新世紀エヴァンゲリオン 黒鉄   作:ザメル

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第二話 鬼神

足が、一度だけ遅れた。

 

あれは乗り物ではない。中に入ったら、簡単には戻れないものだ。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

前を歩いていたリツコが振り返る。

 

「エントリープラグに入って。固定具が降りるけれど、抵抗しないで」

 

リツコは端末を操作したまま続けた。

 

「これから、あなたの神経を初号機に繋ぐ。簡単に言えば、あれを自分の身体みたいに動かすの」

 

「ただし、そう都合よくないわ。機体が傷つけば、痛むし、意識も持っていかれる」

 

「分かった」

 

発令所から通信が入る。

 

『目標、第三ケージ方面へ進行中。発進まで三分以内』

 

ケージ全体が低く震えた。遠くで何かが破壊される音が響く。職員たちの動きは、さらに速くなった。

 

目の前で、エントリープラグのハッチが開いていた。銀色の筒の中には、狭い座席と両側のレバーが見える。奥は暗く、機械の低い駆動音だけが聞こえていた。

 

「……棺桶だな」

 

冗談のつもりではなかった。そう言わなければ、足が一瞬止まりそうだった。

 

シンジはプラグの縁に手をかけ、中へ身体を滑り込ませた。

 

座席に背中を預けた途端、機材が自動で位置を調整する。肩と腰が固定され、足元でロックが掛かった。最後に、首の後ろへ薄い端子のようなものが触れる。

 

リツコの声が外から聞こえた。

 

「神経接続の準備に入るわ。身体の力を抜いて、呼吸は普通に。何か異常があれば報告して」

 

シンジは正面を見た。まだモニターは暗い。ハッチの外から差し込む赤い警報灯だけが、細く視界に入っていた。

 

厚い扉が、ゆっくりと下りてくる。外の赤い警報灯が細い線になり、やがて消えた。

 

最後に見えたのは、巨大な初号機の影だった。

 

暗いプラグの中で、シンジは一人になった。

 

一人ではない。

 

背中の奥に、何かがいる。

 

接触を求めているのではない。

 

ただ、そこにいる。

 

こちらが気づいたことを、あちらはすでに知っている。

 

リツコの声が入った。

 

『LCLを入れるわ。息を止めないで。苦しくても、飲み込むように吸って』

 

足元から橙色の液体が満ちてくる。

 

液体が喉元まで来た。

 

身体が、これは空気ではないと叫んでいる。それでも、喉を押し開くように吸った。

 

一瞬だけ、指がレバーから離れかける。

 

すぐに握り直した。

 

『呼吸、安定』

 

リツコがモニターを見たまま、わずかに目を細める。

 

「初回であれだけ吸えるのね。拒絶反応も短い」

 

ミサトは返事をしなかった。その言葉は評価のはずなのに、妙に冷たく聞こえた。

 

『シンジ君、聞こえる?』

 

「ああ」

 

声はLCLの中で低く濁った。

 

リツコが続ける。

 

『神経接続に入るわ。正面を見て』

 

暗かった視界に、ノイズが走った。白い光が揺れ、やがて映像が開く。

 

一瞬、目を細めた。

 

視界の下には足場があり、職員たちは小さく見える。ケージの壁は、もう見上げるものではなく、目の前にあった。

 

『視覚同期、開始』

 

『シンクロ率、二十九・八』

 

「初号機、起動確認。暴走反応なし」

 

発令所の空気が、わずかに緩む。

 

ミサトはモニターから目を離せなかった。

 

「……起動したのね」

 

リツコは低く答える。

 

「ええ。今のところは」

 

初号機は起きた。

 

それでも、誰も安心していなかった。

 

ミサトは通信卓に手を置いた。

 

「出すわ。このまま待っても、状況がよくなるわけじゃない」

 

通信席の職員が叫ぶ。

 

「目標、直上区画を突破。装甲隔壁、第四層まで損傷」

 

ケージの天井から、細かな粉塵が落ちた。床が大きく揺れ、警報灯の赤が一斉に乱れる。

 

プラグ内で、シンジはその振動を感じていた。

 

『シンジ君』

 

ミサトの声だった。

 

『今から初号機を地上へ出すわ』

 

「ああ」

 

『思った通りに動くとは限らない。まず立つことだけ考えて』

 

ミサトが一拍置く。

 

「初号機、発進準備」

 

「神経接続、不安定ながら維持」

 

「第八射出口を使うわ。進路上の隔壁を開放して」

 

