土曜日の午後。
俺は約束の時間より少し早く、洋食喫茶トネリコへ来ていた。
「宗一郎さん、今日はありがとうございます」
「気にしなくていいよ。奥の席は、この時間なら空いていることが多いからね」
宗一郎さんは穏やかに笑いながら、店の奥へ視線を向けた。
四人掛けのテーブルが二つ並べられており、6人で教科書やノートを広げても十分な余裕がある。
「友達と使いたいときは、また声をかけてくれて構わないよ」
「ありがとうございます」
「せっかくなんだから、今日は仕事のことを気にせず楽しんでおいで」
そう言い残し、宗一郎さんはカウンターの中へ戻っていった。
昼の混雑はすでに落ち着いており、客席には数組の客が残っているだけだった。
木を基調とした店内には、静かな音楽が流れている。
俺は奥の席へ移動し、鞄から教科書と問題集を取り出した。
しばらくすると、入口の扉が開き、ベルの音が店内へ響いた。
顔を上げると、大輔と直樹が入ってくるところだった。
「叶多、もう来てたのか」
「ああ。少し早めに来ただけだよ」
「ここがお前のバイト先か」
大輔は興味深そうに店内を見回した。
「昔ながらの喫茶店って感じだな」
「ああ」
「で、何がおすすめだ?」
「一番人気はハンバーグかな。ナポリタンとオムライスもよく出るよ」
「ハンバーグか」
大輔はすぐにメニューを開いた。
「じゃあ、それにしようかな」
「昼飯を食べてきたんじゃないのか?」
「昼は食パン一枚しか食べてないから、腹減ってるんだよな」
直樹はメニュー表に手を伸ばす
「僕も何か頼むよ、タダで使わせてもらうのは悪いからね」
「直樹は何にするんだ?」
「ケーキセットにしようかな」
「甘いもの好きなんだな」
「うん。結構好きだよ」
直樹はショートケーキの写真へ目を向ける。
「飲み物はコーヒーにするよ」
「ブラック?」
「砂糖とミルクは入れるかな。叶多君は何か頼むのかい?」
「そうだな、俺はブレンドにするよ」
注文を伝え終えたところで、入口のベルが鳴った。
顔を上げると、千夏、ここあ、里穂の三人が店内へ入ってくる。
「ここで合ってたね」
千夏が小さく手を上げ、そのままこちらへ歩いてくる。
ここあは眠そうに店内を眺め、里穂も特に何か言うことなく後ろをついてきた。
「思ってたより広いねー」
ここあが奥のテーブルを見て呟く。
「6人でも十分使えるよ」
「なら、教科書も広げられそう」
三人はそれぞれ空いている席へ腰を下ろした。
これで、今日の参加者は全員そろった。
「先に注文決めよっか」
千夏がテーブルの端に置かれていたメニューへ手を伸ばす。
「槻山君、軽く食べるなら何がおすすめ?」
「サンドイッチかな。卵とハムがあるよ」
「じゃあ、卵サンドとオレンジジュースにしようかな」
千夏は迷うことなく決めた。
ここあはメニューを眺め、ケーキのページで手を止める。
「ショートケーキにしよー」
「飲み物は?」
「ミルクティー」
里穂はしばらくメニューを眺めたあと、静かに閉じた。
「私は紅茶とチーズケーキにするわ」
三人の注文が決まったところで、俺は宗一郎さんへ声をかけた。
これでようやく、全員の注文がそろった。
☆
注文を待つ間、俺たちはそれぞれ問題集を開いた。
大輔の数学を見ながら、直樹は英語で分からない部分を確認していく。
千夏たちも最初こそ雑談が多かったが、試験前ということもあって、始めてしまえば思っていたより真面目に取り組んでいた。
しばらくすると、厨房の方から香ばしい匂いが漂ってくる。
真っ先に顔を上げたのは、大輔だった。
「この匂い、ハンバーグ来たんじゃね?」
厨房から宗一郎さんが姿を見せ、湯気の立つ鉄板を運んでくる。
「お待たせ。ハンバーグだよ」
「ありがとうございます」
大輔の前へ置かれた鉄板の上では、デミグラスソースが音を立てていた。
厚みのあるハンバーグに、目玉焼きと温野菜が添えられている。
「うまそう……」
「熱いから気をつけてね」
「はい」
続いて、俺と直樹の飲み物が運ばれてくる。
直樹の前にはショートケーキとコーヒー。
俺の前にはブレンドコーヒーが置かれた。
「直樹君、ケーキ食べるんだ」
千夏が少し意外そうに尋ねる。
「うん。甘いものは結構好きだよ」
「なんか意外」
「そうかな?」
「直樹君って、甘いものよりスポーツドリンクとか飲んでそう」
「それは運動しているときだけだね」
直樹は苦笑しながら、ショートケーキへフォークを入れた。
里穂は何も言わなかったが、一瞬だけ直樹の手元へ視線を向けていた。
やがて、女子三人の注文も届く。
千夏の前には卵サンドとオレンジジュース。
ここあの前にはショートケーキとミルクティー。
里穂の前にはチーズケーキと紅茶が並べられた。
「じゃあ、少し休憩にするか」
「待ってました」
大輔は問題集を閉じると、すぐにナイフとフォークへ手を伸ばした。
「反応早すぎない?」
千夏が笑いながら言う。
「腹減ってたんだから仕方ないだろ」
「今日の目的、忘れてないよね?」
「忘れてないって。食べ終わったらちゃんとやるよ」
「その言葉、信用していいのかな」
「さっきも真面目にやってただろ」
