「一人暮らしはどう? 白雪さん」
男役のような、華と艶のある声だ。プロデューサーの質問に千夜はすぐには答えず、卓上の茶に手を付けた。ミーティングルームに一拍、沈黙が落ちる。
「どう、とは」
「困っていることはないかな、って」
千夜がきろりと目を向けると、プロデューサーは人好きのする微笑を浮かべた。スーツの清潔な着こなしと合わせてサマになりすぎていて、逆に胡散臭い。本人としては、至極普通に振る舞っているだけなのだろうが。
「ありませんよ。日々の暮らしで難儀する程、生活能力は低くありません」
「なら、いいんだけど」
「……何が言いたいのですか」
「何って?」
思わず舌打ちが出た。
「威嚇しないでよ……」
「されるようなことをする方が悪いのです」
口直しと言わんばかりに千夜は再びコップを傾ける。彼女はチェスの駒を置くような手つきでそれを机の上に戻すと、腕組みをしながら「それで、」と前置きをして続けた。
「そんな話をするために私を呼んだのですか、お前は」
千夜のねめつける視線を「性急だなあ」とプロデューサーは受け流しつつ、机の脇にあった資料を中央にスライドさせる。そもそも、彼女も次の仕事の話だと聞いてきていたのだ。
「二部……」
千夜が初めに反応したのは、そこに書かれている文字ではなく部数だった。計三部、千夜の方向に合わせられたものが二部。
「ごめーん、Pちゃん! 道が混んでて!」
千夜のその呟きはドアが勢いよく開く音と、鈴を転がすような声に完膚なきまでに押しつぶされた。春の嵐が飛び込んできたかのような勢いに、彼女の尻が一瞬、椅子から浮く。
「お疲れ様、久川さん」
「お疲れ様――あ、千夜ちゃんだ。お疲れ様です☆」
「……お疲れ様です」
同期の双子アイドル、その妹。颯は跳ねるように歩み、千夜の隣の席についた。燃え盛る火から遠ざかるが如く、千夜はほんの数ミリだけ椅子の上で移動する。
「お前……共演者がいるなら、先に言うだろう」
「別に知らない顔ってわけじゃあないんだし、今更かと思って」
千夜は不満を露わにしたが、プロデューサーはどこ吹く風だ。一方の颯は、そんな小競り合いには興味がないようだった。パラパラと資料を捲り、既に内容を改めている。
「『青い鳥』、かあ」
反応せざるを得ない名前が颯の口から出た。千夜は資料を自分の目で確かめた後、感心するような呆れたような声音でプロデューサーに語り掛ける。
「また、大層なものを持ってきましたね。有名どころも有名どころではありませんか」
プロデューサーは「まあね」と返し、場を仕切り直して資料に沿って頭から解説を始めた。
演目は言わずと知れた、モーリス・メーテルリンク作『青い鳥』。最近事務所が力を入れている、舞台活動の一環としての仕事。アイドルが舞台に挑戦する、というよりアイドルで舞台を作る、と言うべきか。主要メンバーは全員、この事務所から選出されるらしい。
「久川さんは、どんな話か知ってる?」
プロデューサーに尋ねられ、颯は「えーと」と記憶を引き出す素振りをしつつ答える。
「青い鳥は最初から家にいた! ……ってお話だっけ?」
「だいたいあってるかな――白雪さんは?」
「どんな話……あらすじからオチまで、全部言えばいいのですか?」
「そこまで丁寧でなくて……所感というか」
ふむ、と千夜は顎に手をあてがった。数秒の思惟の後、彼女は唇を開く。
「残酷な話です」
最終的に本物の青い鳥は手に入らず、青い鳥として見出したキジバトも逃げてしまう。更に、話の節々には死の気配が見え隠れする。幼くして死んだきょうだいたち、不吉の吹き溜まりである夜の御殿、コミカルではあるが復讐者には違いない木の精たち。
「『タンタジルの死』『群盲』『闖入者』……メーテルリンクの作品は死を描いた暗いものが多い。『青い鳥』も、そこから大きく外れてはいないように感じます。童話用に味付けが成されているだけです」
「なるほど」