ケージの奥で、巨大な機構が動き出した。初号機を支えていた固定アームが、一本ずつ震える。胸部の拘束具に灯っていたランプが、赤から黄へ変わった。

 

プラグ内の映像にも、その変化が映る。

 

シンジは見上げるのではなく、見下ろしていた。

 

『第一次拘束、解除』

 

重い衝撃が来た。

 

肩から何かが外れ、胸の圧迫が抜ける。腕を押さえていた感覚も、鈍く消えていった。

 

シンジの身体ではない。それでも、確かに自分の身体から何かが外れたように感じた。

 

「射出路、クリア」

 

ミサトは司令席を見た。

 

ゲンドウは腕を組んだまま、モニターの中の初号機を見ている。その沈黙を、ミサトは許可として受け取った。

 

ミサトは息を吸う。

 

「初号機、発進」

 

足元から、凄まじい力が立ち上がった。

 

プラグ全体が縦に押し上げられる。シンジの背中が座席に沈み、LCLが激しく揺れた。初号機の身体が、射出レールに沿って加速する。

 

暗い縦穴を、非常灯が流れていく。隔壁が次々と開き、金属の咆哮が響いた。

 

余計な力は入れない。

 

正面を見る。

 

地上へ。

 

化け物の前へ。

 

「……戻る気もないがな」

 

シンジは、ただレバーを握っていた。

 

地上ゲートが開く。

 

最後の隔壁が左右に割れ、白い光が縦穴の先に広がった。初号機は、白く煙る地上へ射出された。

 

巨大な足が、地面に叩きつけられる。

 

舗装が割れた。ビルの窓ガラスが震え、粉塵が舞い上がる。

 

紫の巨人が、前のめりに揺れた。膝が沈み、足裏が舗装を噛む。

 

巨体は、そこで踏みとどまった。

 

『姿勢、保持』

 

発令所に、短い安堵が走る。

 

ミサトは通信に身を乗り出した。

 

『シンジ君、聞こえる? まず前を見て。無理に動かさなくていいわ』

 

「了解だ」

 

発令所のモニターには、初号機の視界が映っていた。白く煙る街。砕けた道路。傾いたビル。

 

その向こうに、使徒が立っている。

 

息を吐いた。

 

見えている。立って、動いている。それは分かる。

 

そのくせ、奇妙だった。

 

自分の身体なら、動く前に重さが分かる。

 

初号機は違った。

 

繋がっているのに、こちらを待っていない。

 

右足を、半歩だけ前へ出す。

 

初号機は応えた。

 

半歩のつもりが、一歩分の重さで前へ出る。

 

「……踏み込みすぎたか?」

 

リツコが画面を見たまま言う。

 

「反応が大きいわ。シンジ君の入力だけじゃない。初号機が返してきている」

 

ミサトの声が通信に入る。

 

『シンジ君、焦らないで。まず止まって』

 

シンジは止まろうとした。

 

初号機は、半拍遅れて止まった。

 

反応は遅い。それなのに、動き出すと大きすぎる。

 

使徒がこちらを向いた。白く煙る街の奥で、細長い腕が無造作に垂れ、顔のようなものがわずかに傾く。

 

『防御! 左腕!』

 

左腕を上げようとした。

 

初号機の腕も動いた。

 

だが、胸の前で止まらない。

 

「止まれ」

 

言い終わる前に、使徒が踏み込んだ。

 

人間の形をしているが、その間合いではなかった。距離が一瞬で消える。

 

使徒の腕が初号機の左肩を打ち、紫の巨体が横へ流れた。背後のビルに背中から叩きつけられ、粉塵が視界を塗りつぶす。

 

プラグ内で、左肩に熱い痛みが走った。

 

「……っ」

 

傷はない。

 

それでも痛みだけは、確かに残っている。

 

これは機体の傷だ。

 

そう分かっても、身体は勝手に怯んでいた。呼吸が浅くなる。奥歯を噛み、無理やり吐き捨てる。

 

「……やってくれる」

 

道路に指を食い込ませ、起き上がる。

 

遅い。

 

自分の力が機体の内側でいちど飲み込まれてから、戻ってくる感覚だった。

 

「反応が遅れてやがる」

 

リツコの声が入った。

 

『力任せにしないで。強くやるほど、あれは跳ね返してくるわ』

 

「先に言え」

 

『今言っているわ』

 

立ち上がる。

 

使徒は待っていなかった。

 

再び腕が振られる。今度は正面からだった。

 

『防御!』

 

シンジは両腕を上げた。

 

