「虎杖…ユウジ…!」
「おいしょっとッ!」
虎杖が放出した呪力により、怪物は派手に後方へ吹き飛ばされる。
結果的に彼女は今出てきたばかりの電車へ押し戻される形になってしまった。振り返った虎杖の視界に二人の少女が映る。そのうちの一人、シェリーが力の無い笑顔を浮かべた。
「ユージさん、来て、くれたんですね……」
「おう。でもあんまり喋んな。怪我ヤバそうだし」
いいながら虎杖が自身の腕に傷を付ける。
滲み出す血は通常ではあり得ない速度で放出されるが、それは一瞬にして凝固。シェリーの傷口を薄い膜のように覆い隠す。
「なにを…?」
「赤血操術で橘の怪我を塞いだ。つっても表面覆っただけだからほんとに応急処置だけど。俺の部分の血は分離できるから拒絶反応は大丈夫、だと思う……」
赤血操術で止血できるのは通常自身のみである。
これは当該術式があくまで自身の血液を操作する術式故であり、他者に対して使用する場合はこのように物理的な手段を用いる他ないからだ。
加えて血液の凝固は血栓のリスクを孕んでおり、多くの赤血操術の使い手はこれを避けるため長時間の使用は避けるのが通常である。しかし、虎杖はこのリスクを反転術式を会得することで軽減することに成功していた。そして、百錬がうまくできなかった虎杖がここまで赤血操術を使いこなせるようになったのは、とある人物の入れ替え術式あってこそである。
「で、何があった」
虎杖の問いかけは負傷が軽いナノカに向けてのもの。
しかし、彼女はその質問にすぐ答えることができなかった。無論、それは相対しているのが自身の姉のなれはてだからである。今の一瞬を見ても、虎杖であればあれを容易に制圧できることはすぐにわかる。故に彼女は迷った。
(虎杖ユウジは……お姉ちゃんをどうする…?)
容易に制圧できるというのは、同時に虎杖の決断を誰も止められないということでもある。つまり、彼の判断次第では姉の運命が決まってしまうのだ。
そして、ナノカは自分を嫌悪する。
協力してくれたシェリーを大怪我させたにもかかわらず、まだ希望を捨てられない自分を。
「ユージさん……あれは、ナノカさんのお姉さんです」
ナノカが口ごもっている間に、シェリーが核心に触れてしまう。
彼女の言葉に、虎杖の表情はわずかに強張る。だが特に聞き返すようなことはなく、その態度は不思議と落ち着いているようにナノカには思えた。
「……わかった」
虎杖は短く答える。
伏黒が予測していた通り、ナノカの姉の姿は変死事件の被害者に酷似していた。
もともとは保護の予定だったが、それはあくまで理性を保っていた場合の話。もし他者を躊躇せず襲うような状態だった場合どのように対処するか、虎杖は事前に伏黒と取り決めている。真人に改造された人間は彼が気まぐれを起こしでもしない限り元の姿に戻ることはない。そのなれはて達を誰よりも多く救ってきたのは、ほかならぬ虎杖である。故に、彼の覚悟は十分すぎるほど固まっていた。
「これ以上苦しませない」
「…ッ!」
虎杖のその言葉は、姉を殺すという宣言に他ならない。
その判断が正しいことはナノカも理解している。応急処置は済まされたとはいえ、シェリーの怪我は放っておけば命に係わるほどのもの。加えて姉には既に理性はなく、妹すらも平気で加害しようとする。今後も迷い込んだ人間を襲い続ける可能性が高い以上、今すぐにでも制圧し、シェリーを病院へ搬送するのが最適解であり、虎杖にはそれを実行できるほどの力がある。
