さまよう時の中で   作:つま先のアイドル

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さまよう時の中で #2

 ああ、また寝てしまった。

 ネルは強く目をつむった。

 一度寝た男の身体は、ある種の快感さえ呼んでいた。そんなこと、認めたくなかった。

 どうして憎いはずの敵と寝てしまうのか。ネルは不本意な疼きの中で、深い眠りから足掻こうとしていた。

「ネルさん?」

 声が聞こえる。

 ふと目を開けると、目の前にフェイトがいた。

「怒りの音色、これでいいですかね?」

「……は?」

 見ると、フェイトが竜の喉笛を猛々しく吹き始めた。ホテルのロビーに勇ましい音色が響き渡る。しかし、最後のプーの音のところでだしぬけにフェイトの頭に原始肉が飛んできて、ピーとひび割れた音になった。あわててロジャーがすまなそうな顔で駆け寄ってくる。

「すまねぇ、兄ちゃん! 走ってたら原始肉が手から飛んだじゃん」

 その途端、ドンとひときわ大きな音がしてクリフがロジャーの後ろで尻もちをついた。

「誰だよ! ここにバナナの皮を置いたのはよ!?」

 クリフの尻の下でぺしゃんこになったバナナが、物悲しく黒ずんでいる。

 するとロッキングチェアで本を読んでいたマリアが、コツコツとテーブルの足を叩いていたつま先をドンと鳴らし、

「うるっさいわね!」

 と怒りをあらわにした。

 その時、外からビリッと布が破れる音がした。アドレーが両手に破れた布を持ち、何事か叫んでいる。

 ──また同じだ……。

 ネルは唖然として壁際のアルベルを見た。ついさっきまで自分の身体をまさぐっていた男が、一人黙って腕を組んでいる。

 意味がわからない。なんでこんなことになるのか。

 また時が戻ったとでもいうのだろうか。というか、どう考えてもそうだ。

 ホテルのメイドが厨房から出てきた。食事を持ってきたのだ。

「やったじゃん、メシじゃん!」

 ロジャーが歌うように声を上げる。

 もう二回も見た光景が、三回目を繰り返している。食卓で交わされる会話も寸分違わず同じなことに、ネルは頭を抱えるしかなかった。

 アルベルも「また部下を足蹴にしてやろうか」と喧嘩を売ってきたが、言葉も返さずに部屋に戻った。

 ネルは自室をひたすら歩き回った。

 どういうことだ。時間が何度も巻き戻ってしまう。一体何が悪かったというのだろうか。

 ネルはパニックになっていた。何がどうしたらこんなことが起こってしまうのだろうか。

 トントン

 いきなりドアが鳴って驚いた。しかしすぐに葡萄酒のメイドだと思い当たる。

「サービスでございます」

 熱いカップを受け取ると、ネルはテーブルにそれを置いた。

 今日も飲まない。一晩目の失敗を考えれば、飲むわけにはいかない。

 しかし、飲まなかった昨日も失敗してしまった。強さと言われて油断したのだ。ネルは歯噛みする。失敗する度に時が巻き戻っているようだ。

 アルベルの部屋を訪ね、失敗する度に夕食前に時が巻き戻される。それなら失敗しなければいいのだ。

 今日こそは酒を飲まず、アルベルの部屋も訪ねない。

 これしかないような気がした。

 布団にくるまり、ベッドサイドの時計が秒針を刻んでいるのを確認する。ここまで問題はない。

 ネルは眉を寄せて息を荒くする。アルベルの部屋を訪ねるから、毎回おかしくなるのだ。あいつがすべての元凶に違いない。だったら、会いさえしなければいいのだ。売られた喧嘩は買わない。それが今一番必要なことのような気がした。

