足が、一度だけ遅れた。
あれは乗り物ではない。中に入ったら、簡単には戻れないものだ。
それでも、足は止まらなかった。
前を歩いていたリツコが振り返る。
「エントリープラグに入って。固定具が降りるけれど、抵抗しないで」
リツコは端末を操作したまま続けた。
「これから、あなたの神経を初号機に繋ぐ。簡単に言えば、あれを自分の身体みたいに動かすの」
「ただし、そう都合よくないわ。機体が傷つけば、痛むし、意識も持っていかれる」
「分かった」
発令所から通信が入る。
『目標、第三ケージ方面へ進行中。発進まで三分以内』
ケージ全体が低く震えた。遠くで何かが破壊される音が響く。職員たちの動きは、さらに速くなった。
目の前で、エントリープラグのハッチが開いていた。銀色の筒の中には、狭い座席と両側のレバーが見える。奥は暗く、機械の低い駆動音だけが聞こえていた。
「……棺桶だな」
冗談のつもりではなかった。そう言わなければ、足が一瞬止まりそうだった。
シンジはプラグの縁に手をかけ、中へ身体を滑り込ませた。
座席に背中を預けた途端、機材が自動で位置を調整する。肩と腰が固定され、足元でロックが掛かった。最後に、首の後ろへ薄い端子のようなものが触れる。
リツコの声が外から聞こえた。
「神経接続の準備に入るわ。身体の力を抜いて、呼吸は普通に。何か異常があれば報告して」
シンジは正面を見た。まだモニターは暗い。ハッチの外から差し込む赤い警報灯だけが、細く視界に入っていた。
厚い扉が、ゆっくりと下りてくる。外の赤い警報灯が細い線になり、やがて消えた。
最後に見えたのは、巨大な初号機の影だった。
暗いプラグの中で、シンジは一人になった。
一人ではない。
背中の奥に、何かがいる。
接触を求めているのではない。
ただ、そこにいる。
こちらが気づいたことを、あちらはすでに知っている。
リツコの声が入った。
『LCLを入れるわ。息を止めないで。苦しくても、飲み込むように吸って』
足元から橙色の液体が満ちてくる。
液体が喉元まで来た。
身体が、これは空気ではないと叫んでいる。それでも、喉を押し開くように吸った。
一瞬だけ、指がレバーから離れかける。
すぐに握り直した。
『呼吸、安定』
リツコがモニターを見たまま、わずかに目を細める。
「初回であれだけ吸えるのね。拒絶反応も短い」
ミサトは返事をしなかった。その言葉は評価のはずなのに、妙に冷たく聞こえた。
『シンジ君、聞こえる?』
「ああ」
声はLCLの中で低く濁った。
リツコが続ける。
『神経接続に入るわ。正面を見て』
暗かった視界に、ノイズが走った。白い光が揺れ、やがて映像が開く。
一瞬、目を細めた。
視界の下には足場があり、職員たちは小さく見える。ケージの壁は、もう見上げるものではなく、目の前にあった。
『視覚同期、開始』
『シンクロ率、二十九・八』
「初号機、起動確認。暴走反応なし」
発令所の空気が、わずかに緩む。
ミサトはモニターから目を離せなかった。
「……起動したのね」
リツコは低く答える。
「ええ。今のところは」
初号機は起きた。
それでも、誰も安心していなかった。
ミサトは通信卓に手を置いた。
「出すわ。このまま待っても、状況がよくなるわけじゃない」
通信席の職員が叫ぶ。
「目標、直上区画を突破。装甲隔壁、第四層まで損傷」
ケージの天井から、細かな粉塵が落ちた。床が大きく揺れ、警報灯の赤が一斉に乱れる。
プラグ内で、シンジはその振動を感じていた。
『シンジ君』
ミサトの声だった。
『今から初号機を地上へ出すわ』
「ああ」
『思った通りに動くとは限らない。まず立つことだけ考えて』
ミサトが一拍置く。
「初号機、発進準備」
「神経接続、不安定ながら維持」
「第八射出口を使うわ。進路上の隔壁を開放して」
