ゴールデンウィークが明けてから、数日が経った。
「今日は一日かけて体力測定をするからね。移動するときは、担当の先生の指示に従ってね」
朝のホームルームで、花城先生がいつもの気の抜けた声で告げた。
服装も普段と変わらず、上下ともにジャージだ。
「午前中はグラウンド、午後から体育館で測定します。今日は暑くなるみたいだから、水分補給も忘れないようにしてね」
教室のあちこちから、楽しそうな声と嫌そうな声が同時に上がった。
運動部の生徒にとっては、普段の成果を見せる機会なのだろう。
俺にとっては、できれば早く終わってほしい一日だった。
「叶多、顔が暗いぞ」
隣の席から、大輔が楽しそうに声をかけてくる。
「運動は得意じゃないんだよ」
「やっぱりな。体育を見てて、そんな気はしてた」
「なんでそんなにうれしそうなんだよ」
「叶多にも苦手なものがあるって分かると、少し安心するだろ」
「友達の失敗を期待するな」
「失敗までは期待してない。俺より下ならいいと思ってるだけだ」
「似たようなものだろ」
大輔は悪びれた様子もなく笑った。
前の席に座っていた直樹が、こちらを振り返る。
「記録を競うための行事ではないんだから、無理をしなければいいと思うよ」
「直樹が言っても説得力ないぞ」
大輔がすぐに反応した。
「どうしてだい?」
「お前、運動神経いいじゃないか」
「得意な種目と苦手な種目はあるよ」
「その苦手が、俺たちの得意より上なんだろ」
「そこまで大きな差はないと思うけどね」
直樹は困ったように笑っている。
実際には、大輔の言う通りだろう。
直樹はバスケットボール部に所属し、普段から身体を動かしている。体育の授業でも目立っており、体力測定で苦戦する姿は想像できなかった。
「叶多君も、運動は苦手なんだね」
声をかけられ、そちらへ顔を向ける。
瑞葉が少し安心したような表情で立っていた。
「意外だった?」
「うん。勉強も料理もできるから、運動も得意なのかなって思ってた」
「残念ながら、男子の中では下から数えた方が早いと思う」
「私も似たようなものだよ」
瑞葉は小さく笑った。
「走るのも遅いし、ボールを投げても全然飛ばないの」
「それなら、今日はお互い頑張ろう」
「うん。最下位にならないくらいには頑張りたいな」
「目標が低くないか?」
大輔が口を挟む。
「そういう大輔は、どのくらいできるんだ?」
「俺は普通だ。普通より少し上かもしれない」
「その自信はどこから来るんだ?」
「自信を持つことって大事なんだぞ」
「まあ、体育を見る限り、普通くらいにはできるもんな」
「だろ?」
「少し上かどうかは、今日分かるけどな」
「そこは素直に信じろよ」
大輔は不満そうに言ったが、普段の体育を見る限り、本当に平均程度には動けている。
少なくとも、俺よりは良い記録を出すだろう。
「それじゃあ、そろそろグラウンドへ移動してね」
花城先生の声に促され、教室の生徒たちが立ち上がった。
体操着姿に着替え、校舎を出る。
五月の陽射しは思っていたより強く、グラウンドにはすでに測定用の白線や器具が用意されていた。
最初の種目は、五十メートル走だった。
「いきなり走るのかよ」
スタート地点を見た大輔が言う。
「午後まで不安を引き延ばされるよりはいいだろ」
「叶多は諦めが早いな」
「自分の実力を分かってるだけだよ」
男子から二人ずつ走り、残った生徒が記録の確認や誘導を手伝う。
直樹の名前が呼ばれると、周囲から小さな声が上がった。
隣に並んだのは、陸上部へ入った男子だった。
「位置について」
二人が腰を落とす。
「よーい」
合図と同時に、二人の身体が前へ飛び出した。
序盤はほとんど差がなかったが、中盤から直樹がわずかに前へ出る。
そのまま速度を落とさず、先にゴールラインを駆け抜けた。
「水瀬、6秒7」
記録を聞いた大輔が、呆れたように息を吐く。
「やっぱり速いじゃないか」
「思っていたより記録が出たね」
戻ってきた直樹は、息を切らした様子もほとんどなかった。
「そういう問題じゃないだろ」
「次、梅原」
担当教師に呼ばれ、大輔がスタート地点へ向かう。
「俺の実力を見てろよ」
「転ばないようにな」
「縁起でもないこと言うな」
