土曜日の午前。
駅前の大通りから少し外れた場所に店を構える、洋食喫茶トネリコ。
開店前の店内で、店主の
焦げ茶色の木材を基調とした店内には、カウンター席と数卓のテーブルが並んでいる。決して広い店ではないが、昼時には近隣で働く会社員や学生たちで賑わっていた。
大きなガラス窓から差し込む春の日差しが、磨かれたテーブルの表面を照らしている。
最後のグラスを棚へ収めたところで、入口のベルが軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、低く穏やかな声をかける。
店へ入ってきたのは、まだ幼さの残る少年だった。
短く整えられた黒髪に、皺一つないシャツ。中性的な整った顔立ちも目を引くが、それ以上に、姿勢のよさと真面目そうな雰囲気が印象に残った。
少年は店主の姿を確認すると、丁寧に頭を下げる。
「本日、十時からアルバイトの面接をお願いしている槻山です」
「ああ、槻山君だね。いらっしゃい」
男は穏やかに笑い、軽く頭を下げた。
「店主の乾宗一郎です。今日はよろしくね」
「槻山叶多です。よろしくお願いします」
宗一郎は壁の時計へ目を向けた。
約束の時刻までは、まだ十分ほどある。
「少し早かったでしょうか」
「いや、大丈夫だよ。時間に余裕を持って来てくれたんだね」
「遅れるわけにはいきませんから」
「しっかりしているなあ。とりあえず、そちらに座ってくれるかな」
「はい」
槻山叶多は静かにカウンター席へ腰を下ろした。
宗一郎はカウンターを挟んで向かいに立つ。
「それじゃあ、履歴書を見せてもらってもいいかな」
「こちらです」
叶多は鞄から封筒を取り出し、中に入っていた履歴書を両手で差し出した。
「綺麗な字だね」
「ありがとうございます」
「聖凰学園の一年生なんだね」
「はい」
「学校が始まったばかりだけど、生活には慣れた?」
「まだ分からないことは多いですが、今のところ問題はありません」
「一人暮らしなんだ」
「高校への進学を機に始めました」
宗一郎は住所欄を確認した。
店からも、それほど遠い場所ではない。
「家事も全部、自分でやっているの?」
「はい。料理や洗濯は以前からしていたので、特に困ってはいません」
「偉いなあ。僕が同じ年の頃なんて、家のことは親に任せきりだったよ」
宗一郎が苦笑すると、叶多もわずかに表情を緩めた。
受け答えは固すぎない。
礼儀正しいが、必要以上に緊張しているわけでもないようだった。
宗一郎は勤務希望欄へ目を移す。
「平日は週二日。授業が終わってから、午後九時半まで働けるんだね」
「平日は、学校での活動時間も考えると、午後六時頃には来られると思います」
「土曜日は一日入れる、と」
「はい。ただ、試験前や学校行事がある場合は、事前に相談させていただきたいです」
「もちろん。学生は学業が一番だからね。無理をする必要はないよ」
「ありがとうございます」
「学校と保護者の許可は取っているのかな?」
「保護者の同意は得ています。学校にも事前に相談していて、採用後に勤務先と勤務時間を記入した申請書を提出することになっています」
何を尋ねても、淀みなく答えが返ってくる。
準備に不足はない。
少なくとも、軽い気持ちで応募してきたわけではなさそうだった。
宗一郎は履歴書の希望職種欄を指で示す。
「厨房を希望しているんだね」
「可能であれば、厨房で働かせていただきたいと思っています」
「ホールは苦手かな?」
「接客が苦手というわけではありません。ただ、料理には自信があります」
叶多はごく自然にそう言った。
大げさに胸を張るでもなく、曖昧に謙遜するでもない。
事実を伝えているだけのような口調だった。
「普段から料理をしているの?」
「はい。自分の食事は基本的に自分で作っています」
「得意な料理は?」
「イタリア料理です。洋食や一般的な家庭料理も一通り作れます」
「イタリア料理か。随分、本格的だね」
「好きなので、昔からよく作っていました」
高校一年生が口にするには、少し珍しい答えだった。
ただ、本当に料理ができるかどうかは、話を聞いているだけでは分からない。
厨房では包丁も火も扱う。
料理が好きというだけで、任せるわけにはいかなかった。
宗一郎は少し考えたあと、柔らかく笑った。
「それじゃあ、何か作ってみてよ」
「よろしいんですか?」
「うん。冷蔵庫にあるものなら、自由に使って構わないよ。量は試食できるくらいでいいから」
「何を作ればよろしいでしょうか」
「槻山君が作りたいものでいいよ」
