暗い部屋だった。
壁も床も見えない。黒い空間の中に、番号だけを刻んだ巨大な石板が浮かんでいる。
その中央に、碇ゲンドウは立っていた。
両手を背に回し、姿勢を崩さない。眼鏡のレンズだけが、石板の白い光を鈍く返していた。
『第三使徒の消滅を確認した』
低い声が響いた。
『だが、報告書には看過できぬ記述がある。初号機の制御逸脱。零号機への攻撃行動。これは何だ、碇』
ゲンドウは表情を変えなかった。
「初号機の戦闘継続能力が、想定を上回っただけです」
『詭弁だな』
別の声が返った。
『あれは戦闘継続ではない。捕食に近い行動だ』
沈黙が落ちた。
『問題は使徒を殺したことではない。殺したあとも、まだ探していたことだ』
ゲンドウは否定しなかった。
『第三の適格者の投入は、私情ではないな』
石板の声が低くなる。
『あれは貴様の息子ではないか』
「起動条件を満たしたためです。他意はありません」
石板の光が、冷たく揺れた。
『ならば管理を徹底しろ。初号機は、まだ目覚めさせる段階ではない』
「承知しています」
『あれは我らの計画の要だ。貴様個人の思惑で動かされては困る』
ゲンドウは答えなかった。
やがて、最も奥の石板が口を開いた。
『シナリオは死海文書の記述に従って進む。ネルフも、エヴァンゲリオンも、そのための駒に過ぎぬ』
「承知しています」
石板の光が、ひとつずつ消えていく。
最後の声だけが残った。
『次はないぞ、碇』
闇が戻った。
誰もいなくなった空間に、ゲンドウだけが立っていた。
同じ頃、ネルフ本部の医療区画では、別の闇が青年を沈めていた。
赤い海があった。
空はなく、地面もない。赤黒い水面だけが、どこまでも広がっている。
その中央に、白い巨人が立っていた。
顔はない。目も、口もない。それなのに、見られていると分かった。胸には赤い光が埋まり、鼓動のように明滅している。
水面の下から、無数の手が伸びていた。
細い手。焼けた手。子供の手。兵士の手。
それらが巨人の足に縋りつき、引きずり下ろそうとしている。だが、巨人は揺れもしない。
シンジはその前に立っていた。
身体が動かない。声も出ない。
白い巨人が、ゆっくりと手を伸ばす。
その手のひらに、青白い少女が横たわっていた。
顔は見えない。
だが、青い髪だけは見えた。
巨人の指が、少女の首にかかる。
やめろ。
声は出なかった。
巨人の胸の赤い光が強く脈打つ。
次の瞬間、赤い海が黒く染まった。
目を開けた。
白い天井があった。
荒い呼吸だけが、病室に残っている。
身体は動く。腕も、指も、自分のものだった。
だが、握った右手には、まだ誰かの首を掴んだような重さが残っていた。
「……情けねえ」
声は掠れていた。
勝った覚えもない。
止めた覚えもない。
ただ、気づいたら病室にいた。
汗を拭ったところで、扉が開いた。
ミサトが入ってきた。手には薄い端末を持っている。
「おはよ。……って、あんまりいい顔じゃないわね」
「今起きた」
「具合は?」
「悪い」
「でしょうね。無理もないわ」
ミサトはベッド脇の椅子に座った。口調は落ち着いていたが、表情には疲労が残っている。
「起きてすぐで悪いけど、昨日の話をしておくわ。後回しにして楽になる話じゃないから」
シンジは天井を見たまま、息を吐いた。
「俺は、どこまでやった」
「覚えてない?」
「ああ。使徒に突っ込んだところまではある。その先がない」
「そっか」
ミサトは端末に視線を落とし、少しだけ間を置いた。
「あんたの意識が落ちた後、初号機は制御を外れた。第三使徒を追撃して撃破。その後、零号機にも向かった」
「……零号機」
「首に手をかけたところまで。装甲は損傷したけど、エントリープラグは無事。レイも生きてる」
そこで、ミサトの声が少し低くなった。
「本当に、ぎりぎりだった」
シンジは右手を見た。
感触はない。
だが、嫌な重さだけが残っている。
「……そうか」
「あんたがいなかったら、使徒はネルフ本部に到達してた。私たちも、たぶん生きてない」
