風呂場へ向かう廊下には、同じようにタオルと着替えを持った生徒たちが何人も歩いていた。
キャンプファイヤーが終わった直後だからか、全体的にまだ少し声が浮ついている。
ただ、その足取りには疲れも混ざっていた。
朝からずっと動いて、飯ごう炊さんをして、最後にキャンプファイヤーまでやったのだから当然だろう。
「風呂、混んでそうだな」
大輔が前の方を見ながら言った。
「この時間に全員まとめて入るなら、多少は混むだろうな」
「ゆっくり入りたいんだけどなー」
「長風呂したら寝る時間がなくなるぞ」
黒瀬君が淡々と言う。
「分かってるって。今日はさすがにすぐ寝る」
「本当か?」
「本当だって。俺だって疲れてるんだからな」
大輔はそう言いながら、肩を大きく回した。
普段ならまだ騒いでいそうな時間だが、今日はさすがに限界が近いらしい。
その時、廊下の先で女子の列が別方向へ分かれていくのが見えた。
大輔の視線が、ほんの一瞬だけそちらへ動く。
「女子も風呂か……」
大輔がぽつりと呟いた。
「大輔」
「分かってるって。覗いたりしないからな」
「誰もそこまでは言ってないぞ」
俺がそう言うと、大輔は一瞬だけ固まった。
その後ろから、穏やかな声が聞こえる。
「大輔君、それは自白に聞こえるよ」
振り返ると、直樹がタオルを肩にかけて歩いてきていた。
「直樹」
「叶多君。そっちも今から風呂かい?」
「ああ」
直樹は軽く頷いてから、大輔を見る。
「もちろん、大輔君が本気でそういうことをするとは思ってないけどね」
「だろ? 俺だってそこまで馬鹿じゃないって」
「うん。ただ、そういう話は冗談でも声に出さない方がいいと思うよ。聞いた人が嫌な気持ちになるかもしれないから」
「……それはそうだな。悪い」
大輔は素直に頷いた。
「うん。分かってるなら大丈夫だよ」
直樹はそう言って、いつものように柔らかく笑った。
黒瀬君が前を見ながら短く言う。
「早く行かないと混む」
「それは困る」
大輔は気を取り直したように、風呂場の方へ歩き出した。
脱衣所に着くと、予想どおり中はそれなりに混んでいた。
それでも先生たちが時間を区切って案内しているおかげで、動けないほどではない。
俺たちは空いている棚を見つけ、着替えを置いた。
「叶多、今日のキャンプファイヤー、結構よかったよな」
服を脱ぎながら、大輔がふと思い出したように言った。
「ああ。思っていたより印象に残った」
「だよな。火ってすごいな。見てるだけでそれっぽくなる」
「言い方は雑だけど、分かるよ」
木下君は苦笑しながら頷いた。
それから、ふと思い出したように続ける。
「明日で帰るって考えると、少し早い気もするね」
「朝から動きっぱなしだったのにな」
俺はタオルを手に取りながら答えた。
本当に、今日一日は長かったはずだ。
それでも、終わってみるとあっという間だったようにも感じる。
脱衣所の奥からは、風呂場の湯気が流れてきていた。
その温かさに触れた瞬間、体の疲れが急に重くなる。
「早く入ろうぜ。立ってるだけで眠くなってきた」
大輔の言葉に、俺たちは小さく頷いた。
風呂場の中は、脱衣所よりもさらに声が反響していた。
湯気で視界が白くなり、洗い場ではシャワーの音が絶えず響いている。
俺たちは空いている洗い場を見つけ、手早く体を洗った。
飯ごう炊さんの後片付けとキャンプファイヤーで思っていた以上に疲れていたのか、肩や腕が少し重い。
体を洗い終えて湯船に入ると、温かさが一気に染みた。
隣では、大輔が湯船の縁に腕を置き、すっかり力を抜いている。
さっきまで廊下で軽口を叩いていたのが嘘のように、今は大人しかった。
俺も肩まで湯に浸かる。
湯に浸かると、張っていた足の力がゆっくり抜けていった。
朝から動き続けていたせいで、体は正直だった。
しばらく、誰も大きな声を出さなかった。
湯気の向こうでは、他の生徒たちの話し声や水音がぼんやり響いている。
俺たちも湯船の縁に腕を預けたまま、ただ温かさに体を任せていた。
熱い湯気に包まれているうちに、さっきまでの賑やかさも少しずつ遠のいていく。
何も考えずにいられる時間が、今はありがたかった。
少しして、直樹が時計の方へ視線を向けた。
「このままだと、本当に眠くなりそうだね」
直樹が苦笑しながら言った。
「だな」
俺も小さく頷く。
湯の温かさで体の力が抜けて、まぶたまで少し重くなってきていた。
「そろそろ出ようか。風呂で寝るわけにもいかないし」
