気だるい頭痛があった。
ねばついた眠気を振り払いながら、なんとか身を起こす。身体が鉄のように重く感じた。身体にまとわりついていた男の手をほどくと、その手は力なく腰を撫でて太ももに落ちる。
ネルは、その手に触りもせずに避けながら、ズキズキと痛む頭をうなだれて、ベッドのへりに座り込んだ。両手でこめかみを押さえながら、ゆっくりと痛みを逃していく。
背後の寝息を聞きながら、昨日の記憶がおぼろげに形を浮かび上がらせてきた。
──とんでもないことをした。
そんなこと、思い出すまでもなかった。頭に湧き出てきた記憶をかき消すように、床に落ちた下着や衣服をかき集める。震える指で、着慣れた黒装束に身を包んだ。
部屋の中がとても寒い。テーブルの椅子の背に掛かったマフラーをひったくると、ネルは頭からそれをかぶって、振り返りもせずにドアの外に滑りだした。
ホテルの中はまだ夜明け前でしんとしていた。
足音をしのばせて、階段の向こうの角部屋に早足で向かう。その自分に割り当てられた部屋に入るなり、閉めたドアに背中をくっつけて、ずりずりと座り込んだ。
叫びだしたい気分だった。両手で顔を押さえ、なんとかこらえる。
顔が熱くなり、鼻の奥がつんとした。
肩が上下するほど激しい呼吸を繰り返し、衝動がおさまるのを待った。
──なんてことを、なんてことを!
頭の中を激情が駆け巡った。ふたたび強い頭痛が怒りの息吹のように膨れ上がった。両手で額を押さえる。
昨夜、アルベルと寝たのだ。
自分のしたことが信じられなかった。
溺れるように息を吸い嗚咽するように息を吐き出す。喉まで震えていた。
昨夜、自分が吐いた艶めかしい息。かさついた男の肌のぬるい手ざわり。
まだ身体に疼きが残っているような気がして、びくりと身体を震わせた。
酒に酔っていたのだ。あの夜、ホテルのサービスの酒を飲んで、男の部屋のドアを叩いたのだ。
なんて取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。
ネルは激しい後悔で身がちぎれそうだった。『元』とはいえ、未だ禍根の残る敵と寝るなど一生の汚辱だった。身体中を掻きむしりたいほど汚らわしかった。
──時を戻したい。
ネルはしても仕方のない後悔を何度も繰り返し、拳を握り締めた。拳で顔を覆い、激しい慟哭を胸の中に抑え続けた。
──ネルさん。
どれくらいそうしていたのだろう。我に返ると、指が軽く痺れていた。
──ネルさん?
ふと気がつくと、声がする。この声はフェイトだ。
ネルはずっと強く閉じていた瞼を薄く開けた。拳を広げると、光が差し込んでくる。
「ネルさん、大丈夫ですか?」
顔を上げると、向かいでフェイトが顔を覗き込んでいた。気遣わしげに眉を寄せている。
ネルは思わず呆気に取られた。フェイトにではない。そこがホテルのロビーだったことにだった。
意識が飛んだのだろうか。
いつのまにかネルはロビーのソファーに座り、ローテーブルを挟んでフェイトと向かい合っていた。斜め向かいのダイニングテーブルの周りを、クリフとロジャーが走り回っている。ロッキングチェアにはマリアが座り、読書をしている。窓の外ではアドレーが裸の背中に布をこすり、乾布摩擦をしていた。ここはアーリグリフである。
「怒りの音色、これでいいですかね?」
「……は?」
見ると、フェイトが竜の喉笛を猛々しく吹き始めた。ホテルのロビーに勇ましい音色が響き渡る。しかし、最後のプーの音のところでだしぬけにフェイトの頭に原始肉が飛んできて、ピーとひび割れた音になった。あわててロジャーがすまなそうな顔で駆け寄ってくる。
「すまねぇ、兄ちゃん! 走ってたら原始肉が手から飛んだじゃん」
その途端、ドンとひときわ大きな音がしてクリフがロジャーの後ろで尻もちをついた。
「誰だよ! ここにバナナの皮を置いたのはよ!?」
クリフの尻の下でぺしゃんこになったバナナが、物悲しく黒ずんでいる。
するとロッキングチェアで本を読んでいたマリアが、コツコツとテーブルの足を叩いていたつま先をドンと鳴らし、
「うるっさいわね!」
と怒りをあらわにした。
その時、外からビリッと布が破れる音がした。アドレーが両手に破れた布を持ち、何事か叫んでいる。
ネルは一部始終を目にして驚いた。
この光景、昨日体験している──。
