広場に集まった生徒たちは、中央に組まれた薪を囲むようにして並んでいた。
さっきまで炊事場で聞こえていた水道の音や、鍋を洗う音はもうない。
代わりに聞こえてくるのは、これから始まるキャンプファイヤーを待つ生徒たちの話し声だった。
「思ってたより、ちゃんとしてるな」
大輔が中央の井桁を見ながら言った。
「木もかなり大きいね」
木下君も少し感心したように頷く。
「燃えたら熱そうだな」
黒瀬君が淡々と言う。
「それはそうだろ。火なんだから」
「近づきすぎるなという意味だ」
「分かってるって」
大輔はそう返しながらも、どこか楽しそうだった。
飯ごう炊さんの疲れは残っているはずなのに、こういう行事を前にすると少し気分が上がるのだろう。
俺も広場の中央を見つめる。
まだ火のついていない薪の組み方は、昼間に見ればただの木の山に見えたかもしれない。
けれど、夕方の暗くなり始めた空の下だと、それだけで少し特別なものに見えた。
やがて、先生たちが前へ出る。
その中には、花城先生の姿もあった。
昼間と同じ格好なのに、夕暮れの広場に立っているせいか、少しだけ雰囲気が違って見えた。
「はいはーい。みんな、聞いてー」
花城先生がだるそうな声で呼びかける。
ただ、声は思ったより通った。
「これからキャンプファイヤーを始めます。火の近くでは絶対にふざけないこと。走らないこと。押さないこと。先生の指示を聞くこと。以上」
「短いな」
大輔が小声で言う。
「分かりやすくていいだろ」
黒瀬君が返した。
花城先生の隣にいた別の先生が、補足するように進行を引き取る。
点火式を行い、そのあと簡単なレクリエーションをいくつか挟み、最後に全員で輪になって踊るらしい。
説明を聞いている間にも、周りの生徒たちは少しそわそわしていた。
特に女子たちは、最後のダンスの話が出たところで、近くの友人同士で小さく顔を見合わせている。
男子の方は、平静を装っている者も多かったが、落ち着かない様子は隠しきれていなかった。
女子と手を合わせるだけでも、この世界では十分に意識する理由になるのだろう。
その感覚が分からないわけではない。
けれど、俺にとっては、そこまで身構えるようなものでもなかった。
ただのレクリエーションだ。
相手を困らせないように、普通にやればいい。
「叶多、何か落ち着いてるな」
大輔がこちらを見る。
「騒ぐようなことでもないだろ」
「いや、そう言えるのがすごいんだよ」
「普通に参加すればいいだけだ」
「その普通が難しいんだって」
「そういうものか?」
「そういうものだろ。なあ、木下」
「僕に振られても困るけど……まあ、少し緊張はするかな」
木下君が苦笑する。
そんな会話をしているうちに、点火の準備が整った。
先生の合図で、代表の生徒が前に出る。
火が移されると、最初は小さかった炎が、組まれた薪の隙間から少しずつ広がっていった。
ぱち、と乾いた音が鳴る。
やがて炎は赤く大きくなり、広場の中央を明るく照らし始めた。
「おお……」
誰かが声を漏らす。
その声につられるように、周りからも小さなどよめきが起きた。
火があるだけで、広場の空気が変わる。
さっきまでただの集合場所だった場所が、一気に林間学校の夜らしくなった。
炎の光が、生徒たちの顔を揺らしながら照らしている。
風が吹くたびに火の粉が少しだけ上がり、すぐに暗い空気の中へ消えていった。
「こういうの、実際に見ると結構いいな」
大輔が素直に言った。
「写真で見るのとは違うね」
木下君も頷く。
俺も同じことを思っていた。
火を囲むだけなら、特別なことをしているわけではない。
それでも、昼間の疲れや、服にかすかに残った薪の煙の匂いも含めて、今この場にいること自体が少し印象に残る。
点火式が終わると、先生たちの進行でいくつか簡単なレクリエーションが始まった。
班ごとに答えを出すクイズや、指定されたものを探してくるゲームなど、内容自体はそこまで複雑ではない。
