天ヶ瀬先輩と如月先輩が次の班へ向かったあと、炊事場の空気は少しずつ元に戻っていった。
止まっていた会話が戻り、かまどの火がはぜる音や、ほかの班の声が耳に入ってくる。
俺たちの班も、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
「……とりあえず、焦げないように見ておくか」
俺がそう言うと、大輔が火ばさみを持ち直した。
「お、おう。火担当だからな」
「さっきからそればっかりだな」
「大事なことだからな」
大輔はそう言って、少しだけ胸を張った。
さっきまで天ヶ瀬先輩たちを前にして固まっていたくせに、切り替えだけは早い。
「火加減は今くらいでいいと思う。強くしすぎると底が焦げるから」
「了解。焦がしたら俺の責任になるしな」
「分かってるなら大丈夫だ」
黒瀬君が淡々と言う。
「黒瀬、お前たまに信用してるのかしてないのか分からない言い方するよな」
「火の始末だけは真面目にやるだろ」
「だけって言うな」
「褒めてる」
「本当か?」
「それなりに」
「それなりにかよ」
二人のやり取りに、木下君が困ったように笑う。
その横で、本田さんは飯ごうの様子を確認していた。
「ご飯の方も、そろそろ蒸らし終わる頃ね」
「じゃあ、カレーももう少しだけ置いたらちょうどよさそうです」
俺は鍋の中を軽く混ぜる。
さっき天ヶ瀬先輩に言われたとおり、少し置いたことで、カレーは全体がなじんでいた。
じゃがいももにんじんも形を残したまま、鍋の中でゆっくりと湯気を上げている。
「……うん。もう大丈夫そうだな」
「完成?」
姫岡さんが、鍋の中を覗き込むようにして尋ねる。
「ああ。あとは盛りつけるだけだ」
「よかった……」
姫岡さんは小さく息を吐いた。
野菜を洗う時も、皮をむく時も、彼女はずっと慎重だった。
その分、ちゃんと形になったことに安心したのかもしれない。
「こっちも開けるわね」
本田さんが飯ごうを慎重に開ける。
中から白い湯気がふわっと上がった。
焦げた匂いはせず、水分が飛びすぎた様子もない。
「ちゃんと炊けてるわね」
本田さんがほっとしたように言った。
「本田さんが丁寧に研いでくれたからですね」
「火加減も悪くなかったと思うよ」
木下君がそう言うと、大輔がすぐに反応した。
「だろ? 俺もちゃんと仕事したからな」
「薪を動かしすぎて、何度か止められてただろ」
黒瀬君が淡々と指摘する。
「最終的にうまくいったからいいんだよ」
「結果論だな」
「結果が大事なんだよ、こういうのは」
大輔はそう言いながら、皿を手に取った。
「叶多、俺の多めで頼む」
「分かった。これくらいか?」
「もうちょい」
「入れすぎると、あとで動くのがきつくなるぞ」
「大丈夫。今なら食える」
「少し不安な言い方だな」
そう言いながらも、俺は飯ごうから少し多めにご飯をよそい、その上からカレーをかけた。
「これでいいか?」
「最高」
「足りなかったら、おかわりすればいい」
「分かってるって」
大輔は皿を受け取ると、嬉しそうにカレーを見下ろした。
続けて、俺たちもそれぞれ皿にご飯をよそい、その上からカレーをかけていく。
白い湯気の上に、できたてのカレーが広がる。
それだけで、さっきまでの疲れが少し軽くなった気がした。
炊事場全体にも、同じような匂いが広がっている。
薪の煙の匂い。
煮込んだカレーの匂い。
少し湿った曇り空の空気。
どれも普段の食事とは違うはずなのに、不思議と食欲をそそられた。
「じゃあ、食べましょうか」
本田さんの言葉を合図に、俺たちは皿を持って近くの席へ移動した。
簡易テーブルを囲んで座り、スプーンを手に取る
大輔は待ちきれない様子で、さっそく一口目を口に運んだ。
「うまっ」
最初に声を上げたのは、やはり大輔だった。
「何これ。普通のカレーなのに、めちゃくちゃうまい」
