「あ、ガクチョーさん、お疲れ様でした……!」
「やれやれ……まったく、本当に鳥使いが荒い主人ですよ」
「怪我はないですか? 治すとこありませんか?」
倉庫にて二人の少女が激突するのと同時刻。
街を一望できる丘の上。雨の中に紛れた大きな羽音を聞き分け、白い傘を差した少女が振り返る。それは無論手下であるフクロウの帰還を迎えるためである。一仕事終えたガクチョーの羽毛は雨を吸ってどっしりと湿っており、その表情もどこか不満気であった。
「よかったんですか? 城ケ崎ノアを置いてきて」
「一級術師を何人も相手にするのは難しいですから……」
少女──氷上メルルは既に倉庫にはいなかった。
ノアに睡眠薬を飲ませた数分後、ガクチョーからの知らせにより高専術師の接近を知った彼女はいち早くその場を脱していたためである。一年生二人相手に後れを取ることはないが、彼女たちの後ろには特級に近い実力を持つ二年が複数人控えている。呪いの王、両面宿儺にすら勝利した傑物たちを相手にするのは分が悪いと彼女は判断していた。
「それに目的は果たせました。ですから、今回はもういいです……」
「あ~あ~もったいないですねぇ。バルーンさんの絵は国内外で高く評価されているというのに」
「そうだったんですか…? 私は結局見ていませんでしたから……」
「おや、黒塗りはメルル様が治したのでは?」
「絵は見ないという約束でしたから」
にこやかにメルルは答えるが、実際のところ、単に口実にしただけだろうとガクチョーは思った。
メルルの齎す優しさは本物である。ノアを招いたのも介抱したのも、すべて本心からの行いであろう。しかし、その上で彼女は優先順位を違えない。現にノアの身を案じながらも、その少女を怪物とすることには何のためらいも見せなかった。交わした約束というのも数日もたてば忘れていただろう。ガクチョーは嘴から大きなため息をつく。
「……あの、ガクチョーさん。帰ってきたばかりで申し訳ないんですが、もう一つだけお願いしてもいいですか?」
「嫌な予感しかしませんが……一応お聞きしましょう」
「高専の皆さんを、少しだけ足止めしてほしいんです。せっかくノアさんが頑張っているので、邪魔が入らないようにしてあげたくて……」
困ったように眉を下げながら、メルルはそう告げる。
こんな表情をしているが、中間管理職たる彼に拒否権などない。そもそも彼女が支援をしているのもノアが暴れてくれた方が都合がいいからという面も大きいだろう。
「相手は両面宿儺に勝った連中ですよ? 焼き鳥にされたらどうしてくれるんです」
「ほんの少しで大丈夫です……! 怪我をしたら、ちゃんと治しますから!」
「そういう問題ではないんですがねぇ……仕方ありませんね」
ガクチョーの抗議を、メルルは笑顔で受け流すばかりである。
フクロウはもう一度大きなため息をつくと、湿った翼を重たげに広げた。雨の中へ飛び立っていくその影は、すぐに灰色の空へ溶けて見えなくなる。
メルルの視線の先、増水し濁った川の水面がまるで何かに呼ばれたかのように大きく盛り上がる。
持ち上がった水はそのまま巨大な生き物のようにうねり、倉庫の壁へと叩きつけられた。壁がひしゃげ、崩れた穴の中へ濁流がなだれ込んでいく。丘の上まで届く地響きを感じながら、メルルはそっと目を細めた。
◆
シェリーは呪力を感じる能力が極端に低い。
これは彼女が一般人並みの呪力しかないフィジカルギフテッドだからであるが、反面、一般人が呪力を全く知覚できないかと言われればそれは違う。いわゆる虫の知らせや悪寒のようなものは、危機的状況に瀕した人間ならば誰しも感じることのある呪いへの防衛反応でもある。
シェリーもまた例外ではない。
数瞬前とは比べ物にならないほど上昇したノアのプレッシャーは、彼女に異常を感じさせるには十分なものであった。
「ノアさ──」
──シェリーが少女へ声をかけたその瞬間、倉庫の壁が轟音とともに破壊される。
彼女は咄嗟に跳躍し、天井の鉄骨を強く掴んだ。全体重を片手で支えることは、彼女にとっては造作もないことである。ちゅうぶらりんになりながら下を見ると、壁の穴から押し寄せた大量の水が床を呑み込んでいくところだった。
(ノアさんの流体操術……しかしこれは……)
その水量は、付近に降る雨の量を優に超えている。
ノアが高専に来てからの二週間ほど、シェリーは伏黒に言われた通り彼女の術式を検証してきた。その結果、術式の射程事体はそれほど広くないことが判明している。その範囲はおおむね半径数メートル、部屋一つ分程度の広さである。例外として、式神として実体化している場合その制約は適用されないが、これはノアの制御から外れることが結果的に縛りとして成立するためである。
