水辺の調査を終えて施設へ戻る頃には、午後もだいぶ進んでいた。
昼食を済ませてから出発したとはいえ、午前中のオリエンテーリングに続いて水辺を歩き回ったせいで、さすがに体は重い。
「午前中からずっと動きっぱなしだったな……」
大輔が宿泊棟へ向かいながら、少し疲れたように肩を回した。
「途中から妙にはしゃいでたからだろ」
「せっかく水着を着ていったんだから、少しくらい水に入りたくなるだろ」
「調査が目的だったんだけどね」
木下君が苦笑する。
結局、水辺の調査で川へ入ったのは、基本的には足首から膝下までだった。
ただ、大輔だけは浅瀬の少し深い場所まで進み、膝上あたりまで水に浸かっていた。
下は水着、上はジャージという格好だったため、濡れても平気だと本人は得意げだったが、調査でそこまで深く入る必要はなかったと思う。
「まあ、濡れても平気だったから正解だろ」
「正解だったかどうかは分からないな」
黒瀬君が淡々と言う。
「でも、楽しそうだったのは伝わったわ」
本田さんがそう言うと、大輔は少しだけ胸を張った。
「だろ?」
「褒めたつもりじゃないと思うぞ」
そんな会話をしながら、一度宿泊棟へ戻って着替えと休憩を済ませる。
そして休憩を挟んだあと、俺たちは次の活動である飯ごう炊さんのため、屋外の炊事場へ向かった。
炊事場には、班ごとに使う作業台とかまどが並んでいる。
近くには水道もあり、野菜を洗う場所や調理道具を置く棚も用意されていた。
空は相変わらず曇っていたが、雨が降る様子はない。
昨日からずっと曇り空が続いているせいで、日差しは弱い。その分、火を使うには少し楽かもしれない。
職員から説明があり、今日のメニューはカレーとご飯だと告げられた。
班ごとに米、野菜、肉、カレールーが配られる。
道具は包丁、まな板、鍋、飯ごう、ざる、ボウルなど、必要なものは一通りそろっているらしい。
「では、各班で役割を決めてください。火を扱う人、食材を切る人、米を研ぐ人で分かれると進めやすいです。ただし、包丁や火の扱いには十分注意してください」
説明を聞き終えたあと、俺たちは班の作業台へ集まった。
班の顔ぶれは、昨日のハイキングと変わらない。
俺、大輔、木下君、黒瀬君、本田さん、姫岡さんの六人だ。
「よし。役割を決めようぜ」
大輔がやる気ありげに言う。
「大輔は何をやるつもりなんだ?」
「火起こしだな。こういうのは任せろ」
「大丈夫か?」
「火を扱うんだから、さすがにふざけないって」
「それなら頼む」
大輔はそう言うと、薪の置かれた場所へ向かった。
「火起こしは説明どおりにやった方がいいね。僕はしおりを見ながら手順を確認するよ」
木下君がしおりを開く。
「なら、俺は薪と水を用意する」
黒瀬君が静かに続いた。
「足りなくなってから取りに行くより、先にそろえておいた方がいいだろ」
「助かる」
木下君が頷く。
「お米は私が研ぐわ。飯ごうの準備もやっておくわね」
本田さんが米の入った袋を手に取った。
「お願いします」
「任せて。こういうのは丁寧にやらないと、あとで困るもの」
本田さんはそう言うと、飯ごうとざるを持って水道の方へ向かった。
残ったのは、野菜と肉の下処理だ。
「姫岡さん、野菜を洗うのを手伝ってもらっていいか?」
「う、うん」
「洗い終わったら、皮むきもお願いしたい。急がなくていいから、手を切らないようにゆっくりで大丈夫だ」
「分かった」
姫岡さんは小さく頷き、じゃがいもとにんじんをボウルへ移した。
配られた食材は、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、鶏肉。
カレーとしては定番の組み合わせだが、班で作るとなると、切り方や火の通し方で仕上がりは変わる。
俺はまな板と包丁を準備し、まずは玉ねぎの皮をむいた。
姫岡さんが野菜を洗っている間に、玉ねぎを食べやすい大きさに切っていく。
「叶多君、手つきが慣れてるね」
木下君がかまどの方から感心したように言った。
