見た目より壁が分厚いのか、倉庫の内部に雨の音は聞こえなかった。
シェリーはミリアをいつでも守れるよう、彼女の三歩前を歩んでいる。ルーペの先に見える景色には相変わらずノアの残穢が映っており、おそらく物を移動させるために術式を使ったのだろうとシェリーは推測していた。
「の、ノアちゃん、本当にこんなとこにいるのかな……?」
「残穢は続いていますし間違いないです! ノアさーん! どこですかー!」
切れかけてちらつく電球は薄暗い屋内を怪しく照らす。
足元には木片やら木箱が放置されており、本来は安全のため踏まないように気を付ける必要があるのだが、シェリーは特にそういったことは考えずずんずんと進んでいく。一方ミリアは屋内の雰囲気に少し怯えているように見えた。
「うぅ……これ不法侵入だよね……? おじさんちょっと別の意味で不安だよ」
「言われてみると、これ任務でもないですしね。まあでも別にいいんじゃないですか? ほとんど廃墟みたいなものですし!」
「それで済んだら法律がいらなくなっちゃうよ……」
ミリアのもっともな指摘を聞き流しつつ、シェリーはルーペの先の残穢を追って倉庫の奥へと進んでいく。床から少し浮いた高さで続いていたそれは、突き当たりの扉の前でふっと途切れていた。
奥の休憩スペースにたどり着いたのはそれからすぐのことである。
一呼吸を置き扉を開けると、部屋の内部にはある程度整理された生活空間が広がっていた。小さなキッチンに棚、ブラウン管のテレビ。加えてその正面に配置されたソファには人影が見て取れる。寝息を立てるその少女は、シェリーたちが探していた存在、城ケ崎ノアその人であった。
「ノアさん! 起きてくださ──」
シェリーはその言葉を飲み込む。
ノアはソファに横になって眠っていた。彼女の容態は安定しているように見え、実際近づいて額に触れてみても熱はない。自身の感覚が正しかったことがわかり、シェリーは小さく息を吐いた。
「すぅ……すぅ……」
「……無事でよかったです」
「し、シェリーちゃん……ノアちゃん大丈夫そう……?」
「はい、今はただ眠っているだけのようですね」
「よかった……心配したんだよ~……」
「いや~ほんとですね! ですがそれよりも──」
シェリーはルーペを構え直し、休憩スペースを見回す。
机の上におかれたマグカップ。ノアにかけられた毛布。そのまま彼女は机の隅に置かれている小瓶を手に取った。瓶は一見空のように見えたが、よく見れば内側に少量の粉末が付着していた。シェリーはそれをためらいなく舐める。
「シェリーちゃん!? 危ないよそんな得体のしれないもの!?」
「大丈夫です。多分、毒じゃないので」
「ど、どういうこと……?」
いいながらシェリーは持参していた水を口に含み、ハンカチに吐き出す。
「テーブルに置いてありましたし、特別危険なものではないと思いまして。マグカップを見る限りノアさんはココアを飲んでいたようでしたし、おそらくは砂糖だと推理しました!」
「そっか……! じゃあ体に害は無いってことだね」
「いえ、この粉甘みがありません。ラベルが付いてないので断定はできませんが……ノアさんの状況からしておそらく睡眠薬だと思います」
「だ、大丈夫なの!?」
「すぐに吐いたので全然問題ありません!」
ミリアの反応に対し、シェリーはぐっと親指を立てた。
が、直後にその顔つきは真剣なものになる。ノアが去った後、高専内では彼女を探すために様々な場所を見てまわったが、その際、ほかに無くなったものが無いかも同時に確認していた。そして、高専の薬品庫からものが持ち出された痕跡はないという情報は家入から得ている。悪用を防止するため、なにか問題が起こった際学校は危険物の在庫を確認するルールがあるのだが、そうしてもたらされた情報をふまえ、シェリーの中に一つの仮説が浮かんでいた。
「……一人じゃない」
「え?」
「脱走したばかりのノアさんが薬品を持っていたり、落ち着いてココアを飲んでいるのってちょっと不自然ですよね? 誰か第三者がいたんじゃないでしょうか?」
言われてみれば、ノアにかけられた毛布も、雨の中を逃げてきた彼女がわざわざ抱えてきたとは思えない代物である。それに気づいたミリアの顔から、さっと血の気が引いていった。
「じゃあその知らない誰かがノアちゃんを眠らせたってこと……? なんのために?」