使徒の腕が、防御の外側をすり抜ける。胸部に衝撃。続けて、膝が腹へ入った。

 

初号機の身体が折れ、LCLの中に泡が散る。

 

『シンジ君、防御に集中して。無理に殴り返さなくていい』

 

「やってる」

 

殴られ、蹴られ、揺らされる。

 

それでも、一撃は浅い。

 

なら、まず倒れないことだ。

 

シンジは初号機の指を道路に食い込ませた。

 

「……分かった」

 

また拳が来る。

 

今度は、避けようとしなかった。

 

肩で受け、膝を沈める。衝撃を後ろへ逃がさない。

 

初号機の足元で、舗装がひび割れた。

 

ミサトが前に出る。

 

『そのまま。無理に動かそうとしないで。まず、初号機の重さに合わせて』

 

シンジは返事をしなかった。

 

動ける。

 

けれど、従っているわけではない。

 

手綱を引けば暴れ、放せば持っていかれる。

 

シンジは、使徒を見た。

 

「面倒な身体だな」

 

使徒が踏み込む。

 

今度は、正面からではなかった。白い煙の中で、細い腕が大きく横へ振られる。

 

『左!』

 

反射で避けようとした。

 

すぐにやめる。

 

無理に動かせば、初号機が暴れる。

 

なら、合わせる。

 

沈み始めた機体の重さに、意識を重ねた。

 

使徒の腕が、初号機の頭上をかすめる。紫の装甲の端が削れ、火花が散った。

 

プラグ内で、シンジは息を吐いた。

 

足裏の重さが、さっきより近い。まだ自分の身体ではない。だが、完全な他人でもなくなっていた。

 

「少し分かった」

 

前へ出た。

 

今度は、踏み込みすぎなかった。足裏が舗装を砕く直前に膝を殺し、巨体の勢いを腰で受ける。

 

肩が沈み、拳が握られた。

 

紫の巨人が、使徒の胸へ拳を叩き込む。

 

衝撃波が白い煙を裂いた。使徒の身体がわずかに後ろへ揺れる。

 

拳は止まっていた。

 

初号機の拳と使徒の胸の間で、空間が歪んでいる。薄い硝子のような膜が、力を受け止めていた。

 

『目標、A.T.フィールド展開中』

 

ミサトが叫ぶ。

 

『押し込んで!』

 

「やってる」

 

初号機の肩が軋み、足裏が舗装へ沈む。

 

拳は進まない。

 

見えない壁が弾けた。

 

初号機の巨体が後方へ流れ、片膝が道路に落ちる。

 

リツコの声が入った。

 

『力任せじゃ無理。フィールドを中和しないと、コアには届かないわ』

 

「こっちにはないのか」

 

『今は無理よ』

 

「どうしろっていうんだ」

 

使徒が前へ出た。

 

シンジは立ち上がる。

 

今度は下がらなかった。

 

使徒の腕を受け、左手で掴む。初号機の指が、白い腕に食い込んだ。

 

「動くな」

 

使徒の顔が、わずかに傾いた。

 

初号機ではない。

 

その背後。

 

アンビリカルケーブル。

 

「まずい」

 

リツコの声と同時に、白い光が走った。

 

ケーブルが焼き切れ、道路へ叩きつけられる。

 

『アンビリカルケーブル、断線。内部電源へ移行』

 

表示を見る。

 

数字が減っていく。

 

「面倒なことをする」

 

使徒を掴んだまま、さらに押し込んだ。拳も体重も、見えない壁に逃がされる。

 

『活動限界、残り四分三十秒』

 

「分かってる」

 

通信に、細いノイズが混じった。

 

『……初号機、パイロット』

 

途切れかけた通信だった。意識が戻ったというより、沈む直前に声だけが届いているようだった。

 

ミサトが顔を上げる。

 

「レイ……?」

 

『私が……A.T.フィールドを、中和する』

 

リツコがモニターを見た。

 

「……干渉してる」

 

ミサトが通信に飛び込む。

 

『レイ、無理しないで。その状態じゃ――』

 

『できます』

 

短い返答だった。声は震えていた。それでも、言葉だけは途切れなかった。

 

『狙うのは……胸部。中心より、少し下』

 

初号機の視界に、倒れた零号機が映った。

 

立ち上がれず、片腕も落ちかけている。それでも、山吹色の機体の周囲には、薄い歪みが残っていた。

 

消えかけた火が、まだ燃え残っているようだった。

 

「……死ぬ気か」

 

返事はなかった。

 

