「……はぁ」
最後の坂を上り切ったところで、俺はその場に立ち止まった。
「やっと着いた……」
呼吸がなかなか整わない。
施設を出発してから一時間ほど。途中で何度か休憩を挟んだとはいえ、慣れない山道を歩き続けたせいで、足にもかなり疲れが溜まっていた。
「叶多、大丈夫か?」
少し先を歩いていた大輔が振り返る。
額には汗を浮かべているものの、俺ほど息は乱れていない。
「大丈夫……少し休めば落ち着く」
「運動は本当に苦手なんだな」
「……ああ」
何とか返事をしながら、近くのベンチへ腰を下ろした。
水筒を取り出して一口飲む。
冷たい水が喉を通り、ようやく呼吸が落ち着き始めた。
「まだ帰りもあるぞ」
黒瀬君が淡々と言う。
「今は聞きたくなかったな……」
「事実だから」
「黒瀬、追い打ちかけるなよ」
大輔が笑いながら俺の隣へ座った。
木下君と本田さんも、少し遅れて展望広場へ入ってきた。
本田さんは呼吸を整えるより先に、後ろを歩いている姫岡さんへ振り返る。
「姫岡さん、大丈夫?」
「……はぁ……だ、大丈夫。……もう少しだから」
姫岡さんはそう答えたものの、足取りはかなり重い。
運動が得意ではないらしく、額には汗が浮かび、呼吸も乱れていた。
「急がなくていいわよ。ここまで来れば、あとは少しだから」
「う、うん」
本田さんは姫岡さんが追いつくまでその場で待ち、隣に並んでゆっくりと広場へ入ってきた。
「とりあえず座りましょう。飲み物もちゃんと飲んだ方がいいわ」
「ありがとう、本田さん」
「気にしなくていいのよ。帰りもあるんだから、今のうちに休んでおかないと」
二人が近くのベンチへ向かう。
姫岡さんはかなり疲れているようだったが、無理に平気なふりをせず、本田さんの言葉に素直に従っていた。
俺はベンチに座ったまま、しばらく足を休めた。
少し離れた場所では、木下君が広場の端に立てられた案内板を眺めている。
「ここ、山頂じゃないみたいだよ」
「これだけ登ったのに?」
大輔が不満そうに顔を上げた。
「山頂はもう少し先にあるみたい。でも、ハイキングコースで一番高い場所はここだって」
「じゃあ、実質山頂みたいなものだな」
「違うと思う」
黒瀬君が即座に否定する。
「細かいことはいいだろ。登り切った達成感が大事なんだよ」
「勝手に山頂にするなよ」
話している間にも、乱れていた呼吸は少しずつ落ち着いてきた。
俺は水筒の蓋を閉め、ゆっくりと立ち上がる。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ。息が上がっただけだからな」
「足が震えてるぞ」
「見なかったことにしてくれ」
大輔が笑いながら、俺の背中を軽く叩いた。
「景色くらい見ておかないともったいないぞ」
「そのつもりだよ」
展望広場の端には、転落防止の木製の柵が設けられていた。
その向こうには、緑に覆われた山々が幾重にも連なっている。
厚い雲のせいで遠くの稜線は霞んでいるものの、眼下には俺たちが歩いてきた森が広がり、その向こうには宿泊施設らしき建物も小さく見えた。
「思ったより高いところまで登ったんだな」
「だから疲れたんだろ」
大輔が得意げに答える。
「なんでお前が得意げなんだよ」
「俺が先頭で班を引っ張ったじゃないか」
「途中から黒瀬君の後ろを歩いてたよね」
木下君に指摘され、大輔が視線を逸らした。
「あれは道を譲ったんだよ」
「急な坂で歩く速度が落ちたから抜かれただけだろ」
「叶多は息を整えることに集中してたくせに、よく見てるな」
「大輔が俺の前にいたから、嫌でも見えたんだよ」
俺はスマホを取り出し、柵の向こうへ向けた。
バスの中から撮った景色とは違い、今度は木々に遮られることなく山並みを見渡せる。
手前の森が入るように角度を調整し、何枚か撮影した。
「写真か?」
「ああ。ここまで登った記念にはなるだろ」
「俺も撮ろう」
大輔も隣に立ち、スマホを構える。
「今度はガードレールもないから、うまく撮れるはずだ」
「まだ気にしてたのか」
「帰ったあとで叶多の写真と比べるからな」
「勝負じゃないって言っただろ」
大輔は聞いているのかいないのか、場所を変えながら何度もシャッターを切っていた。
後ろを振り返ると、本田さんと姫岡さんもベンチから立ち上がっていた。
「もう平気なの?」
本田さんが尋ねる。
「う、うん。だいぶ楽になった」
「それならよかった。でも、無理はしないでね」
「ありがとう」
二人はゆっくりとこちらへ歩いてきた。
姫岡さんは柵の前に立つと、遠くの山ではなく、眼下に広がる森をじっと見下ろした。
