ノアを呼びに行く虎杖だったが、正面から慌ただしい声が聞こえてきたためその歩みを止める。
数秒後、どたどたと大きな足音を立てて見慣れた少女の姿が視界に入る。しかし彼女の表情は普段の奔放な態度と異なり真剣なもので、虎杖と目が合うとようやく見つけたとでもいうように駆け寄ってきた。
「ユージさーん!」
「お、橘。城ケ崎に用があるんだけど──」
「ユージさん! 大変です! ノアさんが!」
「城ケ崎が?」
◆
「う~ん……」
「ノアちゃん、お水もってきたよ~……ってわわっ!?」
ベッドで横になったノアの元へミリアがお盆にコップを載せて持ってくる。
しかしノアへ近づいたところ、その中身がぐにゃぐにゃと暴れ始めたので、驚いた彼女はお盆ごとコップを落下させていた。本来なら床に水がぶちまけられてしまうところだが、水はまるで無重力状態のように宙を漂っており、ミリアは胸をなでおろす。
「ありがとね~ミリアちゃん……」
「いやいや、おじさんの方こそ拾ってくれて感謝だよ」
「朝からこの調子なんです。熱もあるので風邪をひいてしまったのかと思います」
シェリーはそのままこれまでの経緯の説明を始める。
寝覚めがよくないノアをシェリーは毎日起こしに来ているが、今日のノアは様子がおかしかったという。曰く、ぼーっとしていて頭がよく回っていないらしく、体温も38度を超えていたんだとか。そんなような明らかな異常が発生していたことから、先輩や教師など頼れる相手を探して回っていたのが数分前である。
「いや~熱を測ろうとしたら体温計が大暴れしたのは驚きました! ノアさんの術式って水銀も操れるんですね~」
「城ケ崎大丈夫そうなのか? なんか変なものでも食ったとか……」
「心当たりと言えば、二人で共有スペースの謎のビン舐めたぐらいですかね」
「いや絶対それが原因だろ」
「探偵みたいに中身当てたかったんですけどね~」
えへへ~と何でもないように言う彼女を虎杖はジトッとした目で見つめる。
シェリーの言葉を補足するように、ミリアが続けた。
「あはは……ちなみにそのビンはおじさんの化粧品だよ。口に入れるものじゃないけど、ものすごく危険なもの、ってわけでもないかな」
「ならいいけど……いやいいのか?」
「邪魔するよ~」
「あ! ショーコ先生!」
虎杖の自問自答の答えが出る前に新たな来客が部屋に顔を出す。
白衣に身を包んだ家入は、いつも通りけだるげな態度のまま、ひらひらと手を振ってみせた。
「桜羽が大慌てで来たもんだからね。客人が不調だと聞いたが」
「ノアさんが熱を出してしまいまして」
「りょーかい。とりあえず診察するよ」
診療箱を片手にベッドの傍らまで歩み寄った家入は、そこでふと手を止め、背後を振り返る。
「……」
「?」
「……診察をするんだ。皆部屋を出て行ってもらえると助かるんだけど」
「あっすみませーん……」
廊下へと追い出された三人は、少しの間扉の前で立ち止まっていた。
ミリアが小さく息をつく横で、シェリーは扉の前を行ったり来たりしている。普段の彼女なら、こういうときは扉の向こうの様子でも推理し始めるところだろう。だが、今のシェリーは何を口にするでもなく、ただ落ち着きなく扉の周りをうろつく。大怪我をしても平然と笑っている後輩がここまで何かを気にしているのを、虎杖は初めて見た気がした。
その足が、やがてぴたりと止まる。
「うーん心配ですね~」
「……もうすぐ授業時間だし、おじさんは日下部先生のとこに行くね。シェリーちゃんはどうする……?」
ミリアの言葉はシェリーに向けたものだったが、その視線はちらちらと虎杖の方を窺っていた。
彼女の考えを察した虎杖は、シェリーの横顔を見やる。虎杖には、扉を見つめたまま動こうとしないこの後輩が、このあと訓練に集中できるようにはとても思えなかった。
「今日はもともと訓練の予定だったよな? 橘は十分実力あるし、多少サボっても大丈夫だと思うよ」
「わーい! ありがとうございます!」
「じゃあおじさんそのことも伝えておくね」
「……そのまま伝えないでね?」
そそくさと去っていくミリアの背中を見送る二人。
残されたシェリー達は少しの間沈黙を保っていたが、雨の音が強くなってきたとき、先に話し始めたのはシェリーの方だった。
「ノアさんに用事があるって、どういった用件ですか?」
「……聞こえてた?」
「いいえ、顔に出てました。あの時のユージさん、すごく怖い顔してましたから」
