翌朝。
起床を知らせる放送が流れ、俺はゆっくりと上体を起こした。
「……痛いな」
布団から立ち上がろうとした瞬間、ふくらはぎに鈍い痛みが走る。
昨日のハイキングで使った脚に、予想どおり筋肉痛が残っていた。
「叶多もか?」
隣の布団では、大輔が顔をしかめながら膝を曲げている。
「ああ。歩けないほどじゃないけどな」
「俺も同じだ。昨日の風呂では治った気がしてたのに」
「気分の問題だって自分で言ってただろ」
「そうだった」
大輔は諦めたように息を吐き、布団から立ち上がった。
直樹はすでに着替えを済ませ、軽く脚を伸ばしている。
「二人とも、少し体を動かした方が楽になると思うよ」
「朝から元気だな」
「僕も多少は張ってるよ。部活の練習のあとほどではないけどね」
同じ道を歩いたとは思えない余裕だった。
俺も昨日教わった動きを思い出しながら、固くなった脚をゆっくりと伸ばす。
最初は痛みがあったものの、しばらくすると少しずつ動きやすくなってきた。
洗面と着替えを済ませ、布団を整えてから食堂へ向かう。
朝食は焼き魚、卵焼き、味噌汁と白いご飯だった。
窓の外は昨日に続いて曇っていたが、今のところ雨が降る気配はない。
「今日は最初にオリエンテーリングだったよな」
大輔が味噌汁を飲みながら確認する。
「そのあとが水辺の調査だよ」
木下君がしおりを開いて答えた。
「昨日みたいな山登りじゃないなら大丈夫だ」
「油断して道を間違えないようにな」
黒瀬君が言う。
「今日はお前と一緒なんだから、そこは任せる」
「最初から全部任せるつもりなのか?」
「地図を見るのは二人でやるって」
二人の会話を聞きながら、俺も今日の予定を確認する。
午前中は、決められたペアで施設周辺の地点を回るオリエンテーリングだ。
俺の相手は姫岡さん。
昨日のハイキングではかなり疲れていたようだが、朝食を食べている様子を見る限り、体調に問題はなさそうだった。
食事を終えたあと、一度部屋へ戻って必要な物を準備する。
集合時間が近づくと、俺たちは広場へ向かった。
☆
広場には、すでに決められた相手と並んで待っている生徒が集まっていた。
姫岡さんは少し離れた場所に一人で立っている。
俺に気づくと、前髪の奥で視線を揺らし、髪へ軽く手を触れた。
「おはよう、姫岡さん」
「お、おはよう……叶多君」
「脚は大丈夫か?」
「うん。少し痛いけど、歩ける」
「俺も同じだ。今日は昨日ほど長く歩かないらしいから、無理をしなければ大丈夫だと思う」
「うん」
「今日はよろしく」
「よ、よろしく」
姫岡さんは小さく頷き、俺の隣へ並んだ。
昨日よりも返事がぎこちない気がする。
「緊張してるのか?」
「少しだけ」
「競争があるわけじゃないみたいだし、気楽に回ればいいと思う」
「……うん」
姫岡さんはもう一度頷いたが、なぜか顔を少し伏せた。
やがて施設の職員が前へ立ち、オリエンテーリングの説明を始める。
各ペアには施設周辺の地図と記録用紙が渡され、地図に示された地点を自由な順番で回る。
それぞれの地点には問題や目印が用意されており、答えを記録用紙へ書き込んでいくらしい。
制限時間内に広場へ戻ればよく、すべての地点を回る必要はない。
走ることや、地図に示された道から外れることは禁止されていた。
俺たちも地図と記録用紙を受け取る。
「最初はどこへ行く?」
地図を姫岡さんにも見えるように広げた。
「ここが近いと思う」
姫岡さんが、現在地の近くにある印を指差す。
「じゃあ、そこから回ろう」
開始の合図とともに、ペアごとに広場から出発した。
昨日は六人で歩いていた道を、今日は姫岡さんと二人で進んでいく。
周囲にはほかのペアもいたが、それぞれ選んだ地点が違うため、少し進むと人の数は減っていった。
姫岡さんは俺の半歩ほど後ろを歩いている。
歩幅が俺より小さいことに気づき、少しだけ速度を落とした。
しばらくすると、姫岡さんが隣へ並ぶ。
「……ありがとう」
「何が?」
「ううん。何でもない」
姫岡さんは顔を伏せたまま、俺の隣を歩き続けた。
しばらくして、こちらを見上げるように顔を動かした。
「叶多君は……こういうの、平気なんだね」
「こういうの?」
姫岡さんは少しだけ言いよどんだ。
「女の子と二人で歩くこと」
「少しは緊張するよ。でも、姫岡さんと一緒なら安心する」
「……安心?」
「ああ。昨日も一緒に話したし、姫岡さんとは落ち着いて話せるから」
姫岡さんは少し俯いた。
前髪の隙間から見える頬が、ゆっくりと赤くなっていく。
