六月に入った。
窓の外では曇り空の日が増え、朝の空気にも少しだけ湿気が混じり始めている。
そして六月といえば――。
「夏服だ……」
教室へ入った瞬間、大輔が感慨深そうに呟いた。
「朝から何言ってるんだ」
「分かってねぇな、叶多」
大輔は真剣な顔で首を振る。
「衣替えは男子にとって一大イベントなんだよ」
「まあ、言いたいことは分からんでもない」
「だろ?」
「ただ、朝から感動するほどか?」
「当たり前だろ?」
大輔は妙に真剣な顔で言い切った。
「見ろよ」
「何を」
「クラスを」
言われて教室を見渡す。
確かに、昨日までとは雰囲気が違っていた。
冬服の黒いブレザーはなく、白い半袖シャツが目立つ。
胸ポケットには翡翠色の細いライン。
女子のリボンとスカートには、冬服と同じく翡翠を基調にしたチェック柄が使われている。
全体的に軽やかな印象になったはずなのに、聖凰学園らしい上品さは残っていた。
「まあ、雰囲気が変わるのは分かる」
実際、冬服の時とは雰囲気が違う。
「だろ?」
なぜか大輔は満足そうだった。
その時。
「おはよう」
横から声がした。
見ると、直樹だった。
半袖シャツになった直樹は、いつもより少し軽い印象に見えた。
それでも襟元や袖口はきちんとしていて、相変わらず崩れたところがない。
「おはよう」
「おう、おはよう、直樹」
「二人とも何の話をしてたの?」
「衣替えについてだ」
「ああ」
直樹は小さく笑った。
「大輔君が盛り上がってそうな話だね」
「おい、俺だけみたいに言うなよ」
「実際そうだろ」
俺がそう返すと、大輔は少し不満そうに眉を寄せた。
「叶多も分かるって言っただろ」
「理解はできなくないって意味だ」
「ほぼ同じだろ」
「いや、だいぶ違うだろ」
直樹はそのやり取りを聞きながら、自分の席に座った。
その時、教室の入口から明るい声が聞こえてくる。
「おはよー。何の話してんの?」
千夏だった。
夏服になったことで、いつもより軽い印象に見える。
第一ボタンは開いていて、着こなしも相変わらず少し自由だ。
「夏服の話」
「ふーん。やっぱ男の子だねー」
「言い方」
「いやらしい目で見ないでね? 主に大輔君」
「俺だけ名指し!?」
「叶多君と水瀬君は大丈夫そうだし」
「信用の差がひどい」
「日頃の行いじゃない?」
「俺、そんな変なことしてないだろ!」
千夏が笑う。
その後ろから瑞葉も教室へ入ってきた。
「おはよう」
「おはよう、瑞葉」
「おはよー」
瑞葉はいつも通りきちんとしていた。
ただ、冬服の時よりも涼しげで、柔らかい雰囲気が少し強く見える。
「なんか、雰囲気変わったな」
「え、そうかな?」
「ああ。似合ってると思う」
「えっ……ありがとう」
瑞葉は少し照れたように笑った。
「はー……」
横で大輔が大きく息を吐く。
「イケメンってずるいよな」
「何がだよ」
「今のを普通に言えるところだよ」
「褒めただけだろ」
「それができるからずるいんだよ」
大輔はそう言ってから、隣の直樹へ視線を向けた。
「なあ、水瀬」
「僕に振られても困るよ」
「お前もそっち側だろ」
「そっち側って?」
「さらっと褒めても嫌味にならない側」
「人を褒める時は、素直さが大事だと思うけど」
直樹らしい答えだった。
変に構えたり、相手によって態度を変えたりしない。
だからこそ、直樹の言葉には嫌味がないのだろう。
「それができるやつはいいよな」
大輔はまだ納得していない様子で肩を落とした。
「俺が言ったら、たぶん変な空気になる」
「まあ、そこは頑張れ」
「雑!」
大輔が大げさに嘆く。
そんなやり取りをしているうちに、朝のホームルームの時間になった。
衣替えで少し浮ついていた教室の空気は、一時間目の教師が答案用紙の束を持って入ってきた瞬間に引き締まった。