虎杖は気まずそうに頬をかく。
とぼけたところで、この後輩が引き下がらないことはよく知っていた。加えて、シェリーは黒部ホノカの一件に最初から関わっている当事者でもある。どこまで話したものかと迷ったものの、結局虎杖は正直に打ち明けることにした。
「……城ケ崎を狙っている奴がいるかもしれない」
「ふむ。軟禁しようってことですか? ノアさん別に嫌がらなそうですけどね~」
「なんでそうなるんだよ……例の変死事件の呪物が、城ケ崎の中にも入ってるかもしれないんだ。詳しいことは、まだ確定してないから言えねえんだけど、とりあえず家入先生に診てもらおうと思ってたんだ」
「そう、ですか……」
虎杖はシェリーがどういう風に追及してくるだろうかと思っていたが、意外なことに彼女はそれ以上何も聞いてこなかった。
代わりにシェリーは顎に手をやったまま何か考え込み始める。虎杖は、そんな彼女の態度を友人を心配しているがゆえのものだと判断した。
そうして二人で部屋の前に立っていること数分、ギーという音を立て、内側から部屋の扉が開かれる。
「──お前らまだいたのか」
「ショーコ先生! ノアさんの具合はどうでしたか?」
「んー今すぐヤバいって状態じゃないよ。原因も分かったんだけど──」
家入はシェリーに目線を送る。
一年生の前で話していいものか、と虎杖へ問うような視線だった。
「虎杖、例の件、橘には?」
「今さっき伝えました」
「ならちょうどいい。入りな。今の状態について話そう」
「……はい」
いつになく神妙な面持ちで、シェリーが頷く。
先ほどまで顎に手を当てて考え込んでいた彼女の頭の中では、すでにいくつかの仮説が組み上がりつつあるようだった。虎杖はそんな後輩の横顔を一瞥し、家入に続いて部屋へと足を踏み入れる。
◆
シェリー達が部屋に入ると、ノアは既に眠っていた。
容態は安定したのか、先ほどに比べ彼女の顔色はずいぶんと良くなっており、シェリーがここ2週間ほど見ていたふわふわとした寝顔を惜しげもなく披露している。しかし近くに浮かぶ液体の類は未だに健在で、その術式効果が有効なままなのは見て取れた。
「結論から言うと、城ケ崎ノアの体内からは黒部ホノカの中にあったものと同型の呪物が見つかった」
家入の言葉に、室内の空気がピリつく。
虎杖が無意識に拳を握りしめる一方、シェリーは眠るノアの顔をじっと見つめていた。彼女も黒部ホノカの一件で呪物の恐ろしさは理解していたが、こうして横になっているノアの姿は一見いつも通りにしか見えない。
「彼女の体調不良は風邪ではなく呪物によるものだ。肉体が増幅された呪力に適応しきれず、器にガタが来てるって感じだね」
「今は安定していますよね。波があるということですか?」
「いや、私の反転術式で増えすぎた城ケ崎ノアの呪力を相殺した。呪力は負のエネルギーだからね。正のエネルギーをぶつければ足し算で対応できる」
「なるほど~! 便利ですね~反転術式!」
「そんなもんじゃないよ。相応に消費も重いしね」
そう言って家入は肩を回した。
その目元には薄く疲労の色が滲んでいる。もっとも、彼女が不健康な表情をしているのはいつものことなのだが。
「だがその重さが問題だ。正直に言うと、呪物の増幅量と私の呪力回復速度では前者の方が数段速い。あくまで反転術式は対症療法にしかならないだろうね。原因の根本──呪物を摘出しないと、近いうちに限界が来る」
「……いつ、埋め込まれたんでしょうか」
シェリーの問いに、家入は首を横に振る。
「呪物の周りの組織がかなり癒着している。昨日今日の話じゃないだろうね」
「それはそうでしょう。ノアさんはこの2週間ほどずっと私たちと一緒に過ごしていました。その間呪詛師が介入する余地はないはずですから」
「ってことは橘たちと会う前にはもう埋め込まれてたってことだよな?」
「むむ? でもそれっておかしくないですか? ナノカさんのお姉さんの事件で、呪物を埋め込まれた場合暴走はかなり早い段階で発生するのが分かってましたよね? 高専に来る前から埋め込まれていたなら、ノアさんはとっくに暴走していないとおかしいです。どちらにしても矛盾してしまいますよ?」
「……推測に過ぎないんだが」
家入はそう前置きして、ベッドの脇をふよふよと漂う水の塊へ視線を向けた。
「この呪物の効果はあくまで呪力の増幅だ。暴走するのは行き場のない呪力を体に溜め続けてしまうことによる副次的作用に過ぎない。つまり、大量の呪力を消費し続ければ害はないんだ」
