新世紀エヴァンゲリオン 黒鉄   作:ザメル

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第三話 残響

暗い部屋だった。

 

壁も床も見えない。黒い空間の中に、番号だけを刻んだ巨大な石板が浮かんでいる。

 

その中央に、碇ゲンドウは立っていた。

 

両手を背に回し、姿勢を崩さない。眼鏡のレンズだけが、石板の白い光を鈍く返していた。

 

『第三使徒の消滅を確認した』

 

低い声が響いた。

 

『だが、報告書には看過できぬ記述がある。初号機の制御逸脱。零号機への攻撃行動。これは何だ、碇』

 

ゲンドウは表情を変えなかった。

 

「初号機の戦闘継続能力が、想定を上回っただけです」

 

『詭弁だな』

 

別の声が返った。

 

『あれは戦闘継続ではない。捕食に近い行動だ』

 

沈黙が落ちた。

 

『問題は使徒を殺したことではない。殺したあとも、まだ探していたことだ』

 

ゲンドウは否定しなかった。

 

『第三の適格者の投入は、私情ではないな』

 

石板の声が低くなる。

 

『あれは貴様の息子ではないか』

 

「起動条件を満たしたためです。他意はありません」

 

石板の光が、冷たく揺れた。

 

『ならば管理を徹底しろ。初号機は、まだ目覚めさせる段階ではない』

 

「承知しています」

 

『あれは我らの計画の要だ。貴様個人の思惑で動かされては困る』

 

ゲンドウは答えなかった。

 

やがて、最も奥の石板が口を開いた。

 

『シナリオは死海文書の記述に従って進む。ネルフも、エヴァンゲリオンも、そのための駒に過ぎぬ』

 

「承知しています」

 

石板の光が、ひとつずつ消えていく。

 

最後の声だけが残った。

 

『次はないぞ、碇』

 

闇が戻った。

 

誰もいなくなった空間に、ゲンドウだけが立っていた。

 

同じ頃、ネルフ本部の医療区画では、別の闇が青年を沈めていた。

 

赤い海があった。

 

空はなく、地面もない。赤黒い水面だけが、どこまでも広がっている。

 

その中央に、白い巨人が立っていた。

 

顔はない。目も、口もない。それなのに、見られていると分かった。胸には赤い光が埋まり、鼓動のように明滅している。

 

水面の下から、無数の手が伸びていた。

 

細い手。焼けた手。子供の手。兵士の手。

 

それらが巨人の足に縋りつき、引きずり下ろそうとしている。だが、巨人は揺れもしない。

 

シンジはその前に立っていた。

 

身体が動かない。声も出ない。

 

白い巨人が、ゆっくりと手を伸ばす。

 

その手のひらに、青白い少女が横たわっていた。

 

顔は見えない。

 

だが、青い髪だけは見えた。

 

巨人の指が、少女の首にかかる。

 

やめろ。

 

声は出なかった。

 

巨人の胸の赤い光が強く脈打つ。

 

次の瞬間、赤い海が黒く染まった。

 

目を開けた。

 

白い天井があった。

 

荒い呼吸だけが、病室に残っている。

 

身体は動く。腕も、指も、自分のものだった。

 

だが、握った右手には、まだ誰かの首を掴んだような重さが残っていた。

 

「……情けねえ」

 

声は掠れていた。

 

勝った覚えもない。

 

止めた覚えもない。

 

ただ、気づいたら病室にいた。

 

汗を拭ったところで、扉が開いた。

 

ミサトが入ってきた。手には薄い端末を持っている。

 

「おはよ。……って、あんまりいい顔じゃないわね」

 

「今起きた」

 

「具合は?」

 

「悪い」

 

「でしょうね。無理もないわ」

 

ミサトはベッド脇の椅子に座った。口調は落ち着いていたが、表情には疲労が残っている。

 

「起きてすぐで悪いけど、昨日の話をしておくわ。後回しにして楽になる話じゃないから」

 

シンジは天井を見たまま、息を吐いた。

 

「俺は、どこまでやった」

 

「覚えてない?」

 

「ああ。使徒に突っ込んだところまではある。その先がない」

 

「そっか」

 

ミサトは端末に視線を落とし、少しだけ間を置いた。

 

「あんたの意識が落ちた後、初号機は制御を外れた。第三使徒を追撃して撃破。その後、零号機にも向かった」

 

「……零号機」

 

「首に手をかけたところまで。装甲は損傷したけど、エントリープラグは無事。レイも生きてる」

 

そこで、ミサトの声が少し低くなった。

 

「本当に、ぎりぎりだった」

 

シンジは右手を見た。

 

感触はない。

 