「外で食べてるからじゃない?」
本田さんが笑いながら言う。
「いや、それはある。屋外で食べるカレーって、なんでこんなにおいしいんだろうな」
大輔はそう言って、もう一口カレーを運んだ。
たしかに、特別な材料を使っているわけではない。
鍋も飯ごうも、家で使うものとは違う。
火加減だって完璧とは言えないし、設備も整っているわけではない。
それでも、薪の匂いが少し残る炊事場で、班のみんなと同じ鍋のカレーを食べていると、不思議といつもよりおいしく感じる。
「こういう場所で食べるから、だろうな」
俺がそう言うと、大輔は力強く頷いた。
「それだ。それに、自分たちで作ったっていうのもある」
「大輔は火を見てただけだろ」
「火担当は重要なんだよ」
黒瀬君の淡々とした指摘に、大輔がすぐ反論する。
「実際、火加減が悪かったら焦げてたかもしれないしね」
木下君がそう言うと、大輔は満足げに頷いた。
「ほらな。木下は分かってる」
「ただ、途中で薪を入れすぎそうになったのは危なかったよ」
「そこは反省してる」
「反省が早いな」
黒瀬君が短く言う。
そのやり取りを聞きながら、俺もスプーンでカレーをすくった。
鶏肉は硬くなりすぎていない。
じゃがいもは崩れず、にんじんにもきちんと火が通っている。玉ねぎの甘みもルーになじんでいた。
特別な料理ではない。
けれど、今この場所で食べるには、十分すぎる味だった。
「……うん」
思わず小さく頷く。
「どうだ、料理担当」
大輔がにやっと笑って聞いてきた。
「悪くないと思う」
「ならいいか」
大輔はあっさりそう言うと、またカレーを口に運んだ。
文句を言う暇も惜しいのか、その手はほとんど止まらない。
「本田さん、ご飯もおいしいです」
木下君がそう言うと、本田さんは安心したように笑った。
「よかった。飯ごうって炊飯器と違うから、少し不安だったのよ」
「ちゃんと炊けてる。硬すぎないし、べちゃっともしてない」
黒瀬君が淡々と評価する。
「黒瀬君にそう言われると、ちょっと安心するわね」
「事実を言っただけだ」
「それが安心するのよ」
本田さんはそう言って、自分のカレーを一口食べた。
その表情が少しだけ柔らかくなる。
「うん。おいしい」
少し遅れて、姫岡さんもスプーンを口に運んだ。
彼女は熱さを確かめるようにゆっくり食べてから、小さく目を伏せる。
「……おいしい」
声は小さかったが、はっきり聞こえた。
「それならよかった」
姫岡さんはもう一口食べてから、スプーンの上に乗ったじゃがいもを見つめた。
「じゃがいも、崩れてないね」
「ああ。火を弱めるタイミングが悪くなかったんだと思う」
「そういうの、分かるんだ」
「一応な。煮込みすぎると崩れるから、入れる順番も少しだけ気をつけた」
「……すごい」
「大げさだよ。姫岡さんも皮むき、助かった」
「わ、私、皮をむいただけだけど……」
「それを任せられたから、俺は鍋の方に集中できた。十分助かったよ」
「……うん」
姫岡さんは小さく頷き、またカレーを食べ始めた。
前髪に隠れて表情は見えにくいが、スプーンの進み方を見る限り、気に入ってくれたらしい。
作ったものをおいしいと言ってもらえるのは、やっぱり嬉しい。
前世でも今世でも、そこはあまり変わらない。
「それにしても、天ヶ瀬会長がああいう顔するの、初めて見たな」
大輔がぽつりと言った。
「そうか?」
「少なくとも、俺は見たことない」
「俺もない」
黒瀬君が短く続ける。
本田さんは苦笑しながら、スプーンを動かした。
「でも、嫌そうには見えなかったわよ」
「そうですか?」
「ええ。だから余計に、少し意外だったのかも」
そう言われても、俺には判断がつかない。
天ヶ瀬先輩は巡回中で、俺は味の確認をお願いした。
だから応じてくれた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