ただ、大輔だけは妙に張り切っていた。
「うちの班、流れ来てるぞ!」
「まだ一問正解しただけだろ」
黒瀬君が冷静に返す。
「一問目が大事なんだよ」
「根拠は?」
「勢い」
「ないな」
「あるだろ、勢いは」
大輔の声に、近くの班から笑いが起きる。
木下君はしおりと進行表を見比べながら、なぜか安心したように頷いていた。
「ちゃんと予定どおり進んでるみたいだね」
「木下君はそこを見るんだな」
「予定がずれると、次に何をすればいいか気になるから」
「真面目だな」
「心配性なだけだよ」
そうしていくつかのゲームが終わる頃には、広場の空気もすっかり温まっていた。
最初は火を囲んで少し緊張していた生徒たちも、今はあちこちで笑い声を上げている。
そして、先生が最後のレクリエーションを告げた。
「では、最後は全員で輪になって踊ります。難しいものではありません。音楽に合わせて、相手を変えながら進んでいくだけです」
その説明を聞いた瞬間、男子たちの間に分かりやすい緊張が走った。
もちろん、俺たちの班も例外ではない。
「来たな」
大輔が小さく呟く。
「何が来たんだ」
「女子と踊るやつだよ」
「言い方が直接的だな」
黒瀬君が淡々と言った。
「だってそうだろ。輪になって相手が変わるってことは、女子とも当たるってことだぞ」
「それはそうだね」
木下君がしおりを見ながら頷く。
「ただ、本格的なダンスじゃないみたいだよ。音楽に合わせて、手を合わせて、次の相手に移るだけらしい」
大輔は周りの男子たちをちらりと見た。
平静を装っている者もいるが、どこか落ち着かない様子の生徒は少なくない。
「ほら。みんなちょっと緊張してるだろ」
「まあ、そう見えるな」
「大輔だけじゃなくて安心した」
「安心するところか、それ」
黒瀬君が短く返した。
先生の指示で、生徒たちは炎を囲むように大きな輪を作っていく。
男女の人数が均等ではないため、きれいな形にはならない。
それでも、先生たちが位置を調整しながら、男子と女子ができるだけ偏らないように並ばせていた。
俺も指示された位置へ移動する。
炎の明かりが横から当たり、足元の影が長く伸びていた。
音楽が流れ始める。
明るく、少し懐かしいような曲調だった。
最初に向かい合った相手は、同じクラスの男子だった。
「よろしく」
「お、おう」
お互いにぎこちなく手を合わせ、音楽に合わせて動く。
本格的なダンスではない。
手を合わせ、数歩移動し、次の相手と向き合う。
単純な流れのはずなのに、最初は全体的に動きが硬かった。
けれど、何度か繰り返すうちに、少しずつ周りも慣れていく。
相手が変わるたびに、短い挨拶や笑い声が混ざるようになった。
俺も流れに合わせて移動していく。
男子。
女子。
また男子。
相手が次々に変わる。
その途中で、姫岡さんと向かい合った。
「……あ」
姫岡さんが小さく声を漏らす。
「姫岡さん」
「う、うん」
音楽に合わせて、互いに手を取る。
手のひらは少しだけ緊張しているように硬かった。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
姫岡さんは小さく頷いた。
それ以上話す時間はなかった。
次の拍で、相手が入れ替わる。
ほんの数秒だけだったが、姫岡さんは離れる直前まで、俯いたままだった。
その次に向かい合ったのは、別の男子だった。
流れに合わせて手を合わせ、また移動する。
火の明かりと音楽、周りの笑い声。
最初に感じていたぎこちなさは、少しずつ薄れていった。
そうして何度か相手が変わったあと、次に向かい合った相手を見て、俺は少しだけ動きを止めた。
「瑞葉」
「叶多君」
瑞葉は、少し照れたように笑っていた。
炎の明かりが横から当たって、頬のあたりがほんのり赤く見える。
それが火の色なのか、それとも別の理由なのかは分からない。
「こういうの、少し恥ずかしいね」
「そうだな」
「叶多君は落ち着いてるけど」
「普通に参加してるだけだよ」