 どれくらい経っただろう。しばらくうとうとしていると、だしぬけにノックの音がした。

 葡萄酒はもう受け取っているし、本来ならもう訪問客がいるはずはない。

 ネルは不審に思いながらベッドから身を起こし、ドアを開けると、なんとアルベルが不敵な笑みを浮かべて入口に立っていた。

「よう」

 アルベルはネルを見下ろすと、良いとも言っていないのに無遠慮に部屋の中へ入ってきた。

「ちょっとあんた、なんだい!?」

 アルベルはテーブルの下に納まっていた椅子の背をひっくり返すと、勝手に座った。

 ネルはあまりの傍若無人な振る舞いに、腹立たしくなる。

「勝手に人の部屋に入るんじゃないよ、出ていきな!」

「ほう、ずいぶんなもてなしだな」

 ネルは外に声が漏れることをおそれ、とりあえずドアを閉めた。了承の意味はないが、男をすぐ出て行かせられるとも思えなかった。

「早く出ていきな」

「一時的とはいえ、手を組む『仲間』にずいぶんなご挨拶だな」

「一緒にいたくはないと言ったはずだろう!?」

 ネルは憤慨した。アーリグリフの地下牢で、『仲間』になる前にきちんと釘を刺したはずだ。

「だが我慢するとも言った」

 アルベルと行動を共にするのは、我慢以外の何物でもなかった。国と国で争い、戦場で戦ってきた感情的なもつれがそうやすやすとほどけるわけはないのだ。

 ネルはぐっと拳を握った。また殴りかかってやろうかと思った。

 しかしそんなネルの様子を見て取ったアルベルが、鼻で笑った。

「陛下の命令に背けるのか? お前が」

 ひどく馬鹿にされているような気がした。男はネルを試して面白がっているのだ。

 胸に怒りの炎が宿った。人を見下し、馬鹿にし続けるこの男はどこまで人をコケにすれば気が済むのだろう。

 ネルは歯を食いしばり、怒りの眼で男を睨みつけると、男は満足そうに笑い声を立て始めた。

「俺が憎いか」

「憎いに決まってるだろう!? あんたは銅を奪おうとし、私の部下を足蹴にした……!」

「その憎しみの眼をもっと俺にくれよ。憎め、憎みやがれ!」

 男は得意げに両手を広げ、首をそらして笑った。

 この男はどうしてしまったのだろう。

「……あんたはもうしないって、言ったくせに」

 ぼそりと呟くと、耳ざとくアルベルが聞きつけ、不思議な顔をした。

「いつ言った? 俺は初めて聞いたが」

 前の繰り返しの会話のことなど、おぼえているのは自分だけだ。ネルは急に虚しくなった。

「どうした、いつもの威勢は?」

 アルベルは黙り込むネルを挑発してくる。しかし、自分が何故こんなにも男を憎んでいるのか、わからなくなった。初めて出会ったカルサア修練場の時はむしろ助けられたくらいだ。男のしたことといえば、それくらいか? とはいえ、部下を足蹴にしたことはやはり許せない。

「……あの子たちはしばらく寝込むことになったんだよ」

 ネルは下を向いていった。痛がるファリンの背中をさすってやった時の華奢な手ざわりを今もまだこの指の感覚がおぼえている。

「鍛錬が足りねぇンじゃねえか? 指導してやるのがお前の役目だろう」

「それはそうだけど」

「さもなきゃあのクソ虫ごときが戦って何になる」

 アルベルはこともなげに言った。まるでその辺の虫けらに価値はないと言うがごとく、吐いて捨てるような口調だった。

 ──やはりこの男は……!

 ネルは急にアルベルに殴りかかった。右の拳が、アルベルの左頬に当たった。しかしすさまじい反射の力で、ネルは強く後ろに押し返された。転びそうになるところを、すんでのところで踏ん張る。

 男はうつむいていたが、やがて肩を揺らして笑った。笑いが勢いに乗ると、首をそらして笑った。

「なんだい、気味悪いね……」

 ネルはあきれてその光景を見ていた。よく笑う男だ。

 男はひとしきり笑い終わると、まっすぐネルの眼を見据えた。口の端が切れて、男の赤い口が不気味に濡れていた。

「クリムゾン・ブレイドはこうでないとな」

 男は立ち上がり、ぐっと身体を近づけてきた。殴られる。そう警戒して身を固くした時だった。男の手がネルの顎を上げた。男の顔が、顔の上に降りかかってくる。気がつくと、口の中に血の味が広がった。男の舌が、ネルの舌をまさぐる。キスしていた。

 ネルは思わず目を見開いた。アルベルの挑発的な目が、こちらを見ていた。身をよじると、男の右手がより強い力でネルの身体を男の身体に引き寄せてきた。

「っ……! やめっ……!」

 身動きの取れない中で、男の舌が龍のようにネルの口内を蹂躙した。痛々しい血の味がひび割れて口の中に充満していた。つめたい指が、ネルの背中をなぞった。

 ネルは身体の間に挟まっていた両手を引き抜くと、男の胸板を思いきり押した。

 男はバランスを崩して椅子が倒れ、その後ろのテーブルにしたたかに腰を打ちつけた。葡萄酒のカップが割れ、葡萄酒があふれた。その上に男は左手を突いた。

「くっ……」

 男が小さく声を漏らし、どうにかテーブルの上の左手だけでバランスを取っている格好になった。

「……だ、大丈夫かい!?」

 ネルは思わず、男の身体を引っぱった。男はすぐに立ち上がったが、左手は割れたカップの破片にまともに手を突いてしまったらしく、紫色の手袋を嵌めていてもわかるほど、あふれる血と葡萄酒で赤黒くどろどろに滴っていた。

