翌朝。
窓の外では、細かい雨が降っていた。
屋根を叩く雨音を聞きながら体を起こす。昨日まで何とか持っていた空は、最後の日になって崩れたらしい。
「……雨か」
隣の布団から、大輔が寝ぼけた声を漏らした。
「起きろ。朝の集いに遅れるぞ」
「雨なら中止でよくないか……?」
「ホールでやるんだろ」
「林間学校、最後まできっちりしてるな……」
大輔はぼやきながら布団から起き上がった。
木下君はすでにしおりを開いて予定を確認している。黒瀬君も無言で身支度を始めていた。
「今日の予定って何だっけ」
大輔が目をこすりながら尋ねる。
「朝の集い、朝食、部屋の清掃、班別振り返り、閉所式。そのあとバスで学校に戻る予定だよ。昼食は車内で配られるみたい」
「昼はバスか」
「雨だから、早めに戻るみたい」
「それは助かる」
昨日は水辺の調査に飯ごう炊さん、キャンプファイヤーまであった。
体力がある方ではない俺も、正直まだ疲れが残っている。
それでも、今日で林間学校は終わりだと思うと、少しだけ寂しい気もした。
「槻山君、昨日遅くなかった?」
木下君がふとこちらを見る。
「トイレに起きただけだよ」
「そうなんだ」
木下君はそれ以上深く聞いてこなかった。
俺たちは身支度を済ませ、朝の集いが行われる多目的ホールへ向かった。
廊下の窓には、細かい雨粒がついている。
外に出なくていい分、昨日よりは楽かもしれない。
多目的ホールには、すでに他の班も集まっていた。
七瀬さんは千夏に軽く背中を押されながら歩いている。
「ここあ、あと少しだから頑張って」
「起きてる」
「目、ほぼ閉じてるけど」
「省エネモード」
「はいはい。転ばないでね」
「うーい」
朝からいつも通りのやり取りだった。
少し離れたところでは、本田さんと姫岡さんが並んでいる。
姫岡さんは前髪の奥で小さく頷きながら、本田さんの話を聞いていた。初日よりも、少しだけ自然に輪の中へ入れているように見える。
「はい、並べー」
花城先生の気だるげな声が響いた。
いつも通りのジャージ姿だが、今朝は少しだけ声に力がない。
「おはよー……三日目だぞー。雨だから朝の集いはホールでやるぞ。家に帰るまでが林間学校だからなー……」
「先生、声が死んでる」
大輔が小声で呟いた。
けれど、花城先生には聞こえていたらしい。
「梅原君。今の、先生の心に刺さったぞー」
「すみません!」
「あとで反省文なー」
「理不尽!」
ホールに軽い笑いが広がる。
花城先生は気にした様子もなく、出席確認と今日の予定を手早く済ませた。
朝の集いが終わり、朝食へ向かおうとしたところで、花城先生がこちらへ手を上げる。
「槻山君」
「はい」
呼ばれて足を止めると、花城先生は眠そうな目のまま近づいてきた。
「昨日はありがとなー」
「いえ。大丈夫でしたか?」
「大丈夫大丈夫。先生、復活したから」
そう言いながらも、声にはまだ少し疲れが残っている。
「無理はしないでくださいね」
「生徒に心配される教師、だいぶ情けないなー」
「昨日の状態を見たら、心配くらいしますよ」
「それもそうだ」
花城先生はあっさり頷いた。
すると、隣にいた大輔が首を傾げる。
「叶多、昨日何かあったのか?」
「少しな」
「少しって何だよ」
「花城先生が困っていたから、手伝っただけだ」
「へえ?」
大輔がさらに聞きたそうにすると、花城先生がひらひらと手を振った。
「大したことじゃないぞ。先生がちょっと大人の事情で弱ってただけだ」
「大人の事情?」
「梅原君はまだ知らなくていい世界だ」
「なんか気になる言い方やめてくださいよ」
「気にするな。ほら、朝食行けー」
花城先生に追い払われ、大輔は納得していない顔のまま歩き出した。
朝食は施設の食堂で取った。
ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、小鉢。
特別豪華というわけではないが、雨音を聞きながら食べる朝食は、昨日までのにぎやかさとは違って落ち着いていた。
「キャンプファイヤー、思ったより疲れたな」
大輔が味噌汁を飲みながら言う。
「でも、楽しそうだったよ」
木下君が笑う。
「まあな。ああいうのは勢いが大事だから」
「黒瀬も、最後の方はちゃんと動いてただろ」
