目覚めとは不快なものだ。心地良いものであるのなら、母の胎から追われた赤子も喚くまい。物心もつかぬうちから人間は理解しているのだ、闇が光よりもずっと静かで優しいことを。
その穏やかな暗闇の中から、白雪千夜は引きずり出される。視界と意識のノイズを乗り越え、彼女はまず枕元でがなっている携帯の画面をフリックした。耳障りな音が止み、ベッドの上に静寂が訪れる。一拍置いて、千夜の小さな溜息がそれを押しのけた。
千夜は携帯を充電ケーブルからもぎ取りながら緩慢な動作で上体を起こし、五分刻みで控えている残りのアラームを解除していく。次に置時計の目覚ましを解除。ベッドから降りた彼女は不服気な足取りで窓へと向かい、布とガラスが隔てる先の赫奕たる気配に辟易しながらもカーテンを掴むと、躊躇いなく開け放った。
朝日が薄暗い部屋の中を吹き荒れ、総ざらいにする。暴威に身を強かに打たれ、千夜の意識が強制的に覚醒へと導かれる。
「……いい朝だ」
一日の始まり、その第一ルーチンを終えた千夜はセリフと合致しない顔つきで太陽を仰いだ。
「お嬢様、お嬢様」
目覚めよりしばらく。千夜は呼びかけと共に扉をノックしていた。身なりは既に整えられ、顔の険も取れている。声とノック音が廊下に消え入る中、彼女は部屋の主の反応に耳を澄ます。経験上、返事のある確率は四割程――吸血鬼の末裔にしては、上等だ。
「……はぁい」
間延びした返事。今日は四割の方だったようだ。何を賭けたわけでもないが、千夜は少し得をしたような気分になった。改めて一声断ってから、扉を開ける。
これは――四割どころか一割だな。金糸の上を光が滑る光景に千夜は目を窄めた。
千夜の友人であり主人たる彼女、黒埼ちとせはベッドに腰かけ、日の光を浴びていた――無論、灰になどならずに。千夜がそうだったように、日光浴によって目覚めを促しているのだろう。
「おはよう、千夜ちゃん」
陽光にちとせの金の髪と白い肌が融けている。彼女の横顔に浮かんだ微笑みも、その溶融に流れてしまいそうな趣があった。
「おはようございます、お嬢様。今日はお早いのですね」
「えー、嫌味?」
「まさか。この朝ひばりもいよいよお役御免か、と感傷に浸っていただけです」
千夜は冗句を述べる。対して、ちとせは眠気が抜けきらないのか「――うーん、まあ」といまいち歯切れの悪い相槌をセリフの頭に置いた。
「ママに起こしてもらわないとダメ、って歳でもないしね」
確かに、格好のつく話ではないか。母に追い立てられながら朝の支度をしていた、幼き日々を千夜は思い出す。本質的にはあの頃と変わっていないな、とも。今だって朝は苦手で、ちとせがいるから起きられているだけだ。
「克己心が強いのですね、お嬢様は」
「それはないでしょ、私に限って」
ちとせは伸びを一つ打った後、首をそらすことで千夜を顧みた。
「すぐ行くね。先に行って待ってて」
「はい。では失礼します」
着替えまでを手伝いはしない。千夜が持つ〈従者〉の記号は、他ならぬ〈主〉によって半端なまま留められている。 いわば〈ごっこ〉。日を浴びている吸血鬼のようなもの。
千夜は恭しい一礼の後、ちとせの部屋を後にした。
二人で住むには広すぎる間取り、その余白の表象である長めの通路を千夜は粛々と歩む。手持ち無沙汰な彼女の視線はあるとき、意図なく壁の巾木に留まった。
「……よくないな」
うっすら積もった埃を見て、呟く。
ここに住み始めた頃は、こんなことは無かったのだが。時間と意識が足りていない――言い訳ではなく自戒として、千夜は自分に唱える。今日これからは無理だが、夜戻って来てからでも掃除をしてしまおう。視界と思考から埃を追い出して、彼女は歩を早めた。
リビングに戻った千夜はエプロンを着て、朝食の準備に取り掛かる。とはいえ主となる作業は終えており、あとは諸々を火にかけるぐらいのものだった。
ソーセージと卵を焼く横でミネストローネに似たスープが温められる。チョルバと呼ばれるルーマニアの料理だ。今日の朝食のテーマはルーマニア風――あくまで〈風〉なのが肝要である。
おたまでチョルバをほんの少し掬い取り口に含んだ千夜は「可もなく不可もなく」という顔をする。本来使う本場の調味料を酢とレモンで代用したわりには、よくできていた。
こだわるだけならいくらでもできるが、それが日々の生活に必要かどうかは別だ。千夜は独身男性が突如手打ち蕎麦だのスパイスカレーに狂うという話を脳裏に浮かべながら、ウォールキャビネットから食器を取り出す。すっきりとしたその内部は噂の狂気とは無縁だ。