「分かりました」
叶多はすぐに立ち上がった。
宗一郎から借りたエプロンを身につけ、袖を邪魔にならない位置まで上げる。
最初に手を洗い、それから調理台や包丁、調味料の位置を一つずつ確認した。
初めて入る厨房だというのに、慌てる様子はない。
冷蔵庫を開け、中に入っている食材へ一通り目を通す。
卵、鶏肉、玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム、ソーセージ。冷やした白米と、営業用に下茹でしてあるパスタも入っていた。
叶多は必要な食材だけを取り出し、調理台へ並べていく。
卵と米。
鶏肉。
さらにパスタとソーセージ。
宗一郎は、その様子を不思議そうに眺めていた。
「槻山君」
「はい」
「何を作るのかな?」
「オムライスとナポリタン、それから鶏肉のソテーにします」
「……三品?」
「はい」
叶多は当然のように頷いた。
宗一郎は思わず、調理台へ並べられた食材を見直す。
「何か一品でよかったんだけど」
「そうだったんですか?」
「うん。試食だからね」
「分かりました。では、一皿ずつの量を少なくします」
そういう意味ではなかった。一瞬そう言いかけたものの、すでに叶多は包丁を手に取っていた。
鶏肉の余分な脂を取り除き、厚みのある部分へ包丁を入れる。
オムライスに使う分は小さく。
ソテーにする分は、火が均一に入るよう厚さを揃える。
玉ねぎやマッシュルームも、使う料理に合わせて切り方を変えていた。
包丁の音が、一定の間隔で厨房へ響く。
速い。
それでいて、危なっかしさはまるでなかった。
まな板の上へ指を置く位置も、刃を動かす角度も安定している。
切り終えた食材は無造作に置かず、料理ごと、使う順番ごとに分けて並べられていく。
空いた時間には、使用済みの器具を洗っていた。
料理を始めて、まだ数分しか経っていない。
それでも、宗一郎には分かった。
これは、家で時々料理をする高校生の手つきではない。
――思わぬ拾い物かもしれない。
そんな考えが、宗一郎の頭をよぎった。
叶多はソテー用の鶏肉へ塩を振り、味を馴染ませる。
その間に、別の鶏肉と玉ねぎを炒め始めた。
さらにもう一つのフライパンでは、ソーセージやピーマンへ火を入れている。
三つのコンロを使っているにもかかわらず、動きに迷いがなかった。
一つを混ぜた直後に火加減を変え、次のフライパンへ手を伸ばす。
鶏肉の焼ける音を確かめながら、空いた手で調味料を量る。
忙しいはずなのに、慌ただしくは見えない。
ただ、必要な作業だけを必要な順番で進めていた。
結果として、三つの料理が同時に完成へ近づいていく。
オムライス用のフライパンへケチャップが加えられた。
叶多はすぐに米を入れず、先にケチャップだけを炒め始める。
熱が入るにつれて、鼻へ刺さるような酸味が和らぎ、甘く香ばしい匂いへ変わっていった。
そこへ冷やした白米を加える。
ヘラで押し潰さず、フライパンを細かく振りながら、米粒をほぐすように混ぜていた。
一方、ナポリタンにもケチャップが加えられる。
こちらも水分を飛ばしているが、オムライスとは味付けが違う。
下茹でされたパスタを加え、少量の水分を足しながら、ソースを麺へ均一に絡ませていく。
その間にも、ソテー用の鶏肉は皮目からじっくり焼かれていた。
叶多は皮の焼き色を確かめてから鶏肉を裏返し、火を弱める。
ナポリタンを小さな皿へ盛りつけると、空いたフライパンを手早く洗った。
水分を拭き取り、再び火へかける。
次は卵だった。
三個分の溶き卵を、一気にフライパンへ流し込む。
外側が固まり始めた瞬間、叶多はフライパンを細かく揺らしながら、箸で手早く卵を混ぜた。
火を入れすぎる直前で手を止める。
卵を奥へ寄せ、フライパンの柄を軽く叩いた。
半熟の卵が少しずつ返り、滑らかな木の葉型へ変わっていく。
宗一郎は無意識に息を止めていた。
破れない。
焦げつかない。
表面だけを薄く固め、中の柔らかさはきちんと残している。
完成したオムレツを、形を整えたチキンライスの上へ静かに乗せた。
続いて、焼き上がった鶏肉をフライパンから取り出す。
すぐには切らず、温かい場所で休ませた。
その間に、フライパンへ残った肉の旨味を使い、バターと調味料を加えて簡単なソースを作っていく。
肉を休ませる時間まで、最初から計算に入れていたのだろう。
三品すべての盛りつけが終わったところで、叶多は最後にオムレツへ包丁を入れた。
刃先が中央を滑る。
切れ目から、鮮やかな黄色の半熟卵が左右へとろりと広がった。
