利点も欠点も。彼女は殴り飛ばされながら考えていた。自分の能力は発生させる箇所を完全に把握しているか、見る必要がある。土煙で視界が遮られればやり直しだ。
場外に飛ばされヒソカのポイントが増えるのはユリの焦燥と安堵を同時に膨らませる。試合が早く終わることで自分の痛みはすぐに終えられることになる。同時に、ヒソカの暇な時間が満たされていなければ毒牙が向かうのは会場の外だ。
場外へ向かって飛ぶユリの身体が空中で留まったかと思えば不自然にヒソカへと引き戻される。場内でヒソカは片手で念の糸を引き寄せ、片手はユリを殴るために待ち構えている。
能力を知っていても戦闘能力で上回らない限り防げない。防げないことは向こうで待ち構える攻撃を甘んじて受けることと同義ではない。ユリは自分の手の内に壁の応用でナイフの形を作り念の糸がある場所を斬る。念の糸が切れても空中でヒソカに向かって飛ぶ力は止まらない。念の糸が切られたことでヒソカは笑みを深く、オーラをより悪辣に増長させる。
ユリはヒソカと飛んでいる自分の間に壁を張る。身体がぶつかり会場内の地面へ落ちる。間髪入れずに降りかかるヒソカの拳を転がるように避け距離を取る。会場の実況が不可思議な光景と試合の激しさに興奮する。他の人間のために念能力を隠すだとか、余計なことは考えられない。ここで容易く負ければ。
「ああ、ほら♤」
間近で聞こえた声にユリは防御の構えを取る。構えの中に想定より軽い拳が落ち、防御のために狭まった視界の外から飛ぶ蹴りがユリの脇腹に食い込んだ。ユリの身体はボールのように一度リング内で跳ねると今度こそ場外へと吹き飛ばされ壁に背をめり込ませるようにぶつけた。
「今ボク以外の男のことを考えたね♧ 集中してくれなきゃ♡」
壁からはがれるようにユリの身体が地面に落ちる。やれるか、と審判の声が自分の拍動の外に聞こえる。何度か咳き込み顔を上げる。ヒソカの点数は既に九。あと一ポイントで終わる。
「終わってしまうまでにボクから一点取れたら、遊びに行く話は無しにしてあげようか♢」
進んでいくカウントの中にヒソカの言葉が響く。
「ヤクソク、してあげるよ。元々キミに逃げられないための口実だからね♤」
生まれながらの嘘吐きのような奴が何を。そう思いながらも縋る以外の道がユリには残されていない。
カウントが終わる前にユリは場内に戻った。ヒソカはすぐに動かない。どうぞ♢ と、片手を会場へ向ける。その能力を存分に使って準備をしろと言外に言っている。馬鹿にされようが、下に見られようが、準備の時間があるなら甘えない選択肢はない。
ヒソカに向かっても、負けに向かっても、どちらも一点。
ヒソカの圧倒が見えてきたのかズシの応援には力がなくなる。能力が見えずとも点差と彼ら自身を見ていれば一方的な暴虐であることは分かる。
何で逃げないッスか。
悔しげに漏れたズシの言葉はマトモな人であれば考えること。そしてウイングは口が裂けても言えない言葉。
――一点取れたら、遊びに行く話は無しに
先ほど中継が捉えた音声をウイングは聞いた。そうでなくとも彼女は逃げない。ズシと自分を護るため。
余裕を崩さずヒソカは片手を会場に向ける。ユリは警戒を崩さず会場を見渡した。途端会場に乱立する光の柱、否、箱。念能力で具現化する物が多ければ多いほど、使用するオーラの量も増える。戦闘中に動きながらともなればその消費量は倍増する。
これを破られれば、ユリに後はない。纏を、堅を続けられる余力が残るかどうか。
画面越しに見ている間に会場に乱れ立てられた柱は一本ずつ確実に減っていく。この柱は時間稼ぎにしかならない。結界を応用した刃は普通目に見えない。一点にならない。ユリは何を考えているのか。障害すら楽しんでいる様子のヒソカが会場内で一番大きな柱を壊した。
光の破片が戦う二人を囲うように飛び散り、柱に隠れるように距離を取っていたユリがヒソカと向き合い片手を振った。直後会場を照らす光が中空で壊れた結界の破片によって一点に集まる。ヒソカの目に。
急な強すぎる光にヒソカの視界が白に染まる。同時にユリのオーラと周りにあった柱の気配が消える。絶。だが念能力者に絶状態での攻撃はほとんど意味がない。どこからか一発を入れるつもりか。
背後に浮かぶように現れるユリの気配を頼りにヒソカは拳を向けた。
硝子の割れるような高く軽い音が響く。実況が虚空に拳を振ったと興奮気味に叫ぶ声と同時に鈍い衝撃がヒソカの頬を打った。
ヒソカは光が明滅するような視界で審判が自分たちの姿を捉えていることを確認し、自分を打ったユリの身体を掴んで引いた。引き寄せられ一点に集中させていたであろうオーラが巡るユリの身体にヒソカの踵が食い込み飛んだ。
会場の端に土煙が発生し、ようやく審判は飛ばされたユリに対してクリティカルとダウン、そしてヒソカへのクリーンヒット一点を告げた。ヒソカの勝利が確定し、試合中一番の盛り上がりを見せる歓声が上がる。消えた土埃の向こう側で倒れた姿勢から起き上がろうとするユリが見えてくる。審判や控えの会場スタッフに意識があるか、立てるか、と聞かれている場所に彼は不躾に割って入り彼女の身体を拾い上げた。