ケージの奥で、巨大な機構が動き出した。初号機を支えていた固定アームが、一本ずつ震える。胸部の拘束具に灯っていたランプが、赤から黄へ変わった。
プラグ内の映像にも、その変化が映る。
シンジは見上げるのではなく、見下ろしていた。
『第一次拘束、解除』
重い衝撃が来た。
肩から何かが外れ、胸の圧迫が抜ける。腕を押さえていた感覚も、鈍く消えていった。
シンジの身体ではない。それでも、確かに自分の身体から何かが外れたように感じた。
「射出路、クリア」
ミサトは司令席を見た。
ゲンドウは腕を組んだまま、モニターの中の初号機を見ている。その沈黙を、ミサトは許可として受け取った。
ミサトは息を吸う。
「初号機、発進」
足元から、凄まじい力が立ち上がった。
プラグ全体が縦に押し上げられる。シンジの背中が座席に沈み、LCLが激しく揺れた。初号機の身体が、射出レールに沿って加速する。
暗い縦穴を、非常灯が流れていく。隔壁が次々と開き、金属の咆哮が響いた。
余計な力は入れない。
正面を見る。
地上へ。
化け物の前へ。
「……戻る気もないがな」
シンジは、ただレバーを握っていた。
地上ゲートが開く。
最後の隔壁が左右に割れ、白い光が縦穴の先に広がった。初号機は、白く煙る地上へ射出された。
巨大な足が、地面に叩きつけられる。
舗装が割れた。ビルの窓ガラスが震え、粉塵が舞い上がる。
紫の巨人が、前のめりに揺れた。膝が沈み、足裏が舗装を噛む。
巨体は、そこで踏みとどまった。
『姿勢、保持』
発令所に、短い安堵が走る。
ミサトは通信に身を乗り出した。
『シンジ君、聞こえる? まず前を見て。無理に動かさなくていいわ』
「了解だ」
発令所のモニターには、初号機の視界が映っていた。白く煙る街。砕けた道路。傾いたビル。
その向こうに、使徒が立っている。
息を吐いた。
見えている。立って、動いている。それは分かる。
そのくせ、奇妙だった。
自分の身体なら、動く前に重さが分かる。
初号機は違った。
繋がっているのに、こちらを待っていない。
右足を、半歩だけ前へ出す。
初号機は応えた。
半歩のつもりが、一歩分の重さで前へ出る。
「……踏み込みすぎたか?」
リツコが画面を見たまま言う。
「反応が大きいわ。シンジ君の入力だけじゃない。初号機が返してきている」
ミサトの声が通信に入る。
『シンジ君、焦らないで。まず止まって』
シンジは止まろうとした。
初号機は、半拍遅れて止まった。
反応は遅い。それなのに、動き出すと大きすぎる。
使徒がこちらを向いた。白く煙る街の奥で、細長い腕が無造作に垂れ、顔のようなものがわずかに傾く。
『防御! 左腕!』
左腕を上げようとした。
初号機の腕も動いた。
だが、胸の前で止まらない。
「止まれ」
言い終わる前に、使徒が踏み込んだ。
人間の形をしているが、その間合いではなかった。距離が一瞬で消える。
使徒の腕が初号機の左肩を打ち、紫の巨体が横へ流れた。背後のビルに背中から叩きつけられ、粉塵が視界を塗りつぶす。
プラグ内で、左肩に熱い痛みが走った。
「……っ」
傷はない。
それでも痛みだけは、確かに残っている。
これは機体の傷だ。
そう分かっても、身体は勝手に怯んでいた。呼吸が浅くなる。奥歯を噛み、無理やり吐き捨てる。
「……やってくれる」
道路に指を食い込ませ、起き上がる。
遅い。
自分の力が機体の内側でいちど飲み込まれてから、戻ってくる感覚だった。
「反応が遅れてやがる」
リツコの声が入った。
『力任せにしないで。強くやるほど、あれは跳ね返してくるわ』
「先に言え」
『今言っているわ』
立ち上がる。
使徒は待っていなかった。
再び腕が振られる。今度は正面からだった。
『防御!』
シンジは両腕を上げた。