だが、嫌な重さだけが残っている。

 

「……そうか」

 

「あんたがいなかったら、使徒はネルフ本部に到達してた。私たちも、たぶん生きてない」

 

ミサトは端末を膝の上に置いた。

 

「だから、これは言っておく。ありがとう。乗ってくれて」

 

「礼を言われる筋合いはない」

 

シンジは手から視線を上げなかった。

 

「自分のために乗っただけだ」

 

「それでもよ」

 

ミサトは静かに言った。

 

「助かった人間がいる。あんたがどう思ってても、それは消えない」

 

シンジは答えなかった。

 

ミサトも、それ以上は押さなかった。

 

少しして、ミサトは椅子の背にもたれた。

 

「で、ここからが本題。使徒はまた来る」

 

シンジは黙って聞いていた。

 

「だから、今後も初号機に乗ってほしい」

 

シンジは、すぐには答えなかった。

 

呼吸だけが、ひとつ遅れた。

 

「乗る」

 

ミサトは、すぐには返事をしなかった。

 

「……今、乗るって言った?」

 

「すでに腹はくくった」

 

「……さっきの間で、やめるって言うのかと思った」

 

ミサトは、怒鳴られても、責められても、受けるつもりでいた。

 

だが、シンジはこちらを見ているだけだった。

 

「理由は?」

 

「ここで降りても、使徒はまた来る。外に逃げても同じだ。なら、何もできずに待つより、初号機に乗る。自分で可能性を開ける分、まだましだ」

 

シンジは身体を起こした。

 

肩の奥に、鈍い痛みが走った。

 

「俺は乗るだけだ。初号機を制御するのはネルフの仕事だ」

 

ミサトは黙って聞いていた。

 

「それができないなら」

 

シンジは淡々と言った。

 

「俺も、あんたたちも、死ぬだけだ」

 

病室に、短い沈黙が落ちた。

 

やがて、ミサトは小さく笑った。

 

「……ほんと、可愛げないわね」

 

ミサトはそう言って、端末を小脇に抱えた。

 

「検査が終わったら退院扱いになるわ。しばらくはネルフの管理下」

 

そこで一度、言葉が切れた。

 

話は終わったように見えた。

 

だが、ミサトは立ち上がる前に、もう一度シンジを見た。

 

「それと、住む場所の話」

 

「用意されてるのか」

 

「一応ね。候補があって、施設内の居住区か、外の指定マンションに住んでもらおうと思ってたんだけど……」

 

ミサトは少しだけ言い淀んだ。

 

「今回は、私の家に来てもらうことになりました」

 

シンジの目が細くなる。

 

「監視か」

 

「そう思うわよね」

 

ミサトはあっさり頷いた。

 

「緊急時の連絡、体調の確認、精神状態の把握。理由はいくつもあるわ。でも一番は、あんたを一人にしておくのが危なっかしいってこと」

 

「子供扱いか」

 

「違うとは言わないわ」

 

ミサトは軽く肩をすくめた。

 

「それにね。あんた、その性格のままだと、これから先けっこう損するわよ。人と暮らす練習くらい、しといても悪くないでしょ」

 

「……分かった。施設に入れられるよりはましだ」

 

ミサトは、少しだけ安心したように息を吐いた。

 

「じゃ、決まりね」

 

端末を抱え直し、扉へ向かう。

 

「検査が終わったら迎えに来るわ。それまで休んでなさい」

 

ミサトは病室を出ていった。

 

扉が閉じる。

 

白い部屋に、また静けさが戻った。

 

数時間後。

 

検査を終えたシンジは、医療区画の廊下を歩いていた。

 

身体に異常はない。そう言われた。

 

だが、肩の奥には鈍い痛みが残っている。自分の傷なのか、初号機の記憶なのかは分からなかった。

 

廊下では、白衣の職員たちが忙しなく行き交っている。

 

誰も話しかけてこない。

 

ただ、何人かがシンジを見て、すぐに視線を外した。

 

そのまま角を曲がったところで、足が止まった。

 

廊下の奥に、半分ほど開いた病室の扉があった。

 

中に、白いベッドが見える。

 

その上に、青い髪が少しだけ見えた。

 

シンジは黙って立っていた。

 

「……あれが、綾波レイか」

 

右手を握った。

 

扉の向こうへ踏み込む気にはならなかった。

 

シンジは病室から目を離し、廊下を進んだ。

 

少し先のエレベーター前で、ミサトが待っていた。端末を片手に、こちらを見る。

 

「検査、終わった?」

 

「ああ」

 

ミサトはシンジの後ろにある廊下へ、ちらりと目を向けた。

 

何を見てきたのか、気づいたようだった。

 