卵は流れすぎることなく、チキンライスの表面をきれいに覆っていく。
「お待たせしました」
叶多は三枚の皿をカウンターへ並べた。
半熟卵のオムライス。
昔ながらのナポリタン。
皮を香ばしく焼いた鶏肉のソテー。
一皿ごとの量は少ない。
それでも付け合わせまで丁寧に盛られ、試食用とは思えない仕上がりだった。
宗一郎は壁の時計へ目を向ける。
叶多が調理を始めてから、二十分も経っていない。
三品を同時に仕上げながら、どの皿も温かいまま。
少なくとも、その手際だけを見れば、間違いなくプロのものだった。
「本当に三品作ったんだね」
「はい。食材は使いすぎていないと思いますが、問題がありましたか?」
「いや、そうじゃないよ。少し驚いただけだから」
問題があるとすれば、目の前の少年が何者なのか分からないことだった。
宗一郎はスプーンを手に取り、まずオムライスをすくった。
半熟卵とチキンライスを一緒に口へ運ぶ。
その瞬間、宗一郎の表情がわずかに固まった。
うわぁ、めちゃくちゃうまい。
卵はとろとろなのに、生っぽさがない。
バターの香りも強すぎず、チキンライスの味を邪魔していなかった。
米はべたついていない。
ケチャップの尖った酸味だけが飛び、甘みと香ばしさが残っている。
宗一郎は何も言わず、もう一口食べた。
先ほどより、少しだけ量が多い。
続いてナポリタンへフォークを入れる。
麺にはソースが均一に絡んでいた。
昔ながらの味ではあるが、ただケチャップを混ぜただけではない。
炒めた香ばしさと具材の旨味が、きちんと一つにまとまっている。
これもうまい。
最後に鶏肉のソテーへナイフを入れた。
皮は香ばしく焼かれている。
それでいて、中の肉は柔らかい。
切り口から流れ出る肉汁も、濁ってはいなかった。
ソースを絡めて口へ運ぶ。
三品とも火入れが違う。
調理方法も違う。
それを同時に進め、すべて適切な状態で完成させている。
偶然でできることではない。
普通に僕より腕が上じゃないか。
高校生に料理の腕で抜かれたぁぁぁっ!
「どうでしょうか」
叶多が尋ねる。
不安そうな様子はない。
かといって、自信満々に胸を張っているわけでもなかった。
ただ、料理への評価を静かに待っている。
「槻山君」
「はい」
「採用です」
「……もう決めてしまってよろしいんですか?」
「むしろ、これ以上何を確認すればいいのかな」
宗一郎が苦笑すると、叶多は少しだけ困ったような顔をした。
「接客や、ほかの仕事もあると思いますが」
「そのあたりは、働きながら覚えてもらえばいいよ。礼儀や受け答えに問題がないことは、面接で分かったからね」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。ぜひ厨房に入ってほしい」
宗一郎は履歴書をもう一度確認した。
「平日は火曜と木曜。午後六時から九時半まででどうかな」
「問題ありません」
「土曜日は午前九時から午後六時まで。途中で休憩を入れるよ」
「分かりました」
「試験や学校行事、予定が入った場合は、早めに教えてくれれば調整するから」
「はい。必ず事前に相談します」
「最初は店のメニューや、厨房での決まりを覚えてもらうことになる。料理ができるからといって、いきなり全部を任せるわけにはいかないからね」
「承知しています。店の味と手順を優先します」
返ってきた答えに、店長は満足そうに頷いた。
腕があっても、自分のやり方に固執する人間はいる。
しかし、叶多はその点も理解しているらしい。
「それじゃあ、来週の火曜日からお願いできるかな」
「はい。よろしくお願いします」
叶多は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね」
面接を終えた叶多は、借りていたエプロンを畳んで返した。
使用した器具も、店長が試食している間にほとんど洗い終えている。
最後まで隙がなかった。
「それでは、失礼します」
「うん。気をつけて帰ってね」
叶多が扉を開ける。
ベルの音が鳴り、少年の姿が外へ消えた。
扉が閉まってからも、宗一郎はしばらく入口を見つめていた。
やがて、カウンターへ残された三枚の皿へ視線を戻す。
店長は冷める前にと、残っていたオムライスをもう一口食べる。
やはり、うまい。
最初は店の味と手順を覚えてもらう必要がある。
だが、それが済めば、いずれは別の料理も作ってもらえるだろう。
「……来週が楽しみだな」
宗一郎は小さく笑い、まだ温かいナポリタンへフォークを伸ばした。