使徒の腕が、防御の外側をすり抜ける。胸部に衝撃。続けて、膝が腹へ入った。
初号機の身体が折れ、LCLの中に泡が散る。
『シンジ君、防御に集中して。無理に殴り返さなくていい』
「やってる」
殴られ、蹴られ、揺らされる。
それでも、一撃は浅い。
なら、まず倒れないことだ。
シンジは初号機の指を道路に食い込ませた。
「……分かった」
また拳が来る。
今度は、避けようとしなかった。
肩で受け、膝を沈める。衝撃を後ろへ逃がさない。
初号機の足元で、舗装がひび割れた。
ミサトが前に出る。
『そのまま。無理に動かそうとしないで。まず、初号機の重さに合わせて』
シンジは返事をしなかった。
動ける。
けれど、従っているわけではない。
手綱を引けば暴れ、放せば持っていかれる。
シンジは、使徒を見た。
「面倒な身体だな」
使徒が踏み込む。
今度は、正面からではなかった。白い煙の中で、細い腕が大きく横へ振られる。
『左!』
反射で避けようとした。
すぐにやめる。
無理に動かせば、初号機が暴れる。
なら、合わせる。
沈み始めた機体の重さに、意識を重ねた。
使徒の腕が、初号機の頭上をかすめる。紫の装甲の端が削れ、火花が散った。
プラグ内で、シンジは息を吐いた。
足裏の重さが、さっきより近い。まだ自分の身体ではない。だが、完全な他人でもなくなっていた。
「少し分かった」
前へ出た。
今度は、踏み込みすぎなかった。足裏が舗装を砕く直前に膝を殺し、巨体の勢いを腰で受ける。
肩が沈み、拳が握られた。
紫の巨人が、使徒の胸へ拳を叩き込む。
衝撃波が白い煙を裂いた。使徒の身体がわずかに後ろへ揺れる。
拳は止まっていた。
初号機の拳と使徒の胸の間で、空間が歪んでいる。薄い硝子のような膜が、力を受け止めていた。
『目標、A.T.フィールド展開中』
ミサトが叫ぶ。
『押し込んで!』
「やってる」
初号機の肩が軋み、足裏が舗装へ沈む。
拳は進まない。
見えない壁が弾けた。
初号機の巨体が後方へ流れ、片膝が道路に落ちる。
リツコの声が入った。
『力任せじゃ無理。フィールドを中和しないと、コアには届かないわ』
「こっちにはないのか」
『今は無理よ』
「どうしろっていうんだ」
使徒が前へ出た。
シンジは立ち上がる。
今度は下がらなかった。
使徒の腕を受け、左手で掴む。初号機の指が、白い腕に食い込んだ。
「動くな」
使徒の顔が、わずかに傾いた。
初号機ではない。
その背後。
アンビリカルケーブル。
「まずい」
リツコの声と同時に、白い光が走った。
ケーブルが焼き切れ、道路へ叩きつけられる。
『アンビリカルケーブル、断線。内部電源へ移行』
表示を見る。
数字が減っていく。
「面倒なことをする」
使徒を掴んだまま、さらに押し込んだ。拳も体重も、見えない壁に逃がされる。
『活動限界、残り四分三十秒』
「分かってる」
通信に、細いノイズが混じった。
『……初号機、パイロット』
途切れかけた通信だった。意識が戻ったというより、沈む直前に声だけが届いているようだった。
ミサトが顔を上げる。
「レイ……?」
『私が……A.T.フィールドを、中和する』
リツコがモニターを見た。
「……干渉してる」
ミサトが通信に飛び込む。
『レイ、無理しないで。その状態じゃ――』
『できます』
短い返答だった。声は震えていた。それでも、言葉だけは途切れなかった。
『狙うのは……胸部。中心より、少し下』
初号機の視界に、倒れた零号機が映った。
立ち上がれず、片腕も落ちかけている。それでも、山吹色の機体の周囲には、薄い歪みが残っていた。
消えかけた火が、まだ燃え残っているようだった。
「……死ぬ気か」
返事はなかった。
代わりに、零号機の周囲がわずかに歪む。
シンジは短く息を吐いた。