「私も……叶多君と一緒なら、安心する」
「そうか。それならよかった」
「うん」
姫岡さんは顔を伏せたまま、小さく頷いた。
それからは、先ほどよりも少し近い位置で俺の隣を歩いていた。
最初の地点は、林の入口に立てられた案内板の近くにあった。
問題用紙には、この周辺で見られる鳥の名前を答えるよう書かれている。
「くちばしが細くて、尾が長い鳥……か」
案内板には何種類もの鳥が描かれていたが、似たような色の鳥も多く、すぐには判断できなかった。
「候補は、この二つだと思う」
姫岡さんが案内板の一部を指差す。
「もう分かったのか?」
「まだ。でも、問題文に『目の横に白い線』って書いてあるから……こっち」
姫岡さんは、片方の鳥の絵を指先で示した。
言われて見れば、確かに目の横へ細い白い模様が入っている。
「本当だ。俺はくちばしと尾しか見てなかった」
「全部の特徴を一つずつ消していけば、分かりやすいから」
「なるほど。こういう探し方をするのか」
「ゲームでも、似たアイテムの違いを見つけることがあるから」
姫岡さんは少しだけ恥ずかしそうに言った。
「今のはかなり助かったよ」
「……うん」
記録用紙へ答えを書き込み、次の地点へ向かう。
二つ目の地点は、いくつかに分かれた道の先にあるらしい。
地図を確認しながら進んだが、途中の分岐で足を止めた。
「右だと思うんだけど、こっちの道は地図より細いな」
「左かも」
姫岡さんが地図を覗き込む。
肩が触れそうなほど近くまで寄ってきた直後、何かに気づいたように一歩離れた。
「どうした?」
「な、何でもない」
「そうか。それで、左だと思う理由は?」
「地図に小さな三角の印があるでしょう?」
「ああ」
「あの木についてる札にも、同じ印があるから」
姫岡さんが指した先を見る。
木の幹につけられた小さな札に、確かに地図と同じ形の印が描かれていた。
「本当だ。よく気づいたな」
「ゲームでも、目印を探しながら進むことが多いから」
「そういうところまで見るんだな」
「地図だけ見てると、見落とすこともあるから」
「助かるよ。俺だけなら普通に通り過ぎてた」
姫岡さんはしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「私も、役に立ててる?」
「ああ。俺一人だったら、今の分かれ道で右へ進んでたと思う」
「……よかった」
前髪に隠れて表情はよく見えなかったが、声は少し嬉しそうだった。
二つ目の地点では、周辺に設置された写真と同じ場所を探す課題が出された。
姫岡さんが写真に写る特徴的な岩を見つけ、俺が記録用紙へ場所を書き込む。
その後も二人で相談しながら、順番に地点を回っていった。
四つ目の地点へ向かう途中、前方から木下君と本田さんが歩いてきた。
「あら、二人とも順調そうね」
本田さんが俺たちを見て微笑む。
「今のところは、道を間違えずに回れてます」
「姫岡さん、脚は大丈夫?」
「うん。大丈夫」
姫岡さんは、本田さんの方を見て答えた。
「叶多君が、ゆっくり歩いてくれてるから」
「そう。それなら安心したわ」
「本田さんたちは、どこまで回ったんですか?」
「私たちは三か所よ。次は向こうの広場へ行くところ」
木下君が地図をこちらへ見せる。
「残り時間を考えると、あと二か所くらい回れそうだね」
「俺たちも同じくらいです」
「じゃあ、戻る時間には気をつけよう」
「ああ」
木下君たちと別れ、俺たちは次の地点へ向かった。
しばらく歩くと、今度は少し離れた道から大輔の声が聞こえてくる。
「だから、こっちで合ってるって!」
「地図では反対方向だ」
「でも、あっちに人が歩いてるぞ」
「同じ地点へ向かってるとは限らないだろ」
大輔と黒瀬君が、地図を挟んで立ち止まっていた。
「順調か?」
声をかけると、大輔がこちらを見る。
「順調だ。今、次に行く道を確認してた」
「大輔が人についていこうとしてただけ」
「確認してただろ?」
「地図は見てなかった」
「今から見るところだったんだよ」
二人の様子を見る限り、問題なく回れているらしい。
「姫岡さんたちは、何か所回ったんだ?」
「今から四つ目だ」
「俺たちも同じくらいだな。負けないぞ」
「順位を競う活動じゃないだろ」
黒瀬君が淡々と言う。
「分かってるけど、少しくらい張り合った方が楽しいだろ」
大輔はそう言い残し、黒瀬君と一緒に反対方向へ歩いていった。
俺たちも四つ目の地点を終え、残り時間を確認する。