代わりに、零号機の周囲がわずかに歪む。

 

シンジは短く息を吐いた。

 

「了解」

 

同時に、使徒の胸元を覆う見えない壁が波打つ。

 

一瞬だけ、赤いコアが見えた。

 

「見えた」

 

初号機が踏み込む。

 

拳が、揺らいだ一点へ突き込まれた。

 

空間が軋む。

 

白い亀裂が走る。

 

そこへ、零号機のフィールドがもう一度ぶつかった。

 

見えない壁がずれる。

 

シンジは拳を押し込んだ。

 

紫の拳が膜を裂き、使徒の胸部装甲を砕く。

 

『フィールド貫通』

 

赤いコアに亀裂が入った。

 

使徒の身体が大きく仰け反る。細い腕が空を掻く。街路に衝撃波が走り、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散った。

 

プラグ内で、シンジの視界が激しく揺れる。一瞬、吐き気のようなものが込み上げた。

 

拳は引かなかった。

 

「まだ浅い」

 

初号機がさらに押し込む。コアの亀裂が広がり、赤い光が漏れた。使徒の身体が痙攣する。

 

ミサトが叫ぶ。

 

『そのまま押し切って!』

 

シンジは初号機の腕に力を込めた。

 

使徒の身体が変わった。

 

腕が不自然な角度で折れ曲がる。掴まれていたはずの腕が、関節ごと抜けるように動いた。

 

「……器用な奴だ」

 

使徒は自分の腕を切り捨てるように引き抜いた。白い腕の一部が、初号機の手の中で潰れる。本体だけが後ろへ跳んだ。

 

『損傷部から高熱反応』

 

使徒の胸元から白い光が漏れる。攻撃ではない。傷口を焼き塞ぐような、嫌な光だった。

 

初号機が追おうとした。

 

シンジもそのつもりだった。

 

けれど、足が一瞬遅れる。さっきまで押し込んでいた力が、急に空振りになった。

 

巨体が前のめりに傾く。

 

「くそ」

 

シンジは踏み直した。

 

初号機の足が道路を砕き、崩れかけた姿勢を支える。

 

使徒はその間に距離を取っていた。さっきまでの無機質な前進ではない。明らかに退いている。

 

ミサトがモニターを見た。

 

「逃げてる……?」

 

オペレーターが声を上げる。

 

「目標、後退を開始。地下進入口から離れていきます」

 

発令所に、一瞬だけ安堵に近い空気が走った。

 

だが、シンジは違うものを感じていた。

 

初号機の奥が、急に熱くなる。

 

背中の奥。

 

神経の裏側。

 

まだ触れてはいけない場所で、何かが目を開けた。

 

使徒が背を向ける。

 

その瞬間、初号機の指が震えた。

 

レバーを握る手に、力が入る。

 

「……待て」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

逃がしたくない。

 

気づいたとき、その感情がどちらのものか分からなかった。

 

胸の奥で湧いたものに、別の熱が重なっている。怒りに似ている。だが、怒りだけではない。

 

飢えに近い。

 

初号機の喉の奥から、低い音が漏れる。

 

機械音でも、呼吸でもない。獣が唸るような、腹の底を擦る音だった。

 

これは、自分の怒りではない。

 

けれど、まったく別のものでもなかった。

 

胸の奥に湧いたものに、初号機の何かが絡みついている。

 

発令所のモニターに、異常値が走った。

 

『初号機、神経パルス上昇。パイロット入力と一致しません』

 

リツコの表情が変わる。

 

ミサトは通信卓に手を置いた。

 

だが、すぐには声が出なかった。

 

画面の中の初号機は、もう命令を待っているようには見えなかった。

 

白い煙の向こうで、使徒が距離を取っていく。胸のコアから赤い光を漏らしながら、なお逃げようとしている。

 

初号機の口元が、わずかに開いた。

 

声が出た。

 

言ったのか、聞こえたのか、分からなかった。

 

「……俺じゃない」

 

次の瞬間、初号機が叫んだ。

 

それは、音というより衝撃だった。白く煙る街路に咆哮が叩きつけられ、割れ残っていた窓ガラスが一斉に砕ける。

 

発令所のスピーカーが音を拾い切れず、甲高いノイズを吐いた。

 

ミサトは思わず耳を押さえた。

 

「なに、今の……!」

 

別の警報が重なる。

 

『パイロット脳波、乱れています。意識レベル低下』

 

ミサトの顔色が変わった。

 

『シンジ君、聞こえる!?』

 