「ふ~むそこはまだ推理中です。ノアさんは可愛いので、犯人も衝動的に攫いたくなっちゃったのかもしれませんね」
「少女誘拐なんて犯罪だよ……というかだとしたらたぶん、まだ近くにいるよね……?」
「その可能性は高いでしょうね。なんにせよ、まずはノアさんを見つけた報告をしましょう!ユージさんたちに通知を──」
──シェリーがミリアへと振り返ろうとした、その時だった。
視界の端、扉についた窓の外を何かが横切る。ミリアも目撃したのか、彼女は小さく悲鳴を上げた。
「何っ!?」
「住人の方かもしれません! 追いかけますね!」
「えっ、シェリーちゃん!? 一人で行くのかい!?」
「私は大丈夫です! ミリアさんはユージさんたちへの連絡と、ノアさんをお願いします!」
ばんっと扉を開け放ったシェリーは、そのまま部屋の外へと飛び出していく。
ミリアはその様子を見て一瞬唖然としていたが、すぐさま気を取り直すと頼れる先輩たちへメッセージを送るのだった。
◆
倉庫の中は積み上げられた箱や棚によって視界が悪い。
長らく使われていなかったことから倉庫の中には埃が積もっており、シェリーが走るたびに宙へ舞い上がっていた。鼻を刺激されたシェリーはくしゅんっと小さくくしゃみをする。埃を払いながら彼女はぐるりと周囲を見まわす。
「……見失っちゃいました」
ルーペを構え直すものの、廊下に残穢は残っていない。
それが無い以上、呪いに関わるものである可能性は低い。普通の呪術師であればその時点で追跡をやめるのだが、あいにく呪術を扱えないシェリーにはそういった感覚はない。彼女は虫眼鏡を足元へと向ける。
「足跡っぽいものがありますね~?」
本来の使い方をされた虫眼鏡の向こうに、堆積した埃や木くずが見えた。
一見するとそれらは不規則に散らばっている状態であったが、拡大してみるとその中に古い足跡と新しいものが混在していることがわかる。
(もし影の正体がノアさんをさらった悪い人だとすれば、私たちが部屋にいるのを見て引いた……? いえ、一般人でも知らない人間が家にいたらびっくりして逃げちゃいますね)
ミリアの前では断言したものの、件の粉が睡眠薬であるという確証もない。
家ではなく人気のない倉庫であることから可能性は低いが、仮にその人物が善意でノアを連れてきただけの場合、ミリアの言うように自分たちは不法侵入者であり、家主からすればこの上なく怪しい存在に映るだろう。
新しい足跡を追っていくと、それは通路の突き当たりにある一枚の扉の前で途切れていた。
事務所として使われていたのだろうか。磨りガラスの嵌まった扉は半開きになっており、その隙間からは何の光も漏れてこない。シェリーは念のため扉の脇に身を寄せて耳を澄ませたが、中から物音は聞こえなかった。
「すみませーん! 私たちはノアさんのお友達です! 怪しいものではありませーん!」
響きわたる大声。
閉所にて反響したそれはすぐに周囲の壁に吸い込まれて消えていく。数秒の間反応を待っていたシェリーだったが、返答はない。やがて彼女は口を尖らせて不満をあらわにする。
「返事無いので入らせてもらいますね! 失礼しまーす!」
一応の礼儀として小声で断りを入れ、シェリーは扉を押し開ける。
部屋の中は真っ暗だった。ちらつく電球の明かりもここまでは届かず、目を凝らしても家具の輪郭がかろうじて分かる程度である。壁際を手で探ると、指先に古いスイッチの感触があった。
「む、暗いですね。パチッと!」
軽い音とともに、天井の蛍光灯が何度か瞬いてから白く灯る。
埃をかぶった事務机と、脚の折れたパイプ椅子。壁に掛けられたままの色あせたカレンダー。人の姿はどこにもない。
ただ一つ、正面の机に立てかけられた場違いなそれが、シェリーの目を釘付けにする。
「これは……?」
なぜなら、彼女はそれに見覚えがあったから──
◆
「……!」
「あ! ノアちゃん!」
ノアの視界に、見覚えのない天井が映る。
剥き出しの梁と、薄汚れたトタン。背中には古いソファのばねの感触があり、体には薄い毛布が掛けられている。身を起こそうとすると頭の奥に重たいものが沈んでいて、景色がわずかに遅れてついてきた。ソファの脇から、スマートフォンを握りしめたミリアが身を乗り出してくる。彼女の姿を見て、ノアはようやく自分の置かれている状況を理解した。