「見るな」

「見せな!」

 ネルはアルベルの左手を手に取った。白い破片がまともに突き刺さっている。その周りからじゅくじゅくと赤い液体がこぼれ落ちてきていた。

「……見た目ほど痛くはない」

 男は醒めた目で自分の左手を見ていた。

 ネルはその破片を慎重に取り除き、男の手袋を外した。男は嫌がったが、わざと乱暴に扱って言うことを聞かせた。

 手袋を外すと、男の手は肘の上から指の先まで、ひどいケロイド状の肌が暗く引き攣れていた。男が手袋を取ったところは、見たことがなかった。初めて見るそれは、エアードラゴンに焼かれたという左手だった。

 ネルは神経を集中させ、ヒーリングをかけた。ネルの施術では、すべての傷を治すのは難しい。それでも血がだんだんと止まって、傷もかさぶた程度には塞がってきた。

「動くかい?」

「元々そんなに動かん。神経がやられている」

 左手の指は繊細な動きをできないようで、人差し指と中指は少し内側に倒せる程度だった。

「無様か?」

「そんなわけないだろ。あんたが戦った証だろ」

 男は鼻で笑った。

「フン、馬鹿馬鹿しい。戦った証だと? これはな、焔の継承の時に、親父がエアードラゴンに焼かれている間しっぽを巻いて逃げた証だ。俺は逃げたんだ。親父からも、エアードラゴンからもな」

「しっぽを巻いて逃げる奴が、こんな火傷を負うほどエアードラゴンに対峙してたってのかい? ずいぶんな勇気だね」

「言っとけ」

 ネルは荷物袋から応急セットを取り出し、ガーゼでまだ血が止まっていないところを押さえつけた。

「あんたが逃げたのは戦いからではなく、対話からだね」

「対話だぁ? 阿呆が。そんな寝ぼけたこと、してられるかよ」

 血が止まると、包帯をぐるぐる手首から手のひらまで巻きつけていく。

「ほら、今だって逃げてる。だからエアードラゴンが怒って火を吹いたんだろ」

「知るか。俺が火を吹きたい気分だ」

 包帯を巻きおわると、アルベルは確かめるように左手を触った。

 ネルは応急セットを片付けて、床の血を拭いていた。

「……すまねぇな」

 ネルは意外なことを聞いた気がして、顔を上げた。

「……あんた、なんて?」

「……なんでもねぇよ」

 アルベルは無愛想にそっぽを向いた。照れたように、口を尖らせていた。

「……フフ、あんたって礼を言えるんだね」

「笑うな」

 ネルが吹き出して笑っていると、アルベルが抗議するようにネルの髪を軽く掻き乱してきた。ネルは黙ってアルベルを見つめた。アルベルは真剣な眼差しで、ネルを見ていた。

 ふいにアルベルがネルの頬に触れた。かさついた左手の無骨な感触と包帯の匂いがした。

 アルベルは目を細め、顔が近づいてきた。

「待っ……」

 ネルは押し返そうとしたが、その力はもはや弱かった。うっすらと残る血の味の中で、ネルはゆっくりと目を閉じる自分を感じていた。

 

 