「どういうことでしょうか?」
「彼女は大量の式神を生み出していると聞いたけど、本来それを行うには莫大な呪力が必要なはずだ。その出所は、この呪物だったんじゃないか?」
「つまり、ノアさんが体調を崩したのは、式神を倒した私のせいってことですかね?」
「あくまで可能性の話だけどね」
家入は断言をしなかったが、シェリーは彼女の言葉に納得を得ていた。
式神は術者の呪力を用いて行動する。
これらはまるでコンセントにつないだ電化製品のように、術者の呪力が尽きれば機能を喪失するのが通常である。ノアが作り出した式神は術者から遠く離れた場所でも数日間行動し続けている上、2級呪霊相当の呪力を内包しており、それを維持するには本来膨大な呪力を必要とする。仮にこれが呪物によるものだとすれば辻褄が合う。
「橘だけじゃねえよ。俺だってやってる」
「いえ、気にしているとかではないです。責任は感じていますが、当時持っていた情報では推測できませんでしたし」
「あ、そう……」
予想外にさっぱりとした返答に、虎杖は拍子抜けしたように頭をかく。
もっともそう答えている間も、シェリーの視線は眠るノアから離れておらず、全く気にしていないということもないのだが。
「大事なのは今後のことです。ノアさんは助かるのでしょうか? ガス抜きのために式神を暴れさせるわけにもいかないですよね」
「呪物の摘出をすれば問題ないよ。虎杖がいるから引きはがしもできるだろうし」
「天使が帰ってこれるならそっちのがいいっすよ。御厨子での分離結構負担かかりますし」
「天使さん、ですか?」
「来栖華。高専と協力関係にある、術式を消す術式を持ってる術師のことだよ」
シェリーの疑問に家入が答える。
来栖華はいわゆる受肉型泳者の一人である。
死滅回遊以降、受肉型の術師は基本的に呪物の引きはがし──端的に言えば元の人格に戻す処置が行われているのだが、彼女はその中でも例外的な対応をとられているうちの一人である。これは彼女の状態が半受肉状態、肉体の主導権は来栖が持っており、彼女に受肉した術師である『天使』は、あくまで彼女の許可を得て肉体を借り受けているという状態で留めているためである。そんな彼女は現在、虎杖達と共に受肉型術師の掃討や変死事件の対処を行っており、死滅回遊から半年以上が過ぎた現在では立派な高専の一員となっているのだが、役割が違いすぎることからシェリーとはまだ面識がないままであった。
「永遠にとはいかないが、私がいれば症状は抑えられる。明日になれば来栖も戻ってくるわけだし、わざわざ城ケ崎ノアの体に負担をかける必要はない、か」
「じゃあとりあえず引きはがしは明日ってことで──」
「まって」
ベッドの方から鋭い声が響き、三人はとっさに視線をそちらへ向ける。
言うまでもなく、声の主はノアである。熱はすでに引いていたものの体力は消耗しており、声色に対してその雰囲気にはあまり覇気がない。しかし三人が感じたそんな印象は、彼女の深刻そうな表情を見て霧散する。
「……治したら、のあ、絵描けなくなる?」
「術式がなくなるわけじゃないですし、大丈夫なのでは?」
「いや……」
家入はわずかに言葉を選ぶように間を置く。
気休めを言ったところで意味はない。そう判断したのか、彼女は淡々と続ける。
「まだ本人の感覚以上の話ではないが、黒部ホノカからの報告では、事件の前と後では術式の出力に差が発生しているらしい。おそらく呪物の暴走か引きはがす際の衝撃で肉体の術式を司る部分が損傷したのが原因だと思うが……」
「呪物を取り出すと術式の精度が低下するということでしょうか」
「それだけならまだいいが、彼女の場合、呪物と癒着していた期間が長い。最悪の場合、術式が行使できなくなることも考えられる」
「ひっ……」
術式が使えなくなる、という家入の言葉を聞いたノアは、顔を蒼白にしタオルケットを握りしめた。
「……やだ」
「ノアさん……?」
「やだ! だったら治らなくていい! 治さなくていい!」
マイペースな間延びした口調は鳴りを潜め、怖がる子供のようにうずくまる少女。
家入は表情を変えずに告げる。
「はっきり言おうか。このまま放置したら死ぬよ」
「……描けなくなったら、死んでるのと一緒」
少女の放つ小さな声には、冗談や駄々とは違う重さがあった。