ポケットの中には姉からもらったリボンが入っている。
それを握りしめた後、眼下のシェリーの顔を見て、ナノカは──
「虎杖ユウジ、お姉ちゃんを──」
「だめですよ。ナノカさん」
ナノカの涙混じりの言葉を遮ったのは、他ならぬシェリーであった。
「先ほどもお伝えしました……。ナノカさんの目的はお姉さんを助けることのはずです」
「…………そうよ。そうだった。けど今は私のわがままを通せる状況じゃない!私が諦めないと、貴方や何も知らない人が犠牲になるかもしれないのよ…!」
「いいじゃないですか、死んだって……。ナノカさんが思っているより、ずっと簡単に人は死ぬんですから」
「橘シェリー……?」
シェリーの、その微笑みに似合わない言葉をナノカが追及する前に、彼女の言葉が続く。
「あれ?ナノカさん、涙が……」
「え?」
言われてナノカは自身の目を拭う。
指の上、少し乾いた血の更に上に滲んだ涙。その色はまるでナノカの心情を映し出すかのようにどす黒く染まっている。それと同時に、いつのまにか自分の視界が古いテレビのように白黒になっていることに気づいた。まるで目に溜まった涙が黒く視界を覆っているかのように。
「なに、これ……」
「ナノカさん…?」
伸ばされたシェリーの手がナノカの頬に触れる。
それと同時、ナノカの脳内に存在しない記憶があふれ出す──
◇
目の前には飛び散る赤色。周りには慌てふためくたくさんの他人。
振り返ると頭のない人が床で眠っている。そんな中、私の心には少しの諦観と、折檻を嫌だなぁと思う気持ちだけが残っている。
「あ~」
「汚しちゃって、ごめんなさい!」
◇
「黒部ッ!」
「っ!?」
虎杖の叫び声で、ナノカは我に返る。
意識がなかったのはほんの数秒にも満たないはずだが、見れば肩も掴まれており、虎杖にかなり心配されたであろうことは間違いない。
(なに、これ……)
考えるまでもない。
流れてきたのは今触れた相手、すなわちシェリーの記憶だろう。その内容はナノカにとって極めて衝撃的なものである。記憶の中のシェリーの手の赤色と、今の自分の手の赤色が重なり、ナノカは喉に酸性の液が上がってくるのを感じる。
「大丈夫か?」
「……ええ、体は……大丈夫」
「本当か?」
「本当だから!」
「ナノカ…さん…?」
突然大きな声を出されたからか、虎杖の方がびくりと跳ねた。
自分でも思っていた以上の反応を返してしまった罪悪感を抱えながら、ナノカは今起こったことを脳内で整理する。
(どうして今……)
彼女の中には疑問点が2つ。そして懸念点が1つある。
1つは術式の発動頻度。これまで日常的な発動は日に1回もなかった幻視が、今日は既に3回も発動している。これは今までではありえない頻度である。
2つ目に術式の精度。彼女の術式はいままで触れたものの過去を断片的に得られるのみであり、欲しい情報が得られるものではなかった。しかし、今回は明らかにナノカの望むものを垣間見ることに成功している。
そして懸念点は──
(なんだか……ものすごくイライラする…ッ!)
心配してくれた虎杖に怒鳴ってしまったのもそう。
思い返してみれば捜査が始まってからずっとナノカは感情の制御ができていなかったと自答する。極めつけは姉を殺すという虎杖の言葉。それらの度重なるストレスはナノカを限界まで追い詰めていた。
だが、
(今はそれだって私の力になる…!)
