「シン陰流・簡易領域」
1級術師、日下部篤也の足元に、円状の空間が形成される。
監督官制度により目立っていないが、教職が減った現在、東京校の生徒はほぼ全員彼の担当となっている。現在は1年生との訓練中であり、実地研修中の1名を除けば1年全員が揃っていた。エマとシェリーは2人で組み手、ミリアは待機。そして日下部はナノカにマンツーマンでの指導である。7月に入り夏本番が差し掛かる中、いまだに外で訓練を行っているのは生徒たちの中に得物を使う者がいるからである。
(はぁ……めんどくせ~)
ナノカから簡易領域を教えてほしいと言われた時、日下部は乗り気ではなかった。
相手が少女だったからというのもあるが、それ以上に、彼女が術師に向いているようには見えなかったのが理由である。日下部は家父長制信者というわけではない。むしろ実力の高低は性別によらずフラットに見るタイプである。これは彼が生得術式を持たず叩き上げのスキルだけで1級術師となったこともあるが、それ以上に心を病んだ妹がいるからというのが大きい。
日下部は思う。別に無理して呪術師になる必要ないんじゃね?と。才能あるやつに任せとけばよくね?と。
彼が教職に就いたのは、恩人である夜蛾正道に少しでも恩を返したいという気持ちがあったからだ。夜蛾は総監部の陰謀により命を落としたが、日下部には彼の意思を継ごうというほどの気概はない。現在も術師を続けているのは事故的にシン陰流の当主となったこと、そして術師として生きてきた時間が長すぎることから、惰性で続けているに過ぎない。命の危険がないとはいっても、面倒くさがりな彼にとって教職とは無数の面倒ごとの温床のはずなのだが、彼がそれに気づくのは定年間際まで勤め上げた後である。
1級術師として、そして高専の教師として、彼もまた多くの術師の卵を見てきた。
ナノカの射撃の腕は確かだが、それはあくまでも呪術戦においては補助的なものに過ぎない。銃弾より早く動く呪霊はそうはいないが、銃弾より硬い外皮を持つ呪霊は多いし、弾切れだってある。呪霊には呪力による再生もあり、線での攻撃がしにくい以上銃はあまり効果的ではないと日下部は考えている。
(まあ呪詛師相手なら話は別だが)
とはいえその点も疑問が残る。
日下部はすでに慣れてしまったが、呪詛師もまた人間であり、人間を殺すのは普通の感覚では抵抗がある。土壇場でためらいなく人を殺せるシビアな感覚と、確かな実力、それと才能。これらが揃って初めて呪術師としては一人前。そして、他者のために強くなりたいというナノカが、今後それらを兼ね備えられるように日下部には思えなかった。
(今年の1年は数こそ多いが、そん中で期待できそうなのは──)
簡易領域を解いた日下部は、隣で組み手をしていた一人の少女を見る。
青い髪に琥珀色の瞳の少女、橘シェリー。彼女は同期の桜羽エマと訓練の真っ最中だったが、その実力にはかなりの差があるようで、エマの方は荒い息を吐きながら芝生の上に大の字になっていた。
「はぁ……はぁ……シェリーちゃん強すぎるよぉ……」
「ふふん! 当然です! なんたって私、名探偵な上に準2級術師ですから!」
Vサインを伴い、シェリーが胸を張る。
フィジカルギフテッドであるシェリーは、こと肉弾戦においては他者と一線を画す実力がある。最初は力任せに腕力を振るうのみだった彼女も、監督官である虎杖との定期的な組み手の成果により上達し、複数の任務を経て現在では準2級術師にまで至っていた。今年度の新入生は例年と比べても多いものの、現時点でこの等級まで上がっているのは京都校を含めても彼女ともう1人だけである。シェリーのような才能ある人間が大成すれば巡り巡って仕事が減るわけなので、日下部としてはぜひともシェリーに頑張ってほしいところであった。
「期待してるぞ~橘ぁ~」
「あ、ナノカさん……じゃなくて今はアツヤさんですかね?」
「わざとかお前ややこしいな。んで黒部、感覚は掴めそうか?」
「ええ。けどもあと少しでなにかつかめる気がするわ」
「アツヤさんの顔でナノカさんが話しているの面白いですね!」
「ご、ごめんね……おじさんのせいで……」
「いんや、今の
訓練を見守っていたミリアが頭を下げたのを、ナノカの顔の日下部がフォローする。
まるで精神が入れ替わったかのような状況ではあるが、それもそのはず、事実として2人の人格は入れ替わっているのである。
「人格、魂の入れ替え……佐伯のおかげで高専の予算は随分浮いたからな。感謝しかねえよ」
「アハハ……おじさんの術式が役に立ってよかった……です」
ミリアが謙遜するように頬を掻く。
彼女の術式はズバリ「魂の入れ替え」である。つまりこの状況は他でもない彼女の術式によるものだ。
