新世紀エヴァンゲリオン 黒鉄   作:ザメル

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第一話 招集

葛城ミサトは腕時計を見る。指定時刻を、すでに十分過ぎている。

 

「……遅いわねぇ」

 

非常警報が鳴り続ける無人の駅前では、遠くの爆発の光がビルの隙間からちらつき、閉じたシャッターが低く震えていた。風に押された紙くずが歩道を転がり、放置された自転車の前輪だけがゆっくり回っている。

 

コンビニの自動ドアが開いた。

 

出てきたのは、背の高い青年だった。資料にあった十八歳という数字より、ずっと大きく見えた。二メートル近い長身に、厚い肩まわり。片手にはスポーツバッグ、もう片方にはペットボトルを持っている。

 

非常警報も、遠くの爆発音も、彼の足取りを乱していなかった。大きな体に似合わず動きは静かで、目だけが妙に落ち着いている。青年は急ぐ様子もなく、車まで歩いてきた。

 

ミサトは窓を下げる。

 

「碇シンジ君?」

 

「ああ」

 

「ああ、じゃないわよ。遅刻」

 

「水を買ってた」

 

シンジはペットボトルを軽く上げた。

 

ミサトはコンビニの方を見る。店内に人影はなく、漏れた明かりが白く歩道を照らしていた。

 

「店員さん、いた?」

 

「いなかった」

 

「……お金は?」

 

「カウンターに置いた」

 

ミサトは数秒、黙った。遠くでまた爆発音がした。コンビニのガラスが細かく震える。シンジはペットボトルを持ったまま立っていた。

 

「……律儀なんだか、図太いんだか」

 

「急いでるんだろ。行った方がいい」

 

ミサトは息を吐き、助手席のロックを外した。

 

「ほんと、先が思いやられるわ」

 

シンジは何も答えず、助手席に乗り込んだ。長い脚と厚い肩のせいで、車内が少し狭く見えた。

 

「シートベルト」

 

「分かってる」

 

短く答え、ベルトを引く。

 

ミサトはすぐにアクセルを踏み込んだ。

 

タイヤがアスファルトを噛み、車体が低く唸る。乗り捨てられた軽自動車、割れた広告看板、開いたままの店のシャッターが、次々と後ろへ流れていった。

 

車内には、しばらくエンジン音だけがあった。

 

ミサトは片手でハンドルを切りながら、横目でシンジを見る。

 

「そういえば、名乗ってなかったわね」

 

シンジは前を見たまま、何も答えなかった。

 

「葛城ミサト。ネルフ作戦部所属。あなたを本部まで無事に送り届ける係ってとこね」

 

「……」

 

「名前くらいは覚えといて。たぶん、これから長い付き合いになるから」

 

前方の交差点が近づいてきた。信号機だけが、街の異常を知らないみたいに赤へ変わる。

 

ミサトは減速しなかった。

 

シンジはフロントガラスの向こうを見る。

 

「止まらないのか」

 

「そんな余裕あるように見える?」

 

横転したトラックの脇を、車体が紙一重で抜けていく。シンジは窓の外へ視線を移した。割れた信号機、傾いた街灯、誰もいない歩道が後ろへ消えていく。

 

「……ないな」

 

「でしょ」

 

直後、遠くで白い光が弾けた。

 

遅れて、轟音。空気が車体を叩いた。フロントガラスが細かく震え、ミサトの髪がふわりと揺れる。

 

ビルの隙間から、巨大な影が見えた。

 

人の形に似ていた。腕は長すぎる。顔に見えるものも、顔と呼ぶには何かが足りない。一歩進むたびに街が揺れ、建物の一部が崩れた。

 

助手席では、声も身じろぎもなかった。シンジは窓の外を見ている。表情は変わらない。ただ、シートベルトを押さえる指だけが、少し白くなっていた。

 

ミサトは横目でそれを見る。

 

「……怖くないの?」

 

「さあな」

 

「さあなって……」

 

「怖いかどうか考えて、意味があるのか」

 

ミサトは一瞬、黙った。すぐに前方へ視線を戻す。

 

「あれは使徒よ」

 

「……使徒」

 

「私たちはそう呼んでるの。通常兵器じゃ、足止めにもならない相手」

 

巨大な影が、また一歩進む。それだけで、ビルの窓が一斉に震えた。

 

シンジの目が、わずかに細くなる。

 

「じゃあ、どうする」

 

ミサトはハンドルを握る手に力を込めた。

 

「倒すのよ」

 