闘技場スタッフが止めようとするがヒソカは彼女の自室に医療スタッフを付けるように言い残し、最後に中継用のカメラへ一瞬目を寄せてから会場を後にした。
「約束は守れ」
横抱きにしたボロボロの姿から掠れた声が聞こえる。
「もちろん♢ 頑張ったユリちゃんにご褒美もあげる♡」
「要らない、私に関わるな、消えてくれ」
「つれないな、そんなところも可愛——」
横抱きされたまま近づいてくる顔をユリは思い切り男の髪を掴んで後ろへ引っ張ることで止めた。
「お前、は、常人と相容れない狂人だ……! そんなやつに褒められたくない!」
「ご褒美はキミの大好きな『希少な動物』についてなんだけど?♤」
想定外の言葉に固まったユリの額に柔らかいものが触れ、反射的に体を捩って逃げたユリの身体が床に落ちる。鈍い音と鈍い痛みが全身に広がる。
あらら♧ 愉し気に笑ったヒソカは痛みに悶えるユリを再度拾い上げ、彼女の部屋への歩みを再開した。
ユリとヒソカの試合から一日。
ウイングはズシに後押しされる形で見舞いの果物を抱えてユリの部屋の扉を叩いた。部屋に居ることは事前に連絡して確認してあるので声をかけた。
「ウイング? 見舞い?」
心底不思議そうなユリの声が聞こえ、ウイングの目の前で鍵を回す音がする。
開けてくれたのか、とノブに手をかけるがガチン、と鍵に阻まれる。先ほどの音は鍵を「開けた」のではなく「閉めた」音か。
見舞いの籠を片手に引っ掛け携帯端末からユリに発信する。数度のコールの後、発信は向こう側の意思で切られる。そんなやりとりを何度か繰り返すとユリを呼ぶコール音は鳴り続け、ウイングの目の前で扉が開いた。
「見舞いとか要らないんだけど」
「お見舞いだけだとお思いで? あんな無茶をしておいて」
返ってくる言葉に閉まっていく扉。携帯端末を持っていた手で閉まっていく扉をウイングは押さえた。
「こら、観念しなさい」
「それが見舞いに来たやつの台詞か!」
「とにかく中に、入れなさい」
文字通りの押し問答を続けていると不意に内側から拒否する力が弱くなりウイングが部屋の中へと足を踏み入れた。
「はあ、まったく。怪我人なのですから力を使わないでください」
「使わせてるの誰だと思ってるの……」
見舞いの品はここに置いておきます。部屋の中心にある大きな机へ果物の詰まった置き、改めてユリに向き直る。普段と変わらない動きやすい服を着ているが頬や首、手首など至る所に治療の痕跡が見える。自分とズシを護るための怪我だ。
「遅くなりましたが……ズシと私を守ってくださりありがとうございます」
「……いや、多分巻き込んだのは私だよ。いつから狙われてたかも分からないんだ。口約束ではあるけど君たちに手を出さないって」
「あの試合の後、話したのですか?」
「約束を守るつもりかくらいは聞いた」
二百階にいったヒソカは気ままに試合したり不在したりする予定らしい。憎々しげにユリは眉を寄せる。まさか挑戦しようなんて。ウイングの言葉は遮られる。勝てない試合は二度としたくない、と。
声が沈むように消える。
部屋の中でつけっぱなしのテレビが歓声を雑音として部屋に流す。映るのは天空闘技場下層階の試合。
「あの試合、見られてたのは少し恥ずかしいな」
「貴女の力は『保護』のためでしょう? あれを相手に応用してよく戦えていたと思いますよ」
「……そうだね、そう思おう。見舞い、どうもありがとう。ズシくんに心配かけてるなら大丈夫と伝えておいて」
会話を終わらせ背を向けるユリへ、ウイングは手を伸ばしかけて握る。
「もう一戦はするのですか?」
握った手を解いて聞くのはユリの目的。
金銭が目的なら百九十階のファイトマネーは魅力だろう。大窓から外を見ていたユリは笑顔で振り返る。
「するよ。あれから他の試合を見てたけど流石にあれほどの相手は居なさそうだからね」
やめておきなさい、そんな言葉が出かかる。ユリ自身強くともその力を戦うことに使うなと。
戦うのはユリの選択であり目的は仕事、ハンターらしく言い換えるならば狩りのため。他人に言われて止まる目標をターゲットに掲げるようなハンターは居ない。ターゲットを追うために命の危険があるハンター試験を受け、命の危険を犯して狩りに行く。
「せめて、傷は治しなさい。念の基礎修行も怠らないように」
その手を引いて止めるのは愚行、だ。
「はいはい。ファイトマネー得たらもう仕事行くから、元気でね」
「貴女も」
下層階の試合をテレビで垂れ流し、次の試合に向けた準備を進める。早ければ明日、ユリは百九十階の試合を終えて街を後にする。
——貴女の力は『保護』のため
ウイングの言葉が不意に脳裏によみがえりユリの手が止まる。
手元と把握している場所でしか有用とならないこの力は保護のため。
それならどうしてこれほどまでに引っかかりを覚えるのだろうか。
『君の本質はやっぱり[保護]なんかじゃないね♢』
試合の後、自分を部屋に運んだ奇術師の言葉がウイングの言葉を上書きするように思い出される。
軽く頭を振る。
次の仕事は奇術師が提示した「保護」の仕事だ。