 不思議なまどろみだった。

 男の意外な一面を見た気がした。いつもの剥ぎ取るような手つきじゃない、あんなふうに優しい手ざわりを、ネルは初めて経験した。

 しかし気がつくと、また昨夜が繰り返されていた。

「怒りの音色、これでいいですかね?」

「……は?」

 見ると、フェイトが竜の喉笛を猛々しく吹き始めた。ホテルのロビーに勇ましい音色が響き渡る。

 ロジャーから原始肉が飛んできて、クリフがバナナの皮ですっ転び、マリアが怒り、アドレーが布を破る。

 何度目かのいつもの光景をやり過ごしながら、ネルは暖炉の壁際を盗み見た。何事もなかったかのように、そこにはいつもの無愛想な男が冷たく腕を組んでいた。

 夕食が終わり、何事もなかったかのように男は『部下を足蹴にしてやろうか』と喧嘩を売ってくる。もはや虚しさを覚えながら、ネルは力なく部屋へ戻った。

 葡萄酒を受け取り、口をつけないカップの縁で指先を温めながら、ネルはどうしてこうなるのか、孤独を感じていた。

 いつになったら、自分の時は進むのだろう。もう二度と、明日は来ないのだろうか。

 部屋のクローゼットに掛かっていた大判のショールを身体に巻きつけ、部屋の外へ出た。少し気晴らしに外の空気でも吸いたい気分だった。

 階段の下からは、まだフェイトやロジャーの声が聞こえる。だが階段をやり過ごし、フロアの奥へと続く廊下を歩き続けた。

 客室のドアが並んだ奥にはバルコニーがあった。ドアを開けて外に出ると、先客がいた。

「マリア」

 声をかけて欄干のところにいた彼女に声をかけると、マリアは振り向いて、青く長い髪がきらきらと靡いた。

「あら、ネル。雪が降っているわね」

 雪はこの街に来た時から元々積もっていたが、また新たに降り出したらしかった。

 ネルはショールを巻いた腕を手のひらでこすりながら、マリアの隣に立った。肌寒い風が鼻先を吹き抜けた。

 バルコニーからは大通りが見渡せる。しかし歩いている人は誰もいなかった。

「ここは曇ってて星も見えないわね」

 マリアが頬杖をつきながら言う。冬の時期のアーリグリフはいつも厚い雲が街に覆い被さっていた。

「ねぇ、マリア」

 ネルは人差し指で欄干に積もった三センチほどの雪を前に押してみた。はらはらと下に雪が舞い散った。指先が冷たく濡れる。

「なあに?」

 マリアが向き直ると、すべてを見透かされそうな感じがして怖かった。ネルは意を決して口を開いた。

「仮に……たとえばの話だけど、同じ一日が何度も繰り返されるということが、あると思うかい?」

 寒さのせいか、自分の声がかすかに震えているのがわかった。だがマリアは気にした様子もなく、

「面白い話ね」

 と、ふっと笑った。

「『速く移動するほど、止まっているものより時間の進み方が遅くなる』。昔の言葉でこういうのがあるんだけど」

 マリアは腕を組むとちらりとネルを一瞥して、続けた。

「あなたは知らなくていいことだけど。まぁいいわ。私たちの世界では、転送したり、超高速移動することが出来るの。つまり、古い技術だと亜空間ワープといって、物質を幾重もの亜空間で包み込んで進むことによって、実際には光速以下の速度で動いていたとしても、通常空間との相対的には光速以上の移動を行っていることになっているの」

 突然よくわからない単語が飛び出してきて、ネルの頭はぐるぐるした。

「……それはつまり、速度が速いのではなくて、到着が早いということかい?」

「そう、その通りよ。光より遅い進行スピードで光より早く目的地に到着するということは、つまり時間が体感的にはほとんど止まっている。この移動そのものを行おうとする時、時空を歪曲させてるってことになるんだけど。ちなみに現在ではあのバンデーン艦を襲ったビームみたいに、光速より速く動くことができてるんだけど、これはまた複雑な話になるわね」

 マリアは噛んで含めるようにネルを見つめた。ネルはその視線にたじろぎそうになる。

「まぁだから、技術的に時空を歪めることはできても、時間を過去に戻すことは一般的には理論上不可能とされているし、仮にできても禁忌とされているわ。でも、どこかに時間移動ができる装置みたいなものがあるらしいのは何かで聞いたことがあるんだけれど……それがどこにあるのかは私にもわからないわ」

 ネルは自分の身に起こっていることを考えた。どこにあるとも知れない時間移動ができる装置が作動して、自分が影響を受けたのだろうか。何か特別なことをしたのだろうか。自分がしたことといえば、敵の男と寝たことくらいだ。

「時間移動を行った場合、たとえひとかけらのホコリやたったひとつの電子であったとしても、現在の時間には重大な影響を与えるとされているの。たとえば、あなたが昨日に移動したとする。すると、昨日という時間においては、時間移動を行う前のネルと、時間移動によってやって来たネルとの二人のネルがいることになるの。それから何も起こらずに一日経てば時間移動を行う前のネルが過去に行くことになるから何も起こらないんだけど、もしも未来からやってきたネルがその時間に干渉して妨害しようとした場合、どうなると思う?」