「よかった、気が付いたんだね……心配したんだよ……!」
「ミリアちゃん……?」
「そうだよ! 迎えに来たよ、シェリーちゃんと一緒に!」
「シェリーちゃんも来てるんだ……? 嬉しいなぁ~」
一息をつくミリアの様子を見て、ノアも内心少し安堵する。
直後、何か大事なことを忘れているような、落ち着かなさを覚える。
「あ」
少しして、彼女は違和感の原因を理解する。
その正体は、自身が所持していたはずの絵である。黒塗りにされていたあの絵は元々高専の人間に見られないように持ち出したもので、眠りにつくまで肌身離さず持っていた。体を起こしてソファやテーブルの下を確認するノアだったが、探しても見つからない。彼女の動きに不穏なものを感じとったミリアは、徐々に深刻な顔になっていくノアの袖をぴっと引く。
「ノ、ノアちゃん? どうしたの? まだ寝てなきゃだめだよ……」
「ミリアちゃん、メルルちゃんとシェリーちゃんは?」
「める……? その子は分からないけど、シェリーちゃんなら、ついさっき影を追いかけて奥に──」
ミリアが言い終わるより先に、ノアは毛布を跳ねのけた。
開け放たれたままの扉の向こうには、薄暗い通路が口を開けている。彼女はその先へ迷わず駆け出した。
「ノアちゃん!? 待ってってうわひゃっ!?」
「ごめんね、ミリアちゃん」
ノアが走り出すと、ミリアはすぐに彼女を引き戻そうと立ち上がった。
しかし、結果的にその目論見は失敗する。ノアが発動した術式により、足を取られたミリアが転倒した為である。ノアは休憩室に設置されていた水道から水を噴出させ、操ることでミリアの足止めを行うことに成功していた。
「待って! ノアちゃん!」
背後から響く叫びを無視しながら、ノアは導かれるように廊下を駆ける。
ノアは自身の描いた絵の位置がなんとなくわかっていた。これは彼女の絵が例外なく術式を使用して描かれるためであるが、それ以上に本人の強い思いが呪力の性質に表れているというのが大きい。
「はぁ……! はぁ……!」
通路の突き当たりに、一つだけ明かりのついた部屋があった。
半開きの扉の隙間から漏れ出した光は、埃まみれの床を小さく切り取っている。動悸が激しくなるのを実感しながら、ノアは扉を押した。
「シェリーちゃん!!」
「ノアさん?」
そこには見慣れた後ろ姿が立っていた。
ドーナツのように結んだ青髪。探偵らしいからと着用しているベレー帽。右手に握られたルーペはある意味彼女のトレードマークだ。琥珀色の瞳をノアに向け直した彼女は心底嬉しそうに笑うと、そのままノアへと駆け寄る。しかし、当のノアの視線はシェリーの背後に置かれた一枚のキャンバスに向けられていた──
◆
「目が覚めたんですね! よかったです! いや~ミリアさんの手前落ち着いた姿を見せないと、と思っていたんですが、ノアさんが眠っているのを見た時はシェリーちゃんも正直焦りましたね~! お体に異常などは──」
「その絵っ!」
「え?」
ノアの声が予想よりも大きかったため、気圧されたシェリーは言葉に詰まる。
彼女の視線はシェリーの背後、そこに置かれた一枚のキャンバスに向けられていた。古ぼけた倉庫の中で、それだけが異様に真新しく見える。表面には一つの絵が描かれていたが──
「……見たの?」
──橘シェリーは気遣いの子である。
倫理的に危うい側面はあるにせよ、客観的に見て彼女の行動はその多くが他人への善意に基づいている。これは人の気持ちがよくわからない分、彼女が人一倍他人のことをよく考えるようにしているためである。幼少期の事件以来、彼女は他人を不快にさせないよう常に周りに注意を払って生きてきた。
ノアの声は、ひどく静かで、そして何かに怯えているようにシェリーには聞こえた。
「ええっと……」
以前、ノアに同じ質問を投げかけられた時のことを思い出す。
その時シェリーは「見ていない」と答えており、実際にその絵が視界に入ったわけでもなかった。しかし、今は現実として絵を見た後である。
故に、彼女は何もできなかった。
蛍光灯がジジっと小さく鳴る。壁の向こうで濁流が低く唸る。
そして、シェリーの唇がもう一度動きかけ、しかし何の音も紡がないまま閉じられるのをノアは見てしまった。
「……そっか」
──ノアの中で、何かが爆ぜるのと、濁流に壁が打ち壊されるのは同時だった。