前を見たまま、少しだけ口元を上げる。

 

「それが私たちの仕事。楽な仕事じゃないけどね」

 

シンジは窓の外に目を戻した。何かが燃える臭いが、エアコン越しにも薄く入り込んでくる。

 

ミサトは無線機に手を伸ばした。

 

「葛城です。シンジ君を乗せたわ。今、南第三ルート。まだ通れる道、ある?」

 

スピーカーから、硬い声が返ってくる。

 

『第七高架は崩落しました。旧市街側から地下進入口へ向かってください』

 

「了解。よりによってそっちか……ほんと、嫌な道ばっか残してくれるわね」

 

曲がった先で、ミサトは急にアクセルを緩めた。

 

前方の高架の向こうで、白い光が弾ける。爆発ではなかった。一瞬だけ、空間そのものが押し広げられたように見えた。見えない壁に何かがぶつかり、街の空気が歪む。遅れて、低い衝撃音が道路を這ってきた。

 

ビルの隙間に、巨大な人型の背中が見える。

 

山吹色の装甲をまとった巨人が、片膝をついて左腕を前へ突き出していた。その正面で、さっき見えた巨大な影を受け止めている。

 

シンジの視線が鋭くなった。

 

「また敵か」

 

「違う」

 

ミサトの声から、さっきまでの軽さが消えた。ハンドルを握る手に力が入り、そのまま無線機へ伸びる。

 

「葛城よ。零号機はどうなってるの」

 

スピーカーから、切迫した声が返る。

 

『零号機、なお交戦中。パイロット反応、不安定です』

 

「レイはまだ下がってないの?」

 

『目標が地下進入口へ接近。撤退できません』

 

ミサトは奥歯を噛んだ。

 

「あの子、もう限界でしょ」

 

零号機は、なお使徒の前に立っていた。攻めているのではない。背後の地下進入口を守るために、そこから一歩も退けないように見えた。

 

使徒の胸元に白い光が集まる。ミサトが叫ぶより先に、それは放たれた。

 

零号機の前に、再び見えない壁が広がる。肩の装甲が割れ、突き出していた左腕がゆっくりと落ちかける。

 

「レイ!」

 

「中に人がいるのか」

 

「いるわ。綾波レイ。あなたと同世代の子よ」

 

同世代。

 

その言葉だけが、妙に車内に残った。

 

零号機を見た。巨人の奥で、誰かが同じ衝撃を受けている。

 

一瞬遅れて、使徒の腕が零号機の胴を打った。

 

巨体がビルの外壁へ叩きつけられる。コンクリートが崩れ、粉塵が道路を白く覆った。落下の衝撃で、周囲の建物まで軋む。

 

零号機が倒れる。

 

その光景を、黙って見ていた。気づかないうちに、奥歯が噛み合っている。口の中に、薄く鉄の味がした。

 

「負けたのか」

 

「まだよ」

 

ミサトは前を見たまま答えた。低い声だった。言い訳というより、自分にそう言い聞かせているように聞こえた。

 

車内には、無線の音だけが残った。

 

ミサトは強く息を吸う。

 

「本部へ急ぐわ。掴まって」

 

車は再び加速した。

 

背後でまた、低い衝撃音が響く。シンジは振り返らなかった。ただ、握っていたペットボトルの側面が、小さくへこんでいた。

 

同じ頃。

 

ネルフ本部、発令所。

 

薄暗い空間に、無数のモニターの光が浮かんでいた。オペレーターたちの声が飛び交い、使徒の進路、損害状況、防衛ラインの突破情報が次々と表示されていく。

 

その中心で、碇ゲンドウはほとんど身じろぎもしなかった。司令席に座り、組んだ手の向こうから画面を見下ろしている。色の薄いレンズが、モニターの光を鈍く反射していた。

 

「零号機、戦闘継続不能。パイロット生体反応、危険域」

 

メインモニターには、崩れた市街地で倒れた零号機が映っていた。零号機は、地下進入口と使徒の間に残ったまま動けずにいる。

 

「回収班、前進できません」

 

冬月が口を開いた。

 

「レイは回収するな。外に出すより、エヴァにいる方が安全だ」

 

ゲンドウは何も言わない。

 

「使徒の状況は」

 

冬月の声に、オペレーターが即座に答える。

 

「目標、零号機を迂回。地下進入口へ接近中。到達まで三分」

 

冬月の目がわずかに細くなった。

 

「N2でも何でも使ってかまわん。足止めしろ」

 

そこで、ゲンドウがようやく口を開いた。

 