ミサトは端末を膝の上に置いた。
「だから、これは言っておく。ありがとう。乗ってくれて」
「礼を言われる筋合いはない」
シンジは手から視線を上げなかった。
「自分のために乗っただけだ」
「それでもよ」
ミサトは静かに言った。
「助かった人間がいる。あんたがどう思ってても、それは消えない」
シンジは答えなかった。
ミサトも、それ以上は押さなかった。
少しして、ミサトは椅子の背にもたれた。
「で、ここからが本題。使徒はまた来る」
シンジは黙って聞いていた。
「だから、今後も初号機に乗ってほしい」
シンジは、すぐには答えなかった。
呼吸だけが、ひとつ遅れた。
「乗る」
ミサトは、すぐには返事をしなかった。
「……今、乗るって言った?」
「すでに腹はくくった」
「……さっきの間で、やめるって言うのかと思った」
ミサトは、怒鳴られても、責められても、受けるつもりでいた。
だが、シンジはこちらを見ているだけだった。
「理由は?」
「ここで降りても、使徒はまた来る。外に逃げても同じだ。なら、何もできずに待つより、初号機に乗る。自分で可能性を開ける分、まだましだ」
シンジは身体を起こした。
肩の奥に、鈍い痛みが走った。
「俺は乗るだけだ。初号機を制御するのはネルフの仕事だ」
ミサトは黙って聞いていた。
「それができないなら」
シンジは淡々と言った。
「俺も、あんたたちも、死ぬだけだ」
病室に、短い沈黙が落ちた。
やがて、ミサトは小さく笑った。
「……ほんと、可愛げないわね」
ミサトはそう言って、端末を小脇に抱えた。
「検査が終わったら退院扱いになるわ。しばらくはネルフの管理下」
そこで一度、言葉が切れた。
話は終わったように見えた。
だが、ミサトは立ち上がる前に、もう一度シンジを見た。
「それと、住む場所の話」
「用意されてるのか」
「一応ね。候補があって、施設内の居住区か、外の指定マンションに住んでもらおうと思ってたんだけど……」
ミサトは少しだけ言い淀んだ。
「今回は、私の家に来てもらうことになりました」
シンジの目が細くなる。
「監視か」
「そう思うわよね」
ミサトはあっさり頷いた。
「緊急時の連絡、体調の確認、精神状態の把握。理由はいくつもあるわ。でも一番は、あんたを一人にしておくのが危なっかしいってこと」
「子供扱いか」
「違うとは言わないわ」
ミサトは軽く肩をすくめた。
「それにね。あんた、その性格のままだと、これから先けっこう損するわよ。人と暮らす練習くらい、しといても悪くないでしょ」
「……分かった。施設に入れられるよりはましだ」
ミサトは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃ、決まりね」
端末を抱え直し、扉へ向かう。
「検査が終わったら迎えに来るわ。それまで休んでなさい」
ミサトは病室を出ていった。
扉が閉じる。
白い部屋に、また静けさが戻った。
数時間後。
検査を終えたシンジは、医療区画の廊下を歩いていた。
身体に異常はない。そう言われた。
だが、肩の奥には鈍い痛みが残っている。自分の傷なのか、初号機の記憶なのかは分からなかった。
廊下では、白衣の職員たちが忙しなく行き交っている。
誰も話しかけてこない。
ただ、何人かがシンジを見て、すぐに視線を外した。
そのまま角を曲がったところで、足が止まった。
廊下の奥に、半分ほど開いた病室の扉があった。
中に、白いベッドが見える。
その上に、青い髪が少しだけ見えた。
シンジは黙って立っていた。
「……あれが、綾波レイか」
右手を握った。
扉の向こうへ踏み込む気にはならなかった。
シンジは病室から目を離し、廊下を進んだ。
少し先のエレベーター前で、ミサトが待っていた。端末を片手に、こちらを見る。
「検査、終わった?」
「ああ」
ミサトはシンジの後ろにある廊下へ、ちらりと目を向けた。
何を見てきたのか、気づいたようだった。
けれど、何も聞かなかった。