「極めつけはこれです――『どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮らすため、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから』。とても、幸せな物語を締めくくるセリフとは思えません」
身近なところに幸せが溢れているのなら、逃げた鳥などどうでもいいはずだ。千夜は僅かに嘲笑の気色を滲ませる。
「得られていないから、乞うのでしょう」
そこまで一息に述べて、千夜ははっとした。真面目な顔のプロデューサー、口を丸く開けた颯。「やってしまった」と、衒学趣味への自己嫌悪が背筋を駆け上る。
「はえー……千夜ちゃん、詳しいんだねえ」
「まあ、その、はい」
千夜は完全に顔を背けない程度に目を逸らす。颯の言葉には揶揄の色が無い分、余計気恥ずかしかった。
「――で、Pちゃん。千夜ちゃんが言ったみたいに、やっぱり『青い鳥』は暗いお話なの? はー、実は読んだことないんだけど」
「物語から何をどう読み取るかは自由だからねえ。間違っていないと個人的には思うけど、これだけが正解ってわけでも――」
二人が会話を始めたのをいいことに、千夜は顔を伏せて紙上の文字に逃げる。そのまま、通り雨を凌ぐようにこの時間を過ごすつもりだったが――、
「げ」
ある文字列に対面した瞬間、奇矯なうめき声を漏らしてしまう。それに反応して、颯たちの間で行き来する言葉も止まった。視線が集まり、発言権が否応なしに千夜へと譲渡される。
「お前……これはどういうことですか」
千夜は溜息を一つ吐いた後、件の文を指さしながらプロデューサーに問うた。
「どうもこうも……二人に主役をやってもらいたいと思って」
プロデューサーは千夜の示しているページを自分の資料でも開く。そして千夜の名が記された行と、その下の一行に蛍光ペンで大きく〇をつけた。
【チルチル役:白雪千夜】
【ミチル役:久川颯】
「わ。主役だって、千夜ちゃん!」
「まあ、それ自体は喜ばしいことでしょうが……」
著名な劇の主役への抜擢。ネガティブな要素はどこにもない。けれど、手放しで喜ぶこともできない。不満ではなく、疑念が千夜の中にはあった。
「なぜ、私なのですか」
キャスティングをしただろう人物に人差し指を向けながら、千夜は訊ねる。そのままでははぐらかされそうな予感がしたので、続けて具体的な問いの内容を接ぐ。
「一つ。颯さんはさておき、私のイメージには合わないでしょう。チルチルは活発な少年ですよ」
「プライベートで明るい人しか明るい役をやってはいけない、ということはないんじゃない?」
詰問に対し、プロデューサーはさらりと返した。意外にも、語調に軽薄なものは混じっていない。
「確かに今まではなんというか、素の白雪さんとそこまで乖離していない役柄を振ってきたけどさ。それは私なりの慮りであって――本心としてはマルチに役をこなしてほしいんだよね」
適当な返事でやり過ごすのなら叩き切ってやろうと身構えていた千夜は、早くも刀の振り降し先を失う。今はもう、無駄に動きづらくなっただけだ。
「……つまり、試用期間はもう終わり、と」
「試行錯誤の中から、よりよい成長は生まれると思っているんだ。難しい役だろうけど、ものにすれば間違いなく糧になる」
正直な話、ここで問答を終えても良い回答だった。続く問いへと千夜が向かったのは、意地の慣性でしかない。
「……では、もう一つ。ミチル――妹役が颯さんなら、わざわざ兄役に私を選ばなくてもいいでしょう。性別が違うとはいえ、本物の姉がいるのですから」
自分たち姉妹が話題に上がり、颯の面持ちが変わった。少しだけ引き締められた彼女の口元が指すところが、緊張か集中なのかは、千夜には汲めなかったが。
「チルチルとミチルがそっくり、っていう情報は原作にあったかな」