「姫岡さん、こういう景色が好きなの?」
本田さんが尋ねる。
「好きというか……少し、ゲームみたいだなって」
「ゲーム?」
俺が聞き返すと、姫岡さんは小さく頷いた。
「高い場所に登って、周りの地形を確認するゲームがあるから」
「そこから次に行く場所を探すのか?」
「うん。遠くに見える建物とか、森の切れ目とかを見つけて、実際にそこまで行けるの」
先ほどまで途切れがちだった姫岡さんの言葉が、少しずつ滑らかになっていく。
「高い場所からじゃないと見つけられない道もあって、地図には何も書かれてないけど、木の生え方とか川の流れを見れば入口が分かるようになってるの。それに、時間帯や天気で見えるものが変わるから、一度登っただけじゃ全部は見つけられなくて……」
「ずいぶん詳しいんだな」
「そのゲーム、何周もしたから」
「何周も?」
「3周。選んだ仲間によって入れない場所があるし、2周目から追加される依頼もあるから、全部見るならそれくらい必要なの」
姫岡さんはそこで言葉を止めた。
俺たちが自分を見ていることに気づいたらしい。
顔を伏せ、前髪の奥に隠れるように少しだけ背中を丸める。
「ご、ごめん。急にこんな話して」
「いや、面白そうじゃん。そのゲーム、何てタイトル?」
大輔が興味を示すと、姫岡さんが少しだけ顔を上げた。
「『ユグドラシル・レプリカ』」
「ああ、聞いたことある。探索の自由度が高いって評判のやつだろ?」
「う、うん。地図に表示されない場所も多くて、自分で周りを見ながら探すの」
「地図に出てない場所まで探すのか?」
俺が尋ねると、姫岡さんは小さく頷いた。
「最初から全部分かってたら、探索する意味がないから」
「目的地とは関係ない場所にも行くの?」
「行く。むしろ、そういう場所に珍しい道具やイベントが隠されてることが多いの」
「分かる。寄り道はゲームの醍醐味だからな」
大輔が楽しそうに話へ加わる。
「目的地を無視して探索してる時間が、一番楽しかったりするんだよ」
「うん。気づいたら、本来の目的を忘れてたりする」
「それも含めて楽しいんだよな」
これまでゲームをやったことのない俺には、二人の話を聞いても、まだ実感までは湧かなかった。
それでも、楽しそうに話す二人を見ているうちに、少しずつ興味が湧いてくる。
「ゲームって、決められた道を進むだけじゃないんだな」
「作品によるけど、『ユグドラシル・レプリカ』はオープンワールドのゲームで、自分で行き先を決められるの。だから、同じゲームでも人によって進み方が全然違う」
「同じゲームなのに、人によって違う冒険になるのか。それは面白いな」
俺がそう答えると、姫岡さんは前髪の奥でわずかに表情を緩めた。
「ゲームはやったことないけど、話を聞いてたら少しやってみたくなったな」
「……本当に?」
「ああ。何から始めればいいかは分からないけど」
「それなら、『ユグドラシル・レプリカ』は少し難しいかも。槻山君が最初にやるなら、もっと操作が分かりやすいゲームの方がいいと思う」
「初心者向けのゲームもあるのか?」
「うん。物語を追いながら操作を覚えられるものもあるし、失敗してもすぐやり直せるゲームもあるから」
「そういうゲームもあるなら、初心者でも始めやすそうだな。何かおすすめを教えてくれないか?」
「おすすめ?」
「ああ。どうせなら、自分の知らないゲームをやってみたい」
姫岡さんは少し考えるように俯いた。
「じゃあ、RPGはどう?」
「RPG?」
「主人公を操作して、仲間と一緒に物語を進めるゲーム。戦ったり、街を調べたりしながら、少しずつできることが増えていくの」
「初めてでもできるのか?」
「作品によるけど、操作が難しくないものもあるよ。それなら、『アンビバレンス』がいいかも」
「どんなゲームなんだ?」
「現代の街が舞台のRPG。最近、鏡の前で人が消えるっていう噂が広がってて、主人公たちはその行方不明事件を追うことになるの」
「鏡の前で?」
「うん。適性を持った人だけが、鏡を通って現実と重なっている反転世界に入れるの。そこには、現実では隠されている感情や記憶が景色になって現れるの」
「じゃあ、その世界に消えた人たちがいるかもしれないってことか」
「そう。反転世界を探索して、異変の原因を探していくの。放っておくと、反転世界が現実を侵食していくから」
「街を調べながら物語を進めるのか」
「うん。反転世界の街を調べたり、そこに現れる敵と戦ったりしながら進める感じ。戦闘は順番に行動を選ぶ方式だから、操作もそこまで難しくないと思う」
「昔からあるゲームなの?」