大輔がそう言うと、黒瀬君は少しだけ箸を止めた。
「……合わせただけだ」
「それができるなら十分だろ」
「梅原君が前で間違えたから、逆に分かりやすかった」
「俺のミスを目印にするなよ」
木下君がこらえきれずに笑った。
黒瀬君の言葉は相変わらず短い。
けれど、最初に同じ班になった時よりは、少しだけ会話に混ざるようになっていた。
朝食を終えると、宿泊室へ戻って荷物整理と清掃に入った。
布団を畳み、シーツをまとめ、棚や床を確認する。
「大輔、棚の下に靴下が落ちてるぞ」
「俺のじゃない」
「名前書いてあるけど」
「俺のだった」
大輔はあっさり前言を撤回し、棚の下から靴下を回収した。
「なんでそんなところに入るんだよ」
「自分の靴下だろ」
「靴下にも旅がしたい日があるんだよ」
「なんだそれ」
黒瀬君が即座に突っ込む。
「黒瀬、たまに容赦ないな」
「今のは黒瀬君が正しいと思うよ」
木下君が苦笑しながら言った。
俺も思わず口元が緩む。
清掃を終え、職員の確認を受ける。
大きな問題はなく、俺たちは荷物を持って多目的ホールへ向かった。
班別振り返りは、思っていたよりも簡単なものだった。
三日間の活動で良かったことや大変だったことを、班ごとに短く話し合って用紙へまとめる。
「火起こしは俺が頑張った」
大輔が真っ先に言う。
「何度か薪を入れすぎそうになってたけどね」
木下君が苦笑しながら付け加えた。
「そこは反省してる」
「反省が早い」
黒瀬君が短く言う。
「黒瀬、ちょっと俺に厳しくないか?」
「慣れた」
「慣れた結果がそれかよ」
本田さんがそのやり取りを聞いて、少し笑った。
「でも、梅原君が火を見てくれていたのは助かったわよ。私はご飯の方を見られたし」
「ほらな。ちゃんと役に立ってる」
「調子に乗らない」
「はい」
大輔はすぐに背筋を伸ばした。
そんなやり取りを挟みながら、俺たちは振り返り用紙を埋めていく。
水辺の調査では、姫岡さんが資料を見ながら魚を確認してくれた。
飯ごう炊さんでは、本田さんが米を研ぎ、木下君が手順や道具を確認してくれた。
黒瀬君は口数こそ少ないが、火の扱いや片づけでは必要なことをきちんと押さえていた。
大輔は騒がしいが、班の空気を明るくしてくれた。
こうして書き出してみると、俺たちはちゃんと班として動けていたのだと思う。
「姫岡さんは、何か書きたいことある?」
俺が尋ねると、姫岡さんは少しだけ考えてから、用紙へ視線を落とした。
「……楽しかった、です」
小さな声だった。
けれど、その一言だけで十分な気がした。
「じゃあ、それも書いておこう」
「……うん」
姫岡さんは小さく頷いた。
班別振り返りが終わると、そのまま閉所式へ移った。
施設の職員から短い挨拶があり、代表の生徒が礼を述べる。
花城先生は最後にマイクを持ち、いつもの気だるげな声で締めた。
「はい、これで林間学校の活動はほぼ終わりだぞー。あとはバスに乗って帰るだけだ。昼食の弁当は、時間になったら車内で配るからなー。家に帰るまでが林間学校だからなー。寄り道するなよー」
昨日よりは少しだけ声が戻っている。
それを聞いて、俺は少し安心した。
閉所式が終わると、生徒たちは順番にバスへ向かった。
外はまだ雨が降っている。
傘を差して移動し、荷物を預けてから座席へ向かう。
帰りのバスは、行きよりもずっと静かだった。
雨で濡れた荷物を預け終えた生徒たちは、疲れた様子でそれぞれ空いている席へ座っていく。
俺は窓際の席に座り、外を流れる雨粒を眺めた。
大輔は後ろの方で、木下君や黒瀬君と何か話している。
しばらく窓の外を眺めていると、通路側で小さな足音が止まった。
「……か、叶多君」
顔を上げると、姫岡さんがしおりを胸元に抱えたまま立っていた。
「ここ、空いてる?」
「ああ。空いてるよ」
「……座っても、いい?」
「もちろん」
姫岡さんは小さく頷き、俺の隣へ静かに腰を下ろした。
バスがゆっくりと動き出す。
窓の外では、雨に濡れた山の景色が流れていった。
行きのバスとは違って、車内はずいぶん静かだった。
疲れているのか、窓の外を眺めている生徒も多い。
後ろの方では大輔たちが小声で何か話していたが、それもすぐに雨音とエンジン音に紛れていった。
「そういえば」