この水は当然、倉庫の外にあったものを操ったもの。
それはノアの術式の有効範囲が、シェリーの知るものより大きく広がっていることを意味する。流入する濁流は部屋の中を埋め尽くそうとしていた。ある一か所を除いて。
「うわあああぁぁん!!」
庫内の入り口に立っていたノア。
その周囲にはまるでノアを避けるように円形の空間が広がっており、部屋の中で唯一の足場となっていた。
しかし、それ以上にシェリーの目を引いたのはノアの姿である。
さらさらとした銀色の髪も黒くすすけて汚れ、映すものすべてが輝いていた二色の瞳は黒く濁っている。目からは絵具のようにどろりとした虹色の涙を流しており、彼女はそれに見合う大声をあげて泣き喚いていた。
「なんでぇ! なんでぇ!!」
「ノアさん!? どうしたんですか!?」
彼女の異常を見てノアの近くへと飛び下りたシェリー。
この変化には明らかに直前の質問が関わっている。彼女の真意を確かめるため、着地と同時にノアの元へ駆け寄ろうとしたシェリーだったが──
ヒュッ
「ッ!?」
耳元を横切った風切り音。
何かが肌をかすめた感触に、シェリーは自分の頬へと手をやった。その手には赤い血液がしっかりと付着している。
ゆっくり視線を正面の壁へ向けるシェリー。
そこには小さな穴のようなものが開いている。一拍の後、穴から透明な液が漏れ出したのを見て、シェリーは自身を傷つけたのが圧縮された水の弾丸であることを理解した。
目の前にへたり込んだノアが顔を上げる。
彼女の虚ろな瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。
「……さなきゃ」
「ノアさん……?」
幽鬼のように立ち上がったノア。
静かにつぶやいた彼女の言葉が信じられず、シェリーは思わずそれを聞き返してしまう。
「シェリーちゃんを殺さなきゃッ!!」
──膨れ上がった殺気は、シェリーに回避を選択させるのに十分だった。
左右から挟み込むように発射された水の弾丸を再度跳躍して回避。
ばッと視線を落とすと、水面には渦のような文様が発生していた。その中心から発射された高圧水流は正確にシェリーの胴体をとらえていたが、彼女はそれを腕に装着した呪具で弾く。狙いが逸れた水流は天井に激突、そのままレーザーのように外まで貫通した。
「ノアさん! やめてください! 周りの人が困っちゃいますよ!」
「やだぁ!!」
シェリーの言葉が聞こえていないのか、あるいは何か違う景色が見えているのか、ノアは攻撃の手をやめない。
水面に先ほどの渦が更に複数現れたのを見て、シェリーはイチかバチか鉄骨から手を離す。これまでと同じ正確な照準で、レーザーは彼女がいた場所へ殺到した。シェリーはそれを横目に見ながら水面から顔を出す木箱へ着地。生まれた隙を見逃さず、ノアの元へ一直線に跳躍する。
今のノアは正気を失っているうえ、はっきりとシェリーを狙っている。
いずれにせよ、このまま連れ帰るのは不可能だ。シェリーは彼女を一時的に行動不能まで追い詰めることを選択した。
「すみませんが気絶してもらいますよ!」
呪具を付けていない左手で、ノアを攻撃しようとした、その時だった。
バシッ!
「うっ!?」
飛び上がったタイミング、横合いから受けた衝撃により、シェリーは壁に叩きつけられた。
ノアのテリトリーである水中へ落ちないため、とっさに壁の柱を掴んだシェリーだったが、背中を強打した拍子に肺から空気が押し出される。顔を歪ませながら打撃の来た方向へと向き直ると、そこには濁った水で象られたシャチが宙を泳いでいた。
「キー!」
「式神、ですか……」
柱に張り付いたまま、シェリーはシャチを見上げる。
木くずや泥が体を巡っているさまはまるで内臓のようで、以前見た透明な式神たちに比べどこかグロテスクな印象をシェリーは受けた。
「キィアー!」
甲高い鳴き声とともに、シャチが再び突っ込んでくる。
シェリーはそれを体の軸をそらすことで回避。背後で壁板が派手な音を立てて砕け散る。壁にめり込んだ式神に拳を叩き込むと、シャチの頭部は水風船のように簡単に弾け飛んだ。しかし飛び散った水は宙で寄り集まり、数秒と経たずに元の形を取り戻してしまう。
(水族館のクジラと同じ……殴っても埒が明きません!)
◆
『式神が出てきたら絶対に無理しないで、すぐ俺たちを呼ぶこと』
◆
シェリーの脳裏に、虎杖から言われた言葉がよぎる。
ミリアに頼んで救援は呼んである。虎杖達は倉庫からすぐのところで待機しており、建物内であることを踏まえても到着までは一分もかからない。冷静に考えれば彼女が一人で戦闘する必要性はなかった。
(はて……なんで私は一人で戦おうとしてたんでしょうか?)
