「あいたたた……」
目を覚ました少女は、自分の体がやけに重いことに気づいた。
見ればそこには黒い髪の少女が乗っかっている。自分ともども、ここに引きずり込まれた衝撃で気を失ってしまったのだろうと彼女は結論付けた。敵地のど真ん中であるこの場所で、襲撃に遭う前に目覚められたことにシェリーは安堵する。
「ナノカさん!起きてください!」
「ん……橘……シェリー…?」
「よかったです!特にお怪我もないようで!」
地面におろされ、揺さぶられていたナノカの瞼が開く。
シェリーが見た限り、その体に大きな損傷はない。無論自身の体にも大きな怪我はなく普段通り元気も有り余っていた。
「ここは…」
「おそらく何者かの生得領域の中ですね。私達はそこに引きずり込まれた形となります」
琥珀色の瞳に、異空間が反射し映り込む。
一言で言えば、その場所は駅だった。目の前には左右に複数の階段があり、ここから上にはホームがあることが予想できる。巨大な駅はそれに比例して多くの人間が行き来しているのが普通だが、ここはあくまで心象風景であることから二人以外の人間は一人もいない。巨大でありながらがらんとしたその光景は見る者に不安を与えるものであったが、シェリーは特になんでもない様子で周囲を見回している。
「いや~大きな駅を見る機会はめっきり減りましたからね~。少し懐かしさを感じます!」
渋谷事変の中心となった渋谷駅をはじめ、山手線圏内にあるような巨大な駅は現在では呪霊の巣窟となっており、人間は近づけなくなっている。これは呪術師であってすら例外ではない。シェリーら新人であればなおさらであり、日本史上最も栄えていた都市東京の伝説もいずれは朽ちていくのだろう。
そんなことを考えながら、ナノカの方に振り返った時だった。
「……」
「ナノカさん?」
「っ!なにかしら、橘シェリー」
「なんだか顔色が悪いですよ?…もしかして敵の攻撃ですか!?でしたら一刻も早く脱出を──」
「いい。大丈夫。そういうのじゃ、ない」
駆けだそうとしたシェリーの袖を、とっさに出たナノカの手が引き留める。
「ただちょっと、嫌なことを思い出しただけ」
「それは」
「それよりも──」
シェリーの言葉にかぶせるように、ナノカが少しだけ大きな声を出した。
その明らかに訳ありな態度に対して、琥珀色の瞳がスッと狭まる。
「あまり、私を心配しないで。私は……一人でも問題ないわ」
「いえ、ナノカさんを心配しているわけではありませんよ」
「……」
シェリーのその突き放すような発言に、ナノカの目が見開かれた。
彼女がこの黒髪の少女のことを心配していない、というのは半分は本当である。少なくとも外傷に関しては見たところ大きな異変が無い以上、ある程度の行動は可能だからだ。
ただ、それ以外の部分について何も考えていないかといえば、それは間違いである。
「現在の状況は明らかなイレギュラーです。この空間からの脱出は最優先で片づけるべきタスクになります。なにか小さな違和感があればそれが脱出の糸口になるかもしれませんし、それについてはお互いに共有するべきだと思うんです」
「なにが言いたいの」
「何か隠しているんでしたら、話していただきたいなと思いまして!」
ナノカの唇がきゅっと引き締められる。
術式発動時に取り乱し、明らかに危険な状態でも姉のためと突き進みながら、今シェリーの目の前で調子を悪くしている少女。その上でのこの態度は、シェリーの言葉が図星であると認めるようなものだった。
「……話したくない、と言ったら?」
「その時は仕方ありませんね。私はナノカさんのことをあまり知りませんから。ただ、お姉さんの件とこの領域の関係が不明な以上、ナノカさんもここに囚われているのは不本意なのでは?脱出という目的は一致させることができると思うのですが!」
にこにこと相変わらずマイペースに話すシェリー。
その態度に対し、ナノカは観念したのだろう。ぽつぽつと言葉を発し始める。
「……悪いけど、この領域から出るつもりはないわ」
「どうしてですか?いつ襲われるかわかりませんよ。一緒に逃げましょうよ~」
言葉の内容に反して、シェリーの口調はかなり軽快。
それを見てナノカは自分の考えが見透かされていることを察する。
「……この駅には見覚えがあるの。お姉ちゃんと私は通学路が途中まで同じだったけど……ここは、別れる駅」
「っ! つまり……」
「ええ」
そうして彼女は、致命的な一言を告げる。
「この領域のには、お姉ちゃんの記憶が混じっている」
◆
