人間、いつどこで、どうやってその天寿を全うするかなど誰にも分からない。
だが、その時の俺が言える確かなことは、人生の最後の瞬間まで、己の欲望と魂の叫びに極めて忠実であったということだけだ。
「サクラちゃん、マジで可愛い……。なんでみんな、あの子の魅力に気づかないんだ……?」
薄暗い自室。液晶画面のブルーライトが、俺の熱を帯びた眼眸を怪しく照らし出していた。ジャンプの公式アプリで、ついに完結を迎えた『NARUTO』の最終話を読み終えたまさにその瞬間、俺の胸を満たしていたのは、言葉にできないほどの喪失感と、それを遥かに凌駕する一人のキャラクターへのクソデカ感情だった。
世間一般の評価なんてものは百も承知だ。「ヒロイン論争」だの、「性格に難がある」だの、ネットの海には心無い言葉が溢れていた。
だが、俺だけは違った。声を大にして言いたい。お前ら、あの子の泥臭さを見ていないのか、と。
最初は何もできなかった女の子だ。ナルトやサスケの背中を見上げて、ただ涙を流すことしかできなかった少女が、死線の中で己の長い髪をクナイで切り落とした。あの瞬間から、彼女の真の物語は始まっていたのだ。
世界最強の医療忍者である綱手の門を叩き、血の滲むような修行に耐え、拳を血に染めながら「私はもう、後ろ姿ばっかり見てられない!」と、化け物じみた強者たちが集う最前線へと這い上がってきた。
あの泥臭い根性。天才たちの狂宴の中で、ただの凡人だった彼女が、執念だけで追いつこうとしたあの生き様。
あれを見せられて、惚れない男がどこにいる? いや、絶対にいない(反語)。
画面の中の、成人してさらに美しくなった彼女の姿に限界オタクよろしくのたうち回り、ベッドの上で「あーーーサクラちゃんと結婚してえええええ!!」と叫んでいた、その時だった。
_______パキ、パキパキッ。……ドゴォォォォォン!!!
突如として、背後の壁から鼓膜を引き裂くような爆発音が炸裂した。
熱風。衝撃。視界が一瞬にして、鮮烈な真紅と漆黒に染まる。
事後の一報を推理するならば、おそらくは数年間放置していたエアコンの室外機から可燃性ガスが室内に逆流し、老朽化したコンセントの微弱な火花と最悪のタイミングで引火したのだろう。
説得力のある死因とか、不自然じゃない理由とか、そんな整合性を脳内で精査する猶予すら与えられなかった。ただ一言、俺の運の悪さが、文字通り爆発したのだ。
(あ、これ、死んだわ……)
急速に薄れゆく意識の中で、俺の魂は最後にひとつの未練を世界に刻みつけた。
_______次に俺が意識を取り戻したとき、世界は一変していた。
「_______お、おい! 生まれたぞ! 元気な男の子だ!」
「まあ……見てあなた、この子の髪、夕焼けみたいに綺麗な赤色をしてるわ」
鼓膜に届くのは、くぐもった、しかし酷く優しい男女の声。
(……生きてる?…そうだ、たしか、さっきエアコンが引火して……ありゃ家全焼したかな……流石に部屋にあるパソコンはもう手遅れか…………というか、どこだ、ここ? 病院じゃないのか?)
視界は酷く霞んでおり、光の輪郭しか捉えられない。身体を動かそうにも、自分の意志が指先ひとつにすら伝わらないもどかしさ。やがて自分の鼻腔をくすぐったのは、妙に懐かしく、しかしどこか生々しい「古めかしい畳と木の匂い」だった。
(ウソだろ………生まれ落ちて目覚めた瞬間に両親の声とか、まんま転生モノのテンプレじゃねえか……まさか生きてる間に、いや死んでなお自分が経験するとは……。)
物心がつくまでの数年間は、まさに混沌とした霧の中を進むようだった。
車のアスファルトを削る不快な走行音は一切聞こえない。聞こえてくるのは、朝を告げるカラスの鳴き声と、風が木々を揺らす音、そして_______妙に遠くの演習場らしき場所から響いてくるパパパン!という、乾いた、しかし重い破裂音。
最初は「日本のどこぞのド田舎にでも転生したか?」と思っていた。文明の利器が極端に少ない、どこか昭和中期を思わせる木造の平屋が並ぶ街並み。
だが、俺が2歳になったある日の朝。
居間の鏡の前で、父親がその額に『渦巻きに謎の切れ込みが入った、鈍い銀色に光る金属のプレート』を恭しく巻き付けるのを目撃した瞬間、我が脳内に凄まじい電撃が走った。
(あのマーク……あの、木の葉の形の紋章は……!)
