窓の外から、絶えず水の音が響いている。
それはもちろん本日の豪雨のものではあるが、同時に近くを流れる川が氾濫の兆しを見せているからでもあった。ニュースでは特別警報の発令が叫ばれているものの、あいにくこの部屋には通信機器の類はなく、テレビも置かれていなかった。
「ノアさん、寒くないですか? 体調は悪くないですか?」
「ん~、だいじょうぶ~」
毛布にくるまったノアのもとへ、メルルが湯気の立つマグカップを運んでくる。
氷上メルルと名乗る少女に連れられて、ノアは彼女の保有する建物の一つへ案内されていた。古い倉庫を改装したのであろうその場所の内部は決して綺麗とはいいがたいもので、奥の休憩スペース以外の場所には木箱や割れたパレットが放置されたままになっていた。古ぼけたソファにちょこんと座り、ノアはなにか思うところがあるようにここではないどこかを見つめる。
「あう……お口に合いませんでしたか……?」
「ううん。甘くて美味しいよ~」
そんな彼女の態度を不満と受け取ったのか、メルルが卑屈な態度をとる。
現れたタイミングも、案内された場所も、傍から見れば怪しすぎるものではあるのだが、彼女の言動に嘘がないことをノアは察していた。
彼女が落ち着いたのを確認して、メルルはゆっくりと口を開く。
「あの……ノアさんはどうしてあの場所にいたんですか?」
「ん~……雨宿り、かな~」
ノアはマグカップに視線を落としたまま、それだけを答える。
「外は大雨です。あんな場所に一人でいたら風邪をひいてしまいます……そうしたら、ノアさんの周りの人はとても悲しみますぅ……」
瞳を潤ませるメルルは、本当にノアのことを心配しているように見える。
自認として、ノアは自身が病気であると認識していた。そして、呪物により体に不具合が出ている状態は当たらずとも遠からずである。虎杖や家入、シェリーまでもノアのことを心配しており、彼ら彼女らの気持ちを思えばメルルの言うことは正しい。
「でものあね、もう病気なんだって。だけど、治すとのあ、絵描けなくなっちゃうの。シェリーちゃん達が心配してくれてるのはわかるけど、のあは絵が描けないのあがわかんないや」
「だから一人だったんですね……その、シェリーさん?達も、きっと探してますよ」
「そうだね~……そんな気がする」
ノアは術式で浮かせていた荷物をどさりとおろす。
彼女の流体を操る術式は、対象の物体を水で覆うことによって物を浮かせることが可能である。荷物を浮かせることでそれなりの重量物であろうと容易な運搬を可能とし、接触面は後程脱水。メルルは彼女に傘を差しだしていたが、その能力により彼女は豪雨の中でも一滴の水にすら触れず移動していた。
ノアは荷物の中から一つを取り出し、それを抱きかかえる。
「……そ、その、そちらの荷物は?」
「これは……のあの失敗作」
「そう……ですか……処分しましょうか?」
「いい。のあがなんとかする」
そうしてキャンバスを抱え直すノアを見て、メルルはどこか慈しむように遠い目を向ける。
「ノアさんにも大事なものがあるんですね……!」
「大事……なのかな。のあはこんなもの捨てたい……メルルちゃんも、絶対見ちゃだめ、だよ」
「も、もちろんです! 多分、絶対、見ませんよ!」
ふるふると首を横に振るメルルの挙動は不審だったが、ノアがそれを追及することはしない。
「私にも、とても大切なものがあるんです。……もう一度会いたい人がいるんです」
その目に少しだけ涙を浮かべ、メルルはそんな事をつぶやく。
そのまま彼女はゆっくりとノアの手を取る。
「お友達は、きっとノアさんを探しています……! ノアさんは皆さんと会うべきです……!」
「……そうだね~。それじゃあ、シェリーちゃんと、おはなし、して……」
──返答をしようとしたノアの視界がぼやける。
(あれ……?)
いつの間にか、目の前がふわふわと歪んでいる。
優し気なメルルの声は、まるでぬるま湯のように脳に浸透していき、ノアにはこの景色がどこか遠いもののように思えた。
「……お疲れのようでしたので」
机の隅に置かれた小瓶が、カランと音を鳴らす。
ソファに倒れたノアへ薄い毛布を掛けたメルルが、その額にそっと触れる。
「おやすみなさい、ノアさん」
◆
ミリアとシェリーへ連絡が入ったのは、二人が出発してすぐのことであった。
河川の近くに位置するさびれた住宅街。普段であればもっと人通りがあろう場所だが、増水による川の氾濫が危惧されていることから外を出歩く人間はほとんどいない。たまにすれ違うのは車高の高い車だけで、打ち付ける雨はかなりの騒音を伴ってきていた。
(雨、ずいぶん強くなってるな~……)
チラリと後方を伺う。
ミリアが視線を向けた先、二人の後方数百メートルの地点には虎杖をはじめとする高専の術師達が控えている。彼らはミリア達がサインを送れば急行してくれる手はずになっていた。
(ノアちゃんが危ない子みたいに言われてたから飛び出しちゃったけど……おじさん出しゃばりすぎちゃったかなぁ……)
ミリアは、ノアが他の高専生とも仲良くやれていると考えていた。
高専の人間として、彼女は最初にノアと出会った人間である。その後もことあるごとに行動を共にしており、彼女への思いは強い。メンバーの間に流れる不穏な空気は、彼女にとってトラウマを刺激されうるものであった。
(ううん。みんな不安になってるだけなんだ。ノアちゃんは二人で連れ戻さないと……!)