呪力とは負の感情をもとにしたエネルギーである。
憎悪、後悔、恐怖。そして怒り。あらゆるストレスは呪術師にとって力の源となる。ナノカは、自身に起きた変化がストレスによる術式の強化だと結論付けた。
「……橘シェリー。貴方のこと、あとで絶対聞かせてもらうから」
「?」
困惑するシェリーをよそに、覚悟を決めたナノカは虎杖に向き直る。
「ごめんなさい、虎杖ユウジ。急に怒鳴ってしまって」
「いいって気にすんな」
「……それと、やっぱりお姉ちゃんを殺さないでほしい」
「……何か作戦があるのか?」
彼の真剣な問いかけに、ナノカは力強く頷く。
「私が幻視でお姉ちゃんを見る。そうすればあの姿になった理由がきっとわかるはず!だから──」
「ダメだ。伏黒からお前の術式のことは聞いてる。便利だけどまだコントロールできてないんだろ?何時間もは待てない」
「確かに昨日まではそうだった。けど今は違うの!」
「……」
ナノカの必死な言葉に、虎杖はどう返すか迷った。
術師の成長は直線ではない。確かなセンスときっかけさえあれば人は変わる。虎杖から見ても、今朝別れる前と今では彼女の持つ凄みは全く異なっていた。加えて虎杖とて無駄な殺生を行いたいわけではなく、自分の手の届く範囲の救える命は救いたいと願っている。
しかし、だからといってナノカにすべてを賭けられるかは別の話である。
なにせ虎杖には術師として多くの人を助けるという責務がある。それは今でいえば大怪我を負っているシェリーや、ナノカの姉に襲われるかもしれない未来の被害者のことに他ならない。よしんば原因が分かったとしても、この場で対処可能かも別問題だ。
彼は思考の果て、シェリーの方を見る。
ぐったりとした彼女は間違いなく予断を許さない状況だったが、そんな彼女が力を振り絞るようにして言葉を紡ぐ。
「ユージさん、ナノカさんのことを信じてあげてください」
「橘……でもお前」
「庇ったのは私の意思ですから…負傷は織り込み済みです。きっと、ナノカさんが動ける方が事件解決につながると……名探偵の勘が囁いていましたので」
「勘って……」
シェリーの言葉に、なんら論理的な部分はない。
「ユージさんが多くの人を助けるんでしたら、ナノカさんのお姉さんも助けてあげてほしいです。それが……私の願い」
「…………わかった」
だが、続いた言葉は虎杖の心を解かすには十分だった。
彼の答えを聞いて安心したのか、微笑みを浮かべたシェリーの意識がすっと落ちる。2人はそれを見てゆっくりと彼女を地面に降ろした。出血は無理やり止めているため、ショック症状ではないはず。だが予断を許さないこの状況で、虎杖は迅速に事態の収拾をすることを求められている。
「黒部。術式は使えるか」
「問題ない……けど、確実に見るにはもっと近づいた方がいい、気がする」
先ほどと同様、領域内であることから姉を幻視するだけであればどこにいても問題ない。だが、より深く、より確実な発動を考えれば、普段通り対象に触れる方がよいとナノカは考えた。これは普段の発動条件が無意識に縛りとしての効力を発揮するからである。
電車まで吹き飛ばされていた姉はゆらりと立ち上がり、再び歩みを始める。
その距離は目測では決して遠くはないが、腕が伸びるうえ攻撃力も高い。ましてや戦闘に慣れていないナノカが近づくことを思えば無限に等しい長さとすらいえるだろう。
「んじゃ、ちょっと乱暴に行くか」
──隣にいたはずの彼が移動したのをナノカが認識したのは、彼が姉の正面まで詰めきった時だった。
「速ッ──」
「よっと!」
分厚い木材を打ち据えたような、鈍い衝撃音が響く。
今にも飛びかかろうとしていた姉の腕が、不自然な方向に跳ね上がった。拾われた大鎌もすぐさま弾き飛ばされ、一瞬にして間合いは虎杖のレンジへ移り変わる。
「多腕の相手は飽いてんよ」
コート内部から発生した大量の腕は両手の指で数えきれない量に達している。
しかし、虎杖はこの距離、この数の攻撃すら余裕をもって捌いていた。シェリーの師匠であることから、その動きは確かに似ている。だが、粗削りな彼女の動きとは違い、虎杖の動きには一切の無駄がない。瞬く間に切り開かれた安全地帯を、ナノカは風を切って突き進む。
「お姉ちゃん!!」
そうして虎杖にかかりきりだった姉の背中へ、ナノカは勢いそのままに飛び込んだ。
◇
月明かりに照らされた工場跡。