「どうなるんだい……?」

「J・D・ウェルマー教授の理論だと、ネルが無限大に増殖することになるわ。そしてこの三次元空間そのものが無限大の質量を持ったひとつの点に収縮されてしまうの」

 自分が無限に増える……おそろしい光景を想像してネルはぶるりと身を震わせた。しかし、実際には昨日の自分はいない。今日の自分が昨日を体験しているだけだ。それともループを繰り返す度にどこか別の場所で昨日の自分が増殖しているとでもいうのだろうか。

 もしかして自分はいつのまにかとんでもないことに巻き込まれているのではないか。そう思うと心細くて、怖くてたまらなくなった。何も自分の意思でこうなったわけではないのに、取り返しのつかないことをしているような気分になった。

 ネルは知らずどんな顔をしていたのだろうか。マリアは笑ってネルの肩を叩いた。

「大丈夫よ。何もしなければ時間移動なんてそう起こらないわ」

「そ、そうかい……」

 何回もしているなんて、とても言えなかった。時間移動するたびに男と寝ているなんて口が裂けても言えるわけがない。

 ひときわ強い風が吹いて、粉雪がはらりと舞った。鼻の奥がツンとする。ふいに泣き出したくなった。

「マリア、寒くないのかい?」

 いつもの軽装のまま平気そうなマリアを見ると、

「私はtemp.コントローラーがあるから」

 と彼女はこともなげに言った。

「てんぷ……? え?」

「temp.コントローラーは気温と湿度を調節する機械よ。これを身に着けていると寒くないし暑くもないの」

「へぇ、そんな便利なものがあるのかい」

 ネルも防寒用や防暑用の施術があることにはあるが、施力を使うので、仕事の時以外はほとんど使うことがなかった。

 そしてネルはふと思う。temp.コントローラーも防寒用施術も身を守る体毛もないアルベルはその身一つでこの寒さに耐えているのかと思うと、同情を禁じ得なかった。

 

 部屋に戻ると、暖炉に火を灯した。暖かい部屋で気持ちを落ち着けたい気分だった。冷えすぎた皮膚に、火のはぜる様子は熱いくらいだった。

 ふいにトントンとノックがした。

 ドアを開けると、アルベルが邪悪な笑みで「よう」と入ってきた。ネルは思わず、男の身体を抱きしめた。気がつくと何度も知ってしまった男の体温を求めていた。冷たいその身体は、意表を突かれたようにビクンと跳ねた。それで我に返って、ネルは男の身体を押し戻した。

「何するんだい!?」

「お前から抱きついてきたんだろうが……」

 アルベルは頭を掻くと、所在なげにテーブルの下に納まっていた椅子の背をひっくり返して座った。

 それでネルも、向かいのベッドに腰をかけた。

「ねぇ……アルベル」

「なんだ」

「あんたは私が最近毎日同じ一日を繰り返していると言ったら、信じるかい?」

「頭がやられたのか」

「そうじゃなくて。最近いつもさっきの夕食の前に時間が巻き戻されるんだよ。必ずあんたとその……寝た後。眠りに落ちて、気がついたらまた同じ夕食の前の時間に戻ってるんだ」

 アルベルはしばらく黙って野生のパンダでも見たような顔をしていたが、しばらく考えたようにやがて口を開いた。

「お前は毎晩、俺とヤっているのか?」

「……バカ! 口にするんじゃないよ!」

 ネルがうろたえて枕を投げると、

「お前が言ったんだろうが……」

 受け取った後、サラリと言った。

「俺とヤることで時間が巻き戻されるなら、ヤらずに済ましゃいいだろ」

「だからそれができずに困ってるんじゃないか」

 ネルが口を尖らせると、アルベルは首を振った。

「面白ぇ話を聞いたところでザンネンだが、今の俺はヤることでお前の時間が巻き戻ることを知っている。だからヤらずに済ませる事も出来る」

「協力してくれるっていうのかい?」

 するとアルベルはとぼけるように右上を向いた。

「どうだかな」

「もう!」

 ネルは床を踏みつけると、アルベルから枕を奪い取った。

「頼むよ、アルベル! あんたが協力してくれないと私は三月七日の夜に囚われたまま抜け出せないんだよ!」

 溺れる者は藁をもつかむがごとく枕を胸に抱くと、ネルは地団駄を踏むようにアルベルに懇願した。

 アルベルはニヤリと笑うと、椅子から立ち上がってベッドに寝転んだ。

「協力してもいいが、代わりに教えろ。さっきのお前の様子からして、よほど俺とヤるのが楽しかったようだが、何周目の俺が良かったんだ?」

 ニヤニヤと肘枕を突きながら尋ねるアルベルの下品な質問に、ネルはふたたび枕を投げつけた。

「うるさいね! 何周でも同じだよ!」

 その夜、ふたりは寝転がって話をするうちにいつのまにか眠ってしまった。

 こうしてただアルベルと横になって話をするのは初めてのことだった。

 