大輔はまだ何か言いたそうだったが、目の前のカレーを優先したらしい。それ以上、さっきの話題が広がることはなかった。
大輔は途中でおかわりをして、本田さんに「本当に食べられるの?」と確認されていたが、結局きっちり食べきった。
食べ終わったあとは、全員で手分けして片付けに入る。
鍋や飯ごうを水につけ、食器を洗い、かまどの火が完全に消えていることを確認する。
大輔は最後まで「火担当だからな」と言いながら火の始末をしていたが、その顔には少しだけ灰がついていた。
「大輔、頬に灰ついてるぞ」
「え、どこ?」
「右」
「え、こっち?」
「逆だ」
「最初からそっちって言えよ」
本田さんが笑いながら、濡らした布巾を差し出した。
「はい。これで拭きなさい」
「ありがと、本田さん」
大輔は布巾を受け取り、頬を拭いた。
そんなやり取りを挟みつつ、俺たちの班の飯ごう炊さんは無事に終わった。
職員の確認を受け、道具を元の場所へ戻す。
炊事場を離れる頃には、服に薪の煙とカレーの匂いが少し染みついていた。
手を洗っても、どこかに火の匂いが残っている気がする。
けれど、それも林間学校らしいと言えば、林間学校らしい。
その後、俺たちは一度宿泊棟へ戻り、少しだけ休憩を取ることになった。
午前中のオリエンテーリング。
午後の水辺の調査。
そして飯ごう炊さん。
一日中動き続けていたせいで、さすがに体は重い。
部屋に戻ると、大輔は畳の上へ座り込むようにして息を吐いた。
「今日、詰め込みすぎじゃないか?」
「林間学校だからね」
木下君がしおりを見ながら答える。
「このあとはキャンプファイヤーだよ」
「まだあるのか……」
大輔はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めていた。
疲れているのは本当だろう。
けれど、嫌そうではない。
「キャンプファイヤーって、何をするんだ?」
黒瀬君が静かに尋ねる。
「最初に点火式があって、そのあとは先生たちが用意したレクリエーションをするみたい」
「レクリエーションって?」
「班対抗の簡単なゲームと、最後に全員で輪になって踊るやつらしいよ」
「踊るのか」
黒瀬君がわずかに眉を動かした。
「大丈夫か、黒瀬。そういうの苦手そうだけど」
「得意ではない」
「まあ、本格的なダンスじゃないと思うよ」
木下君がしおりを見ながら苦笑する。
「音楽に合わせて移動したり、手を合わせたりするくらいじゃないかな」
「それはそれで恥ずかしいな」
大輔が笑う。
「でも、こういうのは勢いが大事だろ」
「大輔はその辺、強そうだね」
「任せろ。勢いだけならある」
「そこは自覚してるんだな」
黒瀬君が淡々と言った。
俺は荷物の中からタオルを取り出し、手を拭く。
窓の外は、相変わらず曇っていた。
日が傾き始めたせいか、昼間よりも空の色が少し暗い。
雨が降る気配はまだない。
このまま持ってくれれば、予定どおりキャンプファイヤーはできそうだった。
しばらく休んだあと、集合時間が近づき、俺たちは再び外へ向かった。
宿泊棟を出ると、夕方の空気が肌に触れる。
昼間の炊事場に残っていた熱気とは違い、少しひんやりとしていた。
広場の方へ向かうにつれて、生徒たちの声が増えていく。
中央には、木を組んだ大きな
まだ火はついていない。
けれど、その周りに集まる生徒たちの様子を見るだけで、これから始まる行事の雰囲気が伝わってくる。
「おお……それっぽいな」
大輔が素直に声を漏らした。
「キャンプファイヤーって感じだね」
木下君も少し楽しそうに言う。
俺は広場の中央に組まれた薪を見ながら、小さく息を吐いた。
飯ごう炊さんが終わって、これでようやく一息つけると思っていた。
けれど、林間学校の二日目は、まだ終わらないらしい。