「将来は、料理の道に進みたいと思ってるからな。家でもよく作ってるんだ」
「なるほど。それでそんなに慣れてるんだ」
「まだ勉強中だけどな」
その間に、姫岡さんが洗い終えた野菜を持って戻ってくる。
「叶多君、洗えた」
「ありがとう。じゃがいもの皮むき、できそうか?」
「うん。たぶん」
「無理に急がなくていい。形が少しくらい残っても、あとで整えるから」
「分かった」
姫岡さんはピーラーを手に取り、慎重にじゃがいもの皮をむき始めた。
本田さんは水道のそばで米を研いでいる。
力任せにこするのではなく、水を替えながら丁寧に研いでいた。
「本田さん、慣れてますね」
「家で少しやるからね。お米は雑に扱うと、あとで分かるのよ」
本田さんは研ぎ終えた米を飯ごうへ移し、水を注いだ。
「飯ごうだと炊飯器と勝手が違うけど……このくらいね」
飯ごうの内側の目盛りと水面を見比べてから、本田さんは小さく頷く。
「少し吸わせてから火にかけましょう」
本田さんは飯ごうを作業台の端へ置いた。
米に水を吸わせている間に、こちらも野菜の準備を進める。
姫岡さんがむいてくれたじゃがいもを受け取り、一口大に切っていく。
切ったじゃがいもは、そのままボウルの水へ入れた。
「水に入れるの?」
姫岡さんが不思議そうに尋ねる。
「ああ。切ったまま置いておくと色が変わりやすいし、表面のでんぷんも少し落ちるからな」
「そうなんだ」
「長くつけすぎる必要はないけど、少しさらしておく」
続けて、にんじんを切る。
火の通りがそろうように、じゃがいもより少し小さめにする。
角は軽く落とし、切り落とした端は捨てずに小皿へ分けた。
「叶多、それ何してるんだ?」
「にんじんとじゃがいもの角を少し落としてる」
「角?」
「そのまま煮ると崩れやすいからな。軽く面取りしておくと、形が残りやすい」
「カレーでそこまでやるのか」
「こういうひと手間で、仕上がりが少し変わるからな」
そう答えると、大輔は小皿に分けた野菜の端を見る。
「その端は捨てるんじゃないのか?」
「あとで炒める」
「端っこも使うのか」
「食べられる部分だからな」
特別なことをしているつもりはない。
普段からやっていることを、そのまましているだけだ。
けれど、班のみんなは少し意外そうにこちらを見ていた。
野菜の下処理をすべて終えてボウルへ移すと、俺はまな板と包丁を水道へ持っていった。
洗剤を使ってきれいに洗い、手も改めて洗ってから作業台へ戻る。
それから鶏肉の包みを開いた。
「叶多、今度は肉か?」
薪を運んでいた大輔が、こちらを覗き込んでくる。
「ああ。余分な脂と筋を取っておく」
「そんなことまでするのか?」
「硬い筋は取った方が食べやすいからな。脂は少しだけ使う」
「使うのか?」
「炒めるときに香りを出して、あとで取り出す。残すと食感が悪くなるから」
包丁の刃先を使い、白く残った脂や硬そうな筋を軽く外していく。
硬い筋は取り除き、使えそうな脂だけを小皿へ分けた。
飯ごう炊さんでそこまでやる必要があるかと言われれば、必須ではない。
それでも、気づいたところをそのままにしておくのは落ち着かなかった。
職業病みたいなものだろう。
料理として出す以上、できる範囲で少しでもおいしくしたいと思ってしまう。
下処理を終えた鶏肉を食べやすい大きさに切り、塩を少しだけ振ってなじませる。
「肉に何かかけたのか?」
「塩で軽く下味をつけただけだ。煮込む前に少し味を入れておくと、肉だけ浮きにくい」
「カレーってルーを入れれば全部同じ味になるんじゃないのか?」
「だいたいはそうだけど、少し違う」
「少し違うのか」
大輔は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。
やがて大輔が、かまどの前から声を上げる。
「叶多、火はこんな感じでいいか?」
見ると、薪に火が移り始めていた。
まだ勢いは弱いが、鍋をかける前なら十分だろう。