 

 目を開ける前から、嫌な予感がした。

 周りがどうも騒がしい。ああ、また戻ったようだった。

 瞼を開けると、目の前でフェイトが竜の喉笛を構えてにこやかに笑っていた。

「怒りの音色、これでいいですかね?」

 ため息をつく。飽き飽きしていた。

 ネルは立ち上がってフェイトの勇ましい音色を無視し、暖炉の壁際までつかつかと歩み出た。

 そこにはアルベルがひとり腕を組んで立っていた。

 ネルはいきなりアルベルの腕を引っつかむと、耳元で囁いた。

「私は目を閉じてても今から起こることがわかる。よく聞きな」

「あぁ?」

 アルベルは不機嫌そうに片眉を上げてネルを見たが、ネルは構わず早口でまくし立てる。

「フェイトの頭にロジャーの原始肉が当たってフェイトの笛がピーと鳴る。その時クリフがバナナの皮で転んで文句を言う。そしたらさっきからイラついたようにテーブルの足をコツコツ鳴らしているマリアがつま先をドンと鳴らし、『うるっさいわね!』と叫ぶ。その直後、外で乾布摩擦をされているアドレー様が布を破かれる」

「……何言ってんだお前?」

「いいから見てな」

 そう言ってネルが目を閉じてみせる間、アルベルは順番に仲間たちの様子を見ていた。ネルの言った通りのことが起こったとわかると、

「なんの冗談だ」

 と詰め寄った。

「偶然にしては出来過ぎだろう」

「私はこの時間を何度も体験してる。時が巻き戻るんだ」

「はぁ!? 急にどうした。まさかお前までワケのわからん星から来たとか言うんじゃねぇだろうな」

「違うってば。とにかく私は毎日同じ日が来るんだよ。昨日のあんたにも話したけど、あんたと寝た瞬間、今のこの時間に戻るんだよ」

「俺と寝た瞬間……?」

「あぁ、セックスしようがしまいが眠った途端、時間が戻るんだ。もうどうしたらいいのかわからないんだよ……」

 途方に暮れて思わず泣きそうになり、ほとんどやけっぱちのように話してしょぼくれている。

 アルベルはしばらくの間、逡巡するように眉根を寄せてネルを見ていた。やがて大きく息を吐くと、がさがさと頭を掻いた。

「来い」

 階段へ向かっていくアルベルの背中に、ネルはついて行った。

 アルベルの部屋へ入ると、アルベルはベッドの上にあぐらをかいた。ネルは入口に立っていると、「座れ」とアルベルが椅子を勧めたので、ネルは椅子を引っぱり出して向かいに座った。

 アルベルはしばらく腕を組んでいたが、やがて考えがまとまったというように言った。

「つまり、今日は寝ずに済ませばいいんだろ」

 それは、今日ネルも試してみようと考えていたことだった。

「ヤろうがヤるまいが、寝た瞬間に時間が巻き戻るんだろ。つまり、巻き戻る瞬間をなくせばいい。睡眠しなければいいんだ。俺が見張ってやるよ」

「そううまくいくのかい……?」

「いかせるしかねえだろ」

 アルベルの自信のありげな強い口調に、しょぼくれたネルもだんだん励まされる気持ちになってくる。やはりひとりであれこれ考えるより、誰かと話した方がずっとマシだとネルは思った。

 ネルはあらためてこれまでの経緯をアルベルに説明した。時が戻るのは五度目なこと、そのたびにアルベルとセックスしたこと、でも昨夜は話しているうちに眠ってしまったことなどを話した。

 アルベルは顎に手を当てて真剣な様子で聞いていたので、ネルはつくづく意外に思った。こんな素っ頓狂な話をいきなり信じろと言われて信じる方が誰だって無理だろう。だがアルベルは茶化しもせずに聞いてくれた。そんな一面があることを、ネルは知らなかった。

