眠りとは曖昧なものだ。喪失はふらりと現れ、意識を撫ぜる。去り際もまた然りであるが、あまたの人はそこに何の感慨も持たない。瞼は開くものだと、信じて疑わないのだ。
「まだ十二時かあ……」
久川颯は目覚めてまず、携帯に手を伸ばした。ロック画面に表示された数字を寝ぼけまなこで読み上げる。言葉というよりは鳴き声に近い唸りだった。
象を呑んだうわばみめいて膨らんだ掛布団が数度うごめく。
そして、静かになった。
「十二時⁉」
諸々を蹴り飛ばしながら跳ね起き、颯は仰天する。掛布団が浮き、落ち、舞った塵が陽光を受けてきらきら光った。
「さいあくー!」
揃った時計の針などよりも数段鋭く、颯の嘆きは女子寮の天井を衝いた。ただの学生だった頃に比べて、アイドルの休日はずっと重い。こんな形での浪費など、許されることではなかった。
「もー! なんで起こしてくれないの!」
憤りに任せ、そう責め立てるも、颯の声は部屋の壁に反射されるのみだ。両親は徳島、姉は壁一枚向こう。その怒りが理不尽であろうとなかろうと、受け止めてくれはしない。
「……自業自得ってやーつ」
大きな声を出したことで、頭に上った血が冷めた。ついでに目も覚めた。壁に背を預ける形でベッドの上に座り、颯は昨夜を思い出しながらついついと携帯をいじる。
お仕事から帰ってきて、ごはん食べて、お風呂入って。ベッドに入ってすぐ寝ようと思ってたけど、悠貴ちゃんからメッセージが入ってるのに気づいて――、
そして今に至る。力尽きる前後に誤って送信したであろう、赤ん坊がでたらめに打ったような文字列を見て颯は苦笑いした。
「『寝落ちしちゃってた! ごめんね』、と……」
唱えながら両手でぱしぱし文字を打ち、怪文書の詫びを送る。すぐに既読がつき、スタンプが返る。これで昨夜の禊は終了だ。
ふう、と颯は一息つき、そのまま腕組みへと移行する。考えるのは、残った余暇の過ごし方だ。
くるる。途端、腹が鳴く。
「……シャワー浴びてごはん食べよーっと」
まあ、たまにはだらだら過ごすのもいいか。颯はそう思い直すことにした。夜更かしもあったといえ、この時間まで眠りこけるくらいだ。身体が休息を欲しているに違いない。
ぽん、と立ち上がり、颯は鼻歌交じりにバスルームに向かう。機嫌が良いわけではない。行動で気持ちを連れてくるのが彼女流だ。
「――go my wayが重なって~♪」
浴室から出て髪を乾かすころには、颯の鼻歌は歌詞を得てトーンも少し上がっていた。熱いお湯はつまらないものを濯いでくれるものだ。軽くなった心の赴くに任せ、彼女は気ままな毛繕いのように、丹念に美容のため時間を費やした。
そうこうしているうちに昼食にはやや遅い頃合いになってしまったが、このズレも休みらしいといえば休みらしい。颯は気楽に構え、その心持と足取りのまま部屋の外に出る。まっすぐ食堂に向かう――のではなく、颯の足は数歩進んだところで止まる。隣の部屋、双子の姉たる凪の部屋だ。
妹は貴重な休日を惰眠に溶かしたわけだが、姉はどうしているのだろう?