呪術で作品を生み出し、世界的なアーティストとして活躍してきた彼女にとって、術式を失うかもしれないというリスクは計り知れないものだろう。彼女の気持ちをそう解釈した虎杖は、ベッドの前にしゃがみ込み、ノアと視線の高さを合わせる。
「城ケ崎」
「……」
「城ケ崎にとって絵が大事なのは分かる。けど、ここにいるみんなは多分、俺も含めてそういうのが無くてもお前に生きててほしいと思ってる。だからどうしろってわけじゃないけど……」
ノアは答えない。
代わりにタオルケットを頭まで引き寄せ、壁の方へと背を向ける。彼女のその態度は、虎杖には周りのすべてを拒絶しているように感じ取れた。次いで彼はノアの横についていたシェリーへと目線を向ける。彼女もまた何かを言いたげではありつつも、口は開かず、ただノアへ寄り添うだけにとどめている。
「……本人の意思は聞いた。その上で医者として、術師として言わせてもらう。天使が戻り次第、処置は実行する。……君には酷だが、それまでに気持ちの整理をつけておいて欲しい」
医療従事者の厳しい言葉に対して、ノアはついに反応を返さなくなってしまった。
家入は短く息を吐くと、立ち上がって大きく伸びをする。
「……私は少し休ませてもらうよ。反転術式ってのは疲れるんだ。代わりに誰か様子を見ててくれると助かるんだが」
「……! お任せください! 毎朝ノアさんを起こしてるのは私ですからね!」
シェリーのその態度を見て家入は薄く笑みを浮かべる。
その表情から、家入がわざと自分をここに残したのであろうことをシェリーは察した。無論、それは家入なりの気遣いである。閉じこもった少女に必要なのは自分ではないということを、家入も理解していたからだ。なにか考えているであろう後輩へ、虎杖はそっと声をかける。
「……橘。なんかあったらすぐ呼べよ」
「──はい!」
いつも通りの元気な返事に、虎杖は少しだけ安心したような表情を浮かべた。
◆
朝から降り続いていた雨はその後も勢いが落ちることはなく、夕方になっても窓を叩き続けていた。
すでに梅雨は過ぎていたものの、関東は記録的な長雨に悩まされており、長くなったはずの日も曇り空に覆われて確認することができなくなっている。そんな曇天の中にもかかわらず、高専の一室からは活発な声が響き渡っていた。
「こら~! 戻ってください~!」
部屋の中を水でできた小さな蜂型の式神が羽ばたく。
言うまでもなく、ノアの術式によって作り出された式神である。右へ左へ逃げ回るそれを追い回すシェリーだったが、あまり本気で追いかけると床が抜けてしまう可能性もあり、追跡には細心の注意を払って臨んでいた。とはいえ彼女もこれまでの生活で力の制御は上達しており、事実、式神はものの数十秒で捕らえられ、コップの中に押し込まれたそれはすぐさま近くの水と合体して大きな水の塊へと戻っていく。
「確保です! この名探偵から逃げ切れる犯人はいませんよ!」
「……ふふ。シェリーちゃん、元気だね~」
タオルケットから顔だけを出したノアが、そんなことを言う。
家入達が去って以降、二人はずっとこの調子だった。反転術式が効いているのかノアの顔色は悪くない。ただ、術式を失う可能性があることを聞かされたからか、治療についての話には一度も触れようとしなかった。
「そういえばノアさん、あの『見たら死ぬ絵』なんですけど」
コップを机に置きながら、シェリーは何でもないように切り出す。
タオルケットを被ったノアの肩が、小さく跳ねるのが見て取れる。
「あれ、嘘ですよね?」
「……な、なんで、そう思うの?」
「本当にそうなら、描いてるノアさんに影響がないのはおかしいな~と思いまして。術師本人に影響はない可能性もあるので確信はなかったんですが、ノアさんの反応見る限り正解みたいですね!」
シェリーは得意げに推理を披露する。
ノアは何も言わず、じっとシェリーの顔を見つめる。それが自身を値踏みする表情だと気づいたシェリーは、慌てて顔の前でぶんぶんと手を振る。
「あ、見られたくないものなんだなって思っただけですよ!? だからなにも見てませんし、これ以上詮索する気もないですよ!」
「……嘘じゃないね。シェリーちゃんって、ほんとに探偵なんだ」
「そうですよ! えっへん!」
胸を張るシェリーの姿を見て、ノアはタオルケットを引き上げ、口元を隠す。
かろうじて見える目元から、シェリーは彼女が笑っていると判断した。
それからしばらくの間、二人はとりとめのない会話を続ける。