「了解」
同時に、使徒の胸元を覆う見えない壁が波打つ。
一瞬だけ、赤いコアが見えた。
「見えた」
初号機が踏み込む。
拳が、揺らいだ一点へ突き込まれた。
空間が軋む。
白い亀裂が走る。
そこへ、零号機のフィールドがもう一度ぶつかった。
見えない壁がずれる。
シンジは拳を押し込んだ。
紫の拳が膜を裂き、使徒の胸部装甲を砕く。
『フィールド貫通』
赤いコアに亀裂が入った。
使徒の身体が大きく仰け反る。細い腕が空を掻く。街路に衝撃波が走り、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散った。
プラグ内で、シンジの視界が激しく揺れる。一瞬、吐き気のようなものが込み上げた。
拳は引かなかった。
「まだ浅い」
初号機がさらに押し込む。コアの亀裂が広がり、赤い光が漏れた。使徒の身体が痙攣する。
ミサトが叫ぶ。
『そのまま押し切って!』
シンジは初号機の腕に力を込めた。
使徒の身体が変わった。
腕が不自然な角度で折れ曲がる。掴まれていたはずの腕が、関節ごと抜けるように動いた。
「……器用な奴だ」
使徒は自分の腕を切り捨てるように引き抜いた。白い腕の一部が、初号機の手の中で潰れる。本体だけが後ろへ跳んだ。
『損傷部から高熱反応』
使徒の胸元から白い光が漏れる。攻撃ではない。傷口を焼き塞ぐような、嫌な光だった。
初号機が追おうとした。
シンジもそのつもりだった。
けれど、足が一瞬遅れる。さっきまで押し込んでいた力が、急に空振りになった。
巨体が前のめりに傾く。
「くそ」
シンジは踏み直した。
初号機の足が道路を砕き、崩れかけた姿勢を支える。
使徒はその間に距離を取っていた。さっきまでの無機質な前進ではない。明らかに退いている。
ミサトがモニターを見た。
「逃げてる……?」
オペレーターが声を上げる。
「目標、後退を開始。地下進入口から離れていきます」
発令所に、一瞬だけ安堵に近い空気が走った。
だが、シンジは違うものを感じていた。
初号機の奥が、急に熱くなる。
背中の奥。
神経の裏側。
まだ触れてはいけない場所で、何かが目を開けた。
使徒が背を向ける。
その瞬間、初号機の指が震えた。
レバーを握る手に、力が入る。
「……待て」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
逃がしたくない。
気づいたとき、その感情がどちらのものか分からなかった。
胸の奥で湧いたものに、別の熱が重なっている。怒りに似ている。だが、怒りだけではない。
飢えに近い。
初号機の喉の奥から、低い音が漏れる。
機械音でも、呼吸でもない。獣が唸るような、腹の底を擦る音だった。
これは、自分の怒りではない。
けれど、まったく別のものでもなかった。
胸の奥に湧いたものに、初号機の何かが絡みついている。
発令所のモニターに、異常値が走った。
『初号機、神経パルス上昇。パイロット入力と一致しません』
リツコの表情が変わる。
ミサトは通信卓に手を置いた。
だが、すぐには声が出なかった。
画面の中の初号機は、もう命令を待っているようには見えなかった。
白い煙の向こうで、使徒が距離を取っていく。胸のコアから赤い光を漏らしながら、なお逃げようとしている。
初号機の口元が、わずかに開いた。
声が出た。
言ったのか、聞こえたのか、分からなかった。
「……俺じゃない」
次の瞬間、初号機が叫んだ。
それは、音というより衝撃だった。白く煙る街路に咆哮が叩きつけられ、割れ残っていた窓ガラスが一斉に砕ける。
発令所のスピーカーが音を拾い切れず、甲高いノイズを吐いた。
ミサトは思わず耳を押さえた。
「なに、今の……!」
別の警報が重なる。
『パイロット脳波、乱れています。意識レベル低下』