「なー、いるー?」
颯は部屋の扉をノックして反応を待つ――並行して、彼女は携帯でスケジュール表を確認する。「仕事かあ」
無言の扉と〈ロケ〉の文字、二点が凪の不在を証明する。
「なーも寝坊してたら面白かったのになー」
そうぼやくと、颯はゆるゆる部屋の前を後にした。かつては寝坊するのも凪と一緒だったが、部屋と生活リズムが違えばそうもいかない。
「夜更かしは美容の敵、はーちゃんの敵。回って凪の敵でもあります。ここで会ったが百年目、枕の沁みにしてくれましょう」
凪がいたなら、そうやって妹を咎めただろうか。適当なようでヘンなところは真面目なのだ、あの姉は。凪の真似をしたセリフを口の中で転がしつつ、颯は廊下を行く。
凪と颯がそうであるように住人達も各々のスケジュールで動いており、昼の寮内は奇妙な程に人気がまばらだ。そんな空間だから、何かが〈動く〉気配はよく分かる。
そういえば今日だっけ、と颯が気配の正体を思い出すと同時に、つきあたりの部屋から人が出ていくのが見えた。アイドルではない、引っ越し業者だ。
ついでに言えば、新しい仲間が増えるわけでもない。千夜が――元々事務所に所属していたアイドルの一人が寮生活を始める、というだけの話である。
でもなんで、今なんだろう?
つきあたりに至ることなく曲がり、階段を降りる最中、颯は首を傾げる。千夜は都内でちとせと二人暮らしのはずだ。上京してきた颯とは違う。
進学、は候補として弱く、就職は言わずもがなだ。となると後は喧嘩ぐらいのものだが――、
「……ないって、それは」
最後の一段をぴょんと降りると共に、颯は己の邪推を鼻で笑った。その可能性に比べれば、まだ歩いていて隕石に当たる確率の方が高いようにすら思える。千夜とちとせは、そういう二人だ。
凪と颯が別の部屋で暮らしているようなもので、特別な理由は無いのかもしれない。颯はそう、あたりをつける。例えば、ちとせが思い付きで突然言いだした――彼女ならなくはない話だ。
推論の着地とほぼ同時に、颯は食堂に辿り着いた。時間が時間だけあって、がらんとしている。道中と合わせて、実家の何倍もあるこの建物に颯しか住んでいないかのようだった。
食券を買って、料理を受け取り、席に着く。今日の日替わりはとんかつで、少し嬉しくなる。颯は一人手を合わせると「いただきます」と唱える。厨房からは遠く、誰が聞いているわけでもないが、習慣は環境に左右されない。
最初に片付けるべく漬物を摘まみながら、空いた片手は携帯に伸びる。実家なら「行儀が悪い」と叱られるところだが、残念ながらこちらは習慣となるほど颯に沁みついてはいなかった。
指の動きにそってタイムラインが流れ、その中に凪の投稿も混じる。
ピンクのティラノサウルスがロケ弁を持っていた。
「なに今の」
スワイプして戻ると、本文には「ロケーデ・オベント」とだけ書かれている。
「いや何?」
ティラノ――の着ぐるみは全身をすっぽり覆っており、着用者が凪かどうかは分からない。けれど颯には中身が透けて見えるようだった。
「相変わらずヘンなことばっかやってるなあ、なーは」
颯はくすりと笑って、いいねを押す。食事自体が遅れたのか投稿まで間が開いたのかは定かでないが、この無駄に広々とした食卓に、同伴者が増えたかのようだった。
その感覚の芽生えに導かれるように、颯はふと手元の少し先に視線を遣る。無論、そこには誰もいない。机の天板が水平線のように、なだらかに広がるだけだ。
見慣れた光景だ。何の変哲もない。けれど、小棘の立つ感触があった。
見慣れたのは――いったい、いつからだろう。
颯は記憶を遡る。思い出せないほど古い、はずがない。だけどもなぜか、境界はいつまでもはっきりしない。
手放された携帯がメールの着信に合わせて机を叩く。プロデューサーの名と件名が表示されたが、颯にそれは見えず、聞こえない。
逃げる、ぼやける、すり抜ける。あるはずなのに、触れられない。気味の悪さに、身体の裡が痒くなる。
遣りどころのない掌を開いて、閉じる。颯はぽつりと零した。
「……なーと最後にご飯食べたのって、いつだっけ」
それは問いか、あるいは悔いか。答えるものはなく、曖昧は曖昧のまま閉じられた。