「ノアちゃん待って!! なんかそっちからすごい音がっ!!」
自問の答えに行きつく前に、シェリーの思考は現実へ引き戻される。
届いたのはミリアの声だ。入口に当たる部分の扉が開かれ、シェリーは彼女と目が合う。付近にはノアがおり、水の影響がない。ミリアの目には、円形に区切られた空間越しのシェリーの姿が、まるで水槽の中にいるように映っただろう。
「シェリーちゃん!? ノアちゃんも! どういう状況なの!?」
「う~~~!!」
「ミリアさん!! 撤退しますよ~!!」
「え? ちょ!? 待ってぇ!?」
が、二体に増えた式神が狙ってきていることから、彼女に対して説明をする暇は無い。
シェリーはミリアの隣へ着地すると、流れるように彼女を肩に担ぎ上げる。一瞬のことであったため反応する間もなく持ち上げられたミリアだったが、この状態になった以上むしろ暴れた方が危険なことは本能で理解していた。間髪入れず、シェリーは猛スピードで走りだす。
「早すぎる~!! 怖い怖い怖いって!」
「舌噛みますよ?」
大仰な反応を返しつつも抵抗はせず、シェリーの肩で騒ぐミリア。
ちらりと振り返ると、遠くなった小部屋の中でノアはいまだその場に座り込んでいた。反面その周囲には先ほどよりもさらに多くの式神が発生しており、その内数体は既にシェリー達の前へと回り込んできている。
「シェリーちゃん!! 式神がっ!!」
「お任せください!!」
正面から突撃してくる式神。
相対するシェリーもまた少女を担いだまま直進する。すれ違いざまに式神の頭を吹き飛ばすと、勢いそのままもう片方の式神へ籠手を投げつけた。フィジカルギフテッドであるシェリーの投擲はそれだけで大きな破壊力を内包しており、その直撃を受けた式神たちは跡形もなく爆散する。飛散した水滴により頭から泥水を被った結果、出口へとたどり着くころには二人ともびしょ濡れになっていた。そうして脱出しようとした瞬間、シェリーの視界の端に四角い影が横切った。
「あれは……」
木枠と白い布地の裏側。
ノアが高専より持ち出していたあのキャンバスである。水に流され、壁の穴へと吸い込まれていくそれには一瞬目を奪われたものの、シェリーの注意はすぐに別のものへと移った。
「シェリーちゃん! 顔から血が出てるよ!? それにノアちゃんも置いてきちゃったし……やっぱり」
「話は外に出てからです!」
「ぐおふっ」
ミリアの言葉を遮るようにして、シェリーは勝手口の扉を蹴り開けた。
外へ出た途端、冷たい雨が二人を打つ。構わず駆け抜け、倉庫から通りを一本挟んだところでシェリーはようやく足を止めた。肩から降ろされたミリアはその場に手を付く。実際に追われていたシェリーと異なり、彼女は担がれていただけなのだが、その顔はジェットコースターに乗った後のように真っ青になっており、いまにも何かを吐き出しそうに見えた。
「はぁ……はぁ……お、おじさん、寿命が縮んだよ……」
「ミリアさん、ユージさんたちは?」
「悪ぃ!! 遅くなった!!」
「ユージさん!!」
名前を出せばなんとやら、雨を蹴散らすようにして虎杖が駆けつける。
傘も差さずに走ってきたらしく、彼の髪からは絶えず雫が滴っている。その体には雨粒に混じって大量の羽根が張り付いており、道中で何かに足止めを食ったのは明らかだったが、虎杖はそれについて何も言わなかった。へたり込んだミリアと泥水にまみれたシェリーを見て、その表情が険し変化する。
「二人とも無事か!? 伏黒もすぐ来る。……何があった?」
「ノアさんが暴走してます! 術式の威力も精度もけた違いに上昇しています! このままだと街に被害が──」
シェリーが説明を始めた矢先のことだった。
ドォンッ!!
「うおっ!?」
「あれは……!!」
先ほどまで二人がいた倉庫、その屋根が内側から弾け飛ぶ。
見れば、天を衝くような巨大な水柱が吹き上がっていた。水柱は巻き込んだ廃材ごと空中で固まり、様々な生物へと姿を変えていく。シャチやクジラはもちろん、蛾や蛇、果ては見たこともない虫のような何かまで、様々な生物の形をとって泳ぎ出していく。
「ノアちゃん……」
シェリーの隣でミリアがそんな声を漏らす。
倉庫の建材があらかた崩れ落ちた後、建物があった場所にはぽつんと一人の少女の姿があった。黒くすすけた銀色の髪。頬を伝う虹色の涙。
──城ケ崎ノアは、雨の中でまだ泣いていた。