「今日は中間試験の答案を返します」
「……来たな」
大輔が小さく呟く。
教師が名前を呼び、答案用紙が順に返されていく。
教室のあちこちで、小さな息が漏れた。
「うーん……思ったより取れてないかも」
瑞葉が答案を見ながら、少しだけ眉を下げる。
「悪かったのか?」
「悪くはないと思う。でも、もう少し取れてると思ってたから」
瑞葉らしい反応だった。
真面目に勉強していた分、期待との差が気になるのだろう。
ふと反対側を見ると、七瀬さんが机に突っ伏していた。
返された答案は机の上に置かれたまま。
「七瀬さん?」
「……終わった」
小さく漏れた声に、千夏が答案を覗き込む。
「あー……ここあ、補習だ」
「……うん」
否定はなかった。
「ドンマイ」
「……頑張る」
気だるげな返事はいつも通りだったが、机に伏せたまま動こうとはしなかった。
七瀬さんの周りだけ、少しだけ空気が沈んだ。
とはいえ、教室全体はそれどころではない。
答案が返されるたびに、安堵の声や小さな悲鳴があちこちで上がる。
「叶多は?」
大輔がこちらを覗き込んできた。
「悪くはない」
「その言い方、絶対いいやつだろ」
「大きく崩れた教科はなかったな」
「ほら、やっぱり」
大輔は納得したように頷く。
俺としても、手応えと大きなズレはなかった。
満点の教科はなかったが、全体的にかなり取れている。
ただ、A組には他にも成績の良い男子が多い。
これで学年何位になるかまでは、まだ分からない。
「順位は張り出されるまで分からないな」
「それが怖いんだよなぁ」
大輔が机に肘をつく。
「でも俺、数学は思ったより取れてた」
「勉強会の成果か?」
「たぶんな。あの問題、マジで助かった」
そう言って、大輔は少し嬉しそうに笑った。
個別の答案返却が終わっても、教室のざわつきはしばらく収まらなかった。
☆
そして翌日。
昼休みになった途端、大輔が勢いよくこちらを振り返った。
「中間の結果、出たらしいぞ」
「もう張り出されたのか?」
「中央ホールだってよ。見に行こうぜ」
大輔はすでに立ち上がっていた。
答案の手応えは悪くなかった。
けれど、順位となると話は別だ。
「俺も気になるし、行くか」
「だよな」
大輔はそのまま瑞葉たちの方へ声をかける。
「雛森さん、火野さん。順位表出たってさ」
「あ、本当?」
「うわー、ついに来たかー」
千夏が苦笑しながら立ち上がる。
俺たちは人の流れに合わせて、中央ホールへ向かった。
中央ホールへ着くと、すでに大勢の生徒が掲示板を囲んでいた。
「すごい人だな」
「みんな気になるんだろ」
大輔が人混みの隙間から掲示板を覗き込もうと背伸びをする。
「見えねぇ……」
「もう少し前が空くまで待とう」
しばらくすると、人の波が少しだけ落ち着いた。
「今なら見えそうだ」
俺たちは掲示板の前まで歩み寄る。
掲示板には、
『第一学年 中間試験順位(上位五十名)』
と書かれた紙が貼られていた。
自然と視線が、一番上へ向く。
一位――水瀬直樹 486点。
「……さすが直樹だな」
答案返却の時点でかなり取れていることは分かっていたが、こうして一位として名前を見ると改めてすごい。
「おめでとう、直樹」
「ありがとう」
直樹は少し照れたように笑った。
「でも、満点の教科は一つもなかったから、まだまだだよ」
「それで一位なんだから十分すごいだろ」
大輔が呆れたように肩をすくめる。
そのまま視線を下へ移す。
二位には別の男子生徒の名前があり、さらにその下。
三位――神崎里穂 481点。
「神崎さん、三位か」
「女子では一番だね」
瑞葉が感心したように呟く。
「里穂、すごいなー」
千夏も素直に声を上げた。
女子のクラス配属は、男子のような単純な成績順ではない。