「『アンビバレンス』シリーズの1作目は、かなり前に出たゲーム。でも、最近リメイク版が発売されたから、今からでも遊びやすいよ」
「古いゲームを、そのまま新しく作り直したのか?」
「うん。映像や操作も新しくなってるし、初めて遊ぶ人にも分かりやすく調整されてるの」
「シリーズ物なら、1作目から順番に遊んだ方がいいのか?」
「物語や主人公は作品ごとに違うから、どれから始めても大丈夫。でも、リメイク版は説明が丁寧だから、初めてなら向いてると思う」
「それなら始めやすそうだな。戦い方にも特徴があるのか?」
「敵と味方には、それぞれ表と裏の状態があるの。状態を切り替えると使える技や弱点が変わるから、相手に合わせて入れ替えながら戦う」
「少し考える必要はありそうだけど、面白そうだな」
「最初は使える技も少ないし、物語を進めながら少しずつ覚えられるから大丈夫」
「それなら、俺でもできそうだな」
姫岡さんは、前髪の奥で頬を赤くしながら、意を決したように口を開く。
「か、
名前で呼ぶ声は、少しだけ震えていた。
もう少し詳しく聞いてみたかったが、広場の端から教師の声が響く。
「休憩時間はあと五分です。各班、下山の準備を始めてください」
周囲にいた生徒たちが、水筒やタオルを鞄へ戻し始めた。
「もうそんな時間か」
大輔がスマホで時刻を確認する。
「ゲームの話をしてたら、あっという間だったな」
「続きは戻ってからでもできるでしょう?」
本田さんが姫岡さんへ微笑みかける。
「う、うん」
「その前に、せっかくだから六人で写真を撮らない?」
「いいですね。ここまで登った記念にもなるし」
木下君が賛成し、周囲を見回した。
少し離れた場所には、別の班の様子を見ていた真壁先輩が立っている。
「俺が頼んでくるよ」
大輔が真壁先輩のもとへ向かい、すぐに戻ってきた。
「撮ってくれるって」
俺たちは木製の柵を背にして並ぶ。
本田さんが姫岡さんを隣へ招き、大輔と黒瀬君、木下君も空いている場所へ入った。
「撮るぞ」
真壁先輩の声に合わせ、全員でカメラへ顔を向ける。
数回シャッター音が鳴ったあと、スマホを返してもらった。
画面には、曇り空と連なる山々を背景にした六人の姿が収まっている。
「黒瀬、もう少し笑えなかったのか?」
写真を覗き込んだ大輔が言う。
「笑ってる」
「いつもと同じ顔だろ」
「普段より少しだけ笑ってる」
「分からないって」
木下君と本田さんが笑う。
姫岡さんも画面を覗き込み、前髪の奥でわずかに口元を緩めていた。
「叶多、その写真あとで俺にも送ってくれ」
「ああ」
「……私も、欲しい」
「もちろん。送るよ。連絡先、教えてもらってもいい?」
「う、うん」
姫岡さんがスマホを取り出す横で、大輔が信じられないものを見るように俺を見た。
「叶多、お前……女子に連絡先を聞くとか、怖いもの知らずだな」
「写真を送るのに必要だろ」
「必要でも、普通はそんな簡単に聞けないんだよ」
木下君も驚きを隠せない様子で頷く。
「それを何のためらいもなく言えるのは、すごいと思う」
「変に考えすぎるんだよ」
「だからって、そんな簡単に聞けるか?」
大輔は呆れたように肩を落とした。
姫岡さんと互いの連絡先を登録し、画面に表示された名前を確認する。
「これで送れるな」
「ありがとう」
姫岡さんは追加された連絡先を見つめながら、小さく頷いた。
もう一度教師から出発を促す声が聞こえ、俺たちは水筒やスマホを鞄へしまう。
「下りなら、行きよりは楽そうだな」
大輔が軽い調子で言った。
「でも、下りの方が脚や膝には負担がかかるらしいよ。滑りやすい場所もあるみたいだし、気をつけた方がいいと思う」
木下君が地図を見ながら答える。
「じゃあ、帰りも楽じゃないのか」
「山道なんだから当然だろ」
黒瀬君が淡々と言った。
本田さんは立ち上がった姫岡さんへ目を向ける。
「歩けそう?」
「うん。休んだから大丈夫」
「疲れたら、すぐに言ってね」
「分かった」
俺も足首を軽く動かしてみる。
呼吸はすっかり落ち着いていたが、脚にはまだ疲れが残っていた。
俺は地図を広げ、帰りの道順を確認する。
「途中までは来た道を戻って、その先の分かれ道から沢沿いのコースに入るみたいだな」
「今度こそ叶多が先頭か?」
「地図を持ってるだけだ。全員で確認しながら進むぞ」
「分かってるって」
六人が揃ったことを確認し、俺たちは展望広場をあとにした。
先ほどまでゲームの世界について話していた姫岡さんも、今は足元へ視線を落とし、慎重に山道を歩いている。
俺も滑りやすい土へ注意しながら、現実の山道を一歩ずつ下り始めた。