「じゃあな、レイジ。父ちゃん、今日は国境付近の警戒任務だから、夜は遅くなる。母ちゃんの言うことをよく聞いて、良い子にしてるんだぞ」
「あ、あう……(親父、それ、額当て……下忍、いや中忍か!?)」
父親が家を出て行った後、俺はふらふらとした足取りで外へ飛び出し、里を囲む巨大な岩壁を見上げた。そこには、歴史の教科書よりも深く俺の脳裏に刻まれた、四つの巨大な男たちの顔が彫り込まれていた。
初代、二代目、三代目――そして、四代目火影。
「ここ……木の葉の里じゃねえかァァァァァァ!!!???」
俺の小さな絶叫は、うららかな里の路地裏へと吸い込まれていった。
そう、俺が生まれ落ちたのは、前世で文字通り魂を捧げて愛した漫画『NARUTO』の世界。
時代錯誤に感じた街並みも、漂う独特の空気感も、すべてはここが「忍の世」であったからだ。
そして、自分の年齢と周囲の環境から察するに、俺の年齢は、あの物語の主人公たちと完全に同い年。
(待てよ、俺のこの赤髪……まさかうずまきの血筋か? いや、東雲家は普通の一般市民だし、考えすぎか。それより何より_______)
神様、仏様、エアコンの神様。あんたって奴は、最高に粋な計らいをしてくれる。
前世の退屈な人生を爆破され、この世界に放り出された意味を、俺は一瞬で理解した。
我が第二の人生の、決して揺らぐことのない絶対的な北極星が、今ここに定まったのだ。
「春野サクラちゃん。俺は、この世界でサクラちゃんと、絶対に結婚する!!!」
これは、一人の限界サクラオタクが、忍界という名の血生臭くも美しい荒波を、ギャグと、気合いと、ガチの血反吐を吐くような努力によって駆け抜ける、波乱万丈の泥臭い冒険譚である。
▶
サクラちゃんと結婚する。
言葉にするのは容易い。だが、ここは綺麗事だけでは一瞬で首と胴体が泣き別れになる『NARUTO』の世界だ。しかも俺の生まれた東雲家は、うちは一族のような写輪眼を持っているわけでもなければ、日向一族のように白眼を開眼できるわけでもない。親父が辛うじて中忍を務めているというだけの、至って平凡な一般木の葉市民の家系である。
サクラちゃんに男として振り向いてもらうため。そして何より、原作の後半で訪れる、あの天変地異のような世界の崩壊から彼女を傷一つなく守り抜くため。
男たるもの、圧倒的な、他者を寄せ付けないほどの強さが必要不可欠だった。
「待ってろよサクラちゃん……。俺は、血統の壁なんてものを、前世の知恵とド根性でぶち破ってみせる!」
幸いにも俺には原作知識という、血継限界すら凌駕し得る精神のチートがある。
5歳になり、身体の骨格が最低限の負荷に耐えられるようになったその日から、俺は里の誰も立ち入らない不気味な裏山の奥深くで一人、血反吐を吐くような特訓を開始した。
「まずは基本だ。下忍がカカシ先生に教わる『木登り』と『水面歩行』。これをアカデミー入学前に、完全に無意識のレベルまでマスターする!」
木登り修行_______チャクラを足の裏に一定量集め、吸着の力を利用して垂直な幹を駆け上がる訓練。
水面歩行_______常に変化する水の抵抗に合わせ、足の裏から絶え間なく微量のチャクラを放出し続けて水上に立つ訓練。
これらは忍におけるチャクラコントロールの極意であり、これが完璧にできれば、体術のキレも、忍術の発動速度も、燃費すらも劇的に向上する。
しかし人生そんなにうまくはいかなかった。
最初の数ヶ月は、まさに地獄。
「くそっ、集中の密度が濃すぎる……!」
チャクラの量が多すぎれば木肌を爆破して脳天から墜落し、少なすぎれば重力に従って地面に叩きつけられる。毎日、頭から血を流し、全身を泥と青あざで染め上げた。夜、家に帰れば母親が「レイジ、またそんなに泥だらけになって……!」と泣きそうな顔で薬を塗ってくれたが、俺は自らの足を止めることはできなかった。
なぜなら、俺の原動力は「将来、サクラちゃんと手を繋いでデートする」という、純粋すぎて逆に邪悪な域に達している愛だからだ。
「サクラちゃんがサスケの後ろ姿を見つめて『キャー! サスケくんカッコいいー!』って言ってる横で、俺が『フッ、そんなヤツ、俺の一撃で十分よ』って、涼しい顔で言い放つためだ……! こんな痛みが、何ほどのものかよォォォ!!」
アドレナリンを脳内にドバドバと分泌させ、精神エネルギー(前世のオタク知識と執念)と身体エネルギー(日々の鍛錬で限界まで追い込んだ肉体)を極限まで練り合わせる。
一度チャクラの感覚を完全に掴んでからは、成長速度が跳ね上がった。
毎日、腕立て伏せ500回。スクワット500回。里の裏山を丸々3周するランニング。
その全行程を、足の裏にチャクラを集中させ、木々の枝から枝へと飛び移る跳躍で行う。さらに、体内を循環するチャクラの流れを意識的に加速させ、常に筋肉の繊維に微弱な刺激を与え続けることで、基礎代謝と肉体強度を底上げする簡易・肉体活性の真似事まで模索し始めていた。
今や全身の経絡系がチャクラの過剰駆動による摩擦熱で悲鳴を上げ、毎夜ジクジクとした鈍痛に襲われる毎日だ。だが、その痛みの分だけ、俺は確実に人間離れしていった。
パチパチパチ……
ある日の夕暮れ時。
裏山の巨木の、地上からおよそ十メートルはある太い枝に、チャクラだけで逆さ吊りになりながらその状態を維持する訓練をしていた時だった。
静まり返った森の奥から、妙に軽やかで、小さい拍手の音が聞こえてきた。
「……あ?」
俺は視線を下へ_______逆さ吊りだから、感覚的には上へ向けた。
そこには木漏れ日が落ちる地面の上に、ぽつんと一人の少女が立っていた。
その髪は、夕暮れの陽光を浴びて、淡く輝く桜色。
おでこが少し広くて、それを隠すように前髪をぎこちなく伸ばしている、まだ自分に自信を持てずにいる幼少期の、本物の春野サクラちゃんが、そこにいた。
「すごい……! あなた、それ、どうやってるの? 忍術なの……?」
緑色の大きな瞳が、純粋な憧れの色を湛えて、俺をじっと見つめている。
(_______サ、サササ、サクラちゃん……!!??? ほ、本物だ、生サクラちゃんだ!! 動いてる、喋ってる、尊い、尊すぎるアアアアア!!!)