「ああ」
点呼の時間もある。
長居しすぎるわけにもいかず、俺たちは湯船から上がった。
湯船から出た途端、体が少し重く感じた。
疲れが取れたというより、疲れていたことを改めて思い出したような感覚だった。
脱衣所に戻ると、さっきよりも少し人が減っていた。
俺たちは体を拭き、用意していた着替えに袖を通す。
髪を拭きながら、大輔が大きくあくびをした。
「眠いな……」
「今日はさすがに疲れたな」
俺もタオルで髪を拭きながら答える。
「戻ったらすぐ寝たい」
「点呼が先だろ」
黒瀬君が淡々と言った。
「分かってるって。点呼までは起きてる」
「その言い方だと、点呼が終わった瞬間に寝そうだね」
直樹が苦笑する。
「たぶん寝る」
大輔はそう言って、また小さくあくびをした。
風呂場を出ると、廊下の空気が少し涼しく感じた。
火照った肌に夜の空気が触れて、ようやく頭がはっきりしてくる。
ただ、それと同時に眠気も強くなってきた。
宿泊棟の廊下には、風呂を終えた生徒たちの声がまだ残っている。
けれど、キャンプファイヤーの直後ほどの勢いはもうなかった。
みんな少しずつ、今日が終わる準備に入っているのだろう。
部屋に戻ると、布団はすでに敷かれていた。
それを見た瞬間、大輔が大きく息を吐く。
「もう寝たい……」
「点呼が先だろ」
黒瀬君が淡々と言った。
「分かってる。点呼までは起きてる」
大輔はそう言いながら、布団の横に腰を下ろした。
木下君がしおりを確認する。
「もうすぐ先生が来る時間だね」
「点呼が終わったら即寝る」
「それは同意する」
俺も自分の荷物を軽く整えながら頷いた。
さすがに今日は、布団に入ればすぐに眠れる気がする。
しばらくすると、廊下から先生の足音が聞こえてきた。
部屋の扉が軽く叩かれる。
「点呼するよー。いるー?」
気の抜けた声とともに扉が開き、花城先生が顔を出した。
風呂上がりなのか、いつもより少し髪がしっとりしている。
それでも表情は相変わらず眠そうだった。
「います」
木下君が代表して答える。
花城先生は部屋の中をざっと見回した。
「うん。4人いるね」
「先生、確認雑じゃないですか?」
大輔が言うと、花城先生は半目でそちらを見た。
「顔見れば分かるし」
「そういうものですか」
「そういうものです。はい、消灯時間になったらちゃんと寝ること。夜中に騒がない。廊下を走らない。トイレ以外で部屋を出歩かない。以上」
「短いな」
「長く聞きたい?」
「いえ、大丈夫です」
大輔が即座に首を振る。
花城先生は小さく頷いた。
「よろしい。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
俺たちが返すと、花城先生は扉を閉めて次の部屋へ向かった。
その足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
部屋の中に、少しだけ静けさが戻った。
「先生も疲れてそうだったな」
木下君が呟く。
「今日一日、ずっと生徒見てたんだから当然だろ」
黒瀬君が答える。
「先生って大変だな」
大輔が布団に入りながら言った。
「まあ、今日は特に大変だっただろうな」
俺がそう返すと、大輔は小さく頷いた。
そんな会話をしながら、俺も自分の布団に入る。
消灯時間になり、部屋の照明が落とされた。
部屋の中は一気に暗くなる。
窓の外から、かすかに虫の声が聞こえてくる。
昼間の騒がしさが嘘のようだった。
布団に入った途端、体の力が抜けた。
今日は、もう何かを考える余裕もない。
目を閉じると、俺の意識はすぐに眠りへ落ちていった。
☆
目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。
枕元に置いていたスマホを手に取ると、画面には午前零時四十分と表示されていた。
消灯してから、まだそれほど経っていないように感じていたが、思ったより時間が過ぎていたらしい。
体はまだ重い。
ただ、そのまま寝直すには少し落ち着かなかった。
俺は隣を確認する。
大輔は布団に半分埋もれるようにして、完全に寝入っていた。
さっきまで点呼が終わったら即寝ると言っていたが、本当にその通りになったらしい。
木下君も黒瀬君も、それぞれ静かな寝息を立てている。
起こさないように気をつけながら、俺は布団から抜け出した。
部屋の扉をそっと開ける。