「ああ。最初はそれくらいでいいと思う。強すぎると焦げやすいから、少しずつ安定させよう」
「了解」
「鍋を置く準備をするよ」
木下君が鍋を持ち、黒瀬君が横から支える。
俺は鍋に油を薄く引き、取っておいた鶏の脂を少し入れた。
火が入ると、脂がじわりと溶けて、鶏の香りが立ち始める。
「それ、さっき取ってた脂か?」
「ああ。少し香りを出す」
「そのまま入れるのか?」
「いや、脂が出たら取り出す。残すと食感が悪くなるからな」
箸で軽く転がしながら火を入れ、脂が出たところで小皿へ取り出す。
鍋には、薄く油と鶏の香りだけが残った。
そこへ野菜の切れ端と玉ねぎを加える。
じゅう、と小さな音がして、玉ねぎの香りが広がった。
「端っこから入れるんだな」
「香りを出したいからな。焦がさないように軽く炒める」
「本当に端っこが仕事してる」
大輔が妙に感心したように言った。
玉ねぎが少し透き通ってきたところで、下味をつけておいた鶏肉を入れる。
表面の色が変わるまで炒めてから、にんじんを加えた。
「じゃがいもはまだ入れないの?」
姫岡さんがボウルを見ながら尋ねる。
「先ににんじんだな。じゃがいもは崩れやすいから、少しあとで入れる」
「順番もあるんだ」
「全部一緒に入れてもカレーにはなるけど、火の通り方が変わるからな」
にんじんに油が回ったところで、水を加える。
鍋の中で具材が揺れ、湯気が少しずつ上がり始めた。
「じゃがいも、入れてもいい?」
「ああ。そっと入れてくれるか?」
「うん」
姫岡さんはボウルを持ち、じゃがいもを鍋へ入れた。
慌てず、跳ねないようにゆっくりと。
「そんな感じで大丈夫だ」
「……よかった」
小さく返事をして、姫岡さんは鍋の中をじっと見つめる。
「叶多君、料理してるとき、落ち着いてるね」
「そうか?」
「うん。見てると、少し安心する」
「包丁や火を使うからな。慌てない方がいい」
「そういう意味じゃ、ないんだけど……」
姫岡さんは小さく呟いたが、最後の方は火の音に紛れてよく聞こえなかった。
「何か言ったか?」
「ううん。何でもない」
姫岡さんは少しだけ顔を伏せた。
鍋を煮込んでいる間に、飯ごうの方も火にかけられる。
本田さんが飯ごうを見守り、木下君がしおりと時間を確認していた。
「火加減、少し強くないか?」
黒瀬君がかまどを見ながら言う。
「そうだな。少し薪をずらした方がいい」
俺が答えると、大輔がすぐに火ばさみを手に取った。
「任せろ。火担当だからな」
「急に頼もしくなったな」
「最初から頼もしかっただろ」
「薪を動かしすぎなければな」
黒瀬君が淡々と付け加える。
「そこは今から直す」
大輔はそう言いながら、薪の位置を少し調整した。
鍋の中の具材が柔らかくなってきたところで、カレールーを入れる準備をする。
その前に、俺は一度鍋の中を確認した。
にんじんはまだ形を保っている。
じゃがいもも崩れていない。
鶏肉にも火は通っているようだった。
「そろそろルーを入れるか。大輔、鍋を火から少しずらしてくれ」
「分かった」
大輔が火ばさみで薪の位置を調整し、木下君と黒瀬君が鍋をかまどの端へ移す。
沸騰が収まったところで、カレールーを割り入れた。
鍋底へ沈んだルーを、溶け残りがなくなるまでゆっくりと混ぜていく。
「火から外して入れるのか?」
大輔が不思議そうに尋ねる。
「ああ。煮立ったまま入れるより、ルーが溶けやすいからな。焦げつきにくくもなる」
「なるほどな」
ルーが完全に溶けたのを確認してから、鍋を弱い火の上へ戻す。
少しずつ鍋の中にとろみが出て、見慣れたカレーの色へ変わっていった。
香りが広がると、大輔だけでなく、ほかの班の生徒たちもこちらをちらりと見ている。
「いい匂いだな」
大輔が鍋を見ながら言った。
「ルーを入れたあとは焦げつきやすいから、火は強くしすぎないでくれ」
「了解。火担当だからな」
大輔は火ばさみで薪の位置を少し調整した。
「ご飯もそろそろだと思うわ」
本田さんが飯ごうの様子を見ながら言った。