前世の画面越しではなく、今、目の前で自分のために言葉を発してくれたという事実。その破壊力は、うちはの万華鏡写輪眼の幻術よりも遥かに強力だった。あまりの尊さと脳内麻薬の異常分泌により、足の裏のチャクラコントロールが完全に霧散した。
「あ、チャクラが_______」
「え?」
重力が見事に仕事を果たし、俺は頭から真っ逆さまに落下した。
「ぶふぇぇぇっ!?」
地面の腐葉土と泥が顔面に炸裂する。さすがに十メートルからの自由落下は、いくら鍛えていても肺腑にクソ重い衝撃を与えた。
「ゴホッ、ゲホッ……!」
「きゃあぁぁ!? だ、大丈夫!? 」
慌てて小さな足音を響かせ、サクラちゃんが駆け寄ってくる。
彼女の小さくて、まだ何のタコもできていない柔らかな手が、俺の泥だらけの頬に触れそうになる。
アカン。これ以上近づかれたら、俺の心臓が物理的に爆破して尊死する。これ以上の醜態は、男のプライドが許さない!
「だ、大丈夫だ問題ない……ッ!!」
俺はバッと跳ね起き、鼻血を袖で拭いながら、片手を挙げてポーズを決めた。
「これくらい、未来の最強の忍にとっては、かすり傷にもならない基本訓練だからな! ちなみに俺の名前は東雲レイジ! 覚えておいて損はないぞ!」
(幼少期の前髪ありサクラちゃんも可愛い!!……たしか自分のおでこを隠そうとして、無理に前髪を伸ばしてるんだよな。クソッ、どこのどいつだ、サクラちゃんに変なコンプレックス植え付けた奴は! 俺が代わりにブッ飛ばしてやりたい!)
胸の奥から湧き上がる激しい保護欲と憤怒。しかし、彼女の口から零れた言葉が、俺の思考を真っ白に染め上げた。
「え……? あ、うん……しののめ、レイジくん……?」
サクラちゃんは、突如として鼻血を流しながら熱弁を振るい始めた赤髪の少年に、明らかに引き気味だった。だが、彼女は前髪の隙間からこちらを見つめ、ぽつりと呟いた。
「……すごいのね。私、そんな風に木に登る人、初めて見たわ」
「へへっ、だろ? 確かな強さってやつさ! いいか、サクラちゃん。お前がいつかアカデミーに入って、何かに困ったり、誰かに虐められたりしたら、いつでも俺を呼びな。この東雲レイジが、命に代えてもお前を絶対に守ってやるからな!」
「え……? なんで、私の名前を知って……あ、あの、ありがとう……?」
若干の恐怖と困惑が入り混じった表情のサクラちゃんだったが、その白い頬が、ほんのりと林檎のように赤くなっているのを、俺の動体視力は見逃さなかった。
周囲からからかわれ、自分の殻に閉じこもっていた少女にとって、突如現れた奇妙な少年からの「命に代えても守る」という全肯定の言葉は、困惑以上に彼女の小さな胸の奥に温かい灯火を宿したようだった。
よし! ネットで言われる不審者ムーブ一歩手前だったが、第一印象(?)は強烈に刻み付けられたはず!
待ってろよサクラちゃん、俺はもっと、もっと驚くくらい、圧倒的に強くなってやるからな!
_______しかし、この時の俺はまだ知らなかった。
原作との遭遇、ひいてはこのあまりにも強烈すぎるファーストコンタクトから始まるレイジの人生が、木の葉の里の、ひいては忍界全体の歴史をゴリゴリと歪めていく最初の引き金になることを。