それに、ちとせも食の形式に完全は求めない。美味しければよいのだ。本当にルーマニアらしい朝食を拵えるなら主食はママリガ――トウモロコシ粉の練り粥であるが――小麦でできた主食がちょうど、オーブンで焼き上がったところだ。
千夜は二枚のパンをカットして四切れにすると一と三とに分けて皿に盛りつける。その他のメニューも同等に。これが今のちとせが完食できる量。以前に比べるとずいぶん増えた。
「血は食事から、ですか」
千夜はちとせの弁を口の中で転がす。吸血鬼ではなく、人間としての弁を。食欲の増加は体調が小康状態であるのと、加えてアイドル活動が重労働だからだろう。食べなければ、とてもではないがやっていけない。千夜だって、それは同じだ。忙しさを言い訳に食事を抜きでもすれば、往々にして後で酷い目にあう。
誰が言ったか「食の衰えが命の衰え」という言葉がある。それに沿うなら、逆説的に二人の命はかつてない最盛期を迎えているのだろう。
「あ♪ チョルバ?」
皿にピクルスとサワークリームを添えているところで、ちとせがやってきた。鼻をひくつかせ、器を見る前にメニューを言い当てる。
「はい、肉団子のチョルバ(チョルバ・デ・ペリショアレ)です」
「千夜ちゃん作るの上手だもんね。正直本場のより美味しいし」
「流石に過言かと」
「日本人が日本人向けに作った方が日本人にとって美味しいのは普通じゃない?」
いらぬ敵を作るだろう発言だった。
「あー、言いなおそっか。千夜ちゃんが私のために作ってくれてるから美味しいんだよね♪」
放ったセリフの剣呑さを自覚してかせずか、ちとせはそう訂正した。
「光栄です」
千夜も今度は素直に受け取る。
「料理は愛情」――という話ではない。経験があり、それを元にした出力ができる、という話だ。ちとせの嗜好を把握するに十分な時間を、千夜は過ごしているのだから。
「「いただきます」」
声と掌を揃えることを合図に、その蓄積は千夜たちの血肉となっていく。この行為もまた、蓄積に他ならない。
千夜とちとせの、最後の一口はほぼ同時だった。
「お茶を淹れましょうか?」
食後、千夜がそう述べるまでの間までもが一つの律であるかのようにして時は滞りなく、ゆるやかに流れた。ちとせが頷くと彼女は立ち上がり、キャビネットの中を覗き込んだ。並んだキャニスターの中から、一番手前にある一つを迷いなく手に取る。
「少し珍しい茶葉を仕入れまして」
「へえ。どこの?」
「所はマーガレッツホープ、等級はムーンライトです」
「月の沈み切らないうちに摘んだ茶葉、だっけ? 限定品だね。千夜ちゃんもそういうのに興味あったんだ」
「……香りが良かったので、つい」
茶葉をスプーンで掬いながら、少しバツが悪そうにする千夜。ちとせは「責めてないってー」と手をパタパタ振る。
「いのち短し~ってね。経験には貪欲な方が素敵だと思うな」
好奇と享楽が服を着たような彼女は千夜のそれを肯定する。その笑みを千夜はなんだかむず痒く感じ、つらつらと弁明を述べ立てる。ちとせはそれを聴いて、また笑うのだった。
そうこうしているうちに茶葉の抽出も終わる。千夜は茶漉しを介し、ガラスのティーポットからポーセリンのものへ移した。カップとそろいのデザインで、白地に青の模様の入ったそれの出自を千夜は知らない。ちとせ曰く「そんなに高いものじゃないよ」らしいが、眉唾だった。
茶の香気を含んだ湯気が放出され、空気に混ざる。華やかな甘さの中に青みがかった葉の気配。春を摘んできたような匂いに千夜は目を細めた。
穏やかだ。朝は苦手だが、悪いことばかりでもない。カップに満ちる金色を眺めるちとせ。それをまた眺める千夜。蜜の注がれるような充足がそこにはある。
「千夜ちゃん」
ちとせが不意に口を開く。甘い無言の膜がぱちんと弾けた。
「アイドル、楽しい?」
「また、藪から棒ですね」
突然ではあるが、意外性はなかった。千夜が今まで何度となく聴いてきた質問だ。何度となく、答えてもきた。韜晦、困惑、肯定――それはもう、色々な答えを。
「はい。人並みには」
それらを経て、今の千夜の答えはこうだ。誤魔化す必要はない。はしゃいで頷くようなものでもない。何より大切とは言わないが、千夜の生きる意味の一つであるのも事実。それを受け入れて彼女は答える。
「そっか」
ちとせはそれを受け、満足そうに微笑む。
外で一際強い風が吹き、窓が小さく揺れた。花嵐が桜の花を蹴散らす気配がする。
「千夜ちゃん」
「はい」
大人しく身を窄めてさえいれば、彼女たちも風に攫われずに済んだのだろうか?
「一人暮らしとか、興味ない?」
ちとせはそう切り出す。春の清々しいある朝のことだった。
やはり目覚めとは、不快なものだ。