返事はなかった。

 

プラグ内で、シンジの視界が大きく歪む。

 

赤い警告灯。

 

濁ったLCL。

 

正面モニターに映る白い煙。

 

逃げていく使徒の影。

 

それらが、何枚も重なったようにぶれた。

 

初号機の奥にある何かが、シンジの神経を押しのけてくる。押し返そうとしても、力が入らない。レバーを握っているはずの指の感覚が遠い。

 

「……黙れ」

 

初号機に言ったのか。

 

自分に言ったのか。

 

分からなかった。

 

声は出た。それが自分の声なのかも分からなかった。

 

背中の奥から、熱いものが這い上がる。怒りとも、飢えとも、痛みとも違う。もっと原始的な何かだった。

 

歯を食いしばろうとした。

 

その前に、意識が沈んだ。

 

『パイロット、反応ありません』

 

ミサトが叫ぶ。

 

『シンジ君!』

 

プラグ内で、シンジの手から力が抜けた。

 

レバーを握っていた指が、ゆっくりと開く。身体は座席に預けられ、首がわずかに傾いた。

 

目は開いている。

 

そこに意識はなかった。

 

リツコの顔から、初めて余裕が消える。

 

「……始まった」

 

初号機の身体が、前へ沈んだ。

 

逃げる使徒へ。

 

傷ついたコアへ。

 

背を向けた獲物へ。

 

シンジはもう何も命じていない。

 

初号機は動き続ける。

 

巨体が沈み、両手が道路に触れた。次の瞬間、獣のように地面を蹴った。

 

人の走り方ではなかった。腕まで使って道路を掴み、白い煙の中へ突っ込んでいく。

 

『初号機、追撃開始。制御不能。内部電源、残り六十秒』

 

発令所の空気が凍った。

 

誰も、すぐには命令を出せなかった。

 

プラグ内のモニターには、初号機の視界だけが映っていた。大きく上下する街路。赤く滲む映像の端に、逃げる使徒の背中が映っている。

 

その中心で、シンジは動かなかった。

 

LCLの中で、短い泡だけが口元から漏れている。

 

リツコが低く言った。

 

「機体側が動かしているわ。完全に」

 

ミサトはモニターを睨んだ。

 

言葉が出なかった。

 

使徒の周囲の空間が歪む。

 

見えない壁が、逃げるためだけに一方向へ押し広げられた。

 

白い煙が爆ぜる。

 

使徒が、弾かれたように後方へ跳ぶ。

 

だが、初号機は離されない。

 

道路を蹴り、砕けた舗装を後方へ吹き飛ばす。胸元で、焼き塞がれかけていた傷が赤く脈打った。亀裂は閉じきっていない。

 

初号機の目が、それを捉える。

 

使徒が振り向き、A.T.フィールドを展開した。

 

初号機は止まらない。

 

右手が、見えない膜へ食い込む。

 

リツコがモニターを見つめたまま、低く呟いた。

 

「……力任せに、こじ開けている」

 

膜に亀裂が走った。

 

初号機の口が開く。喉の奥から、低い唸りが漏れた。

 

それは、気合でも、咆哮でもなかった。

 

獲物の骨を砕く前の、獣の息だった。

 

使徒のフィールドが割れる。

 

初号機の左手が、使徒の肩を掴んだ。

 

使徒が身を捩った。腕を振るう。

 

初号機は離れない。

 

指が装甲を裂き、内部へ食い込む。赤い光が傷口から漏れた。

 

その沈黙の中で、初号機の右手が使徒の胸部へ突き込まれた。

 

一度目で装甲が砕ける。

 

二度目で白い膜が裂ける。

 

三度目で、赤いコアに指が届いた。

 

使徒の身体が痙攣した。

 

逃げようとする身体を、初号機の左手が押さえ込む。装甲が軋み、潰れていく。

 

リツコの顔から、わずかに血の気が引いた。

 

「……狩っている」

 

ミサトはモニターから目を離せなかった。

 

初号機の右手が、深く沈む。

 

赤いコアが、音を立てて割れた。

 

一瞬、すべての光が膨れ上がる。

 

使徒の身体が硬直した。

 

次の瞬間、赤い光が内側から破裂する。白い巨体に無数の亀裂が走った。亀裂の奥から赤い光が噴き出し、腕、胸、首、顔のようなものが順番に崩れていく。

 

『目標、コア崩壊。A.T.フィールド、消失』

 

誰も歓声を上げなかった。

 