「ちなみにあんたは私から見て毎日同じことを繰り返してるけど、繰り返している自覚はあるのかい?」

「あるわけねえだろ」

 アルベルは咳払いをすると、

「夕食の前から俺たちが寝るまでなんだろ? その間に何か意味があるのかもしれねえな」

 と、ぼそりと言った。

「最初のきっかけはどうだったんだ?」

「最初のきっかけ……?」

「そうだ。最初に時間が巻き戻る瞬間ってのがあったはずだろう?」

 ネルは、しばらく考えてみて、はっと思い当たった。そうだ、時間が巻き戻る前……。

「そうだった……最初のきっかけは、私だったんだ……あんたの腕の中で目覚めて、元敵と愛のないセックスをして死ぬほど後悔して、『時を戻したい』と願った……私が招いたことだった……」

 ネルは愕然としてうなだれた。今起こっていることは、自分が確かに願ったことだったのだ。

「戻したいと思っただけでまさか戻るなんて思わねぇだろうよ……」

 アルベルは気の毒がるように言った。

 ネルがしばらく下を向いたまま動かなかったので、アルベルは声の調子を上げて言った。

「俺には叩っ斬れば何とかなる敵のことならわかっても、時間が戻るなんてどうすりゃいいのかわからねぇ。けどな、落ち込むな。必ず未来は来る。信じろ」

 ネルが顔を上げると、アルベルは真剣な眼差しでネルを見ていた。

「意外だね……あんたってそういうことを言うんだね」

「当たり前のことを言っただけだ」

 アルベルは切り替えるように手を叩くと、

「とにかく、睡眠しなければいい。俺も明日まで寝ねぇ。それで試してみりゃあいい。駄目なら次だ」

「あぁ……」

「さっきの話じゃねぇが、お前から見て俺たちの方が繰り返しているのだとすれば、お前だけが繰り返していない存在のようにも思える。お前だけが気づいているんだ。つまり、何かを変えられる存在があるとすればお前だけってことだ」

 ネルは心強い気持ちでアルベルを見ていた。本当に、こんな男だとは知らなかった。

「ありがとう、アルベル……」

「礼を言うのは明日が来てからだ」

 アルベルは照れたように鼻を掻くと、あぐらを解いて膝を立てた。

「しかし不思議だな。俺は何もしてないのに、お前はもう俺と何度もヤった仲だなんてな」

「そんないい仲じゃないよ……」

 こうやって本人にからかわれるのも二度目だ。ネルが居心地悪くそっぽを向くと、アルベルはいきなりベッドから立ち上がった。

「行くぞ」

 ネルはアルベルを見上げる。

「どこに行くんだい……?」

「眠気覚ましだ」

 

 夜のアーリグリフの街はいっそう冷えた。雪がちらついていて、小さな雪の結晶が衣服に舞い落ちた。

「あぁ、寒ぃ……」

 アルベルはさっきから細い身体をさらに縮こまらせて、しきりにぼやきながら歩いていた。ネルはその背中を眺めながらついて行っていたが、少し歩を速めて隣を歩いた。

「ねぇ、防寒用の施術をかけてあげようか?」

「そんなモンがあるのか?」

「ああ。すごくあったかいってわけじゃないけど、何も無いよりはマシになるよ」

 だがアルベルは首を振った。

「いや、いい。眠気覚ましにならん」

 アルベルは暖炉のそばで腕を組んでいる時、実はうとうとしていたらしい。夕食を食べたら少し寝ようと思っていたようだ。確かに最初の方ではアルベルは寝ていることもあったと思い出した。

 ふたりは街を歩き回り、アーリグリフの物寂しい雪道を散策した。踏みならされた雪に、新しい雪が薄く積もっていた。

「時間が戻るってどんな感じなんだ? 思いっきり食っても元通りなのか」

「さぁね……全部元通りなんじゃないかい? そんな余裕ないよ」

 そう言いながら、お腹が思いっきりグウと鳴った。ふたりとも、夕食も食べずに話し込んでいたのだ。

「何か食おう。身体が持たん」

 路地裏を抜けて、ふたりは食料品店の前にたどり着いた。ドアを開けると、カランカランと鈴が鳴った。

「とりあえず好きなもん食え。俺のおごりだ」

「え? どういう風の吹き回しだい?」

「給料日なんでな」

 アルベルはドンと胸を張った。

 戦時下と比べて、ここ最近のアーリグリフの食料品店は劇的に充実していた。食糧困難だったアーリグリフには今までなかったものがシーハーツから輸入され、食糧危機はおおむね改善されたと聞く。しかし物価高で庶民には痛手でもあった。