「それができるのが、すごいと思う」
音楽に合わせて、瑞葉と手を合わせる。
触れた手のひらは、思っていたよりも柔らかくて、少しだけ温かかった。
周りの男子たちが緊張する理由も、分からなくはない。
けれど、それ以上に、瑞葉がこちらを見て笑っていることの方が印象に残った。
「瑞葉は大丈夫か?」
「うん。ちょっと緊張してるけど、楽しいよ」
「それならよかった」
「叶多君と当たったから、少し安心した」
瑞葉は小さな声でそう言った。
音楽と周りの声に紛れそうなほどの声だったが、俺にはちゃんと聞こえた。
「俺で安心できるなら、よかった」
「うん」
瑞葉は嬉しそうに頷く。
そのまま、次の拍で互いに一歩横へ移動する。
手が離れる直前、瑞葉が少しだけ名残惜しそうにこちらを見た気がした。
「またあとでね」
「ああ」
短く返すと、すぐに次の相手と向き合うことになった。
音楽はまだ続いている。
炎の周りを、生徒たちが少しずつ移動していく。
最初はぎこちなかった動きも、今ではだいぶ自然になっていた。
誰かが足を間違えるたびに笑いが起き、先生たちも遠くから声をかけている。
「そこ、押さないでー。火に近づきすぎないようにー」
花城先生の声が聞こえた。
相変わらず気だるげな口調だが、注意するところはちゃんと見ているらしい。
その近くには、生徒会の先輩たちの姿もあった。
天ヶ瀬先輩は少し離れた場所で全体の様子を確認している。
如月先輩はその隣で、時折生徒たちに声をかけていた。
運営側に回っているせいか、二人が輪の中に入る様子はない。
それでも、炎の向こう側に天ヶ瀬先輩の姿が見えた瞬間、昼間の炊事場でのことを少しだけ思い出した。
味見を頼んだだけ。
けれど、周りから見ればそう単純な話でもなかったらしい。
天ヶ瀬先輩がこちらを見ていたかどうかは分からない。
炎が揺れて、視線までは読み取れなかった。
やがて音楽が一曲分終わり、輪になっていた生徒たちから自然と拍手が起きた。
「はい、お疲れさまー。今ので最後です」
先生の声に、広場のあちこちから息を吐くような声が上がる。
緊張していたのは男子だけではなかったのだろう。
女子たちも友人同士で顔を見合わせながら、楽しそうに笑っていた。
「叶多!」
戻ってきた大輔が、妙に疲れた顔でこちらへ歩いてきた。
「どうした」
「すごかった。女子と当たるたびに、心臓が忙しい」
「まあ、緊張はするだろうな」
「する。思ってたよりする」
大輔は真面目な顔で頷いた。
木下君が隣で苦笑する。
「でも、思ったより楽しかったね」
「それはそう。楽しかった」
大輔はすぐに頷いた。
「黒瀬はどうだった?」
「……問題はなかった」
「その間は何だよ」
「少し緊張はした」
「黒瀬でもするんだな」
「するだろ。男子だからな」
黒瀬君は淡々と言った。
その言い方があまりにも普通だったので、大輔は一瞬だけ黙る。
「……たしかに」
「ただ、騒ぐほどではない」
「そこは黒瀬らしいな」
大輔は苦笑した。
俺は広場の中央へ視線を戻す。
キャンプファイヤーの火は、最初より少し落ち着いていた。
それでも炎はまだ十分に明るく、暗くなった広場を赤く照らしている。
昼間は曇ってばかりだった空も、今は夜の色に変わっていた。
雲は残っているが、火を囲んでいる間はそれほど気にならない。
「こういうの、思ったよりちゃんと記憶に残るな」
俺が何気なく言うと、大輔がこちらを見た。
「だろ? 林間学校って感じするよな」
「確かに」
「飯ごう炊さんして、キャンプファイヤーして……いよいよ終わりって感じだな」
大輔が広場の火を見ながら、ぽつりと言った。
「まだ明日があるだろ」
黒瀬君が淡々と返す。
「明日は帰るだけだろ。こういう大きいイベントは、たぶん今日で最後じゃん」
「それはそうだな」
木下君も少しだけ声を落とした。
「朝からずっと動いてたから大変だったけど、終わると思うと早いね」
「だよな」
大輔は小さく頷いた。