モニターの中で、初号機はまだ使徒を掴んでいた。崩れかけた身体を、手の中でさらに握り潰す。白い残骸が道路へ落ち、赤い光が散った。

 

初号機は、それを見下ろしていた。

 

低い唸りだけが、通信越しに発令所へ届いている。

 

ミサトは、ようやく息を吸った。

 

勝った。

 

そのはずだった。

 

だが、その言葉は誰の口からも出なかった。

 

初号機の頭が、ゆっくりと動いた。

 

使徒の残骸ではなかった。

 

崩れた市街地の奥。

 

倒れた零号機のある方へ。

 

その周囲には、まだ微弱なA.T.フィールドの歪みが残っていた。薄く、弱く、今にも消えそうな壁だった。

 

初号機の目が、それを捉える。

 

『目標、再捕捉――零号機です』

 

オペレーターの声が、わずかに裏返った。

 

ミサトは、一瞬動けなかった。

 

初号機の口が開く。血の通っていないはずの顎が、獲物を見つけた獣のように動いた。

 

喉の奥から、低い唸りが漏れる。

 

プラグ内で、シンジは動かない。

 

止める者は、もういない。

 

使徒は沈黙した。

 

だが、まだ近くに同じような壁がある。

 

初号機は止まらない。

 

右手が道路を掴み、腰が沈む。

 

ミサトが叫んだ。

 

『シンジ君、起きて! それは零号機よ! レイが乗ってる!』

 

返事はない。意識を失った顔を、警告灯が断続的に照らしていた。

 

暗い水の向こうで、声が揺れていた。

 

レイ。

 

その音だけが、かすかに届く。

 

誰かが呼んでいる。止めろと言っている。

 

だが、手は動かない。まぶたも、喉も、指先も、自分のものではなくなっていた。

 

背中の奥で、獣の息だけが近い。

 

初号機が地面を蹴る。

 

舗装が爆ぜ、紫の巨体が零号機へ飛びかかった。

 

距離が一気に潰れる。

 

零号機は動けない。山吹色の巨体は、倒れたまま頭部をわずかに上げるだけだった。

 

初号機の右手が伸びる。

 

狙っているのは、腕でも胴でもない。

 

首だった。

 

ミサトの声が飛ぶ。

 

「プラグを強制射出して!」

 

リツコが即座に端末へ向き直る。

 

『強制射出信号、送信』

 

初号機の背部装甲が、わずかに開いた。

 

だが、すぐに内側から押し戻される。

 

『射出、失敗。プラグ固定ボルト、解除不能』

 

リツコの顔が強張った。

 

「機体側が拒否しているの……?」

 

初号機の指が、零号機の首にかかる。

 

山吹色の装甲がきしんだ。

 

ミサトの声が掠れる。

 

「やめて……」

 

すべての表示が赤に変わった。

 

『活動限界』

 

『内部電源、ゼロ』

 

初号機の目の光が、ふっと消えた。

 

零号機の首にかかっていた指から、力が抜ける。装甲を軋ませていた手が、ゆっくりと止まった。

 

そのまま、紫の巨体は前のめりに沈む。

 

膝が道路を砕き、片手が零号機の横に叩きつけられた。衝撃で粉塵が舞い上がる。

 

初号機は、零号機の首元に手をかけた姿勢のまま沈黙していた。

 

発令所は静まり返った。

 

誰もすぐには声を出せなかった。

 

モニターの端では、使徒の残骸が赤い光を失って崩れていた。

 

倒した。

 

確かに、倒した。

 

だが、発令所の空気に勝利はなかった。

 

ミサトは通信卓に手を置いたまま、モニターを見つめていた。

 

リツコが低く言う。

 

「……止まったわ」

 

「止まったんじゃない」

 

ミサトは、掠れた声で答えた。

 

「電源が切れただけよ」

 

プラグ内は暗かった。

 

警告灯だけが、赤く明滅している。LCLの中で、呼吸音だけが低く響いていた。

 

シンジは目を覚まさない。

 

レバーから離れた手が、LCLの中でわずかに揺れている。

 

暗いモニターには、もう何も映っていない。

 

それでも、背中の奥にはまだいた。

 

初号機の奥にいる何かが、完全には眠っていない。

 

発令所のモニターに、停止した初号機の顔が映る。

 

口は、まだわずかに開いていた。

 

外では、白い煙がゆっくりと晴れていく。

 

使徒の姿は、もうなかった。

 

残っていたのは、砕けた街と、沈黙した二体のエヴァ。

 

そして、発令所に落ちた沈黙だけだった。

 

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