廊下には、消灯後の静けさが落ちていた。
昼間や風呂上がりに聞こえていた生徒たちの声はもうない。
足元灯だけがぼんやりと床を照らしていて、廊下の奥は薄暗い。
俺は扉を静かに閉め、トイレへ向かった。
夜の宿泊棟は、昼間とはまるで別の場所みたいだった。
同じ廊下のはずなのに、音が少ないだけで空気まで変わって見える。
自分の足音も、思っていたより響く。
自然と歩幅が小さくなった。
トイレを済ませて戻る頃には、少しだけ目が冴えていた。
眠気は残っている。
けれど、さっきまでの沈むような感覚は少し薄れていた。
部屋へ戻ろうとして角を曲がったところで、前方に座り込んでいる人影が見えた。
こんな時間に誰だろうと思い、俺は足を止める。
足元灯の淡い明かりに照らされた姿を見て、すぐにそれが生徒ではないと分かった。
「……花城先生?」
廊下の壁際に、花城先生が座り込んでいた。
片手を壁につき、もう片方の手で膝のあたりを押さえている。
昼間と同じジャージ姿だ。
ただ、いつもの気だるげな雰囲気とは明らかに違っていた。
顔を上げた先生は、俺を見ると、少し遅れて瞬きをした。
「あれ……槻山君……?」
語尾が、いつもより少し伸びている。
それだけで、何となく察してしまった。
「先生、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶ……じゃないかも」
近づくと、かすかに酒の匂いがした。
先生たちの打ち合わせか、慰労のようなものがあったのかもしれない。
だとしても、この状態で廊下に座り込んでいるのはよくない。
「先生、飲みました?」
「飲んだ……飲んだねえ」
「かなり飲んでませんか」
「そんなつもりは、なかったんだけど……」
花城先生は壁に手をついたまま、ゆっくり息を吐いた。
顔色が悪い。
冗談で誤魔化せるような状態には見えなかった。
「先生、大丈夫ですか?」
「……ごめん。ちょっと、気持ち悪い」
花城先生は口元を押さえ、うつむく。
その様子を見て、俺はすぐにトイレの方へ視線を向けた。
「トイレまで行きましょう」
「ん……」
「立てますか?」
「立てる、と思う」
「分かりました。ゆっくりで大丈夫です」
俺は花城先生の横にしゃがみ、無理に引っ張らないように手を差し出した。
「トイレ、すぐそこです。俺が支えますから」
「ごめんねぇ……槻山君」
「今は気にしなくていいです。まずは移動しましょう」
花城先生は小さく頷き、壁に手をつきながらゆっくり立ち上がった。
トイレまでは遠くない。
それでも、今の花城先生にはその数メートルが長いらしい。
足取りは頼りなく、何度か壁に手をつきながら進む。
俺は先生の体を必要以上に支えすぎないようにしながら、倒れないよう横についた。
ようやくトイレの前まで来ると、花城先生は小さく息を吸った。
「……ごめ、ちょっと」
「大丈夫です。ゆっくりでいいです」
中へ入った直後、花城先生は個室の方へ向かい、その場に膝をついた。
俺はすぐに横へ回り、視線を逸らしながら背中に手を添える。
「無理に我慢しなくていいです」
「……ん」
花城先生は苦しそうに背中を丸めた。
俺は何も言わず、呼吸に合わせるように背中をゆっくりさすった。
「大丈夫です。焦らなくていいですから」
できるだけ落ち着いた声で言う。
俺は強くさすりすぎないように気をつけながら、ただそばについていた。
少しして、先生の呼吸がゆっくり落ち着いてくる。
「……ごめん」
「大丈夫です。少し落ち着きましたか?」
「うん……ちょっと、まし」
「水、飲めそうですか?」
「……あとで」
「分かりました」
俺は背中に添えた手をそのままに、先生がもう少し落ち着くのを待った。
普段の花城先生なら、こんな姿を見られたことを面倒くさがるかもしれない。
けれど今は、そんな余裕もないらしい。
「槻山君……」
「はい」
「こういう時、ちゃんとしてるねぇ……」
「そうですか?」
「うん……面倒見いい」
花城先生は力の抜けた声でそう言った。
「いい旦那さんになれるよ、たぶん」
「先生、酔ってますね」
「酔ってるけど……そこは、本音だよ」
「今は喋らなくていいです。もう少し落ち着いてからにしましょう」
「ん……」
花城先生は小さく頷いた。
俺は少し距離を取り、先生の様子を見守った。
廊下の方は静かだった。
誰かが起きてくる気配はない。
夜中の宿泊棟で、俺はしばらくの間、花城先生が落ち着くのを待っていた。