千夜が一瞬颯に意識を寄せている間にも、プロデューサーの回答は始まっていた。予習でもしてきたかのような手際の良さで、反応が少し遅れてしまう。
「明確な描写は……なかったはずですが」
「だよね。双子っていうのは強力な記号だから、安易に外から持ち込みたくなくって。瓜二つであることも、似ていながら違うところも『青い鳥』のお話では活かすところがないから……意味のない文脈が増える、っていうのかな」
作劇上、意味もなく双子の属性が与えられるキャラクターは稀である。普通のきょうだいとは意味合いが違う――プロデューサーの発言には筋が通っていた。千夜も今度こそ、振り上げたものを収めざるを得ない。
「意外と考えているのですね、お前も」
心底面白くなさそうに、千夜は言う。千夜たち四人の他、売れっ子数人を抱えるプロデューサーだ。考えなしでやっていけるわけがないのは、そうなのだが。
「まったく、可愛げのない……」
「仕事に真摯と言ってよ」
プロデューサーは千夜の評価に苦言を呈した後、颯の方に視線を遣った。
「久川さんはどう? 質問とか、心配事とか」
そう問われた颯の反応は、先程の千夜と同様に一拍遅れていた。喋りだす直前になってから、ようやく瞳に思考のさざなみが現れる。
「――えっ、はー? うーん……そうだなあ。はーは千夜ちゃんみたいに詳しいわけじゃないから、今は言うことが無いっていうか……」
人差し指で自らのこめかみを押す颯。言い淀んで数秒、彼女は悩まし気な表情から一転して、突如晴れ晴れとした気勢を見せつける。
「ま、当たって砕けろって言うし? 大変なのかもしれないけど、あんまし心配はしてない……かな?」
真逆だな、と千夜は颯を横目で見つつ考える。可愛らしく、前向きで、さっぱりとしている。
「ちなみにさPちゃん。ミチル役ってはーにとって難しそう? どう?」
「実は割と簡単にこなしちゃうんじゃないかなあ、って思ってるんだけど。あんまりイメージと離れてないし」
「えー。はーには成長してほしくないってこと?」
「いやあ、奇を衒いすぎると単なる逆張りだから……」
自分の問答とは何もかもが違う。千夜もまた、颯なら特に問題はないだろう、と予見した。
問題があるとすれば――それはやはり、自分にだ。
「用事は済みましたか? 知ってのとおり、私も颯さんも暇ではないのですが」
プロデューサーと颯の会話が落ち着きを見せたところを見計らって、千夜はそう言い放つ。プロデューサーは「そうだね」と答え、改めて資料を手にした。
「じゃあ、最後にまとめだけ。役はP5のとおりで、実際の稽古は――」
そうやって、主役二人の顔合わせはお開きになった。レッスンを控えた颯と次の仕事のための移動がある千夜は、部屋の出口でそれぞれ別方向に立つ。
「じゃ、千夜ちゃん。これからよろしくね!」
「はい、よろしくお願いします」
手を振って別れ、その最中で颯はもう一度振り返って手を振る。かつてなら、疎ましいとすら感じただろう快活さだ。千夜は目を細めて、振られる掌に応えた。
「――さて」
颯の背が見えなくなってから、千夜は自分の向かうべき方向につま先を向ける。
「おっ、チルチルじゃーん。ミチルはどったの? 置いてきた?」
途端、陽気で人を食ったような声が投げかけられた。視線の先で、猫めいて大きく丸い眼が笑っていないのに笑っている。
「志希さん。お疲れ様です」
「お疲れちゃーん」
一ノ瀬志希は気怠いのか人懐こいのか分からない素振りで手を挙げて応えた。これはこれで、颯とは真逆だ。ご存じなんですね――チルチル呼びについてそう返そうとして、千夜は言葉を飲み込む。
「次の仕事では、よろしくお願いします」
配役表には志希の名前も記されていた。チレット――そう、〈猫〉だ。なかなかどうして、似合いの役だと千夜も感じる。
「あの……」
その猫は千夜の言葉に反応せず、鼻をひくつかせている。人のことを言えた義理ではないが、変わり者が多い事務所だ、と千夜は内心呆れた。