手をつなぎ、縛りを結ぶことで2人の人格を入れ替えることができるミリアの術式は、戦闘でこそほとんど役に立たないものの、訓練においては大きな効力を発揮する。本来習得にそれなりの時間が必要な簡易領域だが、その道のプロである日下部の体を通して簡易領域の感覚を覚え込ませることができるのだ。新宿での決戦の際、虎杖が1か月で簡易領域を会得できたのもこれと同じ手法によるものである。
この修行法はもともと憂憂という術者の協力を得て行っていたが、彼とその姉は非常に金にがめつく、訓練の度に高額の請求が発生した。ミリアが入学したことでその必要がなくなったのだが、日下部としては商売の邪魔になりかねないミリアが憂憂達からどう思われているのか、少し心配でもある。ついでに本当におじさん目線としては一人称『おじさん』の女子高生はいろいろと複雑な心境を齎してもいる。
「しかし残念です。私も入れ替え修行やってみたかったのですけどね~」
「前にも言ったがな、佐伯の術式はフィジカルギフテッドと入れ替わった場合の挙動が予想できねえ。もとの体に戻れねぇ可能性がある以上、はいどうぞとはいかねえよ」
「普通の人とは入れ替われるんだけどねぇ……」
ミリアが申し訳なさげにつぶやいたのは、シェリーに対して彼女の術式を使うことが禁止されているからだ。
入れ替わった際、呪力は本人の人格ごと移動する。このためミリアは一般人相手に入れ替わった場合も問題なく術式を使うことができるのだが、呪力の代わりに強靭な肉体を得るフィジカルギフテッドの場合、体側の縛りが適用されてしまう可能性があった。もしそうなった場合、一度シェリーと入れ替わってしまうとミリアの呪力が回復しなくなってしまう危険性があり、同じ術式を持つものが現れでもしない限り2人は元の体に戻れないことになりかねない。
「そもそも入れ替わったところで戻った時呪力がねぇんじゃ簡易領域も反転術式も使えねえだろ。意味ねえじゃねえか」
「でも心と体が入れ替わるなんて絶対面白いじゃないですか!私も入れ替わって顔に落書きとかしてみたいです!」
「そんなしょうもねえことに使うんじゃねえよ……」
「あ、ナノカちゃん!?」
「? っておお」
エマの声に、全員が日下部inナノカの方へ向き直る。
彼女は日下部の顔で額に汗を浮かべ、瞼を閉じているが……その足元には確かに円形の空間が広がっていた。股下を中心に半径1mほどのそれは、ここ数日日下部が見せていたものと同じ技術である。
「ほい」
日下部が円の中に小石を投げ入れる。
それは存外高速にナノカへ迫ったが、円周に触れた瞬間、彼女は西部のガンマンのような早撃ちで撃ち抜いた。目を開けた彼女がはぁっと大きな息を吐く。
領域に触れたものに対しての全自動カウンター、シン・陰流簡易領域「抜刀」。それを早撃ちに転用したものであった。
「わー!すごいですナノカさん!」
「お疲れさん。あとは自分の体でも試してみろ。佐伯、頼んだ」
「あ、はい! うーんよいしょ~!!」
ミリアが2人の間を取り持つように手を繋ぐ。
彼女の術式は自身と他人の魂を入れ替えるものだが、他人の体に入っていても術式の行使が可能である。故に、自身とA、と自身とB、自身とA、という順番で入れ替わることでAとBの魂を入れ替えることができるのだ。3人が入れ替えを行っている姿を見て、シェリーがつぶやく。
「宇宙人呼んでるみたいですね!」
「いるわけねえだろそんなもん」
体が戻った日下部は、元の男声で辛辣な突っ込みを入れるのだった。
◆
訓練終了後の放課後、自由時間となり日下部が去った後もナノカは訓練を続けていた。
入れ替え中の彼女は簡易領域を使用することができたが、それはあくまで日常的に簡易領域を使い続けている日下部の肉体の上でのことである。最終的に自身の体で使用できなければ意味はない。
ただ、彼女の懸念をよそにそれは案外簡単に成功する。
「…できた」
足元に円空間を解除し、ナノカは一息をつく。
本来会得するのに年単位の時間がかかる技術なのだが、呪術について素人であるナノカが数週間で使えるようになるのだから、入れ替え修行様様である。
(けどまだ足らない)
ナノカは夢想する。
姉の領域の中、シェリーが倒れた時のことである。あの時は普段の何倍も力を出せたうえ、術式の効力も上がっていた。原因は今なお分からず、帰還後伏黒たち先輩に尋ねても詳しいことは分からなかったが、もし同じ力が扱えればきっと周りを守ることにも繋がるはず。
(お姉ちゃん襲った犯人は、私が必ず──)
心の内で、静かに覚悟を決める。
そうして鍛練を再開しようとしたナノカの元へ、一つの人影が近づいてきた。
「お疲れ様、ナノカちゃん」
「佐伯ミリア……」
「これ、タオルと飲み物だよ。よかったら使ってほしいな」
「感謝するわ」
感謝を告げつつ受け取ったスポーツドリンクは、直前まで冷蔵庫に入れられていたのかキンキンに冷えていた。