ミサトの顔色が変わった。
『シンジ君、聞こえる!?』
返事はなかった。
プラグ内で、シンジの視界が大きく歪む。
赤い警告灯。
濁ったLCL。
正面モニターに映る白い煙。
逃げていく使徒の影。
それらが、何枚も重なったようにぶれた。
初号機の奥にある何かが、シンジの神経を押しのけてくる。押し返そうとしても、力が入らない。レバーを握っているはずの指の感覚が遠い。
「……黙れ」
初号機に言ったのか。
自分に言ったのか。
分からなかった。
声は出た。それが自分の声なのかも分からなかった。
背中の奥から、熱いものが這い上がる。怒りとも、飢えとも、痛みとも違う。もっと原始的な何かだった。
歯を食いしばろうとした。
その前に、意識が沈んだ。
『パイロット、反応ありません』
ミサトが叫ぶ。
『シンジ君!』
プラグ内で、シンジの手から力が抜けた。
レバーを握っていた指が、ゆっくりと開く。身体は座席に預けられ、首がわずかに傾いた。
目は開いている。
そこに意識はなかった。
リツコの顔から、初めて余裕が消える。
「……始まった」
初号機の身体が、前へ沈んだ。
逃げる使徒へ。
傷ついたコアへ。
背を向けた獲物へ。
シンジはもう何も命じていない。
初号機は動き続ける。
巨体が沈み、両手が道路に触れた。次の瞬間、獣のように地面を蹴った。
人の走り方ではなかった。腕まで使って道路を掴み、白い煙の中へ突っ込んでいく。
『初号機、追撃開始。制御不能。内部電源、残り六十秒』
発令所の空気が凍った。
誰も、すぐには命令を出せなかった。
プラグ内のモニターには、初号機の視界だけが映っていた。大きく上下する街路。赤く滲む映像の端に、逃げる使徒の背中が映っている。
その中心で、シンジは動かなかった。
LCLの中で、短い泡だけが口元から漏れている。
リツコが低く言った。
「機体側が動かしているわ。完全に」
ミサトはモニターを睨んだ。
言葉が出なかった。
使徒の周囲の空間が歪む。
見えない壁が、逃げるためだけに一方向へ押し広げられた。
白い煙が爆ぜる。
使徒が、弾かれたように後方へ跳ぶ。
だが、初号機は離されない。
道路を蹴り、砕けた舗装を後方へ吹き飛ばす。胸元で、焼き塞がれかけていた傷が赤く脈打った。亀裂は閉じきっていない。
初号機の目が、それを捉える。
使徒が振り向き、A.T.フィールドを展開した。
初号機は止まらない。
右手が、見えない膜へ食い込む。
リツコがモニターを見つめたまま、低く呟いた。
「……力任せに、こじ開けている」
膜に亀裂が走った。
初号機の口が開く。喉の奥から、低い唸りが漏れた。
それは、気合でも、咆哮でもなかった。
獲物の骨を砕く前の、獣の息だった。
使徒のフィールドが割れる。
初号機の左手が、使徒の肩を掴んだ。
使徒が身を捩った。腕を振るう。
初号機は離れない。
指が装甲を裂き、内部へ食い込む。赤い光が傷口から漏れた。
その沈黙の中で、初号機の右手が使徒の胸部へ突き込まれた。
一度目で装甲が砕ける。
二度目で白い膜が裂ける。
三度目で、赤いコアに指が届いた。
使徒の身体が痙攣した。
逃げようとする身体を、初号機の左手が押さえ込む。装甲が軋み、潰れていく。
リツコの顔から、わずかに血の気が引いた。
「……狩っている」
ミサトはモニターから目を離せなかった。
初号機の右手が、深く沈む。
赤いコアが、音を立てて割れた。
一瞬、すべての光が膨れ上がる。
使徒の身体が硬直した。
次の瞬間、赤い光が内側から破裂する。白い巨体に無数の亀裂が走った。亀裂の奥から赤い光が噴き出し、腕、胸、首、顔のようなものが順番に崩れていく。
『目標、コア崩壊。A.T.フィールド、消失』
誰も歓声を上げなかった。