「じゃ、行きましょ。地上に出るわ」
シンジは短く頷いた。
地上へ出ると、空は白く曇っていた。
ミサトの車は、修復途中の道路をゆっくり走っていく。ところどころ舗装が割れ、ビルの壁には黒い焦げ跡が残っていた。作業車両が瓦礫を運び、制服の職員たちが無線を片手に動き回っている。
シンジは助手席から外を見ていた。
「昨日の跡か」
「ええ。でも、街は残ってる」
ミサトは前を見たまま言った。
「あなたが守った街よ」
シンジは答えなかった。
守った。
その言葉は、まだ自分のものには思えなかった。
病室で目を覚まし、知らない事実だけを聞かされた。
それでも、街は残っていた。
崩れたビルの隙間で、作業員たちが動いている。閉じた店の前を、子供を連れた女が急ぎ足で通り過ぎる。遠くでは、信号機がまだ赤く点滅していた。
「実感ない?」
「ない」
ミサトは小さく笑った。
「でも、それでいいわ。今はまだ、そういうことにしておきなさい」
車は市街地を抜け、住宅区画へ入った。
ネルフ本部の無機質な白とは違い、そこには生活の色があった。閉じた店、洗濯物の揺れるベランダ、帰宅途中の子供の姿。
それらは、妙に遠く見えた。
やがて車は、一つのマンションの前で止まった。
「着いたわ」
ミサトはエンジンを切る。
「ここが、しばらくのあんたの家」
シンジは建物を見上げた。
「荷物は?」
「あとで届くわ。今日は身体を休めること。細かいことは中で話すから」
ミサトは玄関へ向かい、鍵を開けた。
「入って」
扉が開く。
室内から、冷えた空気と生活の匂いが流れてきた。
ミサトは先に靴を脱ぐ。
シンジは玄関先で部屋の中を見た。
整理されているとは言いにくかった。テーブルの端に空き缶があり、椅子には上着が掛かっている。床には雑誌が数冊、無造作に積まれていた。
ミサトはその視線に気づき、少しだけ顔をしかめた。
「……昨日まで使徒対応だったの。掃除は後回し」
「何も言ってない」
「顔には出てたわよ」
ミサトは空き缶を片づけ、雑誌を部屋の隅へ寄せた。
シンジは靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
「奥の部屋を使って。布団は出してあるわ」
「ここで寝るのか」
「ええ。狭いけど、病室よりはましでしょ」
「白くないだけましだ」
「それは褒め言葉として受け取っておくわ」
ミサトは少しだけ笑った。
その笑いにも、疲れが残っていた。
シンジは返事をしなかった。
ミサトは台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。
中を見て、少しだけ黙る。
「……夕飯は、買ってくるか、出前ね」
「どっちでもいい」
「そういう返事が一番困るのよ」
言い方は軽かったが、声に強い調子はなかった。
ミサトは冷蔵庫を閉じた。
「今日は出前にするわ。あんたは座ってなさい」
シンジは部屋の隅に置かれた布団を見た。
急な部屋。
急な同居。
急な生活。
納得したわけではない。
ただ、拒む理由も少なかった。
「シンジ君」
ミサトの声に、顔を上げる。
「今日は休みなさい。眠れなくても、横にはなって。身体が先に潰れたら、何もできないから」
先ほどまでより、少しだけ声が低かった。
作戦部の人間としてではなく、同じ部屋にいる大人として言っているように聞こえた。
シンジは短く頷いた。
「ああ」
ミサトは端末を手に取り、出前の画面を開いた。
部屋には、冷蔵庫の低い音だけが残っていた。
シンジは、その音を聞いていた。
最初はただの機械音だった。
だが、耳の奥で、別の音に変わる。
射出前のケージ。
固定具の外れる重い振動。
LCL越しに聞いた、初号機の低い息。
シンジは目を閉じた。
もう乗っていない。
ここはエントリープラグではない。
それでも、背中の奥だけが、まだあの巨人の中に残っている気がした。
「……面倒な身体だな」
小さく呟いて、シンジは布団に腰を下ろした。
冷蔵庫の音は、まだ止まらなかった。