シェリーが伝えたのは主に高専に来てからのことである。虎杖と任務に行ったこと、怪我をしたとき家入に助けてもらったこと、ナノカやミリアと共に任務に臨んだことなど、ノアが彼らを遠ざけてしまわないように、丁寧にそれを伝えていった。逆にノアの方はこれまで行ってきたいろいろな場所のこと、他のアーティストとの関係のこと、日本に帰ってきてからのことなどを話す。
「日本に帰ってきたときね、お化けに襲われて怪我しちゃったんだ~」
「ええ!? お化けって呪霊ですよね? 大丈夫だったんですか?」
「通りがかった子が治してくれたの。さっきのお姉さんみたいに」
ひとしきり話し終えた頃、唐突にノアが口ごもる。
シェリーは彼女が次に話す内容を待っていたが、やがてタオルケットの中から、ぽつりと声が聞こえる。
「……シェリーちゃんは、治したほうがいいと思う?」
シェリーは少しだけ考える。
家入や虎杖らの考えは正しい。シェリーとて別に積極的に命を投げ出すべきと考えているわけではない。助かる方法があるならそれを取るのは当たり前のことである。
「普通に考えれば治すべきなんでしょうね」
それを聞いたノアの指にきゅっと力がこもる。
「……でも、ノアさんにとって絵を描くことって命と同じぐらい大切なことなんですよね? だとすると、治しても治さなくてもノアさんは死んでしまうわけです。いや~困りましたね~」
ノアからの返事はなかった。
窓の外へ一度だけ視線を向けた後、再びシェリーの方へ向き直る。
「……シェリーちゃんは探偵なんだよね? もしお仕事続けられなくなったらどうする?」
「私ですか?」
予想していなかった質問に、シェリーは首をかしげる。
そもそも彼女のことを探偵だと思っているのは本人だけなのだが、この場には二人しかいないので突っ込みを入れる者はいない。自認名探偵であるシェリーの回答は意外にも早くもたらされる。
「あんまり困らない気がします! 名探偵には憧れますけど、皆さんと一緒ならきっと毎日楽しいですし!」
「……そっか~。じゃあ、のあはどうすればいいのかな?」
「ふーむ難しい質問ですね。私はノアさんではないので、すぐには答えを出せません」
シェリーは天井を見上げ、うんうんと唸り始める。
やがて彼女はぱっと顔を上げた。
「……まだ推理中です! ちゃんと答えを出しておきますので、また明日話しましょう!」
シェリーの答えは保留となった。
その堂々とした立ち居振る舞いに、ノアはふっと笑みをこぼす。そして、ぽつりとこんな言葉を呟いた。
「シェリーちゃんは、強いね」
ノアの言葉の意味がうまく理解できず、シェリーは再び考え込む。
そうして考えを巡らせているうちに、ノアはもそもそとタオルケットの中へ潜り込んでいってしまった。
「……いっぱいお話したら疲れちゃった。おやすみ、シェリーちゃん」
「……はい! おやすみなさい、ノアさん!」
部屋の電気を消し、シェリーは静かに扉を閉める。
廊下の窓の向こうでは、雨がいっそう強くなっていた。
◆
翌朝。
昨晩から降り続いた雨は、いまだ止む気配を見せていない。高専も近代化を進んできているものの、もともとが木造ということもありところどころ明かりが届かない場所もある。いわゆる古い日本的な建物の中で暗い場所があるというのはこの年代の少女たちにとってはなかなか不安を感じさせるもののはずだが、生憎シェリーはそういったものへの機微に疎かった。
「おはようございます、ノアさん! 昨日の続きなんですけど──」
合い鍵で扉を開けながら、シェリーはいつも通り元気よく声をかける。
一晩考えても、結局答えは出なかった。それでも約束は約束である。まずは一緒に朝ごはんを食べながら、もう一度話を整理しよう。そう考えていた彼女だったが、その言葉は途中で途切れる。
「……ノアさん?」
昨日一緒に座っていたはずのベッドの上には誰もいない。
とっさにめくれたタオルケットへ手を当てるが、そこに人肌の温もりは残っていない。見ると室内にあったはずのノアの私物もその多くがなくなっている。絵を描くための道具類は基本的に美術室に運んでいるとはいえ、スケッチブックなどは残しておいたはずである。
顔を上げたシェリーの目が、窓の方を捉える。
ルーペを通さずとも、今の彼女にはそれがはっきりと見えていた。床からテラス、さらにその外。雨の降りしきる方角へ向かって、点々と続いていく呪力の痕跡。
──城ケ崎ノアの残穢は、彼女がここを出ていったことを雄弁に告げていた。