目の前には知らない誰か。聖母や天使と形容したくなるような修道服の少女は、私にとっては危害の元だ。
『ありがとうございます…!来てくれると思ってました…!』
『……ナノちゃんに手出しはさせない』
『はい!家族は大切ですもんね』
『…あんた何者?』
『すみません……答えるわけにはいかないんです……』
『え、ちょっなにそのキモイの!』
『ごめんなさい……でも、私も家族に会いたいんです……。だから──』
◇
「うっ!」
「黒部ッ!」
弾き返されたナノカを虎杖が受け止める。
彼女は感謝を告げるよりも早く虎杖に向き直った。その表情は先ほどまでの弱弱しい追い詰められたものとは異なっており、覚悟と自信に満ち溢れている。
「お姉ちゃんの中に呪物がある!誰かに埋め込まれてるのが見えた!」
「!」
ナノカの言葉に虎杖は目を見開く。
彼の脳裏に過るのは今なお各地で報告される死滅回游サバイバー。その内の受肉タイプの術師達。呪物となった彼らは現代人に受肉し、二度目の生を受けている。ナノカの姉の状態は彼らとはズレていたが、これが受肉に近い現象ならば──
「任せろッ!」
虎杖はそう言うと、地面を踏みしめ一足に姉の懐へ潜り込んだ。
反撃に振るわれる腕の本数は優に20を超え、ナノカどころか等級のあるベテラン術師ですら苦戦するほどの猛攻である。しかし、振るわれた大鎌は空を切り裂き、爪は地面を抉るものの青年には届かず、数秒後にはその距離はゼロに等しくなる。
そのまま掌底を押し付けるとともに、一言。
「解」
赤血操術以外に、虎杖はもう一つ術式を持っている。。
その名は御廚子。元は呪いの王『宿儺』と同じ術式である。しかし同じ術式とはいえ宿儺と虎杖では術師としての強度は全く異なり、宿儺にできたことの多くは彼には実行できない。反面、彼は「直接相手に触れる」、「術式の対象を限定する」という二つの縛りにより、対象の魂の境界を引き裂くという使い方を会得している。
もし受肉元の人間の魂がまだ生きているならば──
「あれ!」
ナノカの視線の先、まるで接着が甘いパーツのように、怪物の腕がボトリと地面に落ちる。
それらが剥がれ落ちた内側には、白い人間の体が剥き出しになっている。だらりと垂れ下がった少女の指先が、ピクリと動いたのをナノカは見逃さなかった。
「虎杖ユウジ、お願い!」
「もう一発!」
続く一撃で怪物の体は完全に崩壊する。
少女を外皮のように覆っていた黒い肉は完全に剥離し、しばらくもぞもぞと蠢いていたが、やがて動きが止まったそれらは呪霊の消失と同じ煙を上げて消えていった。
後に残ったのはナノカに似た顔立ちの、白い髪の少女のみである。
彼女を支える虎杖の元へ、ナノカは駆け寄った。
「お姉ちゃんッ!」
抱きついた姉に意識はないが、息はある。
そのことを理解したナノカから、大粒の涙とともに嗚咽が漏れる。いつの間にか彼女の涙は透明に戻っていた。深く息をついた虎杖は、彼女の肩にポンと手を置く。
「すぐに領域が崩壊する。黒部はその子を背負ってくれ。できるな」
「うん!」
数秒後、彼がシェリーを背負うのと、領域の崩壊が始まるのは同時だった。
地面のいたるところがひび割れはじめ、世界の終りのような光景が広がっていった直後、黒い破片が散らばるとともに領域が飛散するのだった。
◆
「あっ」
「? どうかなさいましたか」
そこはまるで教会のような場所で、ステンドグラスから差し込む光は内部に神秘的な空気を漂わせている。
佇む修道服の少女は、何かに気付いたのかふと窓の外を見た。
「……この前の、えっと……ホミカちゃん?」
「ホノカさんですかね、妹さんがいらっしゃるという」
「そうです…!お渡しした呪物が取り出されてしまったみたいで」
「お渡ししたって、無理やり押し付けたんでしょうに……」
呆れ声は少女の遥か上、天井の付近から木霊していた。
バサバサという羽音と共に一枚の羽がふわりと舞い落ち、少女はそれをそっと拾い上げる。
「そもそも、この計画で本当に大魔女は甦るんですかねぇ」
「大丈夫です……!縫い目の方は大魔女様のご友人だったそうですし、私もいっぱい頑張りますから!ガクチョーさんも、お願いしますね!」
「やれやれ……結局私が働くことになるんでしょうに。全く鳥使いが荒い……」
少女が拾い上げた羽は、彼女の手の中でサッと音もなく崩れ去る。
上司からの過度な期待に耐え兼ね、フクロウの口からは大きなため息が漏れるのだった。