「じゃあ、少し蒸らしたらちょうどいいですね」
木下君が時間を確認する。
カレーの方も、最後に味を見て調整すれば完成だ。
俺が小皿に少しだけ取り分け、味を確認しようとしたところで、背後から声が聞こえた。
「順調そうだな」
振り返ると、天ヶ瀬先輩と如月先輩がこちらへ歩いてきていた。
どうやら各班の様子を見て回っているらしい。
「天ヶ瀬先輩。如月先輩」
「火の扱いに問題はないか?」
「今のところ大丈夫です。火も安定しています」
「そうか」
天ヶ瀬先輩は短く答え、かまどの火と鍋の様子を確認した。
大輔たちは、さっきまでの軽い雰囲気が嘘のように静かになっている。
生徒会長と副会長がそろって巡回に来たのだから、緊張するなという方が難しいのかもしれない。
「焦げてはいないようだな」
「はい。少し火を弱めて、今なじませているところです」
天ヶ瀬先輩は鍋の中を確認し、小さく頷いた。
「味は確認したのか?」
「いえ、ちょうど今からです」
俺は小皿に少しだけカレーを取り分け、味見用のスプーンですくった。
天ヶ瀬先輩は片手に巡回用の記録用紙を持ち、反対の手には炊事場で使う軍手を提げている。
「天ヶ瀬先輩、よければ味を見てもらえますか?」
「私が?」
「はい。巡回中なら、客観的に見てもらえると思うので」
「……そういう理由か」
「はい」
料理の現場では、味を確認してもらうため、味見用のスプーンをそのまま差し出すこともある。
それに、天ヶ瀬先輩は両手が塞がっていた。
だから、その時の俺は特に深く考えず、スプーンを口元へ差し出した。
天ヶ瀬先輩は一瞬だけ、目の前のスプーンを見つめた。
そして、何も言わずに顔を近づける。
静かに、カレーを口にした。
「……」
その瞬間、班の空気が止まった。
大輔が目を見開く。
木下君は言葉を失ったように口を閉じ、黒瀬君もわずかに目を細めていた。
本田さんは口元へ手を当て、姫岡さんは前髪の奥で固まっている。
俺はそこでようやく、今の行動が普通ではなかったことに気づいた。
「……すみません。普通にスプーンを渡せばよかったですね」
天ヶ瀬先輩の動きが、そこで止まった。
さっきまで平然としていた表情が、ほんの少しだけ崩れる。
自分が何をしたのか、遅れて気づいたように見えた。
「……いや」
天ヶ瀬先輩は短く答え、視線を鍋へ戻した。
「味は、悪くない」
「ありがとうございます」
「少し置けば、もう少しまとまる。今のままでも問題はない」
隣にいた如月先輩が、楽しそうに目を細めた。
「がっせー」
「……何だ」
「今の、ちょっと可愛かった」
「如月」
「はいはい。黙るよ」
天ヶ瀬先輩は小さく息を吐き、表情を整えた。
「この班は問題なさそうだな」
「問題はなさそうだけど、面白いものは見られたね」
「如月」
「今度こそ黙るって」
如月先輩は笑いながら、次の班の方へ歩き出した。
天ヶ瀬先輩もそれに続く。
その背中を見送ってから、ようやく大輔が口を開いた。
「叶多、お前……怖いもの知らずかよ」
「何が?」
「天ヶ瀬会長に、普通に食べさせてただろ」
「味見を頼んだだけだ。深く考えてなかった」
料理の現場なら、味を見てもらう相手にスプーンを差し出すこと自体は珍しくない。
ただ、ここは林間学校の炊事場で、相手は生徒会長の天ヶ瀬先輩だ。
周りから見れば、少し距離が近すぎたのかもしれない。
「それが怖いんだよ」
大輔が呆れたように言うと、木下君も困ったように笑った。
「たぶん、普通はスプーンを渡す方が自然だったと思うよ」
「……それは今気づいた」
「気づくのが遅い」
黒瀬君が短く言った。
本田さんは苦笑しながら、鍋へ視線を戻した。
「でも、天ヶ瀬先輩もそのまま食べたのよね」
「確かに、断られませんでしたね」
「そこが意外なのよ」
姫岡さんは何も言わず、鍋の中を見つめていた。
「姫岡さん?」
「……ううん。何でもない」
そう答えた声は、いつもより少し小さい。
俺は首を傾げながらも、カレーを少しなじませることにした。