けれど、何も聞かなかった。

 

「じゃ、行きましょ。地上に出るわ」

 

シンジは短く頷いた。

 

地上へ出ると、空は白く曇っていた。

 

ミサトの車は、修復途中の道路をゆっくり走っていく。ところどころ舗装が割れ、ビルの壁には黒い焦げ跡が残っていた。作業車両が瓦礫を運び、制服の職員たちが無線を片手に動き回っている。

 

シンジは助手席から外を見ていた。

 

「昨日の跡か」

 

「ええ。でも、街は残ってる」

 

ミサトは前を見たまま言った。

 

「あなたが守った街よ」

 

シンジは答えなかった。

 

守った。

 

その言葉は、まだ自分のものには思えなかった。

 

病室で目を覚まし、知らない事実だけを聞かされた。

 

それでも、街は残っていた。

 

崩れたビルの隙間で、作業員たちが動いている。閉じた店の前を、子供を連れた女が急ぎ足で通り過ぎる。遠くでは、信号機がまだ赤く点滅していた。

 

「実感ない?」

 

「ない」

 

ミサトは小さく笑った。

 

「でも、それでいいわ。今はまだ、そういうことにしておきなさい」

 

車は市街地を抜け、住宅区画へ入った。

 

ネルフ本部の無機質な白とは違い、そこには生活の色があった。閉じた店、洗濯物の揺れるベランダ、帰宅途中の子供の姿。

 

それらは、妙に遠く見えた。

 

やがて車は、一つのマンションの前で止まった。

 

「着いたわ」

 

ミサトはエンジンを切る。

 

「ここが、しばらくのあんたの家」

 

シンジは建物を見上げた。

 

「荷物は?」

 

「あとで届くわ。今日は身体を休めること。細かいことは中で話すから」

 

ミサトは玄関へ向かい、鍵を開けた。

 

「入って」

 

扉が開く。

 

室内から、冷えた空気と生活の匂いが流れてきた。

 

ミサトは先に靴を脱ぐ。

 

シンジは玄関先で部屋の中を見た。

 

整理されているとは言いにくかった。テーブルの端に空き缶があり、椅子には上着が掛かっている。床には雑誌が数冊、無造作に積まれていた。

 

ミサトはその視線に気づき、少しだけ顔をしかめた。

 

「……昨日まで使徒対応だったの。掃除は後回し」

 

「何も言ってない」

 

「顔には出てたわよ」

 

ミサトは空き缶を片づけ、雑誌を部屋の隅へ寄せた。

 

シンジは靴を脱ぎ、部屋へ上がった。

 

「奥の部屋を使って。布団は出してあるわ」

 

「ここで寝るのか」

 

「ええ。狭いけど、病室よりはましでしょ」

 

「白くないだけましだ」

 

「それは褒め言葉として受け取っておくわ」

 

ミサトは少しだけ笑った。

 

その笑いにも、疲れが残っていた。

 

シンジは返事をしなかった。

 

ミサトは台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。

 

中を見て、少しだけ黙る。

 

「……夕飯は、買ってくるか、出前ね」

 

「どっちでもいい」

 

「そういう返事が一番困るのよ」

 

言い方は軽かったが、声に強い調子はなかった。

 

ミサトは冷蔵庫を閉じた。

 

「今日は出前にするわ。あんたは座ってなさい」

 

シンジは部屋の隅に置かれた布団を見た。

 

急な部屋。

 

急な同居。

 

急な生活。

 

納得したわけではない。

 

ただ、拒む理由も少なかった。

 

「シンジ君」

 

ミサトの声に、顔を上げる。

 

「今日は休みなさい。眠れなくても、横にはなって。身体が先に潰れたら、何もできないから」

 

先ほどまでより、少しだけ声が低かった。

 

作戦部の人間としてではなく、同じ部屋にいる大人として言っているように聞こえた。

 

シンジは短く頷いた。

 

「ああ」

 

ミサトは端末を手に取り、出前の画面を開いた。

 

部屋には、冷蔵庫の低い音だけが残っていた。

 

シンジは、その音を聞いていた。

 

最初はただの機械音だった。

 

だが、耳の奥で、別の音に変わる。

 

射出前のケージ。

 

固定具の外れる重い振動。

 

LCL越しに聞いた、初号機の低い息。

 

シンジは目を閉じた。

 

もう乗っていない。

 

ここはエントリープラグではない。

 

それでも、背中の奥だけが、まだあの巨人の中に残っている気がした。

 

「……面倒な身体だな」

 

小さく呟いて、シンジは布団に腰を下ろした。

 

冷蔵庫の音は、まだ止まらなかった。

 

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