「初号機を使う」

 

冬月が横目でゲンドウを見る。

 

「……いけるのか」

 

ゲンドウは答えない。

 

冬月は、サブモニターに映る初号機へ視線を戻した。

 

「あれはまだ、人を乗せる代物ではないぞ」

 

「シンジを乗せる」

 

ゲンドウは、その名前だけを他の報告より少し低く言った。冬月は沈黙した。

 

別のモニターに、青いスポーツカーの映像が映る。

 

「葛城一尉より入電。第一ゲートを通過。本部へ向かっています」

 

ゲンドウは一度だけ、その画面に目を向けた。そこに映っているのが息子なのか、初号機の起動条件なのか、誰にも分からなかった。

 

「来たか」

 

それだけ言って、視線をメインモニターへ戻す。

 

車が本部入口へ滑り込むと、重いゲートが背後で閉じ始めた。

 

低い音が、腹の底に響く。外の警報はそこで途切れ、代わりに機械の駆動音と、天井のスピーカーから流れる無機質なアナウンスが車内に入り込んできた。

 

『第一隔壁、閉鎖。第二隔壁、開放準備』

 

続くアナウンスは、医療班と回収班への指示だった。ミサトの表情がわずかに硬くなる。

 

シンジは何も言わなかった。

 

車が指定されたスペースに滑り込む。

 

「降りて」

 

シンジはスポーツバッグを掴み、助手席から降りた。

 

通路では、端末を抱えた職員、担架を押す医療班、無線に短く指示を返す整備員たちが、慌ただしく行き交っていた。誰も立ち止まらない。シンジを見ないのではなく、見る余裕がないのだ。

 

天井の一部が崩れ、床には割れた照明カバーと配管の破片が散っている。壁際では、落下した金属フレームの下敷きになった職員を、数人がかりで引き出そうとしていた。

 

「持ち上げろ、せーの!」

 

「こっち出血してる!」

 

怒号に近い声が、通路の反響の中で重なった。白い床には、濡れた赤い跡が伸びている。誰かがそれを踏んだのか、足跡が点々と奥へ続いていた。

 

シンジは、その跡を見た。

 

ミサトは何か言いかけて、やめた。

 

遠くで、施設全体が低く震え、照明が一瞬だけ暗くなる。

 

その混乱の中で、ひとつだけ動いていない影があった。

 

走る職員たちの流れから少し外れた場所。セキュリティゲートの向こうで、白衣の女がこちらを待っていた。

 

金色の髪をきっちりとまとめ、片手に薄い端末を持っている。整った顔立ちをしているが、表情には余計なものがない。驚きも、歓迎もなかった。ただ、疲労だけが薄く残っていた。

 

「遅かったわね、葛城一尉」

 

「道が混んでたのよ」

 

「無人の街で?」

 

「瓦礫と爆風でね。文句なら使徒に言って」

 

リツコは端末から目を上げない。

 

「で、状況は?」

 

「零号機は戦闘継続不能。レイはプラグ内で生命維持中よ。回収は、使徒が離れてからになるわ」

 

「使徒は?」

 

「N2で一時停止。けれど、損傷は限定的ね。数分で再進行すると見ているわ」

 

「ちっ、ほんとにしぶといわね」

 

ミサトは短く息を吐く。

 

「次は?」

 

そこで初めて、リツコの視線がシンジに向いた。

 

「初号機を出すわ」

 

ミサトの顔から、わずかに血の気が引いた。

 

「本気で言ってるの?」

 

「冗談であれを動かすほど、私も暇じゃないわ」

 

「初号機はまだ――」

 

「分かっているわ」

 

リツコの声は低かった。

 

「あれを起こすたびに、何かが壊れる。拘束具、隔壁、人員……毎回よ」

 

ミサトは言葉を飲み込んだ。

 

「……よりによって、あれを出すしかないってわけ」

 

「ええ。他に機体がないの」

 

シンジは二人を見ていた。

 

「初号機ってのは、さっきの零号機と同じものか」

 

「同じではないわ」

 

リツコが答える。

 

「似た形をしているだけよ」

 

その言い方に、シンジの目元がわずかに険しくなった。

 

リツコは端末を操作しながら、淡々と続ける。

 

「碇シンジ君ね。移動中に怪我は?」

 

「ない」

 

「めまい、吐き気は?」

 

「ない」

 

「気分は?」

 

「最悪」

 

「正常ね」

 

リツコは端末を閉じた。

 