俺が口を開くと、隣の姫岡さんがわずかにこちらを見る。
「紫電のレガリア、少し見たよ」
「……え」
姫岡さんの肩が小さく跳ねた。
「この前、姫岡さんが話してたやつ。まだ途中だけど」
「ほ、本当に、見たの?」
「ああ。リオン・ハーシェルが、カイ・レーヴェと相対するところまでは見た」
「……そこまで見たんだ」
前髪で表情は見えにくい。
けれど、膝の上でしおりを握る指に、少しだけ力が入っている。
「最初は完全に敵だと思ったけど、ただの悪役って感じじゃなかったな。リオンを止めようとしてるのに、妙に――」
「……そう」
姫岡さんは小さく頷いた。
「そこは、もう少し見たら分かると思う」
「分かった。楽しみにしておく」
「うん」
姫岡さんはそれだけ言うと、少しだけ窓の外へ視線を戻した。
雨でぼやけた景色を見つめる横顔は、行きのバスで見た時よりも柔らかく見えた。
その後も、姫岡さんは紫電のレガリアについて話してくれた。
普段の姫岡さんは、必要なことを短く話すことが多い。
けれど、自分の好きなものの話になると、言葉が少しずつ増えていく。
話しているうちに、姫岡さんの声はいつもより少しだけ弾んでいた。
「そこ、次に見る時は覚えておくよ」
「うん」
姫岡さんは小さく頷く。
しばらくそんな話をしているうちに、バスは山道を抜け、少しずつ街へ近づいていった。
時計を見ると、もう昼が近い。
前方から先生たちが通路を歩き、弁当と紙パックのお茶を配り始める。
俺のところにも、簡単な弁当が入った紙袋が渡された。
「弁当、来たな」
「うん」
紙袋を開けると、中には唐揚げ弁当が入っていた。
俵型のおにぎりが二つに、唐揚げが四つ。端には卵焼きと小さなポテトサラダ、漬物が添えられている。
豪華というほどではないが、疲れた体には十分ありがたい内容だった。
「お! 唐揚げ弁当じゃん!」
少し後ろの席から、大輔の声が聞こえた。
「声大きいぞ」
「悪い。でも、これは言いたくなるだろ」
大輔はそう言って、さっそくおにぎりを食べ始めている。
俺もおにぎりを一つ取り、口へ運んだ。
雨音とエンジン音が混ざる車内で食べる弁当は、特別なものではないのに妙に落ち着く。
姫岡さんも両手でおにぎりを持ち、小さく口をつけていた。
「食べづらくない?」
「へ、平気」
「ならよかった」
「……こういうの、少し好き」
「バスの弁当?」
「うん。ちょっと特別な感じがするから」
「ああ、分かる気がする」
行事の終わりに、バスの中で食べる弁当。
少し眠くて、少し疲れていて、でもまだ完全には日常へ戻っていない。
そういう中途半端な時間だからこそ、記憶に残るのかもしれない。
弁当を食べ終える頃には、車内の話し声も少しずつ小さくなっていた。
大輔も、さっきまで騒いでいたのが嘘みたいに静かになっている。
俺は紙袋を畳み、膝の上に置いた。
「疲れた?」
隣に声をかけると、姫岡さんは少し遅れて頷いた。
「……少し」
「三日間、結構動いたからな」
「うん。でも……楽しかった」
「それならよかった」
姫岡さんは小さく頷いた。
そのまま窓の外へ視線を向ける。
雨にぼやけた街並みが、ゆっくり後ろへ流れていく。
「同じ班で……よかった」
小さな声だった。
けれど、ちゃんと聞こえた。
「俺もそう思うよ。姫岡さんには何度も助けられたし」
「……そんなに、何かした?」
「オリエンテーリングでも、川の調査でも、飯ごう炊さんでも助かったよ」
「……そっか」
姫岡さんはそれだけ言うと、少しだけ肩の力を抜いた。
バスは雨の道を進んでいく。
揺れは小さく、雨音も静かで、眠気を誘う。
しばらくすると、隣から小さな寝息が聞こえた。
見ると、姫岡さんは目を閉じていた。
膝の上に置いたしおりが、少しだけずれかけている。
俺は落ちそうになったしおりを、そっと押さえた。
その時、バスがゆるくカーブする。
姫岡さんの身体が少し傾き、そのまま俺の肩へ、こつんと頭が触れた。
「……」
よほど疲れていたのだろう。
姫岡さんは、目を覚ます気配がなかった。
俺は肩を動かさないように、少しだけ姿勢を整える。
せっかく眠れたのなら、起こさない方がいい。
窓の外では、雨粒が細く流れている。
林間学校の疲れが、バスの静けさの中でゆっくりほどけていくようだった。