 ネルは、新鮮なマグロや真鯛が並ぶ魚介コーナーを見ていたが、アルベルが

「これは何だ?」

 とネルを呼んだ。赤い派手なポップが貼られていて、白い服を着た中年男が手を振っている似顔絵が描かれている。その下には、肉まんが山のように積まれて売られていた。

「これはペターニで時々売ってる陳さんの肉まんだよ。貴重だからこんなに売られているのはめずらしいね」

「誰だよ、陳さんって……」

 アルベルはその肉まんを五個買ってくれた。

 空き家の陰になったような軒下に座って、ふたりは温かい肉まんを頬張った。

「うめぇな」

「だろう?」

 粗めに挽かれた豚ひき肉のごろついた歯ごたえと、玉ねぎの甘みが見事に調和していて、甘みのある皮がもちもちしていて弾力があった。くせになる食感とスパイスの旨みが効いた肉まんを頬張っていると、身体が温まってくる感じがした。

 アルベルが満足そうに次々に頬張っているので、ネルは嬉しい気持ちになった。

 最後のひとつは、ふたりで半分こした。

 それだけで、お腹が満腹になる感じがあった。

 アルベルは食べ終わると、満足してリラックスモードに入ったのか勝手口にすがって片膝を立てた。

 ネルもなんとなくその隣で両膝を立てて座っていた。

 穏やかな沈黙が流れ、やがてアルベルが言った。

「今日で明日は来るに決まっているが、もしまた時間が戻ってもまた俺に話せよ」

「ああ。わかったよ」

「お前はとにかく落ち込むな。やり直せるんだからパーティの嫌いなヤツに嫌がらせして逃げるような気概を持て」

「それ気概って言うのかい……それに嫌いなヤツなんかいないよ。強いて言えばあんただよ」

 ネルが言うと、アルベルは少し傷ついた顔をした。

「そうか」

 ネルは急に気の毒になり、あわててフォローを入れた。

「でも、あんたのこと、嫌じゃなくなったよ」

「ほう」

「だから……あんたに何かするとすれば……」

 ネルは、アルベルの左手を手に取った。今は仰々しいガントレットがはめられている左手だった。その刃先のついた手のひらを、ネルはもう一度包み込んだ。

 アルベルはハッとしたようにネルを見た。

「……話したのか、俺は。焔の継承の時のことを……」

「そうだね、話したよ」

 アルベルは自嘲するように鼻から息を漏らした。

「どうすればよかったんだろうな、俺は……」

 ネルはアルベルの左手を持ち上げ、自分の頬に刃先を当てた。それからまっすぐにアルベルの眼を見た。

「こうすればいいんだよ」

 アルベルはパチンとガントレットの金具をはずした。やわらかい左手が露になる。アルベルは左手でネルの頬を撫でた。ネルの冷えた頬に、それはあたたかい感触だった。

 それからふたりは何度目かの初めてのキスをした。とても優しい、うっとりするような感触だった。ネルは熱い息を漏らすと、アルベルは追いかけるように唇で受け止めた。凍えるような外気の中で、そこだけがあたたかかった。

 それからふたりはホテルの部屋に急ぐように戻り、服を脱がせ合った。アルベルはネルの胸の施文に口づけて、優しく腰を撫でた。

 やわらかいベッドの上で、何度も愛を確かめ合った。それから言葉を交わし、互いに笑いながらまたお互いの身体の隅々まで触れた。

 気がつくと朝日がアーリグリフの曇り空の隙間から現れた。

 うつ伏せになってアルベルを見つめていたネルは、その陽光にハッとして時計を見た。

 いつのまにか七時を過ぎていた。朝が来たのだ。

「アルベル! 明日が来たよ、明日が……」

「……フン。だから言っただろう」

 ネルは涙ぐみそうになって、あわててアルベルに抱きついた。

 やっと時が進んだのだ……。

 アルベルはネルの赤い髪を撫で、震えるネルを安心させるように抱きしめ返した。

「もう大丈夫だ」

 アルベルの力強い声が、ネルの胸に響いてきた。

 時間が経つことに、こんなに安心したことはなかった。

 その日、ふたりは寝ぼけ眼でバール山脈へ登った。フェイトの笛の練習の成果もあって順調にバール遺跡からウルザ溶岩洞まで攻略し、その間じゅう仲間たちからは『急に妙に距離が近い』とからかわれた。

 この時間旅行はふたりだけの秘密だった。

 そしてこれからふたりだけの時間を刻んでいくことも──。

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