「赤木リツコ。技術部よ。歓迎の挨拶は省くわ。時間がないの」

 

そこで、ようやく端末から目を上げる。目の前の青年は、資料で見たより大きく、そして妙に静かだった。シンジはただこちらを見ている。

 

リツコは一瞥し、奥のエレベーターへ視線を向けた。

 

「あなたには、まず見てもらうものがある」

 

「その初号機ってやつか」

 

リツコは一瞬だけ沈黙した。

 

「ええ」

 

ミサトの横顔が、かすかに強張る。

 

「ついてきて」

 

エレベーターは無言のまま下降した。

 

壁の表示だけが、階層の数字を淡々と変えていく。下へ行くほど、空気は冷たく湿り、足元から重い振動が伝わってきた。

 

「ここが第三ケージ。もっとも、檻と呼ぶには少し頼りないけれど」

 

赤い誘導灯の下、壁には補修跡がいくつも残っていた。焦げた配管、歪んだ手すり、交換されたばかりの白いパネル。ここでは何かが壊れた。一度ではない。

 

分厚い扉の前で、リツコが端末をかざす。

 

短い電子音。重いロックが外れ、扉がゆっくりと左右に割れた。

 

シンジは、無意識に足を止めた。

 

扉の向こうには、巨大な空間が広がっていた。足場の下には黒い水面。天井からは太いケーブルが垂れ、壁面にはライトと配管が並んでいる。

 

職員たちは走っている。ただ、誰も奥に立つものの正面には近づかなかった。

 

その奥に、何かが立っていた。

 

最初、それが何なのか分からなかった。大きすぎて、輪郭が頭に入ってこない。

 

紫色の装甲。胸元を押さえる拘束具。両腕を固定する巨大なロック。首、肩、腰、脚部にまで巻きついた拘束アーム。

 

兵器というより、縛られている何かに見えた。

 

静止している。それなのに、その周囲だけ空気の重さが違った。そこにあるものがケージ全体の呼吸を押さえ込んでいるようだった。

 

一歩だけ前に出た。

 

頭部の輪郭が見える。角のような突起。閉じた口。奥に沈んだ二つの目。

 

それは、機械の顔ではなかった。

 

「……これが」

 

声が低く落ちる。

 

横に並んだリツコが言った。

 

「人造人間エヴァンゲリオン初号機」

 

足元から頭部までを追うだけで、首が痛くなるほどだった。

 

「使徒に対抗できる、現時点で唯一残っている機体よ。これに頼るなんて、私は好きじゃないけれどね」

 

ミサトは黙っていた。その横顔には、これが何をしてきたのかを知っている人間の緊張があった。

 

「これで、あれを倒すのか」

 

「倒せる可能性はあるわ」

 

初号機は動いていない。ただ立っているだけだ。それなのに、シンジには妙な圧迫感があった。

 

見られている。

 

そんな馬鹿げた感覚が、背中を撫でた。

 

ケージ全体にアナウンスが響く。

 

『初号機、拘束系統最終確認。主電源、待機状態』

 

職員たちが一斉に動き出した。太いケーブルが巻き上げられ、作業灯が次々と点く。

 

「起動時退避、第二ラインまで下がれ!」

 

「正面作業員、全員退避!」

 

「拘束アーム、二重ロック確認!」

 

暗かった初号機の顔に、白い光が差し込む。

 

目が見えた。

 

シンジは息を止めた。

 

光を反射したその目は、硝子やセンサーのようには見えなかった。もっと生々しい。もっと奥に、何かがいるように見えた。

 

「……見てるみたいだな」

 

そう言ってから、シンジは自分の声が思ったより低くなっていることに気づいた。喉の奥が、わずかに乾いていた。

 

リツコは否定しなかった。

 

ケージの上方から、低い声が落ちてくる。

 

『久しぶりだな、シンジ』

 

空間全体に響く声だった。

 

シンジは動きを止めた。

 

ガラス張りの管制室。その奥の影に、男が立っている。

 

碇ゲンドウ。

 

写真で見た顔より、ずっと遠く見えた。同じ空間にいるのに、分厚いガラスと、鉄骨と、何年分もの沈黙が間に挟まっているようだった。

 

七年ぶりに聞く声だった。懐かしさはない。距離だけがあった。

 

管制室の中で、ゲンドウは動かなかった。

 

ミサトが横で息を呑む。リツコは端末を持ったまま、表情を変えない。ただ、視線だけがシンジとゲンドウの間を行き来していた。

 

『状況は聞いているな』

 