「玉犬!」
伏黒が手で印を作ると、彼の影の中から巨大な獣が姿を現した。
犬とは名に付いているものの、その見た目は狼に近く、加えて大型犬すらも超えるその体格は普通の人間よりもよっぽど恐ろしい。しかし、そんな猛犬も術者である伏黒にはよく懐いており、彼の足に頭をこすりつける仕草は普通のペットに近い挙動だった。
とはいえ、彼が合図を出すとその様子は一変する。
玉犬は以前シェリーに絡まれ続けた際の匂いを覚えていたのか、特に確認もせずにその方向へ走り出した。
「伏黒!さっきのどういうことだよ!」
そうして駆けだした玉犬を追いながら、虎杖は疑問を口にした。
「あの写真、黒部の姉ちゃんだろ?まさか本当にさっきの子襲ったのがそうだって……」
「呪霊は一般人には見えない。あの子を襲ったのが人間なのは間違いないだろ」
「だからって」
「……これはまだ予測の段階だが」
伏黒が苦々しそうに顔を歪める。
「例の変死事件、被害者が行方不明になった直後から周辺で不審人物の目撃証言が多発する傾向がある。最初は犯人だと思ったが、今回の一件を見る限り、もしかすると……」
「正体は改造された被害者ってことか!?」
「あくまで可能性だ。だが黒部の姉はこれまでの被害者と条件が近い」
伏黒の言葉に、虎杖は生唾を飲み込む。
彼の担当する変死事件の被害者は、行方不明から数日後に怪物になった状態で発見される。そして、その身元は全員が十代の少女だという。言うまでもなく、ナノカの姉はその被害者像に含まれている。
「黒部の姉ちゃんが、その変死事件に関わってるかも…ってことか?」
「状況的にあり得ない話じゃない。さっきのは念のための確認だったがな」
顔に真剣な色をのぞかせながら、伏黒は続ける。
「真人の改造人間と違い、怪物化してもある程度理性はあるんだろう。さっきの子もおそらく見逃されたとみるべきだ。だが被害者の死因は皆変形に耐えられなかったことによるもの。時間経過で進行していくのだとすれば、今すぐにでも保護する必要がある」
「クソッ!電話出てくれ橘…!」
状況が変化次第虎杖は二人に連絡を取っていたものの、領域は電波を通さない故にその目的は達成できていない。
虎杖たちがそのことを知る由はないが、それでもシェリーたちが電話に出られない状態に陥っていることはわかる。追跡がもっぱら玉犬に頼らざるを得ないことに、虎杖は歯噛みした。
(橘はあれでも度胸あるから大丈夫な気はする。それよりも──)
虎杖の脳裏に、黒い髪の少女の姿が過る。
(姉ちゃんが危ないかもしれないってこの状況……黒部は大丈夫なのか…?)
──廃工場へは、まだ距離がある。
◆
生得領域の中は異様なほどに静かだった。
なにせ領域内には基本的に生物がいない。加えて建物タイプであれば風などの自然音すら発生せず、聞こえてくる音といえば内部を歩く者の足音ぐらいである。手入れされたタイルを踏みしめるごとに、二人の周囲にはカツカツと硬い音が響く。
「……少し離れて」
「え?でもいつ襲撃されるかわかりませんし、なるべく近くにいるべきでは?」
「…ち、近すぎて集中できない。術式にも影響が出るかもしれないわ」
「なるほど~!了解です!」
言われた通り、シェリーはほんの少しだけ距離を取った。そんな彼女の対応にナノカは何か言いたげに口を開きかけるが、言っても無駄だと諦めそれを噤む。
「しかし残念です。ナノカさんの術式であればすぐに脱出口が見つかると思ったのですが」
「橘シェリー、それは嫌味かしら」
「まさか!ただ純粋に勿体ないと思いまして」
術式、というのはもちろんナノカの幻視のことである。
想いの込められたものに触れることで過去を知ることができる、というのが彼女の術式だが、その点生得領域とは術者の心象風景であり、それは即ち主の想いそのものともいえる。シェリーは彼女の術式であればそれを読み取り活用できると思い、その旨を提案したのだが──
「自分の意思で発動できないとなると、少し不便じゃないですか?」
「そうね、私の術式は偶然によるところが大きい。でもあなたの怪力だって意識して発動しているわけじゃないでしょ」
「むむ。心外ですね。ちゃんと普段から加減はしてます~!」
シェリーがぷくーっと頬を膨らませる。
今年度の新入生はその多くが自身の術式を扱いきれていないが、これは彼女たちのほとんどが死滅回游以後に術式を発現したからであり、単純に経験が足りていないというのが実情である。故に天与呪縛として幼いころから無自覚に怪力を持っていたシェリーはその中だと特異な存在といえた。