モニターの中で、初号機はまだ使徒を掴んでいた。崩れかけた身体を、手の中でさらに握り潰す。白い残骸が道路へ落ち、赤い光が散った。
初号機は、それを見下ろしていた。
低い唸りだけが、通信越しに発令所へ届いている。
ミサトは、ようやく息を吸った。
勝った。
そのはずだった。
だが、その言葉は誰の口からも出なかった。
初号機の頭が、ゆっくりと動いた。
使徒の残骸ではなかった。
崩れた市街地の奥。
倒れた零号機のある方へ。
その周囲には、まだ微弱なA.T.フィールドの歪みが残っていた。薄く、弱く、今にも消えそうな壁だった。
初号機の目が、それを捉える。
『目標、再捕捉――零号機です』
オペレーターの声が、わずかに裏返った。
ミサトは、一瞬動けなかった。
初号機の口が開く。血の通っていないはずの顎が、獲物を見つけた獣のように動いた。
喉の奥から、低い唸りが漏れる。
プラグ内で、シンジは動かない。
止める者は、もういない。
使徒は沈黙した。
だが、まだ近くに同じような壁がある。
初号機は止まらない。
右手が道路を掴み、腰が沈む。
ミサトが叫んだ。
『シンジ君、起きて! それは零号機よ! レイが乗ってる!』
返事はない。意識を失った顔を、警告灯が断続的に照らしていた。
暗い水の向こうで、声が揺れていた。
レイ。
その音だけが、かすかに届く。
誰かが呼んでいる。止めろと言っている。
だが、手は動かない。まぶたも、喉も、指先も、自分のものではなくなっていた。
背中の奥で、獣の息だけが近い。
初号機が地面を蹴る。
舗装が爆ぜ、紫の巨体が零号機へ飛びかかった。
距離が一気に潰れる。
零号機は動けない。山吹色の巨体は、倒れたまま頭部をわずかに上げるだけだった。
初号機の右手が伸びる。
狙っているのは、腕でも胴でもない。
首だった。
ミサトの声が飛ぶ。
「プラグを強制射出して!」
リツコが即座に端末へ向き直る。
『強制射出信号、送信』
初号機の背部装甲が、わずかに開いた。
だが、すぐに内側から押し戻される。
『射出、失敗。プラグ固定ボルト、解除不能』
リツコの顔が強張った。
「機体側が拒否しているの……?」
初号機の指が、零号機の首にかかる。
山吹色の装甲がきしんだ。
ミサトの声が掠れる。
「やめて……」
すべての表示が赤に変わった。
『活動限界』
『内部電源、ゼロ』
初号機の目の光が、ふっと消えた。
零号機の首にかかっていた指から、力が抜ける。装甲を軋ませていた手が、ゆっくりと止まった。
そのまま、紫の巨体は前のめりに沈む。
膝が道路を砕き、片手が零号機の横に叩きつけられた。衝撃で粉塵が舞い上がる。
初号機は、零号機の首元に手をかけた姿勢のまま沈黙していた。
発令所は静まり返った。
誰もすぐには声を出せなかった。
モニターの端では、使徒の残骸が赤い光を失って崩れていた。
倒した。
確かに、倒した。
だが、発令所の空気に勝利はなかった。
ミサトは通信卓に手を置いたまま、モニターを見つめていた。
リツコが低く言う。
「……止まったわ」
「止まったんじゃない」
ミサトは、掠れた声で答えた。
「電源が切れただけよ」
プラグ内は暗かった。
警告灯だけが、赤く明滅している。LCLの中で、呼吸音だけが低く響いていた。
シンジは目を覚まさない。
レバーから離れた手が、LCLの中でわずかに揺れている。
暗いモニターには、もう何も映っていない。
それでも、背中の奥にはまだいた。
初号機の奥にいる何かが、完全には眠っていない。
発令所のモニターに、停止した初号機の顔が映る。
口は、まだわずかに開いていた。
外では、白い煙がゆっくりと晴れていく。
使徒の姿は、もうなかった。
残っていたのは、砕けた街と、沈黙した二体のエヴァ。
そして、発令所に落ちた沈黙だけだった。