ひとしきり匂いを嗅いだ後、志希はにっと唇を引き上げて見せた。フレーメン反応の真似だろう。元の造形のせいで変顔になり切らないのが、妙に腹立たしい。
「身だしなみには気を付けているつもりですが……」
千夜が眉を顰めると、そこでようやく志希は人間らしい反応を示した。
「やだにゃあ、臭いなんて一言も言ってないじゃん。ただ、いつもとは違う匂いがするなーって」
志希はけらけら笑って返し、その直後には真顔になった。かと思えば、次は意味深な表情を浮かべる。人間乱反射、スペクトルが全く定まらない。
「あ。〈いつも〉じゃなくて〈前〉か」
だからか千夜は、志希がそう言った時の表情を覚えていない。捉えられなかったのか、自ずと逸らしたのか、目を灼かれたのかも定かではなかった。
「だいじょうぶ~? 自分ひとりだからって、食生活荒れたりしてない?」
刹那の眩暈から千夜は復帰し、志希の顔を真正面から捉え直す。今の彼女はからかいを含んではいるが、案じる気持ちも見て取れる表情をしていた。
「……はい。食と体は資本ですから」
「そりゃ結構。まあ人より自分の食生活の心配しろ、って話なんだけどね。どの口どの面ー」
にゃっはっは、と志希は声高々に笑う。よく笑う人だが、その温度が独特だ。千夜がにこりともしないのは無愛想だからではなく、そもそも愛想笑いを合わせることもできなかったからだ。
「あの……何か御用でしょうか」
つい、接触を避ける動きを取ってしまう。いつかに比べればマシにはなったものの、沁みついた癖は中々取れない。けれども、志希に千夜の回避運動を気にした様子は無い。彼女は真面目腐って、こう言い放った。
「用なんてないよ。友達を見かけたから、声をかけただけなんだから」
「友達、ですか」
似合わないフレーズだな、と千夜は志希を透しながら己を見る。当の志希は、そんなことは微塵も気にしていないだろうが。その証明をするように、彼女は大仰な手振りとイヤにキラキラとした瞳でもって語る。
「そう、友達! ちとせちゃんはあたしの友達で、千夜ちゃんはちとせちゃんの友達。友達の友達は友達。うーん、なんてキレイな円環! シキちゃんってば、人類愛~」
お嬢様、友人は選んだ方がいいかもしれません――軽蔑というより、敬遠をもって千夜はちとせに届かない忠言をした。
「友達の友達で友達の千夜ちゃんは、これから別のお仕事?」
「そうですね」
「傘は持った? お弁当は? 靴下は裏返して履いてない?」
「今日は晴れですし、昼食は少し前に済ませました。靴下は……確認されますか?」
「やーんマジメー」
志希は身体にしなを作りながら一歩飛び退いた後、むふー、と鼻から息を吐く。一通り遊び倒して気が済んだのだろうか、表情が年相応の落ち着きを帯びた。
「そいじゃあ、いってらっしゃい。気を付けてねー」
その顔のまま彼女は見送りの言葉を残し、千夜を躱してすれ違う。以降は振り返ることもなく、すたすたと颯と同じ方向に消えていった。
志希の最後の言葉に、千夜は何も返すことができなかった。なにもそれは圧倒されていたわけでも、呆れていたわけでもない。
「……いってらっしゃい、か」
その簡素な見送りのフレーズに返すべき言葉が、喉につっかえてしまったのだ。
「いってらっしゃい」には「いってきます」と返り、「ただいま」と続く。そして最後に、結びの言葉がやってくる。単純なサイクルだ。
千夜は自分の袖口に鼻を近づけた。当然、自分の匂いがする。体臭、洗剤、香水、部屋の匂い。それらが混ざった、千夜の匂い。
そのどこにも、ちとせはいない。
いってきますと言ってここを発ったところで、それが結びを得ることはない。
ひどく空虚で、口に出すのが恐ろしかった。
千夜は足を動かす。足早に歩めば、頬に肩に、空気が触れる。
胸から背に風は抜けない。息は気道を通って口からひゅうと出る。それだけを確認しながら、千夜は事務所を出た。