昨日と全く同じ光景が目の前に広がったのに、一行は平然として笛を吹いたり、バナナの皮を拾ったりしていた。
そっと暖炉の方を見ると、壁際で一人静かにアルベルが腕を組んでいる。ネルはひそかに身体を震わせた──何もかもが昨日と同じだ。
偶然なんだろうか。
ネルは向かいのフェイトに訊いてみた。
「今の状況、昨日と同じじゃないかい?」
するとフェイトは不思議そうな顔をして言った。
「何がです? 昨日はバール山脈で一日中竜退治でしたけど」
「え?」
ネルは疑問に思う。それは一昨日じゃなかっただろうか。
そもそもこれはどういう状況なんだろうか。自分は部屋で一人嗚咽していたはずだ。それが一体、いつのまにみんなと合流したのだろうか。意識が飛んだとしか思えない。あまりにショックが大きくて、健忘状態にでも陥ったのだろうか。
ネルが首を傾げていると、ホテルのメイドが厨房から出てきた。食事を持ってきたのだ。
「やったじゃん、メシじゃん!」
ロジャーが歌うように声を上げる。
ネルは腑に落ちないものを感じた。朝食のサービスなんてあっただろうか。
素早く時計に目を走らせると、七時とあった。外は薄暗いが、アーリグリフの空はいつも薄暗い。
「あっ、行きましょう。ネルさん」
フェイトが昨日と同じように声をかけてくる。
ネルは立ち上がり、ダイニングテーブルに並べられた皿を見た。ルム肉の照り焼き。昨晩と同じメニューだ。それに朝からわんぱくなメニューでもある。
ネルは行き来するメイドにそっと声をかけた。
「今日も昨日の夜と同じメニューなのかい?」
するとメイドは目を瞬かせて言った。
「昨日はお客様の宿泊はございませんが」
ネルは沈黙した。一瞬考えて、再度訊く。
「ちなみに今は、三月八日の朝かい?」
メイドは心底不思議そうな顔をして答えた。
「……三月七日の夜でございますが」
ネルは唖然とした。メイドが怪訝な顔をして去っていく中、立ちくらみを起こしそうになる。
──時が戻っている。
夢でも見ているのだろうか。しかし目の前で楽しそうに夕食を囲む仲間たちの声や料理の匂い、皿の鳴る様子は本物に違いなかった。
では、夢でも見ていたのだろうか。ネルはそっと斜向かいに座るアルベルを盗み見る。男の息づかいや匂い、肌を触られる感触は今でもありありと思い起こされた。あれが夢だとはとても思えない。
男が視線に気づいてこちらを見た。あわてて目をそらす。
「おいデカブツ! もう十分育ったんだから、育ち盛りのオイラに一枚寄越すじゃん!」
「あぁん? 何言ってんだ。俺の身体がこれだけで満足すると思うなよ」
「明日のバール遺跡だけど、笛の練習が追いつきそうにないんだ」
「いいじゃない、適当に吹いてればいつか開くわよ」
「わしは食前にバナナと決めておる」
食卓で交わされる会話も昨日と同じだった。
ネルは喉がカラカラだったことに気づき、水を飲んだ。しかし目の前の照り焼きを食べるほどの食欲は湧かない。ルムは口に合わないし、そもそもそれどころではなかった。
「……ロジャー。これ食べるかい? 私は手をつけてないから全部あげるよ」
「わぁ、いいんですか!? さっすがネルお姉様! お優しいじゃん!」
「おいネル、甘やかすなよ」
クリフがあきれるが、ネルは膝のナプキンをテーブルに上げ、席を立った。部屋に帰って頭を落ち着かせる必要があった。
「フン、阿呆が……」
ふいに男の囁き声がきこえて、ネルは思わず眉を顰めた。
「なんだって……!?」
自分に向けられた言葉に違いなかった。男の眼をまっすぐ見ると、男は食事を終えて、ずかずかとネルに近づいてきた。
「食わず嫌いで腹減らして山に登れなくなっても知らねぇぞ、阿呆が。部下に尻拭いさせる気なら、また部下を足蹴にしてやろうか」
男は面白がるようにそれだけを言うと、階段を上がっていった。ネルはあきれて物も言えなかった。しばらく経ってから怒りがこみ上げた。なんだ、あの言い草は!
ネルは階段をズカズカ上がっていった。男の部屋のドアをじりじり睨みつけると、角部屋の自分の部屋に入り込む。イライラと部屋中を歩き回ってから、これでは昨日と同じ流れだと気づいた。昨日も夕食時に男が喧嘩を売ってきて、昨日は本当に言い合いになったのだ。それだけに収まらず、酒を飲んだ後、男の部屋のドアを叩き、出てきた男にいきなり殴りかかった。
──タイネーブとファリンに手を出したら許さないよ!