そんなことを思っていたミリアだが、ふと前を歩くシェリーの肩を見て足を止める。
「シェリーちゃん、肩びしょびしょだよ~!」
「あれ? 本当ですね! 全然気づきませんでした!」
からからと笑うシェリーに、ミリアは慌ててタオルをかける。
シェリーは現在傘とルーペの二刀流である。残穢を追うのに夢中になっていた結果、彼女は自分の肩をまるで守れておらず、制服の片側はすっかり色を変えてしまっていた。呪具の特性上、残穢を追うにあたりルーペを持ち続ける必要はないが、呪いが見えない彼女はいつも呪具を構えるのが癖づいており、現在もそれは続いている。
一通りもふもふとした後、ミリアがふうと一息つく。
「ノアちゃんも、びしょ濡れになってなければいいけど……」
「残穢は続いていますし、ノアさんは術式を使い続けています。ノアさんなら服もすぐ乾かせますし、びしょ濡れにはならないと思いますよ」
「そ、そういうことじゃないんだけどな~……」
「?」
首をかしげるシェリーに、ミリアは続く言葉を見つけられなかった。
濡れても平気な顔で笑うシェリーと、熱があるのに雨の中へ出ていったノア。二人とも、別のベクトルで自分のことを後回しにしている。友人として、それが心配だと言ってしまえれば簡単なのだが、口にすると自分の方が二人に踏み込みすぎてしまう気がして、どうにも気が引けた。
(おじさんが気にしすぎなのかなぁ……)
ミリアが口ごもっている間に、シェリーは再びルーペを構えて歩き出していた。
「それにしても、ノアさんって本当に絵が大事なんですね」
「どうして?」
「ノアさんが持っていったキャンバスに心当たりがあるんです。前に運ぶのを手伝おうとして断られたものだと思うんですよね~」
「へー、ノアちゃんにも見られたくないものがあったんだ……」
ミリアのそんなつぶやきに対して、シェリーはきょとんとした顔で振り返る。
「どうしてそう思ったんですか?」
「へ? なにがだい?」
「『見られたくないものがあったんだ』というところです! 私、『手伝いを断られた』としか言ってませんよね? 単純にノアさんが優しいからとか、私の手が塞がってたとか、理由はいろいろ考えられると思うんですが、なんでそう思ったんですか?」
「な、なんとなく……かな?」
「なんとなく、ですか~?」
好奇心でキラキラと輝く瞳で見つめられ、ミリアは思わず目を逸らした。
とはいえ、人の視線には人一倍敏感な方である。ゆえに、その目に悪意がなく、ただ純粋な興味だけが宿っていることも分かっていた。先ほど自分の方から踏み込んでしまった落ち度もあり、観念したミリアは傘の柄をぎゅっと握りしめる。
「……誰にも見られたくないものがあるって、変なことかな……? おじさんも、みんなに言えてないことや知られたくないこといっぱいあるから……ノアちゃんも同じなんじゃないかなって思ったんだ」
「……」
シェリーはしばらくミリアの顔を見つめていたが、やがてはっとしたように目を見開いた。
「すみません、ミリアさん!」
「えっ……」
「無理に聞き出すのは名探偵のやることではないですからね! 今のは忘れてくださーい!」
ぺこりと頭を下げるシェリーに、ミリアは慌てて手を振る。
「う、ううん! おじさんの方こそ、変なこと言っちゃって……」
「いえいえ! そもそもノアさんのことはノアさんに聞くのが一番ですから。この話はおしまいです!」
そう言ってにっこりと笑うと、シェリーは再び大股に前進を始める。
いつもの調子に戻った彼女の姿を見て、ミリアは小さく息をついた。
結果的にはシェリーに謝られてしまったが、勝手に言い当てたのは自分の方である。ノアが隠していたものを本人のいないところで口にしてしまったと思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
(あれ……)
そこでふと、ミリアは気づく。
シェリーは依然「手伝いを断られた」としか言っておらず、その理由についてのミリアの考察は肯定も否定もしていない。とはいえ彼女の反応は限りなく肯定に近いものではある。なぜそのような対応になったのか、考えられるとすれば──
(シェリーちゃん、もしかして知ってて黙ってたのかな……?)
ノアに見られたくないものがあることを。そして、それを共に彼女を探す仲間にすら言わずにいたことを。
隠したいものを面白半分に暴かれる怖さを、ミリアは知っている。
故に、知っていても口にしない目の前の少女が、ミリアにはとても眩しく思えた。同時に、ノアがその絵を置いていけなかった理由も察しがつく。見られたくないものこそ自分の手の届く範囲だけに置いておきたいと思うのは、少なくともミリアにとっては自然な考えだからだ。
(……一緒に行くのがシェリーちゃんでよかった)
二人の視界に映る残穢は、川沿いに並ぶ古い倉庫の一つへと続いていた。
警報が発令されている以上、二人はできる限り早くノアを連れて帰る必要がある。通りを数本抜けた先の川からは明らかに大きな水の音が聞こえてきており、ミリアはポケットのスマートフォンを握りしめた。
「ノアちゃん、大丈夫かな……。おじさん心配だよ。また熱出てないといいけど……」
「そうですね。今日はまだ私起こしに行ってないので、きっとまだ眠っていると思います」
倉庫には鍵がかかっておらず、半開きのままのシャッターが大口を開けている。
シェリーはミリアの心配をぬぐうように話しながら、横にあった勝手口の扉を開いた。
「ですから、早く私たちで起こしてあげましょう!」
「……そうだね!」
──薄暗い扉の向こう。倉庫の中は、外の雨音が嘘のように静まり返っていた。