「あと二十分くらいだな」
広場へ戻る時間を考えると、もう一か所なら余裕を持って回れそうだった。
地図の端には、少し離れた場所にも地点が示されている。
「どうする? 近い方へ行って戻るか、少し遠い方まで行くか」
姫岡さんは地図へ視線を落とした。
「遠い方に行ったら、間に合わない?」
「普通に歩けば間に合うと思う。ただ、あまり余裕はないな」
「……行きたい」
「分かった。ただし、走らずに行こう」
「うん」
少しだけ歩く速度を上げ、その地点へ向かう。
姫岡さんも遅れずについてきていたが、無理をしていないか何度か様子を確認した。
「大丈夫か?」
「大丈夫。まだ歩ける」
「きつくなったらすぐ言ってくれ」
「うん」
その地点に用意されていたのは、数種類の葉から指定された木のものを選ぶ問題だった。
俺はどれも同じように見えたが、姫岡さんは案内板と葉の形を何度か見比べ、一つを選んだ。
「これだと思う」
「葉の端が説明と同じだな」
二人で確認し、答えを記入する。
「これで五か所目だ」
「あとは戻るだけ?」
「ああ。時間にも間に合いそうだ」
姫岡さんは記録用紙を見つめたまま、少しだけ黙った。
「……もう終わりなんだ」
「思っていたより早く回れたな」
「うん」
「疲れたか?」
「違う」
姫岡さんは小さく首を横へ振る。
「楽しかったから……少しだけ、早いと思っただけ」
「そうか。俺も楽しかったよ」
「本当?」
「ああ。姫岡さんが目印を見つけてくれなかったら、何度か道を間違えてたと思う」
「……私と一緒でも、楽しかった?」
姫岡さんは不安そうに、こちらを見上げた。
「もちろん。姫岡さんと相談しながら回れたから楽しかったんだと思う」
「……そっか」
姫岡さんは小さく呟き、少しだけ俯いた。
前髪の隙間から見える頬が、ほんのり赤くなっている。
「どうした?」
「な、何でもない」
「そうか。そろそろ戻らないと時間がなくなるぞ」
「うん」
姫岡さんは俺の隣へ並び、来た道を戻り始めた。
先ほどよりも少しだけ、歩く距離が近くなっている気がした。
広場へ到着したのは、制限時間の数分前だった。
職員へ記録用紙を渡すと、五か所すべての答えが合っていることを教えられる。
「全部正解だったな」
「うん」
「姫岡さんのおかげだよ」
「叶多君も、一緒に考えてくれたから」
姫岡さんは記録用紙を見ながら、小さく答えた。
周囲には、先に戻っていた生徒たちが集まっている。
木下君と本田さんの姿もあり、少し遅れて大輔と黒瀬君も広場へ戻ってきた。
「間に合った!」
大輔が安心したように息を吐く。
「最後に道を間違えそうになったからだろ」
「間違える前に気づいたんだから問題ない」
「気づいたのは俺だ」
二人は言い合いながらも、無事に活動を終えたようだった。
全員が戻ったところで、職員から簡単な結果発表が行われる。
俺たちのペアが特別上位というわけではなかったが、五か所すべてを正解できたことには十分満足していた。
短い休憩を挟んだあと、今度は昨日と同じ六人の班に分かれ、水辺での調査へ向かうことになった。
水辺で使うタオルや筆記用具を準備するため、俺たちは一度宿泊棟へ戻る。
部屋で鞄を開いていると、隣で大輔が旅行鞄からなぜか水着を取り出した。
「水辺ってことは、着替えた方がいいのか?」
「……それ、持ってきてたのか?」
「水辺の調査って書いてあったから、一応な」
「泳ぐ活動ではないと思うけど」
木下君がしおりを確認しながら言う。
「濡れてもいい服装とは書いてあるけど、水着とは書いてないよ」
「え、使わないのか?」
「少なくとも、水着に着替えろとは書いてないな」
黒瀬君が淡々と答える。
大輔は手にした水着を見下ろし、少しだけ考え込んだ。
「いや、でも水辺の調査だろ? 濡れてもいい格好の方がいいよな」
「それはそうだけど、水着で行く必要はないと思うよ」
木下君が苦笑する。
「上はジャージ着るから大丈夫だって。下だけ水着にしておく」
「本当にその格好で行くのか?」
「ああ。濡れても平気だし、動きやすいし、完璧だろ」
「完璧かどうかは分からないけど、理屈は通ってるね」
直樹が少し困ったように笑う。
大輔は妙に自信ありげな顔で、水着とジャージを持って洗面所の方へ向かった。
「……あいつだけ、活動への備え方が違うな」
「方向性は間違ってる気がする」
黒瀬君がそう言うと、木下君も否定しなかった。
水辺の調査へ向かう前から、すでに少し不安になってきた。