ミリアは細やかな気づかいが異様にできるので、1年生のみならず高専生徒の多くから慕われていた。無論、ナノカも例外ではないのだが──
「エマちゃんとシェリーちゃんは先に寮に戻ったよ。狗巻さんたちももうすぐ帰ってくると思う。ナノカちゃんはまだ訓練する?」
「そのつもりだけど、なにか気になることでもあるのかしら」
「う゛え!?そそそそそんなことないよ!?」
「あなた分かりやすすぎるわよ……」
あはは……とため息をつくミリアの姿は、ナノカにはどこか寂しそうに見えた。
「おじさんのお節介かもしれないけどね、ナノカちゃん、最近ちょっと頑張りすぎに見えたからさ。もっと休んでもいいんじゃないかなぁ~って」
「……心配してくれてる、ということかしら」
ミリアは否定をしなかった。
正直なところ、ナノカはミリアのことが少し苦手である。彼女には何かあったときに平気で自分の気持ちを殺してしまうような、そんな自己主張の弱さがあるように見えたからだ。誰かに庇われることを良しとしないナノカにとって、彼女を頼ることは必要以上の負荷を与えてしまうことに繋がりかねない。もっとも、少し困ったような表情で上目を使う彼女の気持ちを無下にするほど関係が悪いわけではないのだが。
「先月の事件を覚えてる?」
「……もちろんだよ。ナノカちゃんのお姉さんの事件だろう?おじさんとみんなと一緒にお見舞い行かせてもらったね」
「あの時、私は橘シェリーと友達になったわ」
「そ、そうなんだ! うん、すっごくいいことだと思う!」
大げさに反応するミリア。
彼女の態度にナノカは少しの疑問を覚えるも、特に追及することはせず話を続ける。
「あの時私は橘シェリー達に助けてもらったけれど……私がもっと強ければ、きっとあの子は怪我をしなくて済んだ」
「……結果論だよ。シェリーちゃんも気にしないって言ってたでしょ?」
「それでも、今努力すれば次は対処できるかもしれない。自分が足を引っ張ったせいで友達や誰かを傷つけるなんて絶対に嫌。休んでる暇なんてない」
「……」
ナノカの言葉を聞いたミリアは、その視線を下へ向ける。
「すごいね、ナノカちゃんは。おじさんなんて呪霊と戦ったこともないのに……」
「あなたの術式は役に立っているわ。日下部篤也も感謝していたじゃない」
「あはは……ありがとう。だけど──」
「ナノカさーん!!ミリアさーん!!」
「あれは……」
何かを言いかけたミリアの声は、建物の方から聞こえてきた大きな声にかき消されてしまう。
ナノカが細めた目線の先には、ちょうど先ほど話題に上がっていた少女の姿があった。青髪の少女は軽やかな足取りで走り寄ってくると、ぴたりと二人の前で歩みを止める。
「橘シェリー、どうしたの」
「事件発生です! 水族館で
「そうなんだ。お疲れさまだよシェリーちゃん」
「違いますよミリアさん! アツヤさんからお二人と一緒に行くように言われたので呼びに来たんです!」
「お、おじさんも!? 無理無理絶対足手まといだよ!?」
シェリーの言う事件の範囲は幅広いが、今回は呪術師としての任務で相違ない。
戦闘経験のないミリアはわかりやすく大慌てするが、対するシェリーは新たな事件の発生にキラキラと目を輝かせていた。
「安心してください! ミリアさんは戦闘員ではなく補助監督さんの代わりです。サポートの方お願いしますね!」
「う、うまくできるかはわかんないよ…? 失敗しても怒んないでね…?」
おどおどと自信なさげに告げるミリア。
背後から見えた彼女の手は、少し震えているようにナノカには見えた。
「橘シェリー、私が呼ばれた理由は? 貴方は既に単独での任務が許可されてるでしょう?」
「いえ、それは2級からですね。私は1つ下の準2級ですから、まだダメです」
「それって……本当は等級が上の術師と組むものなんじゃないの?」
「アツヤさん曰くそんなに危険な任務じゃないだろうということですので問題ないとは思います。まぁ本人はいつも通りサボってるだけだとは思いますけどね」
ニコニコととんでもないことを言うシェリーだったが、それに突っ込むメンバーはいない。
日下部ならそうだろうという負の信頼がここにいる3人の総意だからである。ルーペをもって準備万端とでも言うようなシェリーは、二人の様子を気にする様子もなく続ける。
「本当に危ないなら私たちに任せるようなことはしないでしょう。 アツヤさんもツンデレですから!」
「大丈夫かなぁ……」
「大丈夫」
ミリアの不安に被せるように、ナノカが言う。
「この任務、必ず私たちでやり遂げましょう」
「任せてください!なにせ私は名探偵兼準2級術師ですからね!」
自信ありげに胸を張るシェリー。
彼女の姿を横目に、ナノカは心の中でこの二人を守ると誓うのだった。