そしてもつれ合ううちにいつのまにかベッドに寝ていたのだった。
トントン
いきなりドアが鳴って、驚いた。
思わず息を呑み、おそるおそるドアを開けると、メイドが湯気の立った葡萄酒のカップを持って立っていた。
「サービスでございます」
この雪国アーリグリフで身体を温めるためなのだろう。酒のサービスがあるのも昨日と同じだった。
メイドを見送ると、ネルは葡萄酒をテーブルに置いた。それから呆然とベッドの上に座った。
何が起こっているのかわからなかった。
昨日と同じ日が急に始まった……。
ネルにわかるのはこの事実だけだった。こんなことが果たしてあり得るのだろうか。
ネルはかぶりを振った。あり得るはずがない。だが、時間が戻っているのは厳然たる事実だった。
気がつくと、葡萄酒の湯気が消えていた。
言葉もないまま、しばらくぼーっとしていたようだ。
だんだん身体が凍えてきて、つい布団をかぶった。
大丈夫だ、大丈夫に決まっている。今日はこのまま部屋でおとなしくしていれば、明日が来るはずだ。
そう自分に言い聞かせると、そんなふうに思えてきた。
ベッドサイドの時計を見ると、八時前まで時を刻んでいる。秒針が絶え間なく動いていた。ちゃんと時間は動いている。それを見ると安心した。
ベッドに寝転び、天井を見る。粗い木目が、波のように見下ろしていた。
とにかく酒を飲まなければいいのだ。ネルは自分に言い聞かせる。酒を飲んで男の部屋を訪ねた時からおかしくなった。
──また部下を足蹴にしてやろうか。
男の言葉が、よみがえってきた。
昨日とセリフが違うのは男の言葉だけだったが、部下に対するセリフだけは変わらなかった。面白がるような男の笑みが、ネルをいらだたせてたまらなかった。
ふと、ネルに疑問が湧いてくる。男は言い捨てて去っていった。それに反撃しないということは、タイネーブとファリンを足蹴にしても許すということにはならないか?
ネルはいきなり身を起こした。
そうだ。色々あって言われっぱなしだったことを忘れていた。男はまた部下を足蹴にすると言ったのだ。許せるはずがない!
ネルはいきなり立ち上がり、荒い息を吐いた。
今日は酒を飲んでいない。ただビシッと言うだけだ。手は出さない。
ネルは部屋のドアを猛然と開けた。
男の部屋は、階段を挟んで隣だった。ネルは心を落ち着かせるように息を深く吐いて、男の部屋のドアをノックする。
ややあって、寝ていた様子のアルベルが髪をぼさぼさにして出てきた。
「何だ……?」
昨日はドアを開けた瞬間夢中で飛びかかったので、そのせいで髪が乱れたのかと思ったが元々寝癖で乱れていたらしい。
「入ってもいいかい?」
つとめて平静を装った声でたずねると、アルベルは黙ってドアを広く開けると、背を向けて部屋の奥に入っていった。
ネルは了承の意ととらえてドアをくぐり、後ろ手で閉める。
アルベルは乱れた髪を押さえて、乱暴にベッドの上に座ると、
「寝ていたんだが」
と、いらだったように言った。
「そりゃ悪かったね」
ネルは感情のない声で返す。
「……用は?」
アルベルがうながすと、ネルはふたたび息をついて言った。
「さっきあんたは『また部下を足蹴にする』と言ったが、そんなことは許さない」
ネルはできるだけ感情を込めず、それでいて脅すように言った。握った手の中に爪が食い込む。
アルベルは髪から手を離し、
「わかった。もうしねぇ」
と頷いたのでネルは驚いた。意外と素直に話を聞くと思ったのだ。しかし後の言葉に、ネルはいらだった。
「弱い者をいたぶる趣味は無い」
男はいつか聞いたようなセリフを吐き、後ろにのけ反った。
「弱い者って、あんたねぇ……!」
ネルは怒りに火がつき、一歩男の前に踏み出た。
「彼女たちは第一線で戦ってきた優秀な部下だよ」
すると男は鼻で笑って、目を閉じた。
「第一線があれか。弱ぇ部下を持ってご苦労なこったな。まぁ人のこたぁ言えねぇが……」
アルベルは自嘲するようにくつくつと笑った。ネルは胃がむかむかした。この男にそこまで言われる筋合いはない。ネルは知らず、怒気を含んだ声になった。
「彼女たちはねぇ、毎日傷だらけになって泥水啜っても文句のひとつもこぼさず歯を食いしばって頑張ってるんだよ。偉そうにあんたに弱い者呼ばわりされる筋合いなんかどこにもない。人の部下をつかまえて、あんたはどこまで傲慢なんだい!?」
思わず胸ぐらをつかんでやろうかと思った。しかしそれでは昨日と同じだと思い出して思いとどまる。
男は感情の読めない顔で、ネルを見上げていた。
「……それで?」
「それだけだよ。じゃあね」
言って去ろうとすると、男の手がネルの手首をつかんだ。不意を突かれて、思わず男を見下ろす。
男はネルの手首をつかんだまま、立ち上がった。背の高い男の目線がネルを越し、逆に見下ろされる格好になる。
「お前、あの時──カルサア修練場で初めて会った時、部下を助けに来ていたらしいな」
手首を振り払おうとするが、強い力でつかまれてびくともしない。
「ひとりで一晩中戦っていたと聞く。おかげであの夜修練場に詰めていた俺の部下は壊滅状態だった」
男の眼は、ネルをまっすぐに見据えていた。ネルははっとして、男の眼を見返す。
「──謝れと言うのかい?」
「いや……どのみちソイツらはいつかやられてたさ。それより──」
男の手が、強くネルを引いた。ネルはつんのめって思わずベッドに倒れ込む。
アルベルの眼が、鋭く光った。
「お前はその強さを、どこで手に入れた?」
アルベルの手が、ネルの身体をまさぐった。