「しかしそうなるとナノカさんの術式が発動するまで待つしかないかもですね。一応確認ですが、お姉さんの術式は領域が絡むものですか?」
「いえ。お姉ちゃんが術式は変身よ。それに呪術を使えるようになったのは私と同じ時期だし、呪力も多いわけじゃない。どうして?」
「心象風景に反映されている以上、領域を作っているのはお姉さんの可能性が高いですから。しかしそうなると偶然なのでしょうか……」
こめかみを指でおさえながら、ぐぬぬとシェリーが唸る。
「なんにせよ困りましたね~。定時報告をできてないのでユージさん達は気づいてくれるはずですが、ここに来てくれるまでどれぐらいかかるか見当もつきません」
「あの人達も近くで聞き込みのはずでしょ。そこまでの距離はないはずだけど」
「領域の内部は時間の流れが違う可能性もあります。こちらの1分が外の10分の場合も、その逆もあり得るそうです。後者の場合どの程度待てばいいかわかりません。それに──」
ルーペを回転させながら、シェリーが振り返る。
「どっちにしろ、この場所の謎を解くまでナノカさんは脱出する気が無いようですしね。名探偵として、最後までお付き合いしますとも!」
そう、少女は宣言する。
言葉にこそしていなかったものの、彼女もまたナノカの力になりたいとは考えていた。それは勿論自認探偵としての矜持もあるが、そこには困っている同級生を助けようという一般的な善性が働いていたのは間違いない。しかし、振り向いた彼女が目にしたナノカの表情はまるで今にも泣き出しそうなもので、予想外のその事態にシェリーは思わず口をつぐんでしまう。
「橘シェリー、あなたは──」
「あ、ナノカさん」
どうして、という言葉が放たれる前に、シェリーがナノカの口を塞いだ。無論手で。
「──」
通路の奥、暗がりの中から、何かが床を擦る音がした。
カラカラという鉄を引きずるような音が徐々に二人の元へと迫ってくる。それを聞き状況を察したナノカを伴い、シェリーは近場の階段へと身を隠した。
ちらりと様子を伺うと、やがて曲がり角の奥からゆっくりと人型の何かが姿を現す。
「あれは……」
それは、背の高い痩せた人間に似ていた。
体長はおおよそ2mほど。体には黒いフード付きのコートのようなものを纏っており、その内部を確認することはできない。しかしその隙間からは複数の腕が伸びており中の存在が人間でないことは概ね察せられる。その手には巨大な鎌のようなものを持っており、先ほどの硬質な音はこれが原因だとシェリーは直感した。
「呪霊……ではないですね。私に視認できています」
天与呪縛により、一般人並みの呪力しか持たないシェリーには呪霊や呪いの類は呪具越しでしか見えない。
そのため彼女に見えている時点でこれがただの呪霊でないことはわかる。ただしそれと危険のあるなしはまた別の話である。呪力が無くても拳銃は危険だし、なにより、シェリー自身が呪力が無くても戦えることを証明してしまっているからだ。
「お姉さんが呼び出した式神でしょうか…?しかし侵入者を攻撃するように指示されていたら危険ですね。ナノカさん、ここは一旦やり過ごして──」
「待って!」
シェリーが一歩前に出ようとした瞬間、ナノカが咄嗟にその腕を掴んだ。
その力が思っていた以上に強かったため、シェリーは動きを止める。見れば先ほどまでも調子が悪そうだったナノカが、さらに一段と顔色を悪くしていた。まるでなにか見たくないものを見てしまったかのように。
「どうしましたか?本当に顔色悪いですよ?」
「……なの……」
「?」
普段の彼女らしからぬ、消え入りそうな小さな声を拾おうとシェリーは顔を近づける。
それを知ってか知らずか、ナノカは悲痛な声で告白した。
「あれが!私の
「え~!?全然ナノカさんと似てませんよ!?」
こんな時にもかかわらずマイペースな返答をするシェリーだったが、ナノカはそれを意に介さない。
否、意に介す余裕が、彼女から失われていた。
「今術式が発動したの!お姉ちゃんが怪物になってて、人を襲ってて、それで──」
ナノカが顔を上げた時、彼女の前、そして振り向いていたシェリーの背後にそれは現れた。
二人が目を離した一瞬の隙をつき、怪物は迫っていたのだ。白い面によりその表情は全くうかがい知れないが、ナノカには二つ分かることがある。一つはこれが自身の姉であるという確信。
「橘シェリー!!」
──そしてもう一つは、怪物の持つ鎌が、シェリーへと振り下ろされたことである。