大輔はそう言いながら、切り分けたハンバーグを口へ運んだ。
次の瞬間、目を見開く。
「うっまー!」
「口に入れたまま話すなよ」
注意しても、大輔はすぐに二口目へフォークを伸ばした。
今度はきちんと飲み込んでから口を開く。
「これ、本当にうまいな。肉汁もすごいし、ソースが飯に合う」
「一番人気なのも分かるでしょう?」
宗一郎さんがカウンターの中から笑いながら言う。
「はい。また食べに来ます」
「ありがとう」
大輔の返事だけは、普段よりも真剣だった。
「叶多君も、ハンバーグを作るの?」
千夏が卵サンドを手にしながら尋ねる。
「作れるよ。ただ、店の味として出すなら、宗一郎さんの作り方を覚えないとな」
「お店の味かぁ。そういうの、ちゃんと決まってるんだね」
千夏は感心したように頷き、そのまま卵サンドを一口食べた。
「これ、おいしい」
ここあが千夏の皿へ視線を向ける。
「千夏ー、一個ちょーだい」
「自分のケーキもあるでしょ」
「甘いのとしょっぱいのは別」
ここあは当然のように卵サンドを受け取り、食べ始める。
その向かいでは、里穂がチーズケーキを小さく切り分けている。
「里穂、それおいしい?」
千夏が尋ねた。
「悪くないわ。甘さも控えめだし、紅茶にも合う」
そう答えながらも、里穂はすぐに次の一口へフォークを伸ばしていた。
直樹もショートケーキを食べ終え、満足そうにコーヒーへ口をつけている。
「水瀬君、そんなに甘いものが好きなら、ほかにも詳しいの?」
里穂が何気ない口調で尋ねた。
「詳しいというほどではないよ。見かけたら食べるくらいかな」
「そう」
「里穂さんも甘いものが好きなのかい?」
「嫌いではないわ」
「この近くに、ケーキが評判の店があるらしいよ」
「知ってるわ。駅の反対側でしょう?」
「そうそう。僕も一度行ってみたいと思ってたんだ」
「……へえ」
里穂はそれだけ答え、紅茶へ口をつけた。
興味がないように見せているが、店の場所まで知っているあたり、甘いものは好きなのだろう。
全員の食事が一段落したところで、俺はカップをテーブルの端へ寄せる。
「そろそろ再開しよう」
「もう?」
ここあが椅子の背へ身体を預ける。
「少しくらい食休みしよーよ」
「まだ一時間も勉強してないだろ」
「それとこれとは別」
ここあはそう言って、ミルクティーへ口をつけた。
「はいはい。もう十分休んだでしょ」
千夏が問題集を開き直す。
「せっかく集まったんだから、ちゃんと勉強しよ」
「千夏、真面目ー」
「試験前なんだから当たり前じゃん。ここあも早く開いて」
「今開こうと思ってたのに」
「絶対思ってなかったでしょ」
ここあは不満そうにしながらも、机の端へ寄せていた問題集を手元へ戻した。
「里穂も再開する?」
「私は最初からそのつもりよ」
里穂はすでにシャープペンシルを持ち、次の問題へ目を通している。
「大輔君も、食べ終わったなら再開ね」
「分かった。続きやるか」
大輔は鉄板を端へ寄せ、問題集を開き直した。
直樹もコーヒーカップを端へ寄せる。
「それじゃあ、続きをやろうか」
「ああ」
食後の気の緩んだ空気が、少しずつ勉強会のものへ戻っていった。
大輔は直樹に英語を教わりながら、何度も問題集とノートを見比べている。
千夏と里穂はそれぞれ自分の課題を進め、ここあも途中で何度か手を止めながら、千夏に促されるたびに問題集へ戻っていた。
俺も自分の勉強を進めつつ、声をかけられれば分からない部分を確認する。
そうしているうちに、窓から差し込む光が少しずつ弱くなっていった。
「そろそろ終わりにするか」
時計を確認して声をかけると、大輔が大きく伸びをした。
「終わった……」
「試験はこれからだけどな」
「今日の分が終わったって意味だよ」
大輔は問題集を閉じ、満足そうに息を吐いた。
「でも、来たときよりは分かるようになったぞ」
「今日やったところは、家でもう一度解いておけよ」
「分かってるって」
「ここあもね」
千夏が隣へ顔を向ける。
「分かってるー」
「本当に?」
「多分」
「そこは言い切ってよ」
千夏が呆れたように笑った。
里穂も教材を鞄へ片づけ、紅茶を飲み切る。
「思っていたより悪くなかったわ」
「勉強会が?」
「店も含めてよ」
そう答えると、里穂は何事もなかったように席を立った。
全員で教科書やノートを片づけ、使ったテーブルを簡単に整える。
「宗一郎さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いつでも使っていいからね」
宗一郎さんに礼を言い、俺たちは店を出た。
外はまだ明るかったが、午後三時に集まった頃よりも空気が少し冷えている。
「叶多、次もここでやろうぜ」
大輔がトネリコを振り返りながら言った。
「勉強会が目的ならな」
「もちろん。次はオムライスにする」
「料理が目的になってるじゃないか」
直樹と千夏が笑い、ここあも眠そうに口元を緩める。
勉強会としてどれだけ成果があったかは、試験が終わるまで分からない。
それでも、集まる前より不安そうな顔をしている者はいなかった。
あとは本番まで、それぞれが続けるだけだ。