面接や活動実績、人柄、学園生活への適性なども含めた総合評価で決まる。
だから、A組の女子だからといって、全員が試験上位というわけではなかった。
その中で学年三位に入っているのだから、神崎さんは学力面でもかなり優秀ということになる。
「里穂って、普段あんまり勉強してる感じ出さないよね」
千夏が感心したように言う。
「見せていないだけじゃないかな」
直樹が穏やかに答えた。
「神崎さんは授業中も集中しているし、提出物も丁寧だと思うよ」
「水瀬君、よく見てるね」
「目立つところだけじゃなくて、普段の積み重ねも結果に出るからね」
直樹らしい答えだった。
さらに順位表を追っていく。
四位、五位、六位、七位と名前が並び――。
八位――槻山叶多 474点。
「あ、叶多!」
千夏が嬉しそうに声を上げた。
「八位じゃん!」
「おお、すげえ!」
大輔まで声を弾ませる。
「すごいね、叶多君」
瑞葉も自分のことのように笑顔を見せた。
「ありがとう」
順位には満足している。
もっと上を目指したい気持ちはあるが、A組には成績の良い男子が多い。
その中で一桁に入れたのは、素直に嬉しかった。
「いや、八位って普通にすごいだろ」
大輔が順位表と俺を交互に見る。
「直樹が一位だから感覚が狂うけど、十分上位だよ」
「いや、槻山君の八位もかなりすごいと思うよ」
直樹が穏やかに言う。
「A組は上位層が厚いからね。その中で一桁に入るのは簡単じゃない」
「そう言ってもらえると助かる」
直樹にそう言われると、素直に嬉しい。
さらに下へ視線を移す。
「大輔は?」
「探すな。いや、探してくれ」
「どっちだよ」
大輔は落ち着かない様子で順位表を見上げていた。
そして――。
十七位――梅原大輔 463点。
「あった」
「十七位じゃん」
俺がそう言うと、大輔は一瞬固まった。
「……マジ?」
「マジ」
「俺、十七位?」
「書いてあるな」
大輔は順位表を見つめたまま、ゆっくり拳を握った。
「よっしゃ……!」
その声には、隠しきれない喜びがにじんでいた。
大輔は決して頭が悪いわけじゃない。
むしろ地頭はいい方だと思う。
ただ、得意不得意がはっきりしているだけだ。
今回十七位に入ったのは、勉強会の成果もあるだろう。
「おめでとう、大輔君」
瑞葉が笑顔でそう言う。
「ありがとう、雛森さん!」
大輔は満面の笑みだった。
「大輔君、ちゃんと勉強してたもんね」
「だろ? 今回は俺、結構頑張ったんだよ」
「珍しく?」
「火野さん、そこは普通に褒めてくれ!」
千夏が楽しそうに笑う。
勉強会を開いた甲斐はあったらしい。
その様子を見ていると、俺まで少し嬉しくなる。
「そういえば……」
ふと、隣の掲示板へ目が向いた。
そこには、第二学年の順位表が張り出されている。
「二年生の順位か」
何気なく一位へ視線を向ける。
一位――天ヶ瀬美紘 488点。
「さすがだな」
思わず小さく呟いた。
仕事ができる人だとは思っていた。
だが、学業でも二年連続一位。
改めて、その凄さを実感する。
「天ヶ瀬先輩、また一位なんだ」
瑞葉が感心したように言う。
「去年も学年一位だったらしいよ」
直樹が付け加えた。
「二年連続か……」
あの人なら納得だ。
そう簡単に並べる相手ではなさそうだ。
そのすぐ下へ視線を移す。
二位、三位と続き――。
四位には、二年書記の榊琴姫先輩の名前があった。
「榊先輩、四位なんだ」
瑞葉が感心したように呟く。
「生徒会って、やっぱり成績いい人ばかりなんだな」
大輔も思わず感心したように言う。
「まあ、生徒会長があの人だからな」
自然と納得してしまう。
仕事もできて、成績も学年一位。
改めて考えると、とんでもない人だ。
俺たちはもう一度順位表へ目を向けてから、昼休みが終わる前に教室へ戻ることにした。