大輔は隣の男子と並び、合図を待った。
スタートは悪くない。
途中で少しフォームが崩れたものの、そのまま最後まで走り切る。
「梅原、7秒2」
「ほら、普通より少し上だろ」
戻ってきた大輔が得意げに胸を張った。
「確かに悪くないな」
「最初から信じろって言っただろ」
「次、槻山」
名前を呼ばれ、俺はスタート地点へ向かった。
隣に並んだ男子は、普段の体育でも足が速い方だった。
勝てるとは思っていない。
せめて、あまり大きな差をつけられないようにしたい。
「位置について」
腰を落とし、地面へ手をつく。
「よーい」
合図が鳴った。
一歩目から、身体が思ったように前へ出ない。
懸命に腕を振っているつもりなのに、隣の男子はあっという間に遠ざかっていく。
残り半分を過ぎた頃には、勝負になっていなかった。
「槻山、9秒1」
ゴールを通過し、膝へ手をつく。
五十メートルしか走っていないのに、妙に疲れた。
「思ってたより遅いな」
戻ると、大輔が正直な感想を口にした。
「俺もそう思ってるよ」
「体育を見た感じ、もう少し速いと思ってた」
「走る機会が少なかったから、ばれなかっただけだな」
「安心しろ。まだ下はいる」
「慰め方が雑すぎるだろ」
女子の測定も、隣のコースで始まった。
最初に走った明日香は、男子の中へ混じっても目立つほど速かった。
力強く地面を蹴り、最後までほとんど速度が落ちない。
「高瀬、6秒9」
「速っ」
大輔が思わず声を上げる。
「本当に男子より速いな」
「種目によっては、って言っただろう?」
直樹は驚きながらも、どこか納得している様子だった。
明日香本人は記録を聞くと、わずかに眉を寄せた。
「もう少しいけたと思ったんだけどな」
「十分速いでしょ」
千夏が笑いながら声をかける。
「次は千夏の番だぞ」
「分かってるって」
千夏はここあへ手を振り、スタート地点へ向かった。
合図と同時に勢いよく走り出す。
明日香ほどではないが、身体の使い方が軽く、女子の中ではかなり速い。
その姿を眺めていた大輔が、急に黙り込んだ。
「どうした?」
「いや……体力測定って、いい行事だなと思って」
「急に何を言い出すんだよ」
「走ってる姿を見ると、普段とは違う魅力があるだろ」
そう言いながら、大輔の視線は女子のコースからほとんど動いていない。
「大輔君。どこを見ているんだい?」
直樹に穏やかに尋ねられ、大輔はわざとらしく顔を逸らした。
「不可抗力だろ。動くものに目が行くのは生物として当然だろ? あんなに上下に揺れてたら……分かるだろ?」
「気持ちは分からなくもないけど、口に出すなよ」
「ほら、叶多だって分かってるじゃないか」
「分かってても、心の中に留めておけよ」
千夏の次には、里穂とここあが走った。
里穂は髪が乱れるのを気にしていた割に、走り方は綺麗だった。記録も女子の中では平均を上回っている。
ここあはスタートこそ速かったものの、途中から少し速度を落とした。
「疲れたー」
「まだ五十メートルしか走ってないよ」
千夏に言われ、ここあは面倒そうに肩を落としている。
ゆりのは速くはなかったが、最後まで一生懸命に走り切った。
ゴールしたあとも笑顔を崩さず、次に走る玲へ声をかけている。
玲は緊張してスタートで少し遅れたものの、思っていたより悪くない記録だった。
瑞葉の名前が呼ばれる。
「行ってくるね」
「ああ。頑張って」
瑞葉は緊張した様子でスタート地点へ向かった。
隣に並んだのは、前髪少女みはるだった。
「位置について」
二人が構える。
「よーい」
合図と同時に、瑞葉が懸命に駆け出した。
速くはない。
腕の振り方も少しぎこちなく、足運びも綺麗とは言い難かった。
それでも、最後まで速度を落とさずに走っている。
一方のみはるは、開始直後から明らかに身体が重そうだった。
瑞葉が先にゴールへ入り、その数秒後にみはるが続く。
「雛森、9秒4。姫岡、10秒3」
戻ってきた瑞葉は、少し息を切らしながらも笑っていた。
「叶多君と同じくらいだったね」
「本当だな」
「負けたけど」
「0.3秒なら誤差みたいなものだよ、次はどうなるか分からない」
「じゃあ、次は負けないように頑張るね」
瑞葉はそう言って、小さく笑った。