「ああ」

 

拘束具に縛られた紫の巨人は、動かない。その静止の方が、かえって不自然に思えた。暗い水面の上で、巨大な獣が息を潜めているようだった。

 

「それで、俺は何のために呼ばれた」

 

ゲンドウは短く答えた。

 

『乗れ』

 

空気が止まった。

 

シンジはすぐには反応しなかった。怒鳴りもしない。笑いもしない。ただ、その一言がどういう意味を持ったのか、数秒だけ分からなかった。

 

「……乗れだと?」

 

『そうだ。初号機に乗り、使徒を止めろ』

 

初号機を見上げた。あれを出すしかない。それだけは分かる。けれど、自分が乗る理由だけが、まだない。

 

喉の奥が、わずかに乾いていた。

 

視線を初号機から外さなかった。

 

「俺のような素人が乗って、勝てるのか」

 

ゲンドウは答えなかった。

 

代わりに、発令所から別の声が入る。

 

『目標、再進行を開始。地下進入口へ接近中』

 

ケージの天井灯が一段階明るくなった。警報音が変わる。職員たちの動きが速くなり、足場の上を走る靴音が重なった。

 

ゲンドウはモニターから視線を外さない。

 

『勝つ必要がある』

 

シンジは小さく息を吐いた。

 

「答えになってねえな」

 

リツコが口を開く。

 

「初号機は、誰でも動かせるわけじゃないの」

 

「俺なら動くと?」

 

「少なくとも、今ここで動かせる候補はあなたしかいないわ」

 

警報がさらに強くなる。

 

『目標、第三ケージ方面へ進行中』

 

『初号機、拘束解除準備完了』

 

『パイロット搭乗待ちです』

 

搭乗待ち。

 

その言葉が、やけに無機質に響いた。

 

シンジは初号機を見上げた。紫の巨人は、まだ沈黙している。ただ、その目だけが、暗がりの中からこちらを見ているように思えた。

 

「乗らないなら、帰れ」

 

ゲンドウが言った。

 

ミサトが顔を上げる。

 

「司令」

 

ゲンドウは続けた。

 

『臆病者に用はない』

 

空気が一段落ちた。

 

シンジは管制室のガラスを見上げたまま、動かなかった。七年間、何も言わなかった男が、久しぶりに声をかけてきた理由がそれか。

 

怒りではなかった。

 

腹の底がゆっくりと冷えていくような、もっと静かなものだった。

 

スポーツバッグの持ち手が、手の中で鈍く軋む。

 

「臆病者、か」

 

地上には使徒がいる。地下も、長くは保たない。その程度の計算はできた。

 

だが、足が動いたのは計算だけの結果ではなかった。

 

「乗る」

 

声は大きくなかった。その一言だけが、ケージの中で奇妙にはっきり響いた。

 

ゲンドウが初めて、わずかに顎を上げる。

 

『よい判断だ』

 

「あんたの命令で乗るんじゃない」

 

シンジは初号機を見上げた。

 

「ここで黙って潰される気がない。それだけだ」

 

ミサトは、そこでようやく息を吐いた。

 

リツコはすぐに端末へ視線を戻す。

 

「搭乗準備に入って。エントリープラグ、射出位置へ」

 

近くの職員が慌ただしく動き出した。

 

『了解。エントリープラグ、準備開始』

 

シンジは初号機へ視線を戻す。巨大な紫の顔が、暗いケージの中からこちらを見下ろしている。目が合ったような気がした。

 

錯覚だ。

 

そう思っても、目の前のものはあまりにも生々しかった。

 

足場の奥で、重い機械音が響く。巨大な筒状の装置が、ゆっくりと動き始めた。

 

ミサトはシンジの横に立った。

 

「……本当にいいのね」

 

聞く資格があるのかどうか、ミサト自身にも分からなかった。

 

「他に選択肢があるのか」

 

ミサトはそれ以上、何も言わなかった。

 

警報が鳴り続けている。遠くでは、使徒が近づいている。足元の水面は小さく震え、天井から落ちた埃が、赤い警告灯の中を漂っていた。

 

シンジはスポーツバッグから手を離し、一歩前に出た。

 

その背中を、ミサトもリツコも、ゲンドウも見ていた。誰も止めなかった。

 

初号機の影が、シンジの全身を覆う。

 

その瞬間、彼はようやく理解した。

 

自分は、ここへ連れてこられたのではない。

 

巨大な何かの口元まで、運ばれてきただけだ。

 

それでも、足は止めなかった。

 

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