さっきまで騒いでいたわりに、その横顔は少しだけ名残惜しそうだった。
俺も、何となくその気持ちは分かる。
朝からずっと動き続けて、体はかなり疲れている。
それでも、飯ごう炊さんをして、キャンプファイヤーの火を囲んでいると、今日が終わっていくのが少し惜しく感じた。
しばらくして、先生から締めの話があり、キャンプファイヤーは終了となった。
生徒たちは名残惜しそうに火を見ながらも、先生たちに促され、少しずつ宿泊棟の方へ歩き出す。
俺も最後に一度だけ、中央の火を振り返った。
炎は、点火した時よりもずいぶん小さくなっていた。
それでもまだ赤く揺れていて、暗くなった広場を静かに照らしていた。
「叶多君」
声をかけられて振り返ると、姫岡さんが少し離れたところに立っていた。
「姫岡さん」
「……さっきの、楽しかった」
「ダンスか?」
姫岡さんは小さく頷いた。
「少しだけだったけど」
「ああ。すぐ相手が変わったからな」
「うん。でも……叶多君と当たって、少し安心した」
そう言ってから、姫岡さんは慌てたように視線を落とした。
「ご、ごめん。変な意味じゃなくて」
「分かってるよ」
俺がそう答えると、姫岡さんは少しだけ肩の力を抜いた。
火の光が、前髪の影を淡く揺らしている。
「今日は、いろいろ手伝ってくれて助かった」
「私、そんなにできてないけど……」
「そんなことない。オリエンテーリングでも助けてもらったし、飯ごう炊さんでも一緒に動けて助かったよ」
「……うん」
姫岡さんは小さく頷いた。
「今日、少しだけ、林間学校って楽しいんだなって思った」
「それならよかった」
「うん」
姫岡さんは中央の火へ視線を向ける。
炎は、点火した時よりもずいぶん小さくなっていた。
それでもまだ赤く揺れていて、広場を静かに照らしている。
「明日で終わりなんだよね」
「そうだな」
「……少し、早いね」
「朝からずっと動いてたのにな」
「うん。不思議」
姫岡さんは小さく笑った。
その笑顔は前髪に隠れて見えにくかったが、声はいつもより少し柔らかかった。
先生たちが移動を促していて、周りの生徒も宿泊棟の方へ歩き始めている。
「じゃあ、またあとで」
「ああ。またな」
姫岡さんは小さく頷いて、女子の列へ戻っていった。
その背中を見送ってから、俺も男子たちの方へ戻る。
「お、何かいい感じだったな」
大輔がにやにやしながら言った。
「茶化すなよ」
「悪い悪い」
大輔はそう言いながらも、まだ少し笑っていた。
木下君は苦笑し、黒瀬君は特に興味なさそうに歩き出している。
「置いていくぞ」
「あ、待てよ」
大輔が慌てて追いかける。
俺もその後に続いた。
宿泊棟に戻る道は、昼間と違ってずいぶん静かだった。
遠くで先生たちが火の始末をしている声が聞こえる。
足元を照らす外灯の明かりは弱く、周りの木々は夜の色に沈んでいた。
昼間はただの移動路だった場所も、夜になると少し違って見える。
宿泊棟に戻る頃には、体の疲れが一気に重くなっていた。
部屋に戻ると、大輔は布団の近くへそのまま座り込む。
「もう動きたくない」
「風呂と点呼があるだろ」
黒瀬君が即座に言う。
「あ、そうだった……」
大輔は露骨に肩を落とした。
「忘れるなよ」
「疲れてたんだよ」
大輔はそう言いながらも、しぶしぶ立ち上がった。
俺もタオルと着替えを用意しながら、窓の外へ視線を向ける。
さっきまで広場で揺れていた火の明かりは、もうここからは見えない。
それでも、目を閉じれば、まだ炎の赤い揺れが残っているような気がした。
飯ごう炊さんのカレー。
キャンプファイヤーの火。
短いダンスの時間。
林間学校の二日目は、朝から夜までずっと騒がしかった。
けれど、こうして一つずつ予定が終わっていくと、少しだけ名残惜しい。
「叶多、行こうぜ」
「ああ」
大輔に声をかけられ、俺はタオルを手に取った。
廊下の向こうからは、風呂へ向かう生徒たちの声が聞